郷愁の詩人 与謝蕪村 ④

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47566_44414.html  【郷愁の詩人 与謝蕪村】 萩原朔太郎  より

秋の部

門かどを出て故人に逢あひぬ秋の暮

 秋風落寞らくばく、門を出れば我れもまた落葉の如く、風に吹かれる人生の漂泊者に過ぎない。たまたま行路こうろに逢う知人の顔にも、生活の寂しさが暗く漂っているのである。宇宙万象の秋、人の心に食い込む秋思の傷みを咏えいじ尽つくして遺憾なく、かの芭蕉の名句「秋ふかき隣となりは何をする人ぞ」と双壁そうへきし、蕪村俳句中の一名句である。

 この句几董きとうの句集に洩もれ、後に遺稿中から発見された。句集の方のは

門を出れば我れも行人ゆくひと秋の暮

 であり、全く同想同題である。一つの同じテーマからこの二つの俳句が同時に出来たため、蕪村自身その取捨に困ったらしい。二つとも佳作であって、容易に取捨を決しがたいが、結局「故人に逢ひぬ」の方が秀すぐれているだろう。

秋の燈ひやゆかしき奈良の道具市

 秋の日の暮れかかる灯ひともし頃ごろ、奈良の古都の街はずれに、骨董こっとうなど売る道具市が立ち、店々の暗い軒には、はや宵の燈火あかりが淡く灯ともっているのである。奈良という侘わびしい古都に、薄暗い古道具屋の並んだ場末を考えるだけで寂しいのに、秋の薄暮の灯ともし頃、宵の燈火あかりの黄色い光をイメージすると、一層情趣が侘しくなり、心の古い故郷に思慕する、或る種の切ないノスタルジアを感じさせる。前に評釈した夏の句「柚ゆの花やゆかしき母屋もやの乾隅いぬいずみ」と、本質において共通したノスタルジアであり、蕪村俳句の特色する詩境である。なお蕪村は「ゆかしき」という言葉の韻に、彼の詩的情緒の深い咏嘆えいたんを籠こめている。

飛尽とびつくす鳥ひとつづつ秋の暮

 芭蕉の名句「何にこの師走しわすの町へ行く鴉からす」には遠く及ばず、同じ蕪村の句「麦秋むぎあきや何に驚く屋根の鶏とり」にも劣っているが、やはりこれにも蕪村の蕪村らしいポエジイが現れており、捨てがたい俳句である。

おのが身の闇やみより吠ほえて夜半よわの秋

 黒犬の絵に讃さんして咏よんだ句である。闇夜やみよに吠える黒犬は、自分が吠えているのか、闇夜の宇宙が吠えているのか、主客の認識実体が解らない。ともあれ蕭条しょうじょうたる秋の夜半に、長く悲しく寂しみながら、物におびえて吠え叫ぶ犬の心は、それ自ら宇宙の秋の心であり、孤独に耐え得ぬ、人間蕪村の傷ましい心なのであろう。彼の別の句

愚ぐに耐えよと窓を暗くす竹の雪

 もこれとやや同想であり、生活の不遇から多少ニヒリスチックになった、悲壮な自嘲的じちょうてき感慨を汲くむべきである。

冬近し時雨しぐれの雲も此所ここよりぞ

 洛東らくとうに芭蕉庵を訪ねた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拝し、自分の墓地さえも芭蕉の墓と並べさせたほどであった。その崇拝する芭蕉の庵いおりを、初めて親しく訪ねた日は、おそらく感激無量であったろう。既に年経て、古く物さびた庵の中には、今もなお故人の霊がいて、あの寂しい風流の道を楽しみ、静かな瞑想めいそうに耽ふけっているように見えたか知れない。「冬近し」という切迫した語調に始まるこの句の影には、芭蕉に対する無限の思慕と哀悼あいとうの情が含まれており、同時にまた芭蕉庵の物寂ものさびた風情が、よく景象的に描き尽つくされている。さすがに蕪村は、芭蕉俳句の本質を理解しており、その「風流」とその「情緒」とを、完全に表現し得たのであった。

秋風や干魚ひうおかけたる浜庇はまびさし

 海岸の貧しい漁村。家々の軒には干魚がかけて乾ほしてあり、薄ら日和びよりの日を、秋風が寂しく吹いているのである。

秋風や酒肆しゅしに詩しうたふ漁者ぎょしゃ樵者しょうしゃ

 街道筋かいどうすじの居酒屋などに見る、場末風景の侘わびしげな秋思である。これらの句で、蕪村は特に「酒肆」とか「詩」とかの言葉を用い、漢詩風に意匠することを好んでいる。しかしその意図は、支那の風物をイメージさせるためではなくして、或る気品の高い純粋詩感を、意識的に力強く出すためである。例えばこの句の場合で、「酒屋」とか「謡うた」とかいう言葉を使えば、句の情趣が現実的の写生になって、句のモチーヴである秋風しゅうふう落寞らくばくの強い詩的感銘が弱って来る。この句は「酒肆に詩うたふ」によって、如何いかにも秋風に長嘯ちょうしょうするような感じをあたえ、詩としての純粋感銘をもち得るのである。子規しき一派の俳人が解した如く、蕪村は決して写生主義者ではないのである。

月つき天心てんしん貧しき町を通りけり

 月が天心にかかっているのは、夜が既に遅く更ふけたのである。人気ひとけのない深夜の町を、ひとり足音高く通って行く。町の両側には、家並やなみの低い貧しい家が、暗く戸を閉とざして眠っている。空には中秋ちゅうしゅうの月が冴さえて、氷のような月光が独り地上を照らしている。ここに考えることは人生への或る涙ぐましい思慕の情と、或るやるせない寂寥せきりょうとである。月光の下もと、ひとり深夜の裏町を通る人は、だれしも皆こうした詩情に浸るであろう。しかも人々はいまだかつてこの情景を捉とらえ表現し得なかった。蕪村の俳句は、最も短かい詩形において、よくこの深遠な詩情を捉え、簡単にして複雑に成功している。実に名句と言うべきである。

恋さまざま願ねがいの糸も白きより

 古来難解の句と評されており、一般に首肯しゅこうされる解説が出来ていない。それにもかかわらず、何となく心を牽ひかれる俳句であり、和歌の恋愛歌に似た音楽と、蕪村らしい純情のしおらしさを、可憐かれんになつかしく感じさせる作である。私の考えるところによれば、「恋さまざま」の「さまざま」は「散り散り」の意味であろうと思う。「願の糸も白きより」は、純潔な熱情で恋をしたけれども――である。またこの言葉は、おそらく蕪村が幼時に記憶したイロハ骨牌ガルタか何かの文句を、追懐の聯想れんそうに浮うかべたもので、彼の他の春の句に多く見る俳句と同じく、幼時への侘わびしい思慕を、恋のイメージに融とかしたものに相違ない。蕪村はいつも、寒夜の寝床の中に亡き母のことを考え、遠い昔のなつかしい幼時をしのんで、ひとり悲しく夢に啜すすり泣いていたような詩人であった。恋愛でさえも、蕪村の場合には夢の追懐の中に融け合っているのである。

小鳥来る音うれしさよ板庇いたびさし

 渡り鳥の帰って来る羽音はおとを、炉辺ろへんに聴きく情趣の侘わびしさは、西欧の抒情詩、特にロセッチなどに多く歌われているところであるが、日本の詩歌では珍しく、蕪村以外に全く見ないところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、この「小鳥来る」の句などは、日本の俳句の範疇はんちゅうしている伝統的詩境、即ち俳人のいわゆる「俳味」とは別の情趣に属し、むしろ西欧詩のリリカルな詩情に類似している。今の若い時代の青年らに、蕪村が最も親しく理解しやすいのはこのためであるが、同時にまた一方で、伝統的の俳味を愛する俳人らから、ややもすれば蕪村が嫌われる所以ゆえんでもある。今日「俳人」と称されてる専門家の人々は、決してこの種の俳句を認めず、全くその詩趣を理解していない。しかしながら蕪村の本領は、かえってこれらの俳句に尽つくされ、アマチュアの方がよく知るのである。

うら枯やからきめ見つる漆うるしの樹き

 木枯しの朝、枝葉を残らず吹き落された漆の木が、蕭条しょうじょうとして自然の中で、ただ独り、骨のように立っているのである。「からきめ見つる」という言葉の中に、作者の主観が力強く籠こめられている。悲壮な、痛々しい、骨の鳴るような人生が、一本の枯木を通して、蕭条たる自然の背後に拡ひろがって行く。

うら枯や家をめぐりて醍醐道だいごみち

 畠はたけの中にある田舎の家。外には木枯しが吹き渡り、家の周囲には、荒寥こうりょうとした畦道あぜみちが続いている。寂しい、孤独の中に震ふるえる人生の姿である。私の故郷上州じょうしゅうには、こうした荒寥たる田舎が多く、とりわけこの句の情感が、身に沁しみて強く感じられる。

甲斐ヶ嶺かいがねや穂蓼ほたでの上を塩車しおぐるま

 高原の風物である。広茫こうぼうとした穂蓼の草原が、遠く海のように続いた向うには、甲斐かいの山脈が日に輝き、うねうねと連なっている。その山脈の道を通って、駿河するがから甲斐へ運ぶ塩車の列が、遠く穂蓼の隙間すきまから見えるのである。画面の視野が広く、パノラマ風であり、前に評釈した夏の句「鮒鮓ふなずしや彦根ひこねの城に雲かかる」などと同じく、蕪村特有の詩情である。旅愁に似たロマンチックの感傷を遠望させてる。

三径さんけいの十歩じっぽに尽きて蓼たでの花

 十歩に足らぬ庭先の小園ながら、小径こみちには秋草が生え茂り、籬まがきに近く隅々すみずみには、白い蓼の花が侘わびしく咲いてる。貧しい生活の中にいて、静かにじっと凝視みつめている心の影。それが即ち「侘び」なのである。この同じ「侘び」は芭蕉にもあり、その蕉門しょうもんの俳句にもある。しかしながら蕪村の場合は、侘びが生活の中から泌にじみ出し、葱ねぎの煮える臭においのように、人里恋しい情緒の中に浸しみ出している。なおこの「侘び」について、巻尾に詳しく説くであろう。

柳やなぎ散り清水しみずかれ石ところところ

 秋の日の力なく散らばっている、野外の侘しい風物である。蕪村はこうした郊外野望に、特殊のうら悲しい情緒を感じ、多くの好い句を作っている。風景の中に縹渺ひょうびょうする、彼のノスタルジアの愁思であろう。

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冬の部

凧いかのぼりきのふの空の有りどころ

 北風の吹く冬の空に、凧たこが一つ揚あがっている。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚っていた。蕭条しょうじょうとした冬の季節。凍った鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまく風。硝子ガラスのように冷たい青空。その青空の上に浮うかんで、昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚っている。飄々ひょうひょうとして唸うなりながら、無限に高く、穹窿きゅうりゅうの上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂っている!

 この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクが現われている。「きのふの空の有りどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの同じ凧が揚っている。即ち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在しているのである。こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーヴを表出した哲学的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのふの空の有りどころ」という如き語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じような欧風抒情詩の手法を持っていたということにある。

藪入やぶいりの夢や小豆あずきの煮えるうち

 藪入で休暇をもらった小僧が、田舎の実家へ帰り、久しぶりで両親に逢あったのである。子供に御馳走ごちそうしようと思って、母は台所で小豆を煮にている。そのうち子供は、炬燵こたつにもぐり込んで転寝うたたねをしている。今日だけの休暇を楽しむ、可憐かれんな奉公人の子供は、何の夢を見ていることやら、と言う意味である。蕪村特有の人情味の深い句であるが、単にそれのみでなく、作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘わびしい思慕を、遠い郷愁のように懐かしんでる情想の主題テーマを見るべきである。こうした郷愁詩の主題テーマとして、蕪村は好んで藪入の句を作った。例えば

藪入やよそ目ながらの愛宕山あたごやま

藪入のまたいで過すぎぬ凧たこの糸

 など、すべて同じ情趣を歌った佳句であるが、特にその新体風の長詩「春風馬堤曲しゅんぷうばていのきょく」の如きは、藪入の季題に托して彼の侘しい子守唄こもりうたであるところの、遠い時間への懐古的郷愁を咏嘆えいたんしている。芭蕉の郷愁が、旅に病んで枯野を行く空間上の表現にあったに反し、蕪村の郷愁が多く時間上の表象にあったことを、読者は特に注意して鑑賞すべきである。

日の光今朝や鰯いわしの頭より

 正月元旦の句である。古来難解の句と称されているが、この句のイメージが表象している出所は、明らかに大阪のいろは骨牌ガルタであると思う。東京のいろは骨牌では、イが「犬も歩けば棒にあたる」であるが、大阪の方では「鰯の頭も信心から」で、絵札には魚の骨から金色の後光ごこうがさし、人々のそれを拝んでいる様が描いてある。筆者の私も子供の時、大阪の親戚(旧家の商店)で見たのを記憶している。或る元日の朝、蕪村はその幼時の骨牌を追懐し、これを初日出のイメージに聯結れんけつさせたのである。この句に主題されている詩境もまた、前の藪入の句と同じく、遠い昔の幼い日への、侘しく懐かしい追憶であり、母のふところを恋うる郷愁の子守唄である。蕪村への理解の道は、こうした子守唄のもつリリカルなポエジイを、読者が自ら所有するか否かにのみかかっている。

飛弾山ひだやまの質屋しちやとざしぬ夜半よわの冬

 冬の山中にある小さな村。交通もなく、枯木の林の中に埋うずまっている。暖簾のれんをかけた質屋の店も、既に戸を閉めてしまったので、万象寂せきとして声なく、冬の寂寞じゃくまくとした闇やみの中で、孤独の寒さにふるえながら、小さな家々が眠っている。この句の詩情が歌うものは、こうした闇黒あんこく、寂寥せきりょう、孤独の中に環境している、洋燈ランプのような人間生活の侘しさである。「質屋」という言葉が、特にまた生活の複雑した種々相を考えさせ、山中の一孤村いちこそんと対照して、一層侘しさの影を深めている。

冬ざれや北の家陰やかげの韮にらを刈る

 薄ら日和びよりの冬の日に、家の北庭の陰に生えてる、侘しい韮を刈るのである。これと同想の類句に

冬ざれや小鳥のあさる韮畠にらばたけ

 というのがある。共に冬の日の薄ら日和を感じさせ、人生への肌寒い侘わびを思わせる。「侘び」とは、前にも他の句解で述べた通り、人間生活の寂しさや悲しさを、主観の心境の底で噛かみしめながら、これを対照の自然に映して、そこに或る沁々しみじみとした心の家郷を見出すことである。「侘び」の心境するものは、悲哀や寂寥せきりょうを体感しながら、実はまたその生活を懐かしく、肌身に抱いて沁々と愛撫あいぶしている心境である。「侘び」は決して厭世家ペシミストのポエジイでなく、反対に生活を愛撫し、人生への懐かしい思慕を持ってる楽天家のポエジイである。この点で芭蕉も、蕪村も、西行さいぎょうも、すべて皆楽天主義者の詩人に属している。日本にはかつて決して、ボードレエルの如き真の絶望的な悲劇詩人は生れなかったし、今後の近い未来にもまた、容易に生れそうに思われない。

葱ねぎ買こうて枯木の中を帰りけり

 枯木の中を通りながら、郊外の家へ帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍こごえる壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何という沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭においの染しみこんだ家。赤い火の燃える炉辺ろへん。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活!

 この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調している。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛しているのである。芭蕉の俳句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接実感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。

易水えきすいに根深ねぶか流るる寒さ哉かな

「根深」は葱の異名。「易水」は支那の河の名前で、例の「風蕭々しょうしょうとして易水寒し。壮士一度去ってまた帰らず。」の易水である。しかし作者の意味では、そうした故事や固有名詞と関係なく、単にこの易水という文字の白く寒々とした感じを取って、冬の川の表象に利用したまでであろう。後にも例解する如く、蕪村は支那の故事や漢語を取って、原意と全く無関係に、自己流の詩的技巧で駆使している。

 この句の詩情しているものは、やはり前の「葱ねぎ買こうて」と同じである。即ち冬の寒い日に、葱などの流れている裏町の小川を表象して、そこに人生の沁々しみじみとした侘びを感じているのである。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(対象)を叙することによって、作者の主観する人生観(侘び、詩情)を咏嘆えいたんすることにある。単に対象を観照して、客観的に描写するというだけでは詩にならない。つまり言えば、その心に「詩」を所有している真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や歌が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に皆「抒情詩」に属するのである。

蕭条しょうじょうとして石に日の入る枯野かれの哉かな

 句の景象しているものは明白である。正岡子規まさおかしきらのいわゆる根岸派ねぎしはの俳人らは、蕪村のこうした句を「印象明白」と呼んで喝采かっさいしたが、蕪村の句には、実際景象の実相を巧みに捉とらえて、絵画的直接法で書いたものが多い。例えば同じ冬の句で

寒月かんげつや鋸岩のこぎりいわのあからさま

木枯しや鐘に小石を吹きあてる

 など、すべていわゆる「印象明白」の句の代表である。そのため非難するものは、蕪村の句が絵画的描写に走って、芭蕉のような渋い心境の幽玄さがなく、味が薄く食い足りないと言うのである。しかし「印象明白」ばかりが、必ずしも蕪村の全般的特色ではなく、他にもっと深奥しんおうな詩情の本質していることを、根岸派俳人の定評以来、人々が忘れていることを責めねばならない。

木枯こがらしや何に世渡る家五軒

 木枯しの吹く冬の山麓さんろくに、孤独に寄り合ってる五軒の家。「何に世渡る」という言葉の中に、句の主題している情感がよく現われている。前に評釈した「飛弾山ひだやまの質屋しちや閉とざしぬ夜半よわの冬」と同想であり、荒寥こうりょうとした寂しさの中に、或る人恋しさの郷愁を感じさせる俳句である。前に夏の部で評釈した句「五月雨さみだれや御豆みずの小家こいえの寝醒ねざめがち」も、どこか色っぽい人情を帯びてはいるが、詩情の本質においてやはりこれらの句と共通している。

我を厭いとふ隣家寒夜に鍋なべを鳴らす

 霜しもに更ふける冬の夜、遅く更けた燈火の下で書き物などしているのだろう。壁一重ひとえの隣家で、夜通し鍋など洗っている音がしている。寒夜の凍ったような感じと、主観の侘わびしい心境がよく現れている。「我れを厭ふ」というので、平常隣家と仲の良くないことが解り、日常生活の背景がくっきりと浮き出している。裏町の長屋住ずまいをしていた蕪村。近所への人づきあいもせずに、夜遅くまで書物かきものをしていた蕪村。冬の寒夜に火桶ひおけを抱えて、人生の寂寥せきりょうと貧困とを悲しんでいた蕪村。さびしい孤独の詩人夜半亭やはんてい蕪村の全貌ぜんぼうが、目に見えるように浮うかんで来る俳句である。

玉霰あられ漂母ひょうぼが鍋なべを乱れうつ

 漂母ひょうぼは洗濯婆ばばのことで、韓信かんしんが漂浪時代に食を乞こうたという、支那の故事から引用している。しかし蕪村一流の技法によって、これを全く自己流の表現に用いている。即ち蕪村は、ここで裏長屋の女房を指しているのである。それを故意に漂母と言ったのは、一つはユーモラスのためであるが、一つは暗あんにその長屋住いで、蕪村が平常世話になってる、隣家の女房を意味するのだろう。

 侘しい路地裏ろじうらの長屋住い。家々の軒先には、台所のガラクタ道具が並べてある。そこへ霰あられが降って来たので、隣家の鍋にガラガラ鳴って当るのである。前の「我を厭いとふ」の句と共に、蕪村の侘しい生活環境がよく現われている。ユーモラスであって、しかもどこか悲哀を内包した俳句である。

愚ぐに耐えよと窓を暗くす竹の雪

 世に入れられなかった蕪村。卑俗低調の下司げす趣味が流行して、詩魂のない末流俳句が歓迎された天明てんめい時代に、独り芭蕉の精神を持じして孤独に世から超越した蕪村は、常に鬱勃うつぼつたる不満と寂寥せきりょうに耐えないものがあったろう。「愚に耐えよ」という言葉は、自嘲じちょうでなくして憤怒ふんぬであり、悲痛なセンチメントの調しらべを帯びてる。蕪村は極めて温厚篤実の人であった。しかもその人にしてこの句あり。時流に超越した人の不遇思うべしである。

蒲公英たんぽぽの忘れ花あり路みちの霜しも

 小景小情。スケッチ風のさらりとした句で、しかも可憐かれんな詩情を帯びてる。

水鳥や朝飯早き小家こいえがち

 川沿いの町によく見る景趣である。

水鳥や舟に菜を洗ふ女あり

 と共に、蕪村の好んで描く水彩画風の景趣であって、薄氷のはる冬の朝の侘わびしさがよく現れている。

水仙や寒き都のここかしこ

 京都に住んでいた蕪村は、他の一般的な俳人とちがって、こうした吾妻琴風あずまごとふうな和歌情調を多分に持っていた。芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏たち」と双絶する佳句であろう。

この村の人は猿なり冬木立

 田も畠はたけも凍りついた冬枯れの貧しい寒村。窮迫した農夫の生活。そうした風貌ふうぼうの一切が「猿なり」という言葉で簡潔によく印象されてる。

西吹けば東にたまる落葉かな

 西から風が吹けば東に落葉がたまるのは当り前で、理窟で考えると馬鹿馬鹿しいような俳句であるが、その当り前のことに言外の意味が含まれ、如何いかにも力なく風に吹かれて、鉋屑かんなくずなどのように転ころがってる侘しい落葉を表象させる。庭の隅すみなどで見た実景だろう。

寒菊や日の照る村の片ほとり

 冬の薄ら日のさしてる村の片ほとり、土塀どべいなどのある道端に、侘しい寒菊が咲いてるのである。これも前と同じく、はかなく寂しい悲しみを、心の影でじっと凝視しているような句境である。因ちなみに、こうした景趣の村は関西地方に多く、奈良、京都の近畿きんきでよく見かける。関東附近の村は全体に荒寥こうりょうとして、この種の南国的な暖かい情趣に乏しい。

我も死して碑ひに辺ほとりせむ枯尾花かれおばな

 金福寺こんぷくじに芭蕉の墓を訪とうた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拝して、自己を知る者ただ故人に一人の芭蕉あるのみと考えていた。そして自みずから芭蕉の直系を以って任じ、死後にもその墓を芭蕉の側に並べて立てさせた。この句はその実情を述べたものであるが、何となく辞世めいた捨離煩悩しゃりぼんのうの感慨がある。

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春風馬堤曲しゅんぷうばていのきょく

○やぶ入いりや浪花なにわを出いでて長柄川ながらがわ

○春風や堤つつみ長うして家遠し

○堤ヨリ下おりテ摘芳草ほうそうをつめば 荊与棘塞路けいときょくみちをふさぐ

 荊棘何妬情けいきょくなんのとじょうぞ 裂裙且傷股くんをさきかつこをきずつく

○渓流石いし点々てんてん 蹈石撮香芹いしをふみてこうきんをとる

 多謝たしゃす水上石すいじょうのいし 教儂不沾裙われをしてくんをぬらさざらしむるを

○一軒の茶見世ちゃみせの柳やなぎ老おいにけり

○茶店の老婆子ろうばし儂われを見て慇懃いんぎんに

 無恙むようを賀がし且かつ儂が春衣しゅんいを美ほム

○店中有二客にきゃくあり 能解江南語よくこうなんのごをかいす

 酒銭擲三緡さんびんをなげうち 迎我譲榻去われをむかえとうをゆずりてさる

○古駅三両家猫児こえきさんりょうけびょうじ妻を呼び妻来らず

○呼雛籬外鶏ひなをよぶりがいのとり 籬外草満地りがいのくさちにみつ

 雛飛欲越籬ひなとびてりをこえんとほっし 籬高堕三四りたかくしておつることさんし

○春艸路三叉中しゅんそうのみちさんさなかに捷径しょうけいあり我を迎ふ

○たんぽぽ花咲さけり三々五々五々は黄に

 三々は白し記得きとくす去年この道よりす

○憐あわれみとる蒲公たんぽぽ茎くき短みじかくして乳を※(「さんずい+邑」、第3水準1-86-72)あませり

○昔々しきりに思ふ慈母の恩

 慈母の懐袍かいほう別に春あり

○春あり成長して浪花なにわにあり

 梅は白し浪花橋畔財主きょうはんざいしゅの家

 春情まなび得たり浪花風流なにわぶり

○郷ごうを辞し弟ていに負そむきて身み三春さんしゅん

 本もとを忘れ末を取る接木つぎきの梅

○故郷春深し行々ゆきゆきて又行々ゆきゆく

 楊柳長堤ようりゅうちょうてい道漸ようやくくだれり

○矯首きょうしゅはじめて見る故国の家

 黄昏こうこん戸に倚よる白髪の人

 弟ていを抱き我を待つ 春又春

○君見ずや故人太祇たいぎが句

   藪入やぶいりの寝るやひとりの親の側

 この長詩は、十数首の俳句と数聯すうれんの漢詩と、その中間をつなぐ連句とで構成されてる。こういう形式は全く珍しく、蕪村の独創になるものである。単に同一主題の俳句を並べた「連作」という形式や、一つの主題からヴァリエーション的に発展して行く「連句」という形式やは、普通に昔からあったけれども、俳句と漢詩とを接続して、一篇の新体詩を作ったのは、全く蕪村の新しい創案である。蕪村はこの外ほかにも、

君あしたに去りぬ夕べの心千々ちぢに

何ぞはるかなる

君を思ふて岡の辺べに行ゆきつ遊ぶ

岡の辺なんぞかく悲しき

 という句で始まる十数行の長詩を作ってる。蕪村はこれを「俳体詩」と名づけているが、まさしくこれらは明治の新体詩の先駆である。明治の新体詩というものも、藤村とうそん時代の成果を結ぶまでに長い時日がかかっており、初期のものは全く幼稚で見るに耐えないものであった。百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体詩より遥はるかに芸術的に高級で、かつ西欧詩に近くハイカラであったということは、日本の文化史上における一皮肉と言わねばならない。単にこの種の詩ばかりでなく、前に評釈した俳句の中にも、詩想上において西欧詩と類縁があり、明治の新体詩より遥かに近代的のものがあったのは、おそらく蕪村が万葉集を深く学んで、上古奈良朝時代の大陸的文化――それは唐を経てギリシアから伝来したものと言われてる――を、本質の精神上に捉とらえていたためであろう。とにかく徳川時代における蕪村の新しさは、驚異的に類例のないものであった。あの戯作者的げさくしゃてき、床屋とこや俳句的卑俗趣味の流行した江戸末期に、蕪村が時潮の外に孤立させられ、殆ほとんど理解者を持ち得なかったことは、むしろ当然すぎるほど当然だった。

 さてこの「春風馬堤曲」は、蕪村がその耆老きろうを故園に訪とうの日、長柄川ながらがわの堤で藪入やぶいりの娘と道連れになり、女に代って情を述べた詩である。陽春の日に、蒲公英たんぽぽの咲く長堤を逍遥しょうようするのは、蕪村の最も好んだリリシズムであるが、しかも都会の旗亭きていにつとめて、春情学び得たる浪花風流なにわぶりの少女と道連れになり、喃々戯語なんなんけごを交かわして春光の下を歩いた記憶は、蕪村にとって永く忘れられないイメージだったろう。

 この詩のモチーヴとなってるものは、漢詩のいわゆる楊柳杏花村的ようりゅうきょうかそんてきな南国情緒であるけれども、本質には別の人間的なリリシズムが歌われているのである。即ち蕪村は、その藪入りの娘に代って、彼の魂の哀切なノスタルジア、亡き母の懐袍ふところに夢を結んだ、子守歌の古く悲しい、遠い追懐のオルゴールを聴きいているのだ。「昔々しきりに思ふ慈母の恩」、これが実に詩人蕪村のポエジイに本質している、侘わびしく悲しいオルゴールの郷愁だった。

藪入りの寝るや小豆あずきの煮える中うち

 という句を作り、さらに春風馬堤曲を作る蕪村は、他人の藪入りを歌うのでなく、いつも彼自身の「心の藪入り」を歌っているのだ。だが彼の藪入りは、単なる親孝行の藪入りではない。彼の亡き母に対する愛は、加賀千代女かがのちよじょの如き人情的、常識道徳的の愛ではなくって、メタフィジックの象徴界に縹渺ひょうびょうしている、魂の哀切な追懐であり、プラトンのいわゆる「霊魂の思慕」とも言うべきものであった。

 英語にスイートホームという言葉がある。郊外の安文化住宅で、新婚の若夫婦がいちゃつくという意味ではない。蔦つたかずらの這はう古く懐かしい家の中で、薪まきの燃えるストーヴの火を囲みながら、老幼男女の一家族が、祖先の画像を映す洋燈ランプの下で、むつまじく語り合うことを言うのである。詩人蕪村の心が求め、孤独の人生に渇かわきあこがれて歌ったものは、実にこのスイートホームの家郷であり、「炉辺ろへんの団欒だんらん」のイメージだった。

葱ねぎ買つて枯木の中を帰りけり

 と歌う蕪村は、常に寒々とした人生の孤独アインザームを眺めていた。そうした彼の寂しい心は、炉いろりに火の燃える人の世の侘しさ、古さ、なつかしさ、暖かさ、楽しさを、慈母の懐袍ふところのように恋い慕った。何よりも彼の心は、そうした「家郷ハイマート」が欲しかったのだ。それ故にまた

柚ゆの花やゆかしき母屋もやの乾隅いぬいずみ

 と、古き先代の人が住んでる、昔々の懐かしい家の匂においを歌うのだった。その同じ心は

白梅しらうめや誰たが昔より垣の外そと

 という句にも現れ

小鳥来る音うれしさよ板庇いたびさし

愁ひつつ丘に登れば花茨いばら

 などのロセッチ風な英国抒情詩にも現われている。オールド・ロング・サインを歌い、炉辺の団欒を思い、その郷愁を白い雲にイメージする英吉利イギリス文学のリリシズムは、偶然にも蕪村の俳句において物侘ものわびしく詩情された。

河豚汁ふぐじるの宿赤々と灯ともしけり

 と、冬の街路に炉辺ろへんの燈灯ともしびを恋うる蕪村は、裏街を流れる下水を見て

易水えきすいに根深ねぶか流るる寒さかな

 と、沁々しみじみとして人生のうら寒いノスタルジアを思うのだった。そうした彼の郷愁は、遂に無限の時間を越えて

凧いかのぼりきのふの空の有りどころ

 と、悲しみ極まり歌い尽つくさねばならなかった。まことに蕪村の俳句においては、すべてが魂の家郷を恋い、火の燃える炉辺を恋い、古き昔の子守歌と、母の懐袍ふところを忍び泣くところの哀歌であった。それは柚ゆの花の侘わびしく咲いている、昔々の家に鳴るオルゴールの音色のように、人生の孤独に凍こごえ寂しむ詩人の心が、哀切深く求め訪ねた家郷であり、そしてしかも、侘しいオルゴールの音色にのみ、転寝うたたねの夢に見る家郷であった。

 こうした同じ「心の家郷」を、芭蕉は空間の所在に求め、雲水うんすいの如く生涯を漂泊の旅に暮した。しかるにその同じ家郷を、ひとえに時間の所在に求めて、追懐のノスタルジアに耽ふけった蕪村は、いつも冬の炬燵こたつにもぐり込んで、炭団たどん法師と共に丸くなって暮していた。芭蕉は「漂泊の詩人」であったが、蕪村は「炉辺の詩人」であり、殆ほとんど生涯を家に籠こもって、炬燵に転寝をして暮していた。時に野外や近郊を歩くときでも、彼はなお目前の自然の中に、転寝の夢に見る夢を感じて

古寺ふるでらやほうろく捨すてる芹せりの中

 と、冬日だまりに散らばう廃跡の侘しさを咏よむのであった。「侘び」とは蕪村の詩境において、寂しく霜枯しもがれた心の底に、楽しく暖かい炉辺の家郷――母の懐袍ふところ――を恋いするこの詩情であった。それ故にまた蕪村は、冬の蕭条しょうじょうたる木枯こがらしの中で、孤独に寄り合う村落を見て

木枯や何に世渡る家五軒

 と、霜枯れた風致ふうちの中に、同じ人生の暖かさ懐かしさを、沁々しみじみいとしんで咏むのであった。この同じ自然観が、芭蕉にあっては大いに異なり、

鷹たかひとつ見つけて嬉うれしいらこ岬ざき   芭蕉

 と言うような、全く魂の凍死を思わすような、荒寥こうりょうたる漂泊旅愁のリリックとなって歌われている。反対に蕪村は、どんな蕭条とした自然を見ても、そこに或る魂の家郷を感じ、オルゴールの鳴る人生の懐かしさと、火の燃える炉辺の暖かさとを感じている。この意味において蕪村の詩は、たしかに「人情的」とも言えるのである。

 蕪村の性愛生活については、一ひとつも史に伝つたわったところがない。しかしおそらく彼の場合は、恋愛においてもその詩と同じく、愛人の姿に母の追懐をイメージして、支那の古い音楽が聞えて来る、「琴心挑美人きんしんもてびじんにいどむ」の郷愁から

妹いもが垣根三味線草さみせんぐさの花咲きぬ

 の淡く悲しい恋をリリカルしたにちがいない。春風馬堤曲に歌われた藪入やぶいりの少女は、こうした蕪村の詩情において、蒲公英たんぽぽの咲く野景と共に、永く残ったイメージの恋人であったろう。彼の詩の結句に引いた太祇たいぎの句。

藪入りの寝るやひとりの親の側そば   太祇

 には、蕪村自身のうら侘しい主観を通して、少女に対する無限の愛撫あいぶと切憐せつりんの情が語られている。

 蕪村は自みずから号して「夜半亭やはんてい蕪村」と言い、その詩句を「夜半楽やはんらく」と称した。まことに彼の抒情詩のリリシズムは、古き楽器の夜半に奏するセレネードで、侘しいオルゴールの音色に似ている。彼は芭蕉よりもなお悲しく、夜半に独り起きてさめざめと歔欷きょきするような詩人であった。

白梅しらうめに明くる夜ばかりとなりにけり

 を辞世として、縹渺ひょうびょうよるべなき郷愁の悲哀の中に、その生涯の詩を終った蕪村。人生の家郷を慈母の懐袍ふところに求めた蕪村は、今もなお我らの心に永く生きて、その侘しい夜半楽の旋律を聴かせてくれる。抒情詩人の中での、まことの懐かしい抒情詩人の蕪村であった。

 附記――蕪村と芭蕉の相違は、両者の書体が最もよく表象している。芭蕉の書体が雄健で闊達かったつであるに反して、蕪村の文字は飄逸ひょういつで寒そうにかじかんでいる。それは「炬燵こたつの詩人」であり、「炉辺ろへんの詩人」であったところの、俳人蕪村の風貌を表象している。