https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47566_44414.html 【郷愁の詩人 与謝蕪村】 萩原朔太郎 より
附録 芭蕉私見
僕は少し以前まで、芭蕉の俳句が嫌いであった。芭蕉に限らず、一体に俳句というものが嫌いであった。しかし僕も、最近漸ようやく老年に近くなってから、東洋風の枯淡趣味というものが解って来た。あるいは少しく解りかけて来たように思われる。そして同時に、芭蕉などの特殊な妙味も解って来た。昔は芥川あくたがわ君と芭蕉論を闘たたかわし、一も二もなくやッつけてしまったのだが、今では僕も芭蕉ファンの一人であり、或る点で蕪村よりも好きである。年齢と共に、今後の僕は、益々芭蕉に深くひき込まれて来るような感じがする。日本に生れて、米の飯を五十年も長く食っていたら、自然にそうなって来るのが本当なのだろう。僕としては何だか寂しいような、悲しいような、やるせなく捨鉢すてばちになったような思いがする。
芭蕉の俳句には、本質的の意味のリリシズムが精神している。むろんそのリリシズムは、蕪村にも一茶いっさにも共通しているのであるが(俳句が抒情詩の一種である以上、それは当然のことである。)芭蕉の場合に限って、特にそれが純一に主調されているのである。
衰へや歯に食ひあてし海苔のりの砂
この秋は何で年よる雲に鳥
蝙蝠こうもりも出でよ浮世の花に鳥
秋近き心の寄よるや四畳半
こうした句の詩情しているものは、実に純粋のリリシズムであり、心の沁々とした咏嘆えいたんである。西行さいぎょうは純一のリリシズムを持った「咏嘆の詩人」であったが、芭蕉もまた同じような「咏嘆の詩人」である。したがって彼の句は常に主観的である。彼は自然風物の外景を叙す場合にも、常に主観の想念する咏嘆の情操が先に立っている。これ芭蕉の句が、一般に観念的と言われる理由で、この点蕪村の印象的、客観的の句風に対してコントラストを示している。蕪村は決して、子規しき一派の解した如き浅薄な写生主義者ではないけれども、対象に対して常に即物的客観描写の手法を取り、主観の想念やリリックやを、直接句の表面に出して咏嘆することをしなかった。蕪村の場合で言えば、リリックは詩の背後に隠されているのである。
芭蕉と蕪村におけるこの相違は、両者の表現における様式の相違となり、言葉の韻律において最もよく現われている。芭蕉の俳句においては、言葉がそれ自身「咏嘆の調べ」を持ち、「歌うための俳句」として作られている。たとえば上例の諸句にしても、「この道や行く人なしに秋の暮」などの句にしても、言葉それ自身に節奏の抑揚があり、その言葉の節付ふしづけする抑揚が、おのずからまた内容の沁々とした心の咏嘆(寂びしおり)を表出している。「この秋は何で年よる雲に鳥」という句は、「何で年よる」という言葉の味気あじきなく重たい調子。「雲に鳥」という言葉の軽く果敢はかない音律によって構成され、そしてこの「調べ」の構成が、それ自みずから句の詩情するリリシズムを構成しているのである。故に芭蕉も弟子に教えて、常に「俳句は調べを旨むねとすべし」と言っていたという。「調べ」とは西洋の詩学で言う「韻律」のことであり、言葉の抑揚節奏する音楽のことである。そして芭蕉の場合において、その音楽は咏嘆のリリシズムを意味していたのだ。
蕪村の俳句においては、この点で表現の様式がちがっている。蕪村は主観的咏嘆派の詩人でなく、客観的即物主義の詩人であった。したがって彼の俳句には、咏嘆的リリカルな音楽や節奏やを、芭蕉のように深く必要としなかった。印象的イマジストであった蕪村は、その表現にもまた印象的イマジスチックな工夫を用いた。即ち蕪村の技巧は、リリカルの音楽を出すことよりも、むしろ印象のイメージを的確にするための音象効果にあった。例えば
鶯うぐいすのあちこちとするや小家こいえがち 蕪村
春の海ひねもすのたりのたり哉かな 蕪村
の如く、「あちこちとするや」の語韻から、鶯のチョコチョコとする動作を音象し、「のたりのたり」の音調から春の海の悠々とした印象を現わしているのである。蕪村が「絵画的詩人」と言われるのはこのためであり、それは正まさしく芭蕉の「音楽的詩人」と対照される。つまり蕪村の場合では、言葉の聴覚的な音韻要素も、対象をイマジスチックに描写するための手段として、絵画的用途に使用されているのであって、本質上の意味でのリリシズムとして――即ち音楽として――使用されているのではない。この点において見れば、芭蕉はたしかに蕪村に比して、真の本質的のリリックを持ったところの、真の本質的な純一の詩人であった。
芭蕉の佳句は十に二、三。蕪村の駄句は十に二、三、と正岡子規が評した。僕も昔は同感だったが、今の考かんがえで見れば、子規の蕪村ビイキが公平を失しているように思われる。芭蕉俳句のモチーヴは、元来非常に単純なものなのである。芭蕉の歌ってることは、常に同じ一つの咏嘆、同じ一つのリリシズムでしかない。故にそのリリシズムを理解しない限りにおいて、百千の句は悉ことごとく皆凡句であり、それを理解する限りにおいて、彼のすべての句は皆佳よいのである。例えば小督局こごうのつぼねの廃跡を訪うて咏よんだという句、
うきふしや竹の子となる人の果はて
の如きも、理解のない鑑賞で見る限りは、単なる観念的の俳句であって、子規のいわゆる月並臭つきなみしゅうの駄句にしか感じられない。しかしこうした俳句の中にも、芭蕉の詩情するリリシズムの咏嘆がよく現われている。そしてこのリリシズムは、解説的にくどくどと説明するよりは、こうした句の嘆息している言葉の音楽(声調の呼吸する抑揚感)によく現われている。つまり言えば、芭蕉俳句のポエジイは、全くその声調の節付けてる音楽の中に存しているのである。そこで「芭蕉が解る」ということは、芭蕉の音楽が解る(音楽に魅力を感ずる)ということにさえ同じになる。芭蕉が常に「調べ」を俳句の第一義とし、「声のしおり」と「心のしおり」を不離の関係に説いたのも当然である。しかるに正岡子規まさおかしきという俳人は、詩の音楽に対して耳を持たない人であった。彼が『古今集こきんしゅう』や『新古今集』の歌を排し、ひとえに万葉集ばかりを推賞したのも、つまり古今や新古今やの歌風が生命している音楽第一主義について、子規が理解の耳を持たなかったためなのである。(子規の作った万葉ばりの歌というのが、全然音楽美のないゴチゴチした散文的のものであった。今のアララギ派の歌人がその悪い伝統をすっかり受けてる。)
子規は本来真の抒情詩人ではなかったのだ。彼はそのヒイキにした蕪村でさえも、単なる写生主義の名人としか解さなかった。彼には蕪村の詩情している本質のリリックが解らなかった。いわんや一層純一な抒情詩人であるところの、芭蕉を理解できなかったのは当然である。
芭蕉は蕪村とちがって、具体的な哲学観念を持った詩人であった。蕪村の場合では、そのリリシズムと同じように、哲学が句の背後に隠れており、表面上の一通りな鑑賞では、容易に発見できないのである。これ蕪村が、従来誤って単なる絵画的写生詩人と評され、浅薄に価値づけられた所以ゆえんであった。しかるに芭蕉の句では、或る一つの主題をもった人生観や宇宙観やが、直接に観念(思想)として歌われている。これ芭蕉が、蕪村に比して理知的な頭脳をもち、哲人としての風貌ふうぼうを具そなえていたことの実証である。実際にも芭蕉は、句作以外にも多くの俳論や散文を書き、俳人と詩論家の両面を具えていた。一方で蕪村は、単なる日常書簡集の外、全く詩論らしいものを書いていない。蕪村は感覚の人であり、思想というものを持たなかった。この点において見れば、芭蕉の方が西洋の人生的詩人に近いのである。
芭蕉のイデアした哲学は、多分に仏教や老荘ろうそうの思想を受けてる。「古池や蛙かわずとびこむ水の音」の句境の如く、彼は静の中にある動、寂じゃくの中にある生を見つめて、自然と人生における本質的実在を探ろうとした。そこで「実在」をリアルと訳する意味で、芭蕉は真のリアリズムの詩人であった。しかし彼のリアリズムは、決して単なる知性的冷静の観照主義ではなかった。反対に彼は、人間性の普遍な悲しみを体験して、本質に宗教的なモラルを持ったところの、真のヒューマニストの詩人であった。以下読者と共に、芭蕉俳句におけるこの人間性の悲哀と、ヒューマニズムの詩情するところを見よう。
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秋ふかき隣となりは何をする人ぞ
秋さびし手毎てごとにむけや瓜うり茄子なすび
芭蕉の心が傷いたんだものは、大宇宙の中に生存して孤独に弱々しく震ふるえながら、葦あしのように生活している人間の果敢はかなさと悲しさだった。一つの小さな家の中で、手毎に瓜の皮をむいてる人々は、一人一人に自己の悲しみを持ってるのである。そしてこの悲しみこそ、無限の時空の中に生きて、有限の果敢ない生活をするところの、孤独な寂しい人間共の悲しみである。それは動物の本能的な悲哀のように、語るすべもなく訴えるすべもない。ただ寄り集って手を握り、互たがいに人の悲しみを感じながら、憐あわれに沈黙する外ほかはないのである。見よ。秋深き自然の下もとに、見も知らぬ隣人が生活している。そしてこの隣人の悲しみこそ、それ自ら人類一般の悲しみであり、併せてまた芭蕉自身の悲哀なのだ。
塚も動け我が泣く声は秋の風
芭蕉の悲哀は、宇宙の無限大なコスモスに通じている。蕭条しょうじょうたる秋風の音は、それ自みずから芭蕉の心霊の声であり、よるべもなく救いもない、虚無の寂しさを引き裂くところの叫である。釈迦しゃかはその同じ虚無の寂しさから、森林に入って出家し、遂に人類救済の悟道に入った。芭蕉もまた仏陀ぶっだと共に、隣人の悲しみを我身に悲しみ、友人の死を宇宙に絶叫して悲しみ嘆いた。しかし詩人であるところの芭蕉は、救世主として世に立つ代りに、万人の悲しみを心にはぐくみ、悲しみの中に詩美を求めて、無限の寂しい旅を漂泊し続けた。
笠島かさじまはいづこ五月さつきの泥濘ぬかり道
芭蕉の行く旅の空には、いつも長雨が降りつづき、道は泥濘でいねいにぬかっていた。前途は遠く永遠であり、日は空に薄曇っていた。
死にもせぬ旅寝の果はてよ秋の暮
枯枝に鴉からすの止とまりけり秋の暮
曠野こうやの果に行きくれても、芭蕉はその「寂しおり」の杖つえを離さなかった。枯枝に止った一羽の烏からすは、彼の心の影像であり、ふと止り木に足を留めた、漂泊者の黒い凍りついたイメージだった。
何にこの師走しわすの市へ行く鴉からす
年暮れて冬寒く、群鴉ぐんあ何の行く所ぞ! 魂の家郷を持たない芭蕉。永遠の漂泊者である芭蕉が、雪近い冬の空を、鳴き叫んで飛び交いながら、町を指して羽ばたき行く鴉を見て、心に思ったことは、一つの「絶叫」に似た悲哀であったろう。芭蕉と同じく、魂の家郷を持たなかった永遠の漂泊者、悲しい独逸の詩人ニイチェは歌っている。
鴉等らは鳴き叫び
翼を切りて町へ飛び行く。
やがては雪も降り来きたらむ――
今尚なお、家郷あるものは幸ひなる哉かな。
東も西も、畢竟ひっきょう詩人の嘆くところは一つであり、抒情詩の尽きるテーマは同じである。
雪かなしいつ大仏の瓦葺かわらぶき
夢のように唐突であり、巨象のように大きな大仏殿。その建築の家屋の上に、雪がちらちら降ってるのである。この一つの景象は、芭蕉のイメージの中に彷徨ほうこうしているところの、果敢はかなく寂しい人生観や宿命観やを、或る象徴的なリリシズムで表象している。人工の建築物が偉大であるほど、逆に益々人間生活の果敢なさと悲しさを感ずるのである。
五月雨さみだれや蚕かいこわづらふ桑畑
暗澹あんたんとした空の下で、蚕が病んでいるのである。空気は梅雨つゆで重たくしめり、地上は一面の桑畑である。この句には或る象徴的な、沈痛で暗い宿命的の意味を持った暗示がある。
日の道や葵あおいかたむく五月雨さつきあめ
曇暗どんあんの雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の昼に、向日葵ひまわりはやはり日の道を追いながら、雨にしおれて傾いているのである。或る時間的なイメージを持っているところの、沈痛な魂の瞑想めいそうが感じられ、象徴味の深い俳句である。
凩こがらしに匂ひやつけし帰り花
冬の北風が吹きすさんで庭の隅に、侘わびしい枯木の枝に咲いてる帰り花を見て、心のよるべない果敢なさと寂しさとを、しみじみ哀傷深く感じたのである。
山吹やまぶきや笠かさに挿すべき枝の形なり
ひとり行く旅の路傍に、床しくも可憐かれんに咲いてる山吹の花。それは漂泊の芭蕉の心に、或る純情な、涙ぐましい、幽玄な「あわれ」を感じさせた。この山吹は少女の象徴であるかも知れない。あるいは実景であるかも知れない。もし実景であるとすれば、少女の心情に似た優美の可憐さを、イマジスチックに心象しているのである。蕭条しょうじょうとした山野の中を、孤独に寂しく漂泊していた旅人芭蕉が、あわれ深く優美に咲いた野花を見て、「笠かさに挿すべき枝のなり」と愛いとおしんだ心こそ、リリシズムの最も純粋な表現である。
寂しさや華はなのあたりのあすならふ
「あすは檜ひのきの木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過ぎてあすは未いまだ来きたらず。生前一樽いっそんの楽しみの外ほか、明日は明日はと言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」という前書がついてる。初春の空に淡く咲くてふちょう、白夢のような侘しい花。それは目的もなく帰趨きすうもない、人生の虚無と果敢なさを表象しているものではないか。しかも季節は春であり、空には小鳥が鳴いてるのである。
新古今集しんこきんしゅうの和歌は、亡ほろび行く公卿くげ階級の悲哀と、その虚無的厭世感えんせいかんの底で歔欷きょきしているところの、艶えんに妖あやしく媚なまめかしいエロチシズムとを、暮春の空に匂におう霞かすみのように、不思議なデカダンスの交響楽で匂わせている。即ち史家のいわゆる「幽玄体」なるものであるが、芭蕉は新古今集を深く学んで、巧みにこの幽玄体を自家に取り入れ、彼の俳句における特殊なリリシズムを創造した。前の「山吹やまぶきや」の句も、同様にその芭蕉幽玄体の一つである。
故郷ふるさとや臍ほぞの緒おに泣く歳としの暮
生涯を旅に暮した芭蕉も、やはり故郷のことを考え、懐かしく追懐していたのである。或る寒い年の暮に、彼はとうとうその生れた故郷に帰って来た。そして亡き父母の慈愛を思い、そぞろに感慨深くこの句を作った。「臍の緒に泣く」という言葉は奇警であって、しかも幼時の懐かしい思い出や、父母の慈愛深い追懐やが、切々と心情から慟哭的どうこくてきに歌われている。
から鮭さけも空也くうやの痩やせも寒かんの内うち
雲水うんすいに似た旅人芭蕉も、時には一定の住所に庵いおりを構えて、冬の囲炉裏いろりを囲みながら、侘わびしく暮していたこともある。そうした時、彼は外界の自然を見る代りに、じっと自己の心を見つめ、内界の去来する影を眺めた。
冬の凍りついた家の中で、芭蕉は瞑想めいそうに耽ふけりながら、骨のように唯一人で坐すわっている。その背後の壁には乾鮭からさけがさがり、戸外には空也念仏の声が通る。そして彼の孤独な影は、畳の上に長く寂しく曳ひいてるのである。
衰へや歯に喰ひあてし海苔のりの砂
独居する芭蕉の心に、次第に老おいが近づくのを感じて来た。さらでだに寂しい悔恨の人生である。その上にまた老年が迫って来ては、心の孤独のやり場所もないであろう。「歯に喰ひあてし」という言葉の響ひびきに、如何いかにも砂を噛かむような味気あじきなさと、忌々いまいましさの口惜くちおしい情感が現われている。
大風の朝あしたも赤し唐辛子とうがらし
暴風雨の朝、畠はたけの作物さくもつも吹き荒され、万目まんもく荒寥こうりょうとして枯れた中に、ひとり唐辛子の実だけが赤々として、昨日に変らず色づいているのである。廃跡に残る一つの印象、変化と荒廃の中に残る一つの生命。それが血のように赤く鮮明に印象されることは、心の傷きずついた空虚の影に、悔恨の痛みを抱きながらも、悲壮な敗北の意気を感じさせずにいなかったろう。
この秋は何で年よる雲に鳥
老の近づくことは悲しみである。だが老年にはまた、老年の幽玄な心境がある。老いて宇宙の神韻と化し、縹渺ひょうびょうの詩境に遊ぶこともまた楽しみである。空には白い雲が浮うかび、鳥は高く飛んでるけれども、時間は流れて人を待たず、自分は次第に老いるばかりになってしまったという咏嘆えいたんである。「何で年よる」という言葉の響ひびきに、如何いかにも力なく投げ出してしまったような嘆息があり、老を悲しむ情が切々と迫っている。それを受けて「雲に鳥」は、前のフレーズと聯絡れんらくがなく、唐突にして奇想天外の着想であるが、そのため気分が一転して、詩情が実感的陰鬱いんうつでなく、よく詩美の幽玄なハーモニイを構成している。こうした複雑で深遠な感情を、僅わずか十七文字で表現し得る文学は、世界にただ日本の俳句しかない。これは飜訳することも不可能だし、説明することも不可能である。ただ僕らの日本人が、日本の文字で直接に読み、日本語の発音で朗吟し、日本の伝統で味覚する外ほかに仕方がないのだ。
底本:「郷愁の詩人 与謝蕪村」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年11月16日第1刷発行
2007(平成19)年1月25日第22刷発行
底本の親本:「郷愁の詩人与謝蕪村」第一書房
1936(昭和11)年3月15日初版発行
初出:蕪村の俳句について「生理 1」
1933(昭和8)年6月
春の部「生理 2」
1933(昭和8)年8月
夏の部「生理 3」
1933(昭和8)年11月
秋の部「生理 4」
1934(昭和9)年5月
冬の部「生理 5」
1935(昭和10)年2月
芭蕉私見(前半部分)「コギト 第四十二号」
1935(昭和10)年11月
芭蕉私見(後半部分)「俳句研究 第三巻第一号」
1936(昭和11)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「蕪村の俳句について」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村(一)」です。
※「春の部」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村(二)」です。
※「夏の部」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村(三)」です。
※「秋の部」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村(四)」です。
※「冬の部」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村」です。
※「芭蕉私見(前半部分)」の初出時の表題は「芭蕉私見」です。
※「芭蕉私見(後半部分)」の初出時の表題は「芭蕉について」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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