https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47566_44414.html 【郷愁の詩人 与謝蕪村】 萩原朔太郎 より
夏の部
うは風に音なき麦を枕まくらもと
嵯峨さがの田舎いなかに、雅因がいんを訪ねた時の句である。一面の麦畑に囲まれた田舎の家で、夏の日の午睡をしていると、麦の穂を渡った風が、枕許まくらもとに吹き入れて来たという意であるが、表現の技巧が非常に複雑していて、情趣の深いイメージを含蓄がんちくさせてる。この句を読むと、田舎の閑寂な空気や、夏の真昼の静寂さや、ひっそりとした田舎家の室内や、その部屋の窓から見晴しになってるところの、広茫こうぼうたる一面の麦畑や、またその麦畑が、上風うわかぜに吹かれて浪なみのように動いている有様やが、詩の縹渺ひょうびょうするイメージの影で浮き出して来る。こうした効果の修辞的重心となってるものは、主として二句の「音なき」という語にかかっている。これが夏の真昼の沈黙や、田舎の静寂さやを、麦の穂の動きにかけて、一語の重複した表象をしているのである。また「上風に」のに、「音なき麦を」のをが、てにをはとしての重要な働きをして、句の内容する象景を画えがいてることは言うまでもない。
俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豊富な聯想性れんそうせいとによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な欠点と相殺そうさいされる。それ故に詩を作る人々は、過去においても未来においても、新しい詩においても古い詩においても、必須的ひっすてきに先まず俳句や和歌を学び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未来の如何いかなる「新しい詩」においても、和歌や俳句のレトリックする規範を離れて、日本語の詩があり得るとは考えられない。
柚ゆの花やゆかしき母屋もやの乾隅いぬいずみ
土蔵などのある、暗くひっそりとした旧家であろう。その母屋おもやの乾隅(西北隅)に柚の花が咲いてるとも解されるが、むしろその乾隅の部屋――それは多分隠居部屋か何かであろう――の窓前に、柚の花が咲いていると解する方が詩趣が深い。旧家の奥深く、影のささないひっそりした部屋。幾代かの人が長く住んでる、古い静寂な家の空気。そして中庭の一隅には、昔ながらの柚の花が咲いているのである。この句の詩情には、古い故郷の家を思わせるような、あるいは昔の祖母や昔の家人の、懐かしい愛情を追懐させるような、遠い時間への侘わびしいノスタルジアがある。これもやはり、蕪村の詩情が本質している郷愁子守唄こもりうたの一曲である。ついでに表現の構成を分析すれば、「柚の花」が静かな侘しい感覚を表象し、「母屋」が大きな旧家――別棟や土蔵の付いてる――を聯想させ、「乾隅」が暗く幽邃ゆうすいな位置を表象し、そして「ゆかしき」という言葉が、詩の全体にかけて流動するところの、情緒の流れとなってるのである。
愁ひつつ丘に登れば花茨いばら
「愁ひつつ」という言葉に、無限の詩情がふくまれている。無論現実的の憂愁ではなく、青空に漂う雲のような、または何かの旅愁のような、遠い眺望への視野を持った、心の茫漠ぼうばくとした愁うれいである。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐かれんな野生の姿が、主観の情愁に対象されてる。西洋詩に見るような詩境である。気宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢あふれている。
絶頂ぜっちょうの城たのもしき若葉かな
若葉に囲まれた山の絶頂に、遠く白堊はくあの城が見えるのである。若葉の青色と、城の白堊とが色彩の明るい配合をしているところに、この句の絵画的のイメージがあり、併せてまた主観のヴィジョンがある。洋画風の感覚による構成である。
地車じぐるまのとどろと響く牡丹ぼたんかな
牡丹という花は、夏の日盛りの光の下で、壮麗な色彩を強く照りかえすので、雄大でグロテスクな幻想を呼び起おこさせる。蕪村の詩としては
閻王えんおうの口や牡丹を吐はかんとす
が最も有名であるけれども、単なる比喩ひゆ以上に詩としての内容がなく、前掲の句の方が遥かに幽玄でまさっている。句の表現するものは、夏の炎熱の沈黙しじまの中で、地球の廻転する時劫じこうの音を、牡丹の幻覚から聴いてるのである。
広庭ひろにわの牡丹ぼたんや天てんの一方いっぽうに
前の句と同じように、牡丹の幻想を歌った名句である。「天の一方に」は、「天一方望美人てんのいっぽうびじんをのぞむ」というような漢詩から、解釈の聯想を引き出して来る人があるけれども、むしろ漠然たる心象の幻覚として、天の一方に何物かの幻像が実在するという風に解するのが、句の構想を大きくする見方であろう。すべてこうした幻想風の俳句は、芭蕉始め他の人々も所々に作っているけれども、その幻想の内容が類型的で、旧日本の伝統詩境を脱していない。こうした雄大で、しかも近代詩に見るような幻覚的なイメージを持った俳人は、古来蕪村一人しかない。
たちばなの昧爽時かわたれどきや古館ふるやかた
五月雨頃さみだれごろの、仄暗ほのぐらく陰湿な黄昏たそがれなどに、水辺に建てられた古館があり、橘たちばなの花が侘わびしげに咲いてるのである。「水茎の岡の館に妹いもと我と寝ての朝あさげの霜の降りはも」という古今集こきんしゅうの歌と、どこか共通の情趣があり、没落した情緒への侘しい追懐を感じさせる。
魚臭うおくさき村に出いでけり夏木立
旅中の実咏じつえいである。青葉の茂った夏木立の街道を通って来ると、魚くさい臭においのする、小さな村に出たというのである。家々の軒先に、魚の干物でも乾ほしてあるのだろう。小さな、平凡な、退屈な村であって、しかも何となく懐かしく、記憶の藤棚ふじだなの日蔭ひかげの下で、永く夢みるような村である。
飛蟻はありとぶや富士の裾野すそのの小家こいえより
広茫こうぼうたる平原の向うに、地平をぬいて富士が見える。その山麓さんろくの小家の周囲を、夏の羽蟻はありが飛んでるのである。高原地方のアトモスフィアを、これほど鮮明に、印象強く、しかもパノラマ的展望で書いた俳句は外ほかにない。この表現効果の主要点は、羽蟻という小動物。高原地方や山麓の焼土に多く生棲せいせいしていて、特に夏の日中に飛翔ひしょうする小虫を捉とらえた着眼点にある。即ち読者は、羽蟻という言葉によって、そうした高原地方の、夏の日中の印象を与えられてしまうのである。次にその飛翔している空を通して、遠望に富士を描き出しているので、山麓の小屋と関聯かんれんして、平原一帯の風物が浮びあがって来るのである。蕪村はこの構成を絵から学んだ。しかし羽蟻は絵に描けない。絵の方では、この主題を空気の色彩やトーンで現すのだろう。
閑居鳥かんこどり寺てら見ゆ麦林寺ばくりんじとやいふ
夏の日の田舎道、遠く麦畑の続いた向うに、寺の塔が小さく見える。空では高く、閑居鳥が飛んでるのである。この風物を叙するために、特に「麦林寺」という固有名詞を出したのである。こうした詩の技術。或る風物を叙する代りに、特に或る特殊な固有名詞を使用するのは、昔から和歌や俳句に多く見るところで、日本の詩の独特な技巧である。西洋の詩では、韻律上の美を目的として、特殊な固有名詞を盛んに使うが、日本の歌や俳句のように、内容(情想)のイメージにかけて、表象上の効果に用いるものは、一般に見て尠すくないようである。
卓上の鮓すしに目め寒さむし観魚亭かんぎょてい
「卓」という言葉、また「観魚亭」という言葉によって、それが紫檀したんか何かで出来た、支那風の角ばった、冷たい感じのする食卓であることを思わせる。その卓の上に、鮮魚の冷たい鮓が、静かに、ひっそりと、沈黙して置いてあるのである。鮓の冷たい、静物的な感じを捉とらえた純感覚的な表現であり、近代詩の行き方とも共通している、非常に鮮新味のある俳句である。なお蕪村は、鮓について特殊な鋭どい感覚を持ち、次に掲出する如く、名句を沢山作っている。
寂寞じゃくまくと昼間を鮓すしのなれ加減
鮓は、それの醋すが醗酵はっこうするまで、静かに冷却して、暗所に慣ならさねばならないのである。寂寞たる夏の白昼まひる。万象の死んでる沈黙しじまの中で、暗い台所の一隅に、こうした鮓がならされているのである。その鮓は、時間の沈滞する底の方で、静かに、冷たく、永遠の瞑想めいそうに耽ふけっているのである。この句の詩境には、宇宙の恒久と不変に関して、或る感覚的な瞳めを持つところの、一のメタフィジカルな凝視がある。それは鮓の素もとであるところの、醋の嗅覚や味覚にも関聯かんれんしているし、またその醋が、暗所において醗酵する時の、静かな化学的状態とも関聯している。とにかく、蕪村の如き昔の詩人が、季節季節の事物に対して、こうした鋭敏な感覚を持っていたことは、今日のイマジズムの詩人以上で、全く驚嘆する外ほかはない。
鮒鮓ふなずしや彦根ひこねの城に雲かかる
夏草の茂る野道の向うに、遠く彦根の城をながめ、鮒鮓のヴィジョンを浮うかべたのである。鮒鮓を食ったのではなく、鮒鮓の聯想れんそうから、心の隅の侘わびしい旅愁を感じたのである。「鮒鮓」という言葉、その特殊なイメージが、夏の日の雲と対照して、不思議に寂しい旅愁を感じさせるところに、この句の秀すぐれた技巧を見るべきである。島崎藤村しまざきとうそん氏の名詩「千曲川ちくまがわ旅情の歌」と、どこか共通した詩情であって、もっと感覚的の要素を多分に持っている。
麦秋むぎあきや何におどろく屋根の鶏とり
農家の屋根の上に飛びあがって、けたたましく啼ないてる鶏は、何に驚いたのであろう。その屋根の上から、刈入時かりいれどきの田舎の自然が、眺望を越えて遠くひろがっているのである。空には秋のような日が照り渡って、地上には麦が実みのり、大鎌や小鎌を持った農夫たちが、至るところの畑の中で、戦争のように忙いそがしく働いている。そして畔道あぜみちには、麦を積んだ車が通り、後から後からと、列を作って行くのである。――こうした刈入時の田舎の自然と、収穫に忙しい労働の人生とが、屋根の上に飛びあがった一羽の鶏の主観の影に、茫洋ぼうようとして意味深く展開されているのである。
更衣ころもがえ野路のじの人はつかに白し
春着を脱いで夏の薄物にかえる更衣ころもがえの頃ころは、新緑初夏の候であって、ロマンチックな旅情をそそる季節である。そうした初夏の野道に、遠く点々とした行路の人の姿を見るのは、とりわけ心の旅愁を呼びおこして、何かの縹渺ひょうびょうたるあこがれを感じさせる。「眺望」というこの句の題が、またよくそうした情愁を表象しており、如何いかにも詩情に富んだ俳句である。こうした詩境は、西洋の詩や近代の詩には普通であるが、昔の日本の詩歌には珍しく、特に江戸時代の文学には全くなかったところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨いばら」や、春の句の「陽炎かげろうや名も知らぬ虫の白き飛ぶ」などと共に、西欧詩の香気を強く持った蕪村独特の句の一つである。
因ちなみに、蕪村は「白」という色に特殊な表象感覚を有していて、彼の多くの句に含蓄深く使用している。例えば前に評釈した句、
白梅しらうめや誰たが昔より垣の外そと
白梅しらうめに明あける夜ばかりとなりにけり
などの句も、白という色の特殊なイメージが主題になって、これが梅の花に聯結れんけつされているのである。これらの句において、蕪村は或る心象的なアトモスフィアと、或る縹渺とした主観の情愁とを、白という言葉においてイメージさせている。
更衣ころもがえ母なん藤原氏ふじわらうじなんめり
平安朝の文化に対して、蕪村は特殊の懐古的憧憬しょうけいと郷愁とを持っていた。それは彼の単なる詩人的エキゾチシズムと見るよりは、彼の生活していた江戸時代の文化情操が、町人的卑俗主義に堕していたことで、蕪村の貴族主義と容いれなかった上に、彼自身が京都に住んでいたためと思われる。この句もやはり、そうした主観的郷愁の一咏嘆いちえいたんであるが、特に心の詩情を動かしやすく、ロマンチックで夢見がちな初夏の季節を、更衣ころもがえの季題で捉とらえたところに、句の表現的意義が存するのである。こうした平安朝懐古の句は、他にも沢山作っているので、参考のため、次に数句を提出しよう。
折釘おれくぎに烏帽子えぼしかけたり宵の春
春の夜に尊き御所ごしょを守もる身かな
春雨や同車の君がさざめ言ごと
ほととぎす平安朝を筋すじかひに
さしぬきを足で脱ぬぐ夜や朧月おぼろづき
引例を見ても解るように、特に春の句においてそれが多いのは、平安朝の優美でエロチックな文化や風俗やが、春宵の悩ましい主観において、特にイメージを強く与えるためなのだろう。芭蕉における木曾義仲きそよしなかの崇拝や、戦国時代への特殊な歴史的懐古趣味を、一方蕪村の平安朝懐古趣味と比較する時、両者の異なる詩人的気質が、おのずから分明して来るであろう。
(備考。この句の第三句は、多くの句集に「なりけり」となってるが、平安朝の言葉をもじった「なんめり」の方が、この場合ユーモラスで面白い。)
草の雨祭の車過すぎてのち
京都の夏祭、即ち祇園会ぎおんえである。夏の白昼まひるの街路を、祭の鉾ほこや車が過ぎた後で、一雨さっと降って来たのである。夏祭の日には、家々の軒に、あやめや、菖蒲しょうぶや、百合ゆりなどの草花を挿して置くので、それが雨に濡れて茂り、町中が忽たちまち青々せいせいたる草原のようになってしまう。古都の床しい風流であり、ここにも蕪村の平安朝懐古趣味が、ほのかに郷愁の影を曳ひいてる。
夕立や草葉を掴つかむ群雀むらすずめ
急の夕立に打たれて、翼を濡ぬらした雀たちが、飛ぼうとして飛び得ず、麦の穂や草の葉を掴んでまごついているのである。一時に襲って来た夕立の烈はげしい勢いきおいが、雀の動作によってよく描かれている。純粋に写生的の絵画句であって、ポエジイとしての余韻や含蓄には欠けてるけれども、自然に対して鋭い観照の目を持っていた蕪村、画家としての蕪村の本領が、こうした俳句において表現されてる。
紙燭しそくして廊下通るや五月雨さつきあめ
降り続く梅雨季節。空気は陰湿にカビ臭く、室内は昼でも薄暗くたそがれている。そのため紙燭を持って、昼間廊下を通ったというのである。日本の夏に特有な、梅雨時つゆどきの暗い天気と、畳の上にカビが生えるような、じめじめした湿気と、そうした季節に、そうした薄暗い家の中で、陰影深く生活している人間の心境とが、句の表象する言葉の外周に書きこまれている。僕らの日本人は、こうした句から直ちに日本の家を聯想れんそうし、中廊下なかろうかの薄暗い冷たさや、梅雨に湿った紙の障子や、便所の青くさい臭においや、一体に梅雨時のカビ臭くさく、内部の暗く陰影にみちた家をイメージすることから、必然にまたそうした家の中の生活を聯想し、自然と人生の聯結する或るポイントに、特殊な意味深い詩趣を感ずるのである。しかし夏の湿気がなく、家屋の構造がちがってる外国人にとって、こうした俳句は全然無意味以上であり、何のために、どうしてどこに「詩」があるのか、それさえ理解できないであろう。日本の茶道さどうの基本趣味や、芭蕉俳句のいわゆる風流やが、すべて苔こけやさびやの風情を愛し、湿気によって生ずる特殊な雅趣を、生活の中にまで浸潤させて芸術しているのは、人のよく知る通りであるけれども、一般に日本人の文学や情操で、多少とも湿気の影響を受けてないものは殆ほとんどない。(すべての日本的な物は梅雨臭つゆくさいのである)特に就中なかんずく、自然と人生を一元的に見て、季節を詩の主題とする俳句の如き文学では、この影響が著しい。日本の気候の特殊な触感を考えないで、俳句の趣味を理解することは不可能である。かの湿気が全くなく、常に明るく乾燥した空気の中で、石と金属とで出来た家に住んでる西洋人らに、日本の俳句が理解されないのは当然であり、気象学的にも決定された宿命である。
五月雨さみだれや御豆みずの小家こいえの寝覚ねざめがち
「五月雨や大河たいがを前に家二軒」という句は、蕪村の名句として一般に定評されているけれども、この句はそれと類想して、もっとちがった情趣が深い。この句から感ずるものは、各自に小さな家に住んで、それぞれの生活を悩んだり楽しんだりしているところの、人間生活への或るいじらしい愛と、何かの或る物床ものゆかしい、淡い縹渺ひょうびょうとした抒情味である。
百姓ひゃくしょうの生きて働く暑さ哉かな
「生きて働く」という言葉が、如何いかにも肉体的に酷烈こくれつで、炎熱の下に喘あえぐような響ひびきを持っている。こうした俳句は写生でなく、心象の想念を主調にして表象したものと見る方が好いい。したがって「百姓」という言葉は、実景の人物を限定しないで、一般に広く、単に漠然たる「人」即ち「人間一般」というほどの、無限定の意味でぼんやりと解すべきである。つまり言えばこの句において、蕪村は「人間一般」を「百姓」のイメージにおいて見ているので、読者の側から鑑賞すれば、百姓のヴィジョンの中に、人間一般の姿を想念すれば好いのである。もしそうでなく、単なる実景の写生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的のものになってしまうし、かつ「生きて働く」という言葉の主観性が、実感的に強く響いて来ない。ついでに言うが、一般に言って写生の句は、即興詩や座興歌と同じく、芸術として軽い境地のものである。正岡子規まさおかしき以来、多くの俳人や歌人たちは伝統的に写生主義を信奉しているけれども、芭蕉や蕪村の作品には、単純な写生主義の句が極めて尠すくなく、名句の中には殆ほとんどない事実を、深く反省して見るべきである。詩における観照の対象は、単に構想への暗示を与える材料にしか過ぎないのである。
花茨いばら故郷の道に似たる哉かな
「愁ひつつ丘に登れば花茨」と類想であって、如何いかにも蕪村らしい、抒情味じょじょうみに溢あふれた作品である。この句には「かの東皐とうこうに登れば」という前書が付いているが、それが一層よく句の詩情を強めている。
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