https://ameblo.jp/taichiclothing/entry-12187154834.html 【この泥があればこそ咲け蓮の花】
より
すっかり晴れて暑さが戻ってきました 窓の外は蝉の鳴く声だけが響いています
今日の一枚はこちら酔妃蓮(すいひれん)です
先日訪れた埼玉県行田市にある古代蓮の里にはメインの行田蓮の他に
42種類の蓮が栽培されており、その中からご紹介しております
酔妃蓮は江戸時代から伝わる品種で開花初期は全体がピンク色をしているのに
開花と共に白くなって、花が開く頃には花弁の輪郭部分だけにピンク色が残るという
色の変化を楽しめる蓮です
YouTubeに酔妃蓮を題材にした動画がありました蕾から花開くまでの変化を美しい写真で綴っています。
今日は蓮にまつわるお話です。元々植物好きな私ですが、蓮は私にとって少し特別な存在でした。案外身近な存在にも関わらず、実物を見たことが無いという不思議な存在だったのです。
身近な存在、それは実家にあるお仏壇。金属製の蓮の葉と花が飾りについています。
よく目にしているにも関わらず生まれてからウン十年、実物の花を見たことが無かったのです!
そんな蓮の花を初めて目にしたのが2012年のこと 花の美しさも勿論ですが、たとえようもない不思議な存在感にすっかり虜になってしまいました
それからは気になる度に本やネットで調べ、いつの間にか蓮に関する知識が
増えていきましたそんな中で思い入れの強い言葉が今日のタイトル
「この泥があればこそ咲け蓮の花」です。
与謝蕪村が詠んだ句ですがその表現ありのままだなと感じています
蓮は沼のような場所に育ちます鉢で育てる時は泥を入れ、水を張った環境を作って
育てるのです。
先日訪れた蓮の里の一角には 白い柵で囲まれた場所があって近づくと…風呂桶!?
そう、風呂桶に栓をして鉢代わりにして苗を育てているのです
蓮はきれいな水だけでは絶対に育ちません
泥から栄養分を貰って美しい花を咲かせます
だからこそ、「この泥があればこそ」なのです
蓮を見るとこの句を思い出しては 人にとって泥は様々だけれど、いつかはそれらを昇華させ美しい花になれたら…と思うのです
最後に…もうひとつ蕪村の句について調べていた際に見つけたページをご紹介します
>臨黄ネット 法話 この泥があればこそ咲け蓮の花ページへ
全ては繋がっているんだなとしみじみ感じさせてくれるお話です
このお話とは比べものにならないですが…太極拳が楽しくて練習し過ぎてケガをした時の事、だからこそ気付ける事や持てる時間が在る事を改めて感じます
良い事も悪い事も心の持ち様で変化するものではありますが、そんな全てを糧にいつか花を咲かせられたらいいね…と、蓮はそう教えてくれているような気がするのです
https://ameblo.jp/jasmine567/entry-12063580370.html 【[この泥があればこそ咲け蓮の華](蕪村)】 より
先日「煩悩即菩提」という密教のお言葉をいただき、見つけた句。
諸々の事で思い悩み一晩で1キロやせてしまった。(むしろありがたいw)
..ネットで調べるとすごくいい記事に辿り着いた。ありがとうございます、転載させていただきます。
http://junshinkai.net/vol25.pdf
『蓮(ハス)に学ぶ』
題名から、内容が想像できるかもしれませんが、蓮の花が日光などによって成長し、泥の中から芽を出し、水面から立ち上がり、やがて綺麗な花を咲かせることを例えて、煩悩や苦しみ(泥)の暮らしにあっても、お釈迦様の教えによって目覚める事(蓮の花)ができるという仏教の教えに用いられます。
【蓮に見られる三つの徳】
・種子不失 しゅしふしつ
・汚泥 おでい 不染 ふせん
・花果 けか
同時どうじ
1. 種子不失の徳
60 年ほど前に、千葉県の弥生時代の遺跡から、大賀一郎博士によって発見された2000年以上前の蓮の実が、再び生育し美しい花を着けたことは、「大賀ハス」としてよく知られています。このように、何年経っても発芽の力を失うことがないハスの種子の驚異的な生命力は、私たちの心に秘められた清らかな心が不滅である事に例えられます。これを「種子不失の徳」と言います。とにかく道は開ける事を信じて、やけにならず、静かに自分の心を見つめなおす事が大切なのです。
2. 汚泥不染の徳
[泥にあって泥に染まらず] 泥の中にあっても、泥から生まれたとは思えぬほど美しい花。私たちの人生も同じです。たとえ、どれほど煩悩にまみれた暮らしであったとしても、煩悩の泥に染まることなく、美しい心の花を咲かせることが出来ます。また、泥があってこそ、蓮はあれほど綺麗な花を咲かせることが出来るともいえます。清水には蓮の花は咲きません。私たちの人生を振り返れば、苦労し悩む日々があればこそ、他人の苦悩も理解でき、やがて豊かで静かな心を持つことが出来るでしょう。
私たちの持つ煩悩の代表として、貪欲がありますが、あらゆるものを貪り求める心です。貪欲は必ず苦しみを伴うもので、どこであろうと欲のあるところに苦しみが無い事はありません。自己中心的な欲求を続けていく限り、求めても得られない苦しみがあるように、苦の壁に突き当たる事は間違いありません。しかし、この貪欲というのは、自分の事のみに囚われる欲です。一方、自分自身のことは次にして、常に人々の役に立つよう尽くし、それを通じて自分の心を向上させていく「大欲」というのがあります。欲求そのものを否定するのではなく、欲求が持っているエネルギーを広く大きなものに振り向けていく事が大切なのです。
この泥があればこそ咲け蓮の花(蕪村)
この句の通り、煩悩があるからこそ悟りもあるのです。悩み苦しむ暮らしの中からこそ、きれいな心の花を咲かせることが出来ます。
3. 花果同時の徳
蓮は、蜂の巣に似た形の花托であることから、ハチス、・・・ハスとなったと言われますが、開いたばかりの花の花托の中に、すでに小さな種が宿っているのです。花と果実が同時にできることから、蓮のこの特質を「花果同時の徳」といいます。道を求めようと発心した時、すでに悟りは約束されているということに例えられます。逆の事を考えてみると、発心しない限り、結果はありえません。花をつけなければ、実はならない。さあやるぞ、と物事に取りかからない限り、何も始まらないし、当然、出来上がる事もありません。花をつけること、即ち発心する事はとても大切な事です。「初志貫徹」という言葉がありますが、初めに思い立った志をくじけることなく最後まで貫き通す事は、なかなか難しいものです。しかし、願いを持ち続けることにより、あらゆる物事は成就し、さもなければ何も生まれません。「願いは叶う」ものです。
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