日陰にしか咲かない花もあるけれど......エッセイ「生きる」

https://www.php.co.jp/php/topics/article-30367.php 【日陰にしか咲かない花もあるけれど......エッセイ「生きる」】 小松﨑潤東京都清瀬市・会社員・35歳  より

僕はできが悪い。昔から勉強もスポーツも全然できなかった。成績は下から数えたほうが早いし、高校の野球部では万年補欠だった。

練習ではいつも球拾いをしていた。グラウンドに散らばった球を何も言わずに拾う。球を拾った数だけ、補欠の辛さを実感した。

それでも高校3年間、試合を見に来てくれた人がいた。僕の爺ちゃんだ。

試合に出られなければ、ベンチにも入れない。補欠選手の僕の居場所は、スタンドの観客席だった。爺ちゃんは毎回僕の隣の席に座ってきて、いつも2人で試合を見ていた。

仲間のバットからひびく快音も、ホームベースで見せるハイタッチも、すべてが羨ましかった。

僕だって試合に出たい。思いきりバットを振りたい。どんどん悔しさがこみ上げてきて、拳を握りしめながら試合を見ていた。

そんな手を爺ちゃんは上から握った。僕らに会話はなかった。

あのとき、部活をやめて、野球を諦めることは簡単だった。でも、できなかった。僕の手を握る爺ちゃんの手が、握る強さが、「やめるなよ」と言っているように感じていた。

「おまえは手を出すな」

高校3年の夏、僕は部活を引退した。それと同時に爺ちゃんは脳梗塞で倒れた。

幸い一命は取り留めたが、介護は避けられなかった。爺ちゃんは歩くことも食べることも困難になった。

家族の中で男は僕一人だったので、はじめは僕が爺ちゃんを風呂に入れていた。

しかし、あるとき僕は爺ちゃんの大きな身体を支えきれずに転倒させてしまった。あわや救急車という事態に母は怒り、早々に介護ヘルパーをお願いすることになった。

「おまえは手を出すな」

その言葉がこれまで浴びたどんな叱咤よりも心に突き刺さった。

それからというもの、日中になると介護ヘルパーさんが爺ちゃんを風呂に入れた。女性ふたりでも爺ちゃんの身体は重く、正直手に負えないように見えた。

あんなに大変そうなのに、僕は見ているだけで何の役にも立たない。バッターボックスに入りたいのに、スタンドで見ていることしかできなかった、あの頃と同じ悔しさを味わっていた。

爺ちゃんは日に日に認知症が進み、風呂を嫌がるようになった。服を脱がせようとするヘルパーさんを叩き、時には大きな声をあげた。

とてもじゃないけれど見ていられなかった。あんなに嫌がって、興奮している爺ちゃんを見ているのが辛かった。そこには昔の穏やかな優しさはなかった。

そんなとき「ちょっといいですか」とヘルパーさんが僕を呼んだ。何かと思えば、これから風呂に入れるので、その間、爺ちゃんの手を握っていて欲しいという。

僕は言われるがまま、爺ちゃんの手をとった。

握った爺ちゃんの手はゴツゴツしているけれど、カイロのように温かかった。それはスタンドで補欠の僕を慰めてくれていた、あの頃の手のままだった。

僕が手を握ると、さっきまで暴れていたのが嘘のようにおさまった。手を握ったまま、爺ちゃんは風呂の中に身体をゆっくり沈めた。

すると、どこかホッとした表情になった。

僕の手にもできることがある

その顔を見ながら、僕は部活の後輩のことを思い出していた。

その後輩も僕と同じく、いつも補欠だった。

もう部活をやめたい、と相談されていた。

僕にはかける言葉がなかった。だから何も言わずに後輩の背中をさすった。時にはバカをやって笑わせた。

僕の引退の日、その後輩から「先輩のおかげで部活を続けられました」と言われた。はじめて、野球をやっていてよかったと思った。

この手が誰かを幸せにしたのだと、いとおしく感じた。

爺ちゃんにふれる手元を見つめ、後輩の言葉を思い出した僕は「僕の手にもできることがある」と思った。

爺ちゃんの安心した表情がそう気づかせてくれた。

「日陰にしか咲かない花もある。でも、その花にしかできない役割だってある」

そう爺ちゃんは教えてくれた気がする。

後輩の背中をさすった手、爺ちゃんの手を握った手。どれもできの悪い僕の手。

だけど、爺ちゃんのほほえみも、後輩の言葉もどれも僕の宝物だ。だから今、僕は前よりしっかり前を向いている。

できの悪い僕だけど、できることがある。

この手があり、この手が温かいかぎり、僕は何かできると信じている。



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Facebook・湊 万徳さん投稿記事

「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」1945年8月6日広島に原子爆弾が落とされました。1974年の第1回広島平和音楽祭で美空ひばりさんが歌った反戦と平和の歌です。#記事はこちらです。↓

http://www.tapthepop.net/day/13548

#歌はこちらです。↓

https://youtu.be/2iennv9YhlA


Facebook・福田純子さん投稿記事   ー平和を想うの巻ー

今日は8月の6日広島にとって忘れることの出来ない原爆投下から75年目の朝です!

朝早く起きて原爆の日に想いを馳せ原爆が投下された午前8時15分に心からの追悼と世界平和の祈りをお捧げしました

広島、長崎の大きな惨事を引き金とした終戦の日 昭和天皇の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の玉音放送の御言葉は....耐えられない程の事をあえて耐える 忍べない程の事をあえて忍ぶのですからその深き想いに今更ながら学びます!

コロナウィルスを引き金に世界中が大異変の今こそ「2度と戦争はしてはならない」という想いで終戦から立ち上がった日本人の精神を世界に発信する時がきました耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶこの言葉を改めて噛み締めて.....「一時代の終幕と始まり」の今を生きて生き抜いていきましょう!


Facebook・Yoshihito Hashimoto さん投稿記事  「平和への誓い」全文

「75年は草木も生えぬ」と言われた広島の町。

75年がたった今、広島の町は、人々の活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました。

この町で、家族で笑い合い、友達と学校に行き、公園で遊ぶ。

気持ちよく明日を迎え、さまざまな人と会う。

当たり前の日常が広島の町には広がっています。

しかし、今年の春は違いました。

当たり前だと思っていた日常は、ウイルスの脅威によって奪われたのです。

当たり前の日常は、決して当たり前ではないことに気付かされました。

そして今、私たちはそれがどれほど幸せかを感じています。

75年前、一緒に笑い大切な人と過ごす日常が、奪われました。

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。

目がくらむまぶしい光。耳にこびりつく大きな音。

人間が人間の姿を失い、無残に焼け死んでいく。

町を包む魚が腐ったような何とも言い難い悪臭。

血に染まった無残な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。

「あのようなことは二度と起きてはならない」

広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。

人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。

私たちの未来に、核兵器は必要ありません。

私たちは、互いに認め合う優しい心を持ち続けます。

私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。

被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々が諦めずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。

令和2年(2020年)8月6日 

 子ども代表

 広島市立安北小学校6年 長倉菜摘

 広島市立矢野南小学校6年 大森駿佑

平和への誓い 子ども代表 2020

コズミックホリステック医療・教育企画