宇都宮の歴史を紐解く物語

https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/018/854/himotokumono.pdf#search='%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%96%AB%E7%97%85%E5%AF%BE%E7%AD%96'

【宇都宮の歴史を紐解く物語】  より

今も昔も住みやすい関東平野の里山都市 うつのみや

■なぜ、宇都宮に今も昔も人が集まるの ここ宇都宮は、関東平野の北端と日光連山から連なる山地との境に位置し、さまざまな自然の恵みを与えてくれる地です。また、南北に流れる多くの川に挟まれた高台の土地は、人々を水害や大地震から守り、安心して暮らせる地を提供してくれます。この安定した高台の地に根古谷台跡(上欠町・うつのみや遺跡の広場)の

ような拠点の「ムラ」が営まれました。

■門前町から城下町へ 上空から宇都宮を見ると、北部の山地から伸びる丘の先端に二荒山神社が位置し、その周辺に中心市街地が展開しています。平安時代には、この神社に源みなもとのよしいえ義家などの武将がお参りするなど、その霊験を求めて人々が集まり、その門前に町が形成されました。その神官を兼ねて領主となった宇都宮氏が、神社の南側に居館を構え、次第に城下町の形を整えていきます。

江戸時代には、宇都宮城を中心に日光道中と奥州道中が整備され、将軍の日光社参をはじめ多くの人が行き交い、物や情報が集まる商業のまちとしても大きく発展します。

■北関東最大の都市「宇都宮」 さらに、近代に県庁所在地となると、政治・経済の中心として、より多くの人が集住し、現在52万人が暮らす都市となりました。

このように宇都宮は、自然災害が少なく水資源にも恵まれ、安心して暮らせる「住みよいまち」として、昔から人々が集まってきているのです。

 

古代から現代まで大谷石が創り繋いだ町宇都宮

■大谷石との出会い 約1500万年前の海底火山の噴火によって形成された大谷石は、宇都宮の人々にとって昔から身近に触れることができる存在でした。この地に住む人たちは、その石質の特質を見抜き、古くから竪穴住居のカマドや横穴式石室の石材として使ってきました。また白肌を露出する石山に磨崖仏を彫り、生活の安定や人々の無事を願うようになりました。

■巨大な地下空間の出現 江戸時代以降は、大谷石を建物の屋根や壁などの建材として使用するようになり、明治時代以降には、採石産業が確立し、人車軌道や鉄道などの輸送手段の発達や採掘の機械化により、出荷量は飛躍的に増加し、宇都宮のみならず東京や横浜に大量に出荷され、近代化する日本の都市づくりの礎を担うようになりました。

その結果、大谷資料館などで見られるような、巨大な地下空間が数多く生み出されたのです。

■掘り出した石で築いたまち 城下町・門前町として発展してきた宇都宮では、江戸時代以降、二荒山神社の石垣をはじめ、教会や寺、豪商の屋敷、民家の塀、人々の憩いの場となる庭園や花壇、道路の敷石など、さまざまな場所に大谷石が使われてきました。

このように宇都宮の人々が、加工しやすく、耐火性に優れた大谷石を変幻自在に使いこなし、「石のまち」をつくり上げてきた「大谷石文化」がこのたび、日本遺産に認定されました。

この文化を私たちはこれからも大切に守りつないでいくことが重要です。


二度の戦災をたくましく生き抜いた町宇都宮

その1

■軍都 宇都宮 明治40年、宇都宮が陸軍第14師団の駐屯地として決定されたことにより、師団司令部などの軍関係の施設が置かれ、「軍都」として国防上重要な役割を担うまちとなりました。

■旧市街地の大半が焼け野原に 昭和16年に始まった太平洋戦争が終戦に近づいた昭和20年7月12日午後11時10分、アメリカ軍のB-29爆撃機115機が軍都宇都宮の上空に襲来し、焼夷弾を投下しました。

特に、現在のJR宇都宮駅から東武宇都宮駅の間に集中的に焼夷弾が落とされ、旧市街地の大半が焼け野原となりました。この時の空襲では旧市街地周辺部にも焼夷弾が落とされ、死者620人以上、負傷者1,128人以上、被害戸数9,173戸以上と甚大な被害をもたらしました。

その後もアメリカ軍機による空襲は何度か続き、市民が不安な日々を過ごす中、8月15日に終戦を迎ます。

■戦後復興のシンボル「旭町の大いちょう」 戦後いち早く戦災復興が進められ、宇都宮は全国でもまれにみる復興を成し遂げました。

この時、空襲で焼け野原となった地に、黒こげになりながらも立ち続け、翌年には新芽を芽吹かせ、青々とした葉を茂らせた「旭町の大いちょう」は、市民に勇気と希望を与え、心の支えとなりました。

現在、この木は市指定天然記念物となっており、今も我々を見守り続けてくれています。


二度の戦災をたくましく生き抜いた町宇都宮

その2

■戊ぼ辰し ん戦争勃発 慶応4年(1868年)1月、新政府軍と旧幕府軍による戦いが始まり、3月には西郷隆盛と勝海舟による会談が行われ、江戸城の無血開城が決定します。

その後、江戸城は開城したものの、旧幕府側の一部が徳川家の聖地である日光山を目指し北上します。

■宇都宮での戦い 同年4月19日、会津藩士・秋月登之助、新撰組・土方歳三らに率いられた旧幕府軍は、防備の薄い宇都宮城の南東部から攻め込んできました。

これに対し、新政府側に付いた宇都宮藩は防戦しますが、旧幕府軍に押され、退城を決意します。

その際、二の丸館に火を放ち、旧幕府側の放った火と相まって、南東からの強い風を受け、宇都宮城下のほとんどが焼失してしまいました。

4日後の4月23日、宇都宮城を占拠した旧幕府軍に対し、薩摩・大垣藩を主力とする新政府軍が六道辻側から攻め入り、松が峰門付近で白兵戦となります。

この時、旧幕府軍参謀の土方歳三が足首に銃撃を受け負傷しました。夕刻には、新政府軍の総攻撃により、旧幕府軍は一斉に退却し日光に向かいました。

その後、白虎隊で有名な会津戦争、翌年5月の箱館戦争を経て戊辰戦争は終結します。

県都宇都宮の誕生 この戦争で焼け野原となった宇都宮の街は、その後の文明開化の波を受け、近代的な街に生まれ変わり、明治17年(1884年)の栃木から宇都宮への県庁移転により、名実ともに県の政治・経済の中心となります。


文武に秀でた宇都宮氏の本拠地 宇都宮

■源頼朝と宇都宮朝綱 宇都宮氏は、宇都宮明神(二荒山神社)の社務職を兼ねながら宇都宮の地を治めた武将です。3代朝綱は、源頼朝の挙兵を助け、鎌倉幕府の樹立に大きく貢献しました。頼朝が弟の義経を追って奥州に向かった際には、宇都宮明神で戦勝祈願を行い、朝綱もその軍に加わり手柄を立てています。

■百人一首と蓮生5代頼綱(後の蓮生)は、当代随一の歌人藤原定家と親交があり、出家して京都に居を構えた際に、その山荘のふすまに貼る色紙和歌を定家に百首選んでもらいました。これが後の「百人一首」の元になったといわれています。

宇都宮氏は独自に歌壇をつくり、和歌集を編さんするなど、文化面でも秀でた武将でした。

■武勇に秀でた宇都宮氏 8代貞綱は、元軍の襲来に対し約6万人の兵を率い、日本の総大将として九州に出陣しました。また、9代公綱は、知将として名高い楠木正成と戦い、「坂東一の弓矢とり」と評され、宇都宮氏の武勇は全国的にも知れ渡っていました。さらに、10代氏綱

は、足利尊氏を助け、上野(群馬県)・越後(新潟県)の2カ国の守護職を務めました。

■宇都宮氏の終えんとその後 このように宇都宮氏は、文武に秀でた伝統ある一族でしたが、22代国綱の代に豊臣秀吉により改易され、その地位を解かれてしまいます。しかし、宇都宮氏の旧臣たちは土地に住み続け、その後の地域の発展を支えました。また、宇都宮氏が種をまいた「百人一首」は、宇都宮で百人一首全国大会が開かれるなど、今日も多くの人々に愛され続けています。


徳川将軍も泊まった華やかな城下町 宇都宮

■徳川将軍が宿泊した城 江戸時代に徳川幕府が開かれ、日光に初代家康を祀ま つる東照宮が造られると、将軍家による日光社参が行われるようになりました。

その規模は、8代将軍吉宗の場合でみると、行列の人数が約13万人、人足が約22万人、馬が約32万頭という大行列で、幕府の権力の強さを示す大規模なものでした。その社参の際に、将軍の宿泊所として宇都宮城は使われました。

■釣り天井伝説 宇都宮城には、徳川将軍の宿泊にまつわる伝説があります。宇都宮城主であった本多正純が、徳川家康の孫である駿河大納言忠長を3代将軍にしようと考え、日光社参のため宇都宮城に宿泊する家光を釣り天井で暗殺しようと企てますが、事前に計画がばれてしまい、失敗に終わるという話です。この物語は史実とは異なりますが、1622年に2代将軍秀忠が日光社参の際、往復とも宇都宮城に宿泊する予定が、急に帰り道の予定を変えて宇都宮城を避け、江戸に帰ってしまい、その後、正純は宇都宮城を取り上げられてしまったことが元となっています。この話が後に講談や歌舞伎の題材として脚色され、宇都宮城を舞台とした「宇都宮釣り天井事件」として世に知れ渡ったのです。

■市民の憩いの場 宇都宮城 この宇都宮城は、高度経成長期に一部を残し、埋め立てられてしまいましたが、平成19年に宇都宮城址公園の再整備により、現在の姿に生まれ変わりました。毎年10月には、日光社参を模した社参行列などを行う「伝統文化と歴史の祭典 宇都宮城址まつり」を開催するなど、今では市民に親しまれています。


2つの追分、水運の鬼怒川人・物・情報の交流点 宇都宮

■坂上田村麻呂が歩いた道 宇都宮は昔から東北に向かう主要な道の通過点でした。平城京や平安京と陸む つ の奥国く にを結ぶ古代からの幹線道路の1つである「東山道」が宇都宮を通っていました。征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、蝦夷との戦いのため、この道を歩き東北に向かいました。

■頼朝・秀吉が歩いた道 中世には、鎌倉と奥州を結ぶ「奥大道」と呼ばれる幹線道が宇都宮城の東側を通っていました。源頼朝はこの道を進み、弟義経を追い掛け、奥州藤原氏のいる平泉に向かいました。また、豊臣秀吉は小田原の北条氏を倒した後、会津に向かう途中で宇都宮に立ち寄り、関東や奥州の武将に対しさまざまな命令を出しています。この時、独眼竜で有名な伊達政宗も秀吉のもとに参上しています。

■2つの街道の追分 近世になると、江戸を起点とした五街道のうちの「日光道中」「奥州道中」の2つの街道の追分の地となります。現在の大通りと本郷町通りの交差点付近が2つの街道の分岐点です。徳川3代将軍家光や8代将軍吉宗などがこの道を通り、日光社参の際には、宇都宮に宿泊しました。また、東北地方の大名たちは参勤交代の際に奥州道中を使い、江戸に向かいました。

■交通の要 衝 宇都宮 近代以降は、国道4号線が宇都宮を通り、東京から東北地方に向けての陸上輸送の大動脈となっています。

このように宇都宮は、常にそれぞれの時代で、日本の中心地と東北を結ぶ主要な幹線道路が通り、陸上交通の要衝の地として人・物・情報が行き交った結果、芸術文化や技術などを吸収しながら、発展してきた街なのです。


古代国家を支えた下毛野氏基盤の地 宇都宮

■今から約1600年前の宇都宮 大和王権が力を伸ばしていた5世紀。仁徳天皇が埋葬されているといわれる、日本最大の大仙古墳(大阪府堺市)が造られます。

時期を同じく、宇都宮の地でも全長が105mある市内最大の前方後円墳「笹塚古墳」が造ら

れました。この場所は、現在のインターパーク付近で、近くでは豪族の居館跡や大規模な集落跡も発見されており、当時、この地域の中心地であったと考えられます。

豊城入彦命と下毛野氏 日本書紀によると、二荒山神社の主祭神の豊城入彦命は「上毛野君・下毛野君の祖」であると記されています。また別の書物には、豊城入彦命の子孫の奈良別君は仁徳天皇の時代に下毛野の地を統治する下しもつけぬのくにのみやっこ毛野国造に任ぜられたと書かれています。この話が本当であれば、笹塚古墳に埋葬されたのは下毛野氏の一族かもしれませんね。

下毛野古麻呂と河内郡衙さらに下毛野氏の子孫には、大宝律令の作成に携わった下毛野古麻呂という人物がいます。古麻呂は、正四位下、参議、式部卿など政権の要職を担った人で、下野薬師寺(下野市)の建立にも関係したといわれています。

この時期に河内郡の役所が置かれた場所が、宇都宮市と上三川町の境にある上神主・茂原官

衙遺跡です。

なぜ、この場所に役所が置かれたのか、古墳時代以来のつながりなのか、あるいは下毛野氏との関係なのか。皆さんもこの古代の謎解きに、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。


 農村に生きた人々が築いた文化豊かな田園の地 宇都宮

■宝木台地の開拓 江戸時代の初め、田川の西側にある宝木台地は、水持ちが悪い地質のため稲作に適さない土地でした。宇都宮藩は、この台地を、江戸の町人加藤四郎兵衛ら4人に請け負わせ、開拓させました。しかし、水利が悪かったため、次第にこの新田は荒廃してしまいます。

■二宮尊徳による通水事業 文政8年(1825年)、宇都宮藩は、荒廃した新田へ田川から通水することを計画しますが、この取り組みは失敗に終わり、藩は真岡代官所を通じ、二宮尊徳に通水工事を依頼します。嘉永5年(1852年)、尊徳は2回の現地検分を行い、工事に着手し、石那田堰を設け、徳次郎村の田まで水を通すことができましたが、その南に位置する西原新田までは及びませんでした。そこで、仁良塚の名主らが中心となって資金を集め、徳次郎用水の取水口からの開削工事が始まりますが、工事監督者である尊徳が途中で死去し、いったん工事は取りやめとなります。その後、尊徳の弟子の吉良八郎が後を継ぎ、安政6年(1859年)に「宝木用水」は完成します。こうした長年に渡る地域の人々の努力により、宝木台地の多くの田が潤い、豊かな田園の地が生まれたのです。

■新川の誕生 また明治時代には、宝木用水から分水して江曽島まで流れる用水が完成し、「新川」と名付けられました。この人工の川は、現在でも農業用として一部使われている他、雨水を処理する排水路など、市民に身近な川として流れ続け、春には桜の名所として市民に親しまれています。


農村に生きた人々が築いた 文化豊かな田園の地 宇都宮

宇都宮の田園地帯では、昔から、自然と共に暮らしていく中、自然や神々に人々の繁栄や五穀豊穣を願って、さまざまな伝統行事が行われてきました。

■宇都宮北部に伝わる獅子舞 北部地域では、天下一関白神獅子舞など、雄2匹・雌1匹からなる、一人立ち三匹獅子舞が、毎年、盆や二百十日(9月1日頃)、あるいは道や橋が完成した時などに、悪疫退散、家内安全、風雨順調などを願って行われています。

■豊作を願う天祭 市内50カ所以上の場所で、太陽や月をはじめとする神々などに、風雨順調・五穀豊穣などを祈願する天祭が行われていたことが知られています。天祭は、江戸後期に盛んとなり、念仏を唱えながら祭壇の周囲を回るもので、その中心となる二階建ての彫刻屋台の形をとった天棚は、全国的に見ても宇都宮市とその近辺にしか存在しない独特なものだそうです。

■日光街道沿いの付つけまつり祭 日光街道沿いでは、夏の暑い時期に、疫病退散や家内安全、五穀豊穣を願って、石那田八坂神社天王祭付祭や徳次郎智ち賀都神社祭礼付祭で、それぞれ6台の彫刻屋台が繰り出され、地域の一大行事となっています。

■地域に伝わる伝統行事を未来へ この他にも、羽黒山神社の梵天祭りや瓦谷の神楽など、各地で伝統的な行事が、今もなお地域の人々によって引き継がれています。これらの行事は、地域の人々の絆を深め、地域の一体感を生み出すことのできる貴重な文化資源です。みんなで力を合わせ、未来の子どもたちに、これらの伝統行事を伝えていきたいものです。

コズミックホリステック医療・教育企画