宇都宮 (宇都宮城址公園)

https://blog.goo.ne.jp/uemura1048/e/d9cd300bcc44d0b3603986c2cc860221  【宇都宮 (宇都宮城址公園)】  より


このたび十余年振りに自家用車を買い替えることになった。車輌がうちに届いて、最初の外出先に宇都宮を選んだ。

これまで乗っていたのは八人乗りのワンボックスカーである。それなりに良く走るし、何よりも十年分の想い出もあるので、なかなか手放す決心がつかなかったが、さすがに十年を超え老朽化も目立つので、今が替え時と判断した。

新車は、ETCやカーナビなど最新鋭の機器を載せたコンパクトカーである。排気量は大きくないが、高速道路での加速も満足のいくものであるし、高速走行時も静かだし、それでいて燃費はこれまで乗っていた車より数倍良い。十年間の技術の進歩を実感することになった。何よりも感心したのはカーナビの便利さである。今まで史跡訪問といえば、地図とにらめっこしながら悪戦苦闘していたが、カーナビがあればどっちを向いて走っているか分からなくても迷うことなく目的地に行き着くことができるのである。「何を今さらカーナビごときに…」と呆れられるかもしれないが、文明の進化に感激した一日となった。

宇都宮は幕末、戸田氏七万石の城下であった。上野戦争のあと、官軍と旧幕軍がこの地で最初に大規模な戦闘に突入した。当時、宇都宮城は「関東七名城」の一つと言われる大きな城であったが、この戦火で建物も大半を焼失し、次第に堀も埋められて、往時を偲ぶものはほとんど残っていない。平成十九年(2008)三月、清明台と富士見櫓、築地塀などが復元され、宇都宮城址公園として整備された。

宇都宮城の歴史は平安時代まで遡る。鎌倉時代から戦国期にかけて、約四百年にわたって宇都宮氏がここを本拠地としていた。宇都宮氏が秀吉に滅ぼされ所領を没収されると、以降頻繁に城主が変わったが、十八世紀初頭に越後高田から戸田氏が転封され、明治維新を迎えるまで七代に渡って宇都宮藩主となった。

英厳寺は戸田氏の菩提寺で、越後高田から転封に伴い、宇都宮に移されたものである。江戸時代には広大な寺地と多くの堂宇を有していたが、やはり戊辰戦争の戦火によりそのほとんどを失った。

現在は、せまい敷地内に戸田氏歴代の墓地が残されているのみである。

最初に出会うのが、戸田忠恕(ただゆき)の墓である。忠恕は(1856)十歳のときに家督を継ぎ、慶応元年(1865)二十二歳という若さで世を去っている。尊王の志が厚く、山陵の修補に熱心であった。宇都宮城址公園内の巨大な石碑は、そのことを顕彰したものである。

忠恕の墓の隣には、最後の藩主となった戸田忠友の墓、更にその左には戸田忠明(忠恕の先代)までの十一代の合葬墓がある。

従二位勲三等子爵戸田忠友

栃木県護国神社は、戊辰戦争での戦死者を祀るために、明治五年(1872)、当時の宇都宮藩知事戸田忠友が創建した招魂社が前身となっている。

宇都宮市街には、戊辰戦争の戦跡、特に戦死した兵士の墓が、各地に散在しており、宇都宮を巡る攻防の激しさを物語っている。結局、一日では回りきれなかったので、残りは次の機会に持ち越しすることにした。

戊辰戦争を迎える頃、宇都宮藩領では農民による一揆が多発していた。宇都宮藩では一揆の鎮定に疲弊しており、そのため旧幕軍の猛攻に耐え切れずあっさり城を明け渡してしまったといわれる。

宇都宮藩軍夫三名の墓がある梁瀬町付近も激しい戦闘が展開された場所である。同町に所在する光徳寺にも戊辰戦争の戦死者の墓がある。

宇都宮市街の繁華街の中にある二荒山神社は、戊辰戦争で土方歳三率いる新選組が陣を敷いた。やはり戊辰戦争の戦火にあって全山を焼失し、現在の社殿は明治十年(1877)に再建されたものである。

本殿に至る坂道に蒲生君平を顕彰する巨大な石碑が建てられている。蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」と称される。歴代天皇陵が荒廃していることを嘆き、「山陵誌」を著して修復の必要性を説いた。明治十四年(1881)、特旨により正四位を贈られた。これを受けて有志の間で記念碑を建てようという動きが起こり、明治二十二年(1889)、この石碑の除幕完成を見た。篆額は有栖川熾仁親王、撰文は重野安繹、書は巖谷修。発起人には久我建通、東久世通禧、戸田忠友らが名を連ねる、堂々たる石碑である。

桂林寺には、蒲生君平の墓がある。

蒲生君平は明和五年(1768)、宇都宮に生まれ、四十六歳で江戸で亡くなっている。江戸谷中の臨江寺に埋葬されているが、その後宇都宮の有志により改葬の議論が起こり、桂林寺の祖先(福田氏)の墓域に、遺髪を分葬して墓が建てられた。

桂林寺にも戊辰戦争戦没者の官修墓があると聞いたので、広い墓地を歩き回った末にようやく一つの官修墓地を発見した。

材木町から西原町にかけての一帯も戊辰戦争で激戦が展開されたらしく、戦死者の墓が多数残っている。大運寺は、道路の拡幅工事に伴い移転再建され、寺の建物はまるで寺らしくない造りになっているが、戊辰戦争戦死者の墓をそのまま移設して保存しているのは嬉しい。

安養寺の道を隔てた向かい側の墓地、入口付近に官修墓地がある。墓の側面に、「官軍土佐藩士」とある。

安養寺からすぐの場所に観専寺がある。やはりここにも官修墓地がある。

戊辰の役官軍 山国隊士 因幡藩士 之墓

光琳寺の本堂の前に、鳥居をともなった官軍の墓地がある。山国隊は、因州藩士が結成したもので、戦死者の墓には、因州出身の「隊長 河田佐久馬」の名前も見ることができる。

六道の辻周辺も激戦となったらしく、あちらこちらに兵士の墓が建てられている。

六道の辻にも鳥居を持つ墓が建てられ、墓前には花が飾られている。今に至るまで手厚く葬られていることが伝わってくる。

戊辰役戦士墓

傍らに建碑の主旨を刻んだ碑が建てられている。慶応四年(1868)九月、官軍に属して会津征討に従軍した宇都宮藩兵は、会津城下の飯寺村にて越後長岡藩兵と激突した。宇都宮藩戸田三男隊は、敵将山本帯刀以下の会津藩兵を捕え、斬首することになった。彼らは従容として死に臨んだが、金二百両を差し出し処置を戸田三男に委ねた。この墓は、このとき落命した長岡藩兵および、六道口の戦闘で戦死した会津藩兵ら旧幕府側の犠牲者を合葬したものである。

報恩寺の門をくぐると、右手に薩摩藩戦死者之墓、左手に戦死烈士之墓、長州藩出身者ら官軍兵士の墓が並んでいる。

一向寺の墓地の一角にも官修墓地がある。近くには倉田家の墓地もあるので、恐らく墓の主は地元宇都宮藩の者だろう。

宇都宮市幕田地区は、壬生町安塚に近接しており、ここに宇都宮の戦いの前哨戦である安塚近辺の戦闘で戦死した兵士を弔った墓が建てられている。墓碑の文字は風雪を経て磨耗してほとんど読み取れない。指でなぞって辛うじて「戦士死十七名霊」