初期・脳のシステムデザインの世界

https://www.porsonale.co.jp/semi_c184.htm  より

人間の「学習」とは、Y経路系の「認知」を「行動」にあらわすことがシステムの本質です 。

 みなさまは、立場上、誰かに何ごとかを教えたり、伝えるということをおこなっておられるはずです。

 学校で生徒に教えるとか、お仕事で要旨説明(ブリーフィング)をおこなう、会議で報告や目標を話して行動を共有する、などです。

 ここで、みなさまは、聞いている人がみなさまの伝える「言葉」をいっしょうけんめいにノートに書き取る、という行動を目になさるでしょう。

 これは「学習」という「行動」です。

 このような「学習」が脳の働き方として正しく成立すれば、教えられたり、共有することを目的にして伝えられる「言葉」は、学ぶ人にとっての正しい知識になるでしょう。

 しかし、現実は、必ずしもそうはなっていません。その好例が「食品についての偽装問題」でした。

 「食品の偽装」は、経済学上のメリットやデメリットについての判断や限界意識が影響しているので、「正しく学習できない脳の働き方のシステム」とは問題の性質は違います。しかし、「正しく学んで自分の知識になる」ということが「脳の働き方」として成立すれば、あるいは別の選択の方向が見えてきたかもしれません。「これしかない」というように言葉で考えられて、「行動」にあらわされたことは事実だからです。

 すると、ここでは「脳の働き方のソフトウェアとしてのシステム」から見た「学習」とはどういうものか?が明確にされる必要があると問われています。

 「知識は力である」とか、「情報をコントロールするものが力をもつ」といわれているように、「学習」したことが、自由に「行動」にあらわされるならば、どういう社会の場面でも「実行のための実力」になることは疑いないところです。

 人間にとっての「学習」とは、「言葉」を憶えることだと考えられています。だからノートに執ったり、メモを書いて書きとめたりします。

 ノートを執ったり、メモを書いたりする人は、このようなことをおこなわない人よりもはるかに知的な能力に裏付けられた「行動」の力があるように見えます。それは、なぜそのように言えるのでしょうか。

 また、ノートを執る人、メモを執る人は、これをおこなわない人と比べて、何が違うのでしょうか。

 このようにとらえることを経済学では「システムデザイン」といいます。脳の働きもまた「システム」として働いていることは、これまでの自律神経の働き方をごらんになってよくお分りのとおりです。

 そこで「学習する」とは、脳の働き方にとってどういうシステムのことなのか?をご一緒に考えてみます。モデルとなるケースは「子どもの脳の働き方」が最もふさわしいと思われます。

『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』

(無藤隆・講談社現代新書よりリライト・再構成)

人間の子どもは、生まれた瞬間から生きる力をもっている。まわりの人やまわりのものに積極的にかかわる力をもって、存在しはじめる。しかし、胎児期(母親の胎内にいる時期)と、誕生後の最初の一ヵ月は、その力が十分に発揮するようにはできていない。

潜在的な力として、可能性をもっていて、まわりとの関わりの中で徐々に実現の方向に向かっている。

人間の子どもは、母親の胎内にいる時期の「胎児」の状態でも、まわりの環境からさまざまな情報を受け取ることができることは、今ははっきりしている。

超音波で胎児の様子を妊婦に見せる。写真で胎児の様子を見ることができる。

妊娠の直後の受胎の間もない時期に、小さいながらも頭や手足が、ちゃんと立派に育っていることを目で見ることができるからだ。

だが、胎児がどこまでまわりのことが分かっているか、また、どこまで胎外からの刺激に脳の発達や心の発達が影響されるのか?は、神経系の成熟にかかわっていることだ。必ずしも、妊娠の早期から外部を意識し、その影響を受けとっているということではない。

胎児にとって、胎外からの刺激として重要なのは「音」である。

音というのは「音声」もふくむ。

胎児は、妊娠の後期には「聴覚器官」が相当に発達している。胎外の音でも、母親の音声を聴き取ることができる。

妊婦に、出産前の数週間に、いくつかの文章を読んで聞かせるという実験がある。すると、出産後に、その胎児は、胎内で聴いたことのある文章を、聴いたことのない文章よりも好んだ、ということだ。

ここで好む、というのは、なじみのある文章の方を聞いている時と、そうでない時では、実験の中での子どもの反応が変わってくるということを意味している。異なる文章の音声を区別している、ということだ。この区別をさして記憶している、という。

脳波や超音波画像で、子宮内の胎児の行動を観察すると、「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」の様子が分かる。「レム睡眠」とは「眼球運動」が認められる睡眠のことだ。これは脳の活動が活発になっていることを示す。

胎内時期の20週から23週ではっきりと認められる。28週から31週くらいまでに増加していく。

満期の出産は40週である。妊娠の終わりのほぼ3分の1くらいには、かなりの脳神経の活動がおこなわれていることが分かる。

妊娠の35週から37週には、胎児は、子宮内でも目を開き、覚醒していると見なしてもよい状態が明らかに見られる。

妊娠の末期には、胎児は、いつ生まれてもよい状態になっている。さまざまな「視聴覚の情報」を受け取ることが可能になっている。

胎内の胎児を超音波で観察するとどう見えるのだろうか。妊娠6週から16週は初期の段階である。この時期の胎児は、外界からの刺激にたいしてすばやい反応を見せる。

女性が、ふつう妊娠と気づくのは9週ごろだ。この時、胎児は、すでに人間としての基礎をつくり上げている。

活発な運動をおこなっている。

33週くらいになると、細かい手の動き、顔、頭部の運動がおもなものになっている。

胎内では、とくに聴覚が早くから機能している。耳の「内耳」(ないじ)の感覚器は妊娠5ヵ月めには出来上っている。脳幹にいたる聴覚の経路の神経の髄鞘化(ずいしょうか)は、9ヵ月のなかば頃には完成している。大脳生理学では、「髄鞘化(ずいしょうか)」が出来ていれば、神経系が活動している、と見なされている。

いくつかの実験がある。胎内での「音」を録音して、これを新生児に聴かせると、泣いている新生児は安静状態になるといわれている。子宮内にいる時の音は聴き慣れているので、静かになったと考えられている。これは、新生児が、母親の声を聞きわけていることの証明の根拠にもされている。胎内にいるときから母親の声をよく聴いているので、生まれてからすぐに、母親の声をよく聴きわける、というものだ。

だが、この音の記憶は、言葉の意味を記憶しているのではない。母親や、まわりのものの音を聴いて、その調子を記憶しているのだ。

母親の胎内にいる「胎児」の脳のシステムとメカニズム

 すでにお話しているとおり「レム睡眠」というのは「浅い眠り」のことです。また「ノン・レム睡眠」というのは深い眠りのことです。「レム睡眠」では、まぶたの下の眼球が不規則に、急速に動く、と指摘されています。このような「レム睡眠」(浅い眠り)、「ノン・レム睡眠」(深い眠り)は、脳の働きのハードウェアとしてのシステムの観察になります。すなわち、「レム睡眠」(浅い眠り)は、「右脳が働いている状態」のことです。

胎児は「音」を聴いて聴覚のシステムをつくっている

 胎児にとっての外界からの刺激とは、「音」が中心になります。すると、無藤隆がここでのべている胎児の「目の動き」というのは、「聴覚の経路」は「視覚の経路」を使っているということから起こる現象のことです。「聴覚」と「視覚」は、脳のハードウェアのしくみから見ると、ほとんど同時に、共時的に働くということです。胎児の胎内の状態を超音波で観察して分かる「眼球の動き」とは、「聴覚の機能」が発達していることを意味します。そして、「レム睡眠」(浅い眠り)と「ノン・レム睡眠」(深い眠り)は、「左脳」と「右脳」が独自に、独立して働いている、ということを意味するのです。胎児の「左脳」と「右脳」の働きとは、まだ、「ハードウェアとしてのシステムづくり」のための働き方になるでしょう。それは、「音を視覚のイメージに変える」「音が、言語や言葉の素になるように有意性をもつものとして認識する」というようにです。

「聴覚」と「視覚」のシステムは、共時的に発達する

 五官覚の一つの「眼」(視覚)と「耳」(聴覚)は、五官覚の代表といえるものです。「聴覚」は「視覚」と区別されるけれども、しかし、「視覚」と対応して相互性をもって、独立した機能をもつ、というように成り立っていることが分かるでしょう。「視覚」は、すでになんどかお話しているとおり、「手や指、舌、皮ふ感覚」の外延化の機能をもつものとして働きます。「外延化」とは、知覚の認知という意識を、「今、じかに触ってはいないけれども、間接的には触れている」ものとして了解することをいいます。遠くにあるリンゴを見たとしましょう。

 「まるくて、ツルツルしていて、固い。赤い色の皮をむけば白い色の果肉があらわれる。食べればシャキシャキしてジューシーで、甘い」という形状、形、形の特性を見るでしょう。このときの了解は、じかに手で触ったり、食べた時の皮ふ感覚による了解を、目で見たときの内容にしているのです。

 胎児の目の動きや聴覚の機能の発達から脳の働きのハードウェアとしてのシステムの完成を見ることができるということをお話しています。

 胎児が「目を動かす」というのは、自律神経が働いていることを意味しています。

 「瞳孔が縮まる」のは、副交感神経による支配がおこなわれています。

 「近くを見る」「近くのものに焦点を合わせる」という働き方のことです。

 これは「X経路」の働きです。

 「右目」「左脳」の系の働きのことです。目の瞳孔が広がっているときは、交感神経の支配によります。「散瞳」といいます。

 「遠くを見る」「ものの動きを見る」「動きの変化を認知する」というように働くためのハードウェアとしてのシステムがつくられているのです。これは「Y経路」のシステムです。「左目」と「右脳」の経路が完成されているのです。

 このような胎児の胎内での観察をとおして分かることの重要なことは、「聴覚」の機能と「視覚」の機能は、ほとんど共時的であるということです。共時的というのは、片方が起こると、もう一つのものも同じように動いて働く、という意味です。「聴覚」が働くというのは、副交感神経が働いて、「瞳孔を縮める」と「耳は、近くの音に焦点を合わせて聴く」ということです。また、耳が、遠くの音源に焦点を合わせる時は「眼の瞳孔が開いて、遠くのものを見る」というように機能する、ということです。

「胎児は「Y経路」を発達させている

 「聴覚」の機能の発達とは、「大脳」(左脳と右脳)の機能とその発達のことでもあります。胎児は、胎内で、母親の「心臓の心拍の音」を遠くに聴いて「Y経路」(右脳、左眼、左耳)を発達させるのです。また、母親の血管を流れる「血液の流れの音」を聴いて「X経路」(左脳、右目、右耳)を発達させるのです。もちろん、胎内の外という外界から聴こえてくる音は、「Y経路」(右脳、左目、左耳)の発達を刺激するものです。

 胎内にいるときに母親の声を「聴く」ということは、「Y経路」による「認知」を意味しています。「Y経路」の認知とは、「いつ」「どこで」「何が」「どのように」という言葉に該当する認知のことです。

 胎児の心臓の心拍が急速に低下するような音であれば「X経路」が機能して、「不快」か「苦痛」かのいずれかを「プレ認識する」でしょう。逆に、心拍が安定するような「音」は、心臓の拍動の音と一致しているので、「快」か「安心」のいずれかを「プレ認知」していると考えることができます。「プレ」というのは、記憶としての機能も、脳のハードウェアとしてのシステムづくりとしておこなわれているということです。

「学習」の本質とは何か?

 新生児とは、誕生して最初の一ヵ月間の子どものことをいう。この新生児はさまざまな能力をもっている。

 まず、「言語音」にたいする感受性がある。「サッキング」ということがある。

 「サッキング」とは、「おしゃぶり」のことだ。

 このサッキングというおしゃぶりを吸う速度や強さを指標にして測定する実験がある。ある聴覚音を聴かせる。何度も聴かせると、反応がにぶくなる。音に慣れてくるのだ。そこで別の音の刺激を聴かせる。

 するとサッキングの反応が高まる。これにより、「音を区別する」ということが確かめられている。このような実験をとおして、新生児は、母国語の言語に特有の音の響きを敏感にとらえるということが証明された。すなわち、言語にたいしての学習がおこなわれているということの証明である。

新生児の能力についての研究がある。

「模倣」(もほう)による行動である。生後12日から21日の新生児にたいして、成人のモデルが次の4つの動きを示した。(アメリカ、ワシントン大学のメルツォフ)。

「口を突き出すこと」「口を開くこと」「舌を突き出すこと」「手の指の運動」の4つだ。新生児は、これらの4つの動きの「模倣」が可能であることを示した。

もちろん、新生児は全ての動きをつねに模倣する、ということではない。

統計的に意味のある違いが見出された、というレベルでの「模倣」である。

新生児の時期がすぎて、生後1ヵ月くらいになるとよく「模倣する」。

「口を開くこと」「口を突き出すこと」の二つの模倣がスムースにおこなわれたという実験が報告されている。

生後5週の子どもと、8週の子どもの「模倣」の実験がある。

成人したモデルの「動き」はこうだ。

「口をあけたり閉めたりする」「舌を出したり、入れたりする」。これにたいしては、統計的に意味のある程度に、「模倣すること」が確認された。

生後1ヵ月と4ヵ月の子どもへの「模倣」の実験がある。

4つの「顔の絵」である。

1.人らしさをそなえた顔

2.目と口でつくられた顔

3.目、口がでたらめに配置された顔

4.顔の輪郭(りんかく)と口だけがある顔

の4つである。

この実験では、1と2の人間らしい顔による「舌出し」「微笑」「発声」を模倣した。「人間らしい顔」にたいしてより強く注視する。

そして、初めは「目」を注視して、次に「舌の部分」を注視する、ということが明らかになった。とくに生後1ヵ月の子どもは、「人間らしい顔」にたいしての模倣をよくおこない、自分も「舌を出す」などの模倣の動きをあらわす。

「新生児と乳児の「学習する」という脳のメカニズム

 これまでにご紹介した新生児と乳児の「視覚の能力とはどのようなものか?」についての実験や観察を「脳のハードウェアとソフトウェア」の観点から再構成すると、こんなふうになります。

 一般的に、「乳児は、庭のスズメが見えるには百日かかる」と言われています。百日が経つと庭のスズメを見るようになる、という言い伝えです。このことは、乳児は「近視の状態」にあることを意味しています。げんみつにいうと「X経路」の「焦点を合わせる」という視覚の機能も、共時的には、聴覚の機能も十分に発達していない、ということです。

 「瞳孔」を縮小して「近くを見る」という「認識」のための機能の発達は、後回しになっているということです。

 このことは、「Y経路」が先行して発達している、ということでもあります。

 新生児や乳児の「実験」では、モデルとなる大人の人物が、いくつかの「行為」を示しています。乳児らは、これを見て、「模倣」します。この「模倣」が学習になっています。「学習」とは「模倣」のことでもあります。

 昔から「学ぶとは、真似ぶのことだ」といわれているのは、この「模倣」のことです。

 では、新生児や乳児の「模倣」はどのようにおこなわれているのでしょうか。

 「目を見る」そして「口と舌を見る」「舌出しや口を開くことをくりかえして見せると、真似る」というように「模倣されている」でしょう。

 「Y経路」による「認知」がおこなわれているのです。「Y経路」の「認知」は、「遠くのものを見る」、「物の動きのパターンを見る」「物の動きの変化のパターンを見る」というものでした。「パターン認知」をおこなうのです。

 では、この「パターン認知」とは、どのようなものでしょうか。いくつかの特性があります。一つは、「自分の身体の知覚機能の動き方」にかんする「パターン認知」です。「口を動かす」「舌を出す」「微笑む」などのことです。ここに「手を動かす」「指を動かす」という「パターン認知」が加わります。この「認知」とは、「記憶」のことです。すでにお伝えしているペンフィールドによる実験と観察によれば、人間の大脳(左脳と右脳のことです)の新皮質には、手、指、舌、鼻、足、皮ふなどの「知覚」とむすびついている「記憶の部分」が分布していて決まっている、ということです。

「認知」とは、「自分の知覚の機能」を記憶することである

 このことは、「右脳の新皮質」には、新生児や乳児が、「目で見た」ときに、自分が見たもののうち、自分の身体の知覚にむすびつくものを「外界の対象」として「認知」している、というようにとらえることができます。目や口や舌や手、指は、人間にとって「知覚」の柱になっています。ほとんど自動的に動くので、この「動き」が「認知の対象になる」ということです。自分の「動き」の「認知」は、ほとんど自然に成り立つという意味です。モデルとなる大人の「目」や「舌」や「口の動き」や「手の動き」は、とりもなおさず「自分自身の動き」でもあるので、「認知」という機能が自然発生的に起こって「記憶」というものが成立します。「認知」は、誰もがもっている生理的身体の働きですが、「認知」を「記憶する」ということが重要なところです。この「記憶」は、「自分の身体を動かす」、すなわち「行動する」ということで成り立つ、というメカニズムを分かることが大切です。「模倣とは、行動のこと」です。この「行動」のことを「体験」といいます。ここでは、人間の「学習」の本質について解明していることになるのです。

「学習する」とは、模倣によって「行動」をあらわす「体験性」のことである

 すなわち、「学習」とは「行動」にむすびつく「体験性」のことです。それは、まず「模倣して、行動にあらわす」ということが原点になっています。このことは、「脳」がハードウェアとしてのシステムとして成り立っていることを理解すると、人間が、成人してもずっと変わらない「学習」ということの定義にもなるのです。

 ところで、新生児や乳児の「認知」は、どのようにおこなわれているのでしょうか。それは、モデルとなる成人の「目を見て、次に口を見る」「口が開く。次に閉じることを見る」「舌が口の中にある。次に舌が突き出されることを見る」、などというように、「初めの動き」を見て、「次の動き」を見る、というように認知されているでしょう。くりかえしてお話しますと「認知」とは、「そのものがそこにあることを分かる」という「分かり方」のことでした。

 「そのものが何であるのか?」を分かることは「認知」ではなくて、「認識」です。「認識」とは、Aなる対象とBなる対象とを比べて、それぞれの違いとなる特性や特質を分かって、区別することです。違いや特性を分かることが「認識」ということの定義でした。

 新生児や乳児は、「Y経路」の知覚の機能をフルに働かせて、「動きのスタートのA」と「動きの終点のB」を認知します。

 こういう「認知」を、「二・五次元の認知」といいます。「二次元の認知」は、紙の面のような「平面」の上のものを分かることです。

「Y経路」は「2・5次元」を認知して「行動」のための「模倣」を記憶する

 紹介の事例の中の実験にあったように、「人間の顔」に見立てた「お面」(おめん)に、目や口、などを描いたものが「二次元の認知の対象」です。新生児や乳児は、「Y経路」の視覚の認知によって、まず、初めに「動きのパターン」を認知する、という実験例と観察の結果が説明されていました。これが「二・五次元の認知」です。この「二・五次元の認知」とは何のことでしょうか。「動く」、もしくは「行動する」、ということの「記憶」のことです。例えば、みなさまの目の前に「イス」があると想像なさってください。この「イス」は正面、真横、真上、真下、ナナメ横と「視点の位置」を変えて見ると、その角度から見た「イス」の形状や形象は違ってイメージされます。

 新生児や乳児は、みなさまが自分の身体を動かしていくつかの視点の位置に立つ、ということと同じことをおこなっているのです。子ども自身は動けないので、「モデルとなる人物」や「モデルの成人が見せるお面」が動いて変化しています。物が「動いている」「動きによって変化している」、そして、この動きの変化を認知する、ということは、「子ども自身が行動している」ことと「認知」の内容から見ると同義です。同義とは「同じ意味をもつ」ということです。

「ゲシュタルトの法則」で「認知」が「認識」に変わる

 すると、ここからこんなことが分かります。「動くこと」「動きによって真似したことをあらわすこと」は、ペンフィールドの大脳生理学の報告にしたがえば、「記憶する」ということです。「Y経路」の視覚による「動くもの」と「動いたこと」の認知は、これはそのまま「記憶される」ということです。「記憶」とは、何のことでしたでしょうか?

 「右脳のブローカー言語野」の「3分の1のゾーン」にイメージとして思い浮べられるということでした。これを「表象」(ひょうしょう)といいます。ここでの「表象」(ひょうしょう)とは、「模倣」という「行動」が成り立つ、ということです。「模倣」とは、「行動をおこなう」ということです。脳のハードウェアとしてのシステムに即していうと「頭頂葉」で、現実のものごと(対象といいます)に関わるにあたっての行動の実現性が完成するということです。「方向意識」(どちらの方向に進むのか)、「距離意識」(どれくらいまで手を伸ばすのか、そのものが口のどこまで近づいてきたら口を大きく開けるのか)、「角度意識」(その物は、右、左、上、下のどちらの方向に動いているのか)、などが「認知」されて、そして「記憶される」でしょう。

 このことを、脳のソフトウェアとしてのシステムに置き換えて説明することができます。

 簡単なモデルをお話します。

 暗い夜の公園の中の離れた位置に二人の人物がいる、と想像してください。AさんとBさんです。二人とも懐中電灯を持っています。AさんとBさんは、少しの時間の間隔をおいて、交互に懐中電灯を点滅させます。この点滅の光を見ている、と想像なさってください。すると「光」はAさんの位置からBさんの位置まで「動いている」ように見えるでしょう。これは「ゲシュタルトの法則」といいます。ゲシュタルトの原理ともいわれています。この法則は、「映画の映像のメカニズム」として応用されています。テレビ放送の映像も同じです。みなさまが初めてテレビを見て驚いたアニメーションもこのゲシュタルトの原理が用いられています。これらのことは、じつは、「言語」としての映像の本質にかかわるものなのです。映像のことを、「言語学的」には「概念像」という言い方をします。「二・五次元」の「認知」が「三次元の認知」に変わるのです。

 ここでは、「認知」が、「認識」というものに質的に変化します。

 「二・五次元の認知」とは、「イス」なら「イス」を、いくつかの角度の位置から目で見て認知することでした。ここでは「動くこと」と「動いて変化すること」が、認知として成り立ちます。仮に、「上」「下」「右横」「左横」の4つの角度からの認知が「記憶された」と想定してみましょう。「動きを認知する」とは、この5つの「二・五次元の認知」を統一して、総合して「イメージする」ということを意味します。これは、「一つ目の認知はこういうものだよ」「二つめの認知はこうだったね」「三つめの認知は、そうそう、こうだったじゃないか」「四つめの認知?えーっと、そうだ、こうだったじゃないか」「五つめの認知?あ、わかりました、正面です」というふうに、順序よく、系統性という法則性を認知します。このような「順序よく、系統性という法則を分かる」ということを「認識する」ということにお気づきでしょう。大人でいうと「筋道立てて思い浮べる」ということです。人の話を聞くときは、「なるほど、筋が通っている説明だ」という分かり方のことです。

 これは、「X経路」による働きのことです。「X経路」による「焦点を合わせる」「近くに見る」ということがおこなわれます。また、「右脳ブローカー言語野の3分の1のゾーン」に、大きな視覚のイメージとして思い浮べられます。

 「X経路」による「認識」が成立するということを「脳のソフトウェアとしてのシステム」が完成した、といいます。

「学習」とは「行動を表象する」ことが本質である

 これは、「行動が可能である」ということと同じ意味をもちます。

 このように、「脳のソフトウェアのシステム」を理解するということは、「学習するとは、どういうことか?」を分かることと同義です。

 日経の教育欄に「挑む」というコラムが書かれていました。「ノートのとり方」というものです。いちばん困るノートのとり方は、「板書を抜粋した箇条書き」だというものでした。

 思考過程が分からないというのがその理由です。いちばん良いのはノートの左のページに「予習」を書いておく、授業では、この「予習」に対応させて「記述式」の言葉を書く、というものでした。これは、高校生の授業についてのコメントです。

 すると、「学習」とは、さしあたりどんな「行動」でもいいので「行動につながる言葉」を「記憶する」ということになります。この「記憶」とは、まず「模倣」です。これは、「新生児、乳児」に見られる「身体の五官覚のどれか、どれでもいい、という動き」としてあらわす「動き方」のことです。この「動き」と「動き方」は「行動」のことでもあります。

 直接の行動がないときは、「対象」となるものを「三次元のイメージ」として表象(ひょうしょう)させることをいいます。具体的には、「Y経路」系のパターン認知を、「いつ」「どこで」「何を」「どのように」に該当する言葉で「表象」(ひょうしょう)できることです。これによって、「行動が止まる」ことを防いで、人は心身ともに生きていける能力を身につけ、水準を上げていけるのです。

 「行動が止まる」とは、「死んだように眠る」といわれるように、「生命の停止」と同じ意味をもちます。「脳のソフトウェアとしてのシステム」は、「行動」をつくるためにある、ということをよくお分りいただけたことと思います。