多くの物事に対し親しみが湧く

http://sadhana.jp/kurashi/13101.html  より

物事へのこだわりが小さくなっている心――極力自分を開いている心――周りの人々を極力もてなしたいと望む心――こういう心で暮らす人に、現われてくる一つの傾向として、いろいろな物事への「親しみの情」「親しみの思い」が湧く、ということがあります。

 自分の暮らしにおいて、触れ合う多くの物事から、好印象を受けるようになります。不快という印象が後退してゆき、好ましい印象が届いてきます。

たとえば、日々外出の際に履く靴。いやな嫌いなところに履いて行くことが多ければ、靴まで気に入らなくなるかもしれません。逆に、出掛ける先が、楽しみ・喜びの多いところであるならば、靴も、親愛の思いで感じ取るものでしょう。

 安らかな眠りをする人にとって、長年使用しているベッドやパジャマには、親密な思いが湧くものでしょう。

 メールのやり取りをするパソコンも、生きる幸いをベースにして、気持ち良く人生展開しつつ使う場合、親愛の思いで扱う道具となることでしょう。”良いメッセージの運び役”として、ちょっとした”親友”らしさが湧いてくると言って過言でないかもしれません。

 似ていることですが、外出の度に利用する旅慣れた鉄道にも親愛の印象が湧きます。そして、その電車を折り目正しく運転する運転手さんにも同じように。さらに、”良いメッセージの運搬役”である赤い郵便配達の自動車やバイク、そして郵便配達員にも同様に・・・・・。

 さらに、「自然」に対して・・・・・花はもちろん、野菜や果実にも。また、ときどきは風や雲や水にも。また、小鳥たちや、蝶などにも。

 アシジのフランシスコは、自然との独特な親密さを育てました。自然を通して神様を賛美するわけですが、彼は、自然の存在物を、「兄弟」とか「姉妹」とか呼びさえします。「太陽の賛歌」と名づけられた祈りにおいて、直接彼が「兄弟」または「姉妹」と呼びかけるのは、太陽、月、星、風、水、火です(そこには、「体の死」までも付け加えられています)。「いとしい思い」「懐かしい思い」「心豊かになれるありがたさの思い」などが伴っています。

 上述のこと全体が総合される方向で――“自分の町”に、親愛の思いが生まれます。さらに、その親愛の思いは、自分が所属している“国”にも感じます。そして、それは、人類が暮らしを営む“世界”にも感じます。

 多くの物事に親密になっていると、物事に丁寧に対処することは当然です。・・・・・目の前に、悲惨なありようとか、混乱したありようとか、険悪なありようが現われると、とても心を痛めます。親愛感を濃くしているだけに、どうか”癒し”が届くように、と願います。

 以上に述べて来た心のありようは、いつも自分の中の“悪”や“邪“を取り除こうと努めている人に達成されてきます。日本の霊性の中の古典的なことばですが、道元禅師は「禅をならふとは己れをならふなり」と言いました。いつも自分をより良くする努めにこそ、打ち込んで、やがて心の風景が変わるものです。「神様がすべてを大切にしておられる」という印象が、自分の心の中で濃密さを増すのです。