仕事も暮らしも軽く担える

http://sadhana.jp/kurashi/13101.html  より

神様からの恵みを刻々受け、神様と響き合う目覚めのうちに生きるようになると、職務や暮らしの営みを、「軽い感じ」で、やり遂げられるようになります。

 物事にこだわらなくなっていますから、歩みを進める行く先へは、”広い道”が開けている感じがします。ですから、「踏み出すのがやっかいだ」という面が減っています。

 仕事の内容や、やり方の選びも、暮らしの営みのまとめ方も、神様との響き合いを底流に保持しながらの、歩みとなっています。そのため、ずいぶんと自分の等身大に近く、無理の少ない歩み方をします。

 一つ二つ、具体的な事例を取り上げながら、眺めてみましょう。

 手紙を書く必要が生まれたとします。それも、社会的なポジションがかなり高く、また有能な方にお願いしたい事が出来、面談の機会を求める内容の手紙だとします。このような手紙を書くとき、人は、背伸びしたり、取り繕ったりしがちです。しかし、十分に目覚めと気付きを恵まれ、聖霊に導かれる度合いが大きくなっていると、真実の自分のままで進めればよいと思え、この課題に対処し易くなっています。伝える内容を心に描いても、さほどおおごとに思いません。あいさつ部分や本体部分の言葉の選び方も、それを紙面に可視化する表し方も、あまり気取りませんし、また過度に体裁を意識したりしません。こうして、わりあい、平易に郵便の発送を済ませます。

 また、別の例を見てみます――人はある時は、多くの人々の面前で、何かの努めを果たさねばならない事態になります。人前で、事を果たすのは、たとえ、緊張に無縁の人でも、いろいろと気懸りが多いものです。……その集まりに加わる人々の中に、“自分がどう受け取られるか懸念がある”、そういう参集者があることもあります。また、自分の資料整備とか、見解まとめが及ぼす影響についても、気遣わねばならない点はいくつか有るものです。また、発声の仕方とか、達意のためのハード面の条件整備にぬかりは無いか、時間配分は大丈夫か、などの配慮が求められもします。――このような務めを果たさねばならないわけですが、ここでも、暮らしの中で観想することを知る人は、この務めにさほど特別なものを見ません。ふだん果たしている仕事と、同じ感じで受け止める傾向が強いです。リキむことなく、淡々と、しかし、丁寧に取り組んで、この務めも通常のものの一つのように果たし終えます。

 “暮らしの中の観想者”は、神様の御手の働きを見ることが多くなっていますし、人々の好意を多く見るようにもなっています。そこから信頼の思いが広がっています。この信頼の心の広がりが、無駄な力を抜くために大きな役を果たして、物事に向かうのに“自然体”を達成させます。“自然体”であるならば、等身大の自分、真実の自分で、仕事に当たる傾向になりますし、暮らしへの取り組みも似たものとなります。

 感情面でも、思い煩いは、少なくなっています。自分の弱点を目の当たりにしても、あるいは、失敗が発生しても、あまりこだわりません。このような、感情面でのさっぱりした安らかさが、日々の営みを「軽い感じ」にさせるのに、また、貢献してくれます。

 こうして、仕事や暮らしの営みを「軽く担う」感じを恵まれます。そして、神様に向かいたい思いが生き生きしていますから、日々、「負い易い」「くびき」ないし「軽い」「荷」(マタイ11,30)を引き受けつつ、喜びがしばしば湧く中を、歩んで行きます。

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