体(呼吸)と祈り

http://sadhana.jp/karada/1100.html  より

13】肌に触れてくる自然の恵みとともに祈る

 まだ、寒気の厳しい季節。風をさえぎった所で、上手に陽光を取り込みます。そこは、冬から抜け出たような、日だまり。その中で、全身に陽光を浴びます。陽光は、私に注がれる神様の愛情のようです。

 気候の良いおりに早朝など、爽やかな空気に身をさらします。肌に触れる空気のありがたさ。それが、そよ風として触れて通ってくれれば、嬉しさもひとしおです。この爽やかな空気やそよ風も、神様の優しさへの感動を招きます。

 強風や厳しい冷気に出会う――神様の真剣さに触れます。

 今度は、水。新鮮でまた豊かな量の水で、顔や体を洗います。今までくすんだ感じであった顔や体の表面に爽やかさが戻ります。そこから、気分までが生き返る感じです。新鮮な水の嬉しさ。尊さ。

 体を洗ったあとも爽快感が続きます。肌に新鮮さを取り戻した感じが続きます。その新鮮さのありがたさから、神様に感謝せずにいられなくなります。

 たっぷりの水量の湯船に全身をひたす。滑らかに肌をつつむ清らかな水。清められ、温められ、包まれる至福な感覚。神様からの賜物に感謝できます。

 「自然」を少々延長してみます。

 肌をつつむ自然素材の布。つまり、下着やタオルや毛布。それが、柔らかでふくよかなときは、素敵です。ロマンチックな気分さえ誘います。神様に感謝できます。

 住まいに取り込まれた木のありがたさ。テーブルが、鉄でもなく、アルミニウムでもなく、ガラスでもなく、木であるとき。撫でてさすっていたくなる時があります。床もまた、石やセメントやあるいは合成の建材でないありがたさ。木で囲まれることは、体と心に、えも言われない安らぎを届けてくれます。神様の優しい手が届いているかのようで、神様に感謝したくなります。

 肌に触れる自然の恵みからは、おもに感謝を神様に捧げて祈れます。

【14】鼻に届く香りとともにする冥想

 匂いや香りを嗅ぐということ、それは、私たちが常に呼吸をし生きているということです。

 視覚や聴覚が理性に結びつきやすいのに対して、鼻で感じることは、理性の領域を飛び越えて、ただちに感覚的・本能的に感覚印象となります。

 良い空気の吸える場に身を置きましょう。・・・・・庭に香りの高い松とか楠とかがあれば、その香りの流れてくるところ。部屋に水仙の花、百合の花、バラの花などが活けてあれば、その香りの届くところ。いわゆる「香料」という人工性の濃い素材でも、上手に生かせるならば、それを用いましょう。

 すでになじみが出来た「体の正しい構え」を用意して冥想に入ります。

 目を閉じ、頭をからっぽにして、呼吸に集中します。鼻の先端と上唇のところに出来る三角形の部分に意識を集中します。ゆっくりと深く息を吸い込み、また吐き出します。

 静かな呼吸に乗ってやってくる香りは、鼻の先から体の芯を吹き抜け、深く魂へと届けられます。呼吸を魂に届かせ、空気の中のかすかな香りを感じ取り、じっくり味わいましょう。

 もし、何も目だって感じられない空気であれば、想像の香りに身を委ねましょう。 子供の頃に草原で嗅いだ草の匂い。強い陽光で照らしつくされた藁の匂い。海に出掛けて嗅いだ潮風の匂い。くちなし・金木犀などの花、りんごやみかんや桃などの果物の香り。人工のものでも、おいしいケーキやクッキーの香り。コーヒーや紅茶の香り。

 香りというものの、奥深さを感じ取りましょう。また、香りの世界のバラエティー豊かなことを感じ取りましょう。

 人の生存の場は、この領域でもその広さ深さに限り無さがあります。私たちの生存は、そういう広さ深さに開かれています。

 金木犀、藤、などの香りを吸うとき、神様のお心の気高さやきめ細やかさをおのずとたたえずにはいられません。

【15】舌の感覚の世界に深まる

  冥想のために、味覚の領域に入ることは、正道を踏み外し易い困難もあります。味覚に対しての人の愛着は、とても強く、冥想するよりも、その楽しみに心を奪われがちだからです。

 けれども、「行」を積み重ねるプロセスにおいて、この感覚領域を除外することは避けるべきです。

 味覚の感覚を、はじめは、自然そのままの飲食物についての感覚から感じ取りましょう。水に、味があります。都会での水はあいにく、薬品の味も交じります。銘水と称される水ならば、さすがに、ほのかな甘みとか、ミネラルふうの奥行きある味を楽しめます。

 人間が調理や加工をせずに舌に載せるのは、果実や野菜です。人は、なんと多くの果実と野菜の味を味わえることでしょう。

 伝統的な、みかん、りんご、桃、梨、柿、・・・・・。最近は、その一種一種において、品種改良されたところから、同種の中にもさまざまな差異を味わえます。甘さ、酸度、しぶみ、硬さ柔らかさ、みずみずしさ、水分の多寡。舌に載る食材の味覚的感覚に深く踏み込みましょう。

 伝統的な野菜を口に入れて味わうことも、人を感覚世界の広さと深さへと誘います。きゅうり、なす、大根、ねぎ、トマト、にんじん、しょうが、しそ、みつば、さつまいも、じゃがいも。それぞれなんと、個性的なことでしょう。しかも、果実の場合と同様、おのおのの種類の中でも、また、微妙な差異がさまざまな広がりを見せます。

 海からの幸を、日本では自然のまま舌に載せることが、幅広く継承されています。何ら人工的な調理の手を加えずに、味わう道がいろいろ存在します。魚、貝、藻類。

 さらに、食材が調理されると、味覚の感覚世界は、いっそう広がります。いわゆる調味料が加えられて、素材自体の味に組み合わされて、いっそう味覚の世界を広げます。この調理されて導き出される味覚は、それを数え上げようとすれば作業は、果てることが無いでしょう。

 舌が感じる感覚も、「わかりきっている」というのは、錯覚です。そこに広がる感覚を、どこまでもどこまでも、追いかけて感じ取ってみましょう。

 その広がりと深みに入ることによって、人が生きる世界の広がりと深みに、あらためて驚嘆しますし、畏敬の念さえ湧きます。

コズミックホリステック医療・教育企画