体(呼吸)と祈り

http://sadhana.jp/karada/1100.html  より

【10】耳の感覚による冥想(音を聴く)

 耳という体の器官が、導いてくれる冥想の深みを目指してみます。

まず、姿勢を整えます。その後、頭を空にし、何も思わず何も考えません。

そして、耳に届いてくるすべての音を聴きます。好悪を感じないようにして、すべて受け取ります。頭に雑念が湧いたら、また心に感情が湧いたら、それに気付くや否や、すぐに感覚の感じ取りだけに戻ります。

 身近なところからの音、遠い彼方からの音、その半ばからの音、すべての音を聴きます。

 「あれは、何の音」「これは、何の音」というような、知性的理解に向かわないようにします。ただ、音声を音声としてだけ聴きます。

 ただ、音声を音声としてだけ聴けば、不思議に、「うるさい」「不快だ」「落ち着けない」などという感じが減ります。そして、さらに、心を音に開きましょう。「きらいだ」「逃げたい」などと思わないで、どの音もありのまま受け止めることを続けましょう。

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 人が生かされている場の感覚が広がります。ふだん自分が生きている場の感じ取りが、どれほど部分的な偏りの中にあるか感じてきます。

 無数の“いのち”が営まれています。際限無い種類の“いのち”が営まれており、私という人生は、その際限無き“いのち”の只中で、息づいています。

 そして、それらのすべての“いのち”と微妙な関わりにある私の“いのち”です。

“いのち”の新しい感じ取り――そこから、神秘的な世界に導かれる可能性も待っています。

【11】耳に届く自然の音とともに祈る

 豊かな自然の中に自分を置きましょう。

せせらぎが流れるほとりであれば、そのせせらぎの響きに聴き入りましょう。水の流れが奏でる無心の響き。かわいらしく、やさしげに、語り続けるかのように。そして、それは、止むときなく続きます。神様からのやさしい贈り物です。

 丘や野原で、風の歌を聴くこともできます。こちらは、規則なく気ままに、歌ったり止んだり・・・・・。草の葉や木々の葉と戯れては、葉ずれの音を届けます。中空を通り抜けて、神秘的な、空気だけの音になることもあります。囚われのない自由な歌い方に、心が広がります。神様の自由闊達さを感じることができます。

 谷あいや、山の麓などで、大風に出会うこともあります。怒涛のように、うなりのように、巨大なエネルギーが繰り返し通り抜けます。神様の全能を思わせられます。

海辺で、響くのは波の音。日によって、激しいものであったり、穏やかなものであったり、種々に様変わりします。いずれの場合も、息の長さと、無限の繰り返しは、波の音の特徴。神様の尽きないいのちを思います。

 小鳥の鳴き声は、限りない種類。鶯も、ほととぎすも、とびも、すずめも、ムクドリも・・・・・。神様の愛情・情愛の細やかさを思います。

 真夜中の沈黙や、夜明け前の静けさも、また、心を深みへと導いてくれます。

 自然の只中に身を置いて、音が導いてくれる独特な世界を味わいましょう。その世界が、しばしば、創造の源の御方、今も宇宙を治められる御方へと、私たちの心を導いてくれます。それに導かれながら、心を神様に向ければ、心は引き上げられて、賛美したい思い、感謝したい思い、奉仕したい思い、至らなさを謝罪する思いなどの、祈りが湧きます。


【12】肌に触れる感覚世界に深まる

  日本の季節の移り変わりの微妙さ。そこから肌に感じる感覚も、どこまでも研ぎ澄ます可能性があります。

 冬の朝の出勤時。顔に触れる空気に鋭さや痛みがあった冷たさが、やや柔らいだといえば、真冬が過ぎたと感じます。さらに、季節が進みいち早く春を感じるのは、洗面のときの水がぬるんだと驚くとき。木々が灰色のままでも、もう冬が去りつつあるのです。

 冬や春、肌を包む陽光は嬉しいごちそう。めいっぱい浴びていたいと思います。この陽光も、真冬の日なたぼっこと、春のそれとは大違いです。春になれば、光の強さや暖かさは、肌を押す圧力があるとさえ感じられるうえ、うっすら汗がにじんだりします。

 湿気が多い日本ですが、乾燥し過ぎた日々には、雨降りで空気がうるおうのが、かえって心を落ち着かせてくれます。

 空気の流れは、大きな規模であれば、「風」として感じます。しかし、屋内でも、空気が流れています。なるべく多くの機会にそれを感じ取りましょう。部屋の中で、小さな隙間から漏れる空気の流れ。廊下を通う空気の流れ。

物に触れれば、或る物は意外に冷ややかでびっくり。また、或る物には温められた余熱のぬくもり。金(かね)目のものは、持ってみて重さに驚き、プラスチック類は、見かけに比べた軽さに驚きます。

 人工の物にも私たちは、たえず肌の感覚を感じ取っています。触れるのが、衣類であるか、本であるか、食器であるか、カバンか、電話機か、吊り革か、ソファーか・・・・・それら一つひとつの、冷暖・乾湿・硬軟・滑らかか粗いかを、感じて暮らしましょう。またそれぞれの物の、その時々に肌触りが変わることも、感じて暮らしましょう。

布に触れる機会も多いものです。やさしく肌になじんで来る布もあれば、肌にきつい布もあります。また、布は洗濯するしないで大きく変わります。洗濯の後、カラカラに干された衣類を身に付けるとき、シャッキと肌に感じられる爽やかさ。タオル類もまた、よく洗われよく干されたふくらみのある感じの豊かな気分。

 食事のおりのテーブル。うっかり、何かの水気のものが飛び散ったあとに触れる不快さ。テーブルがきよめられているのに触れる快さは、嬉しくなります。

 外出して――。道を歩くおりに、足の裏に伝わる道の表面のありさま。強く反発してくるようなアスファルトやコンクリート。たまに、土の露出する所に踏み込んだときの柔らかさ。繁華街の商店街や公共施設などでは、滑らかにし過ぎかと思われる滑りやすさに、足元がかえって不安になります。(人は地面を蹴って歩いていますが、その人間の足の営みに険しく反抗するような石類と関わり続けるならば、人の心も柔らかさをそこなわれると思えます。)

 足元がステキで楽しくなるのは、秋の山道。計り知れない量の落葉が続く道を歩くときの、弾力。そしてまた、カサカサと踏みしだかれる乾いた葉のこわれる感じ。

肌に感じられる感覚は、人に強い影響を与えます。この感覚領域においても、多くをしっかりと感じ取ることを重ねて、人生に深まっていたいものです。この領域の感覚の深まりの有無によって、人生そのものへの感じ取りや、人の心の豊かさに大差が出ることでしょう。

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