仏教の死生観と心理 療法その2

http://www.sapporootani.ac.jp/file/contents/989/8103/kiyo_tan40_01Oota.pdf#search=%27%E5%BF%83%E7%90%86%E7%99%82%E6%B3%95%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E9%81%8E%E7%A8%8B%E3%81%AF%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9%E9%81%8E%E7%A8%8B%27  より

2.死の意味

「何のために生きるのか」とは,宗教の根元的な命題である。

デンマークの哲学者キルケゴール,S.(1813-1855)は,その代表的著作『死に至る病』の中で,「死」の二つの意味に触れている。

人間的死:一切のものの最後

宗教的死:一切のものを包む永遠なる生命の内部における一つの出来事。無限に多くの希望が死のうちにはある。しかしこの希望は人間が人間である限り知るに至らないという(弁証法的)悲惨の中にある「人間的死」とは,一般的に人間が考える死のことである。死は虚無であり,それ故に自己の一部としては受け容れ難い。生きながらにして死の世界に近づくことは,耐え難い苦痛である。死を除外した人生を生きるのが,人間一般のありさまだと考えるのである。

ところがキルケゴールは,その宗教的な立場から「キリスト教的死」と呼んで,それは「一切のものを包む永遠なる生命の内部における一つの出来事」であると言う。個人の死は,長い生命活動の中における一つの出来事に過ぎないものであって,命そのものは,生まれる以前も死んでから後も,あり続けると考えるのである。そしてさらに,「死の中には無限に多くの希望がある」と言う。

一度死ねば二度と死ぬことはないのであるから,自己の死を境に我々は「死のない世界」,「死なない世界」,「永遠の生命の世界」を獲得することになり,それは希望そのものだというわけである。

日本の浄土教教学においては,これを「往生浄土」と表現する。「浄土」なる,浄らかな仏の国土に,往きて生まれる,すなわち再生すると捉える。死を機縁として永遠の安楽世界に再生させられるのであるから,死は恐るに足りないということである。

しかしキルケゴールは,死が希望であるかどうかは,人間が人間である限り知るに至らないとする。それは一旦死んでみないと分からないことであり,未だかつて死後,永遠の安楽世界に生まれ変わり,再び人間世界に蘇生して,死後の世界は本当に希望そのものであったことを教えてくれた者は,一人もいないということである。

キルケゴールは人間にとって「絶望は死に至る病である」とした上で,その絶望から立ち上がる術は,徳を積むことではなくて,信仰であると断じる。

天国であれ浄土であれ,その実在は信仰によってのみ明らかとなるということである。

いま臨床の現場に,安易に宗教的信仰の議論を持ち込むことは許されない。

しかしながら実際に様々な意味での死の危機に直面しているクライエントに向き合う時,臨床家自身が何らかの形で普遍的な死生観・人間観というものを保持していないと,自身はおろか,クライエントを死の淵から呼び戻すことは不可能ではなかろうかと思うことがしばしばである。

これほど苛烈に反応性抑ウツ神経症による自殺が蔓延する現代,それに向き合う臨床家や教育者の軸足の一つとして,死生観教育の重要性を切に思うところである。

ちなみに仏教の死生観を一言でいえば,「生死一如」がそれに当たるであろう。大谷大学の初代学長であった清沢満之(1863-1903)は,ミニマム・ポシブル minimumpossibleを標榜し,生きるための資源を最小限に切り詰めた求道生活の中で,生のみが我等にあらず。死もまた我等なり。我らは生死を併有するものなり。我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。

『絶対他力の大道』という境地を獲得した。生死への固執を破って,生死を越えた大きな命を生きることで,生死一如なる死生観に立脚したと言えるであろう。

3.人生の四季 ―얨如来・往生の人間観・死生観

人生を四季で捉えるという発想は,平均寿命が 65歳を迎えたアメリカで,最初,発達心理学者のエリクソンErikson,E,H.(1902-1994)らが提唱し始めたことである。

一方日本では,ペスタロッチ賞を受賞した教育者東井義男(1912-1991)が,一生を1日 24時間に置き換えて,荒れる若年層に向かって訴えた。日本人の平均寿命が 80歳を迎えたころである。「20歳といえば,それを一日 24時間に置き換えればまさに午前6時であり,これから1日が始まる準備段階のようなものである。どうかまだまだ修正の効く永く希望のある人生に向かって,自暴自棄にならずに生きてほしい」,と繰り返し述べた。

筆者は今それを,「人生の四季」図として作図してみた。

図表の左右は,時間的にそれぞれ生前・死後の世界を表し,中間は思春期から成人期,中年期としての思秋期,そして人生の晩年としての老年期を表す。

図表の上下は現実社会へのコミットメントを心的エネルギー(リビドー)の変動という観点から表した。下方は夜に象徴され,上方は昼のイメージといってもよい。夢やファンタジーという現実離れのした無意識に支配されるのが夜であり,そこは聖や悪など,ユング言うところの「元型 archetype」のすむ世界である。この世から見れば,「異界」ということもできる。上方は現実原理の支配する,意識的な二元論的世界を表す。

仏教ではあらゆる存在が出現することを「如にょ来らい」と言い,消滅することを「如にょ

去こ」と表現する。「真如より来生する」

また「真如に去就する」の謂いである。サンスクリット語のタターガタの漢訳であり,直訳すれば「そのようにやって来た」あるいは「そのように去った」という意味である。

物理的に考えても,我々の身心は質量保存の法則によって,大宇宙に遍満する有形無形の存在が,様々な原因と条件によって無常(変化し続ける)・無我(固定的実体ではない)のままに集合離散を繰り返している状態であるといえる。それは,ある日忽然とこの世に出現したのではなく,縁あってこの世に関係を持つようになったのであり,それを仏教では如来という。そして縁が尽きればまたもとの世界に帰って行くのであり,その状態を如去という。

このような大原則に目覚めた状態のことを,如来の同義語として「仏」と呼ぶのである。

仏教詩人宮沢賢治(1896-1933)は,我々がこの世に生み出されたその目的を,まずもろともに輝く宇宙の微塵となりて,無方の空にちらばらう「農民芸術概論綱要」と表現する。

この世に生まれた第一の目的は,自分が皆と同じくかけがえのない大宇宙の構成要素であることに目覚め,地上においてその役割を果たすべく,各々が個性の勝れる方面においてやむなき表現をなすことである,というのである。

その意味で本来平等である,預かり物としての命を,生涯生かし続け,死後は再び真如の遍満する浄らかな仏の国土に往き着くのである。