http://www.sapporootani.ac.jp/file/contents/989/8103/kiyo_tan40_01Oota.pdf#search=%27%E5%BF%83%E7%90%86%E7%99%82%E6%B3%95%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E9%81%8E%E7%A8%8B%E3%81%AF%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9%E9%81%8E%E7%A8%8B%27 より
3.3終末期における「死の受容」の実際
対象喪失と悲哀の心理過程の研究は,臨死患者の死を受容する過程の研究にも応用された。『死ぬ瞬間』(読売新聞社)で知られる精神科医キュブラー・ロス Kubler-Ross,Eの死に臨む患者の臨床経験も,悲哀の仕事に対するアプローチである。
彼女は,死を予期した患者の悲哀の仕事を,
①死を予期するが,それを否認し隔離する段階,denied
②怒りの段階,anger
③死を受け入れるための取引を試みる段階,bargaining
④絶望し,抑鬱的になる段階,depression
⑤以上を繰り返しながら最終的に死を受容する段階,acceptanceというプロセスとして記載している。
目前の死から逃れられないという事態を突き付けられた患者は,心的エネルギーが極度に低下して抑ウツ状態depressionに陥り,時間的に長短の差はあっても,治療も見舞いも拒絶して,孤独な時期を迎える。この途中で亡くなる者も多い。
この時期を経て,次なる「受容 acceptance」の時期に至った者は,「自分が死ぬということは間違いのない事実であり,自分が死を受け入れなければ,他者がこれを担っていくことはできない。今日まで自分を見守ってくれた家族たちに対しては,礼を言い,見苦しいところを見せずに,自分の死を受け止めていきたい」とする心境の変化が見られたという。
診断的にみると,すでに亡くなっていてもおかしくない人間が,最期の心境を告白してから,医学的には説明のできない奇跡的な延命がなされたという報告がある。
キュブラー・ロスは,死を受容して亡くなった者の心境を表現するならば,「デカセクシス decathexis」とし呼べないという。「解脱」を意味するこの言葉は,仏教で言う「涅槃 nirv썚ana」とほぼ一致する。世のあらゆる葛藤から解き放たれた,崇高な姿と言えるであろう。
死の受容とは,究極の悲哀の仕事のことであり,キュブラー・ロスの示したデカセクシスとしての終末観を,臨床家のみならず知っていることが望まれるのである。
4.仏教の理想的人間観と心理療法
臨床家に求められる人間観は,仏教の立場に立って言うならば,「智悲円満の行人」と表現される。それは,「智慧を備え,慈悲を備えた自主人」のことであり,韓国の宗教教育学者朴先栄は,その著『仏教の教育思想』(国書刊行会)において,さらに「明るく温かみのある主体的人間」とそれを判り易く読み替えている。それはまた,「冷静な頭脳と温かい心 cool head & warm heart」に満たされた者であれということであり,医学倫理教育においては「scientificdetachment & human closeness」と表現される。すなわち正しく病巣を見分け
る「化学的分離の態度」と,患者の心に寄り添う「人間的密着の態度」の両方がなければ,医療は成り立たないというのである。それはまさに仏教の人間観に該当するところである。
仏教の理想的人間像とは,いうまでもなく「仏」そのものを指す。
浄土教の本尊としての「阿弥陀仏」は,その別称として「無量光仏」あるいは「無量寿仏」といわれる。阿弥陀仏の働きを,「光寿無量」というところに見るのである。
「光(光明)」とは,サンスクリット語では vij썕n썚anaといわれ,それはまた「真実の智慧」を表す。それゆえ智慧のないことは煩悩と同義の「無む明みょうavij썕n썚a」といわれ,それは先行きの暗さに通ずる。すなわち光明とは,我々の向うべき先を明るく指し示す究極の智慧を意味するのである。
「寿(寿命)」とはまた,永遠の過去から我々を生かし続けてきた仏の慈悲の象徴である。「無縁の大悲(無条件の大慈悲)」といわれる無量寿仏の働きは,永遠の過去・無限の彼方から我々一人ひとりをどこまでも生かそう生かそうという働きそのものを指す。
智慧と慈悲の働きはまた,明晰な「裁断」の機能としての父性性と無条件の「受容」の機能としての母性性に象徴される。
仏には,本来,両性倶有的な機能が期待されているのであり,臨床家にはそれぞれの個性や臨床技法に応じて,智慧と慈悲の使い分けが期待されるのである。
以上,臨床家にとっては,普遍的な死生観の保持が必須であることを述べてきた。臨床家の養成には,その軸足のひとつとして死生観教育が不可欠なのである。
最後に「軸足」ということでいえば,エリクソンが提唱した「基本的信頼感 basictrust」は,臨床家自身が保持するべき基本的な態度と言えるかもしれない。それは,「無条件の受容」に象徴される母子一体的状態を通じて,我々が獲得する自分を取り巻く時空に対する肯定的な信頼感情のことである。
「智悲円満」と言いつつも,臨床家がクライエントと対面するその最初は,母性的・受容的な慈悲の側面が前面に出る方が好ましいようである。
我々自身がこの世に生れて来た意味を,自覚的に把持する必要性を感ずるところである。
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