高天原の侵略 神々の降臨 ⑪

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より 

神将 神武天皇

 

百済の「三国史記」には拂流と温祚の兄弟による百済建国伝説がある。その兄は失敗して死亡し、弟が成功して王朝の始祖になる説話である。そのストーリーは、神武と五瀬の話と同じといってよいほどに似ている。

 原ヤマト国の畿内への数次の東征の著名な史実を核として、反影・成立したのが神代史である、よって史的神話と名付けたと田中卓は説く。しからば神代史の部分の古い伝承は何もなかったのだろうかこの点疑問である。

 神武の諡号「カムヤマトイワレヒコ」は、大和の磐余(桜井市)の事とされているがこれを地名ではないとする説も提唱されている。イワレヒコは「岩生あれ彦」で英雄を意味する。三国史記にも石の中から王子が生まれた話がある。

神聖なものを意味する「カム」は後に付されたもので、「ヤマト」は岩生あれ彦の元義の記憶が薄れた頃にイワレは磐余の事とする誤解が生じ架上された。この和風諡号が作られたのは継体が磐余の玉穂宮に都して、イワレヒコのイワレが大和の地名磐余と同一視されるようになった頃であろう。(古代王朝交代説批判)

 纏向遺跡は大きな遺跡であるが、三世紀頃に突然のように現れたとされている。この纏向遺跡を作ったのは考古学的成果からみて、吉備の勢力に間違いないというのは武光誠である。

総社市を中心に分布する特殊器台と特殊壺が、纏向遺跡から出土している他に、赤色の顔料が共通している事をその論拠に挙げている。武光はさらに論を進めて、この吉備勢力の首長が大和に移動して朝廷を開き、神武東征伝説が作られる元となったとしている。

黒岩重吾は三世紀末に加羅諸国の勢力が渡ってきて、北九州勢力と協力して日向王朝なる物を樹立してこれが後に難波へ移って来たと言っている。奈良県の弥生時代中期の遺跡は47ヵ所見つかっており、前期に比して2.5倍増になっている。また後期の遺跡は72ヵ所で見つかっており、中期の1.5倍となっている。(奈良県史)

大和の一口がどんどん増えていった事が窺える。日本には大陸からの渡来が縄文期、弥生期を通じて絶えずあったと思われる。

これらの人々は、より生活しやすい土地を求めて東へ東へと移っていった。時に先住民との混血を繰り返し、やがて日本人の原型が形作られていった。いわば海外からの渡来と東方移住は日本の歴史と文化であったのだ。

 神武天皇については架空説、実在説、年代が違う、東征ではなく東遷だったなど諸説が頻々と出されている。三世紀末から畿内に起こった古墳文化は、北九州の青銅器文化と密接な関係があるとする学者もいる。

高地性集落の消滅の後、畿内に前方後円墳が現れていることも多いに示唆に富んでいる。畿内の銅鐸文化が突然消滅し、多くの銅鐸は地下に埋納されたことも関係ないこととは思えない。

 その理由の一つとして甕棺墓には封土があるが、これは古墳の盛り土の原型と考えられるという。また甕棺墓には畿内の古墳と違って鏡・剣・玉の三種がセットになって埋葬されているものが多く、皇室の三種の神器とされるものに一致することもあろう。

 三雲遺跡や須玖遺跡の集落が突然消滅したかの様になっている様も、北九州文化が機内に移ったと考えると辻褄が合うことになる。しかし突然のように銅鐸が消えたのは古墳文化が広がって社会状況が変わり、祭祀に使われていた銅鐸は必要がなくなったと説く研究者もいる。

森浩一はヤマトの古墳文化は突然出現したとする。ヤマト地域で弥生時代前期から連綿と変遷を重ねてきたものではない。政治的あるいは宗教的な激変があったことが、十分考えられると述べている。(記・紀の考古学)

 神武が実在していたと考える人の中には、その年代を西暦100年ころ或いはさらに数十年遡ると唱えるものがある。一見妥当性があるようにも思えるが、石母田正は神武東征の頃に歌われた「久米歌」を四世紀のものと言っているが如何なものか。

青銅器文化の原料は、朝鮮から入手して弥生中期に北九州において発達したものであったが、畿内・山陰に広がった銅鐸文化は弥生後期である。

この時代差を機内勢力が伸長して、青銅器の鉾や剣を鋳造しなおして銅鐸にしたとみるのか、あるいは機内が日本海などを経由して独自に輸入したとみるかによって全く違ったものとなる。

 井上光貞は畿内にある甕棺墓は幼児を葬ったものが多いが、九州では甕棺・支石墓・箱式石棺などに成人を葬っている。成人のために墳墓・古墳・を作る畿内の風習の起源は北九州に求めるべきであろうと言っている。

 箱式石棺や遺骸と一緒に丹朱を使うことや、貝製腕輪を作ることもやがて前期古墳に受け継がれたとする。

 更に考古学上の事実から見て、弥生後期に北九州の政治勢力が東に移動して機内に勢力を構えた可能性は、極めて濃厚であると言いきっている。

森浩一は「弥生時代の大和には墓の中に鏡を入れた例は一つもない。

まして鏡・武器・玉・武器などを一緒に墓に入れるなどという風習はないとして、以下の鏡出土のデータを示している。

 弥生時代の九州     

平原古墳    39面

三雲古墓    35面

須玖岡本    32面

南小路古墓   22面

井原古墓    21面

弥生時代の奈良  0面

古墳時代の奈良

椿大塚山古墳  36面

佐味田古墳   36面

新山古墳    34面

丸山古墳    31面

古墳時代に入り、突然鏡や勾玉や鉄製の武器などが入ってくる。これに対して九州、特に福岡・佐賀では弥生時代の中頃から、墓に鏡と玉と銅や鉄の武器を入れる風習があった。これは近畿より三百年も早い。

 したがって弥生時代の九州にいた支配者層が、東に移って来てヤマトの支配者になり、前方後円墳を作る流行が始まったという仮説が成り立つといっている。

(日本神話の考古学)

 宇佐神宮託宣集によると大神氏が大神宮、宇佐氏が少神宮に任じられたとある。大神比義は数々の奇跡を起こし、その年は五百歳とも八百歳とも言われていたとある。

宇佐氏の伝承・記録によると、比義に神宮の実権を簒奪されたかの如くに論述している。長大な年齢伝承は上代の頃の事であるので、常識に掛からないのは仕方ない事なのであろうか。人間離れした比義の霊力・神通力が次第に神格化されていった結果なのだろうか。

 宇佐氏の口伝によると、神武の舟軍は豊後水道から佐伯湾に入り番匠川に駐留しようとしたが、海部郡のタジヒナオミを首長とする兎狭族の激しい抵抗にあって上陸できなかったという。

 そこへ漁師のウズヒコという者が、兎狭族の宗主宇佐津日子に帰順を説得し、神武軍の折衝の結果、兎狭族の本拠に神武を迎え、軍兵は宇佐川の畔に駐留することになったとしている。そして天皇と侍臣には住居と食事を提供し、軍兵は宇佐平野を開拓して屯田制とすることにした。

 宇佐津日子は妻の宇佐津姫を神武の寝所に侍らせ、帰順の意を表した。これは当時の風習として、友好を保つ最高の歓待であった。宇佐津姫は神武の子を宿して、宇佐津臣の尊を産んだ。

 紀が編纂された八世紀に、宇佐家はこのことを憚り宇佐津姫は勅命によって、侍臣の天の種子の尊に嫁がせたと捏造して公表した。その為に紀ではその通りに記述したのである。天の種子は文字通り、天孫の種を表したものである。宇佐家系図にもその通りに記載してある。

 宇佐津臣の尊は臣の姓を授かって臣籍に降下し、稚屋と呼ばれ宇佐津日子の尊の孫として系図に記載された。神武は宇佐に四年のあいだ、留まりさらに東征するときに宇佐津姫を随伴した。

 筑紫の岡田宮に一年、安芸の多祁理宮に六年留まって巫女として奉仕し、この地で神武の子三諸別命を生んでいる。まもなく宇佐津姫は病気になって亡くなり、神武もまた一年後に病気により死亡した。

 遺体は宇佐津姫を葬ったと同じ伊都岐島の山上の岩屋に葬ったという。いまの広島県の厳島(宮島)である。宇佐国造家の伝承の山上の岩屋とは、この地の弥山頂上に幾重にも重なっている大岩石の下ではないかと考えられる。厳島神社の祭神は宗像と同じ三女神である。

 先の椎根津彦の件は、早吸の門を豊予海峡に比定したことを前提にした解釈である

が、早吸の門を明石海峡とみる説も少なくない。田中卓はこれを明石海峡として、椎根津彦は大阪湾を支配する、海部の首長であったとしている。

 畿内には 饒速日または 饒速日と大巳貴の連合政権があり、長髄彦が陸軍の将軍であり、椎根津彦は海軍の将軍であったとみている。椎根津彦はいち早く神武に帰順し、海路の案内をした功績により後に大和国造に任じられたという。このことは大倭氏の古伝であった。

また籠神社に伝わる国宝の系図に現れる「倭宿祢」は椎根津彦のことであろうと推測している。なお「大倭神社注進状裏書」には「椎根津彦が難波の海で釣りをしていると、磐樟船が流れて来て光り輝いていた。

その宮代を武庫浜に建てて磐樟船を蛭子の神体として奉斎した、これが廣田西宮三良殿である。」との記事がある。田中はこの蛭子は「蛭」ではなく、日女ひるめに対する日子ひるこであり、すなわち饒速日のこととしている。饒速日の「饒」と「早」は美称であろうという。蛭子を御子の数に入れると、天孫系の主流が物部氏に移ってしまうことを、嫌ったために作為したことであると論じている。

紀に「名草戸畔を誅す」と、出ている名草戸畔は名草姫の事といわれている。名草姫は和歌山市の中言神社に祀られている。海南市には神武と名草姫との戦いの伝承が残っている。名草姫は神武軍に殺され、頭、銅、足が切り離されたので、宇賀部神社、杉尾神社、千種神社にそれぞれ葬ったという。

また熊野市二木島も、暴風にあった神武が楯が崎に上陸した、里人は難破した神武たちを必死で助けたという伝承を伝えている。室古神社と阿古師神社には、そのことを伝える競槽の神事が今も残っている。(日本建国史)

 神武は二世紀の中頃の人物であった。神武が亡くなった後は兄の景行天皇(原文のまま)が継承して九州を親征したとの説もある。(古伝が語る古代史)

 出雲の富家の伝承では神武は七世がいて、最低でも防府、河内、熊野の三か所で死んでいるとしている。防府で死んだという話は、宇佐家の伝承の安芸とさほど離れていないことから何らかの関連性を窺わせる。神武は恐らく安芸で死亡したのだろう。

 記の説話では神武は熊野で大きな熊に出会って失神したとしている。これに対して富氏の伝承は単に病気で死亡したとしている。

これに傍証となる話やエピソードを付加しておらず、この素朴な伝承が却って信憑性を伝えてくる。また伊都岐島の山上の岩屋に葬ったという説話にも、何らの作為が加えられていないことからも口伝の確かさが窺われるようである。

 石上神宮の鎮魂祭では、神職が神武は熊野で亡くなり、このタマフリの神業で蘇ったという。このことは神武は死んだが、後継者が即座にその名前を世襲したということではなかったか。

 宮崎県高原町の霧島六社権現の一つ狭野神社は、日向三代の夫婦神と神武を祀っている。佐野神社の近くに皇子原神社という小さな祠があり、ここで神武は生まれたという。狭野には神武が生まれた場所を示すという「産場石」があるほか、胎盤を捨てた血捨之木という字名がある。

 東征の時に渡った「佐野渡」馬を献上した「馬登」や見送りをした「鳥居原」の他に皇居があったという「宮之宇都」の字名もある。さらに高原町には皇子原や皇子滝などの地名もある。(天皇家のふるさと日向を行く)

 神武が熊野で死亡したとする説は、上記のように幾つかあるが前之園亮一の次の論証も、関連性を持つものとして考証の列に加えてみたい。

記によると日向から熊野までは「磐余彦」と呼ばれ、熊野から大和までは「天つ神の御子」と呼ばれ、即位後の皇后選定の物語では「天皇」と呼ばれている。このことは元々無関係の三つの物語を繋ぎ合せて、神武の一連の物語が作られたことを示している。本来的な伝承は「天つ神の御子」と呼ばれる神武の熊野踏破と大和平定の物語であろうという。

 三つの物語に分解することは鋭い指摘のように見える。記の記述では神武が熊野村に着いた時に、大きな熊が現われて神武と兵士たちは皆気を失ったとある。神武の軍勢は深い森林の中で、敵の奇襲攻撃を受けて壊滅的な打撃を被ったのであろう。記はこの段で「磐余彦は忽ちにして気を失った。」と書き、すぐ次の文章からは「天つ神の御子が伏したまえる地にいたりて献りし」とその呼称を変えている。

ここから後は「磐余彦」とは記さずに「天つ神の御子」と呼んでいるのである。すなわち神武は、ここで死亡したとする伝承があったことを示しているのであろう。

高天原とよく似た地名の高原たかはる町(九州)は、どうしても気になる存在ではある。実際に同町の岩瀬川の近くには、高天ヶ原神社不動院が鎮座している他、小岩屋の地名が残っている。

 隣接する小林市には岩戸神社や大王の地名がある。また岩瀬川を北に渡ると野尻町になり、高都万神社、高妻神社、三ケ野山などの神話に関するかと思われる名前がある。岩瀬川を下ると大淀川になり橘の小戸に出られる。

 高千穂町には天の岩戸神社、天の岩屋、高天原(遥拝所)岩戸川、雲海橋、天の香山、真名井の滝、天の安河原があり、注文が揃いすぎている嫌いがある。後世に付会された匂いのする高千穂よりも、高原町の方に素朴な魅力を感じてしまう所以である。

 鹿児島県国分市に宮浦神社があり、ここは神武が東征前に宮としていた所とされている。

またこの地は神武四兄弟が東征に出発したところという伝承がある。ここから出発し、日向の美々津の立磐神社に寄ったのではないか。(天皇家のふるさと日向を行く)

 後に梅原猛は「出雲神話を問い直す2」で次のように述べている。「神々の流懺」を書いた時には出雲神話は、それにふさわしい遺跡がないことで虚構であるとの視点に立っていた。

だがその後、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡が発見され、後者では三十九本の銅鐸が発見された。この事実は先の視点の再検討を迫るものであった。そして「天皇家のふるさと日向を行く」を書き、日向神話は歴史的事実と考えざるを得ない幾多の証拠を見つけた。

それらの日向の遺跡などは、間接的に神話を裏付けるものであり、日向神話が書かれた後に作られたものとは到底思えない。

 日向神話が歴史的事実を反映しているとすれば、当然出雲神話もまた歴史的事実を反映しているのではないかと思わざるを得ない。私が多くの古代史学者と共に信じていた出雲神話を、虚構とする前提そのものが誤っていたのである。誤りはできるだけ早く改めなければなるまい。

 として潔く自分の誤りを認めたのである。誤りかどうかは兎も角、中々自分の誤りを認める学者がない中で、この態度は誠に立派なことと思う。

 富氏の伝承によると「神武は九州から攻めて来て和解すると見せかけては出雲人を次々と殺していった。まことに陰険であり残忍であった、王の富の長髄日子は傷つき、大和を神武に譲って出雲へ退き出雲で亡くなった。出雲人は大和、出雲、北陸、関東、東北などに分散させられた。神武から数代の王は反乱を防ぐために、出雲の王家の娘を妻に迎えた。」としている。

 高天原を、後に邪馬台国となった筑後の山門郡に比定する説もある。その地は筑後川の下流域であって皇室の祖先はそこから進発して、日向西臼杵郡の高千穂に降臨した。山門に残った勢力が後に邪馬台国を建国した。邇邇芸の降臨は神武の東征の史実の神話化に他ならない。

 高千穂は東征の経路にあたり、そこには熊襲の豪族が住んでいたが神武に帰服したとみる。そのころ畿内は第一次東征軍の饒速日と大巳貴族の連合政権によって支配されていた。

 その勢力は南は紀伊、北は丹波にまで及んでいた。出雲族(天の穂日の後裔)の本拠地は三輪山を中心とした畿内にあったが、神武の侵入の頃に出雲へ移住しそこに勢力を張った。出雲にはオミツヌの神の勢力があったが、出雲族はこれを駆逐し、あるいは習合し勢力を拡大した。(日本国家の成立と諸氏族)

 昭和初期に文部省は記紀や延喜式に基づいて、神武の聖跡を調査しその伝説地に顕彰碑を建設した。

だが高千穂の宮や足一騰宮は、調査の結果徵證十分でない為、遺憾ながら聖跡の箇所を決定し難いとして、顕彰碑を建てることを見送った。顕彰碑を建てた所が、19か所、決定を見送った聖跡は12か所である。(文部省神武天皇聖跡調査概要)

神武東征譚は史実ではなく、何人かの伝説的人物の説話を接合して、一人物の事績としたとするのは松前健である。

神武の名前も三人の人物の名前を重ね合わせている。イワレは磐余の首長を指し、狭野命、若御毛沼命、豊御毛沼命は熊野と結びつく名であり、彦穂穂手見は山幸彦の名前である。松前は本来のイワレビコに他の二人を結びつけたのだろうと言っている。神武の熊野山中での失神の話は、熊野の神の死と復活の霊験説話であるとも論述している。

 神武伝承は朝廷が日向神話を採用した後に、隼人の墳墓やゆかりの地を朝廷に結びつける必要によって生み出された物語である。

 松前はイワレビコヤや饒速日の伝承の成立は、六世紀中葉の継体朝頃であろうとする門脇禎二の説を肯定しているようだ。

 イザナギの矛によって生まれた大八島国であるが、九州が銅矛圏であるのに対し、大和は銅鐸圏であるが銅鐸の説話が一片もないのを不審とするのは、古田武彦である。

 古田は淡路島が国生み神話の故郷であるとする説にも異論を唱える。

淡路島は銅鐸と銅矛の混合だから銅鐸を主とした説話になって然るべきと考える。紀には別の伝承・一書が58個も出ているが、神武以降はぴたりとなくなる、(一に云うという形式のものは現われる)このことは紀の成立以前に、11個くらいの神話を記録した古典が成立していたことを物語っているという。

 結論として天皇家の主導する勢力が、全く祭祀の異なる銅鐸勢力を一掃・根絶せしめたとしている。(盗まれた神話)

 さらに古田は畳みかけるように、神武と兄のイツセが協議した宮殿を筑前としてこの二人は統治していたとは記されていないから、辺境の豪族の一人として筑前にいたという。

これは受け入れられる鋭い考証といえる。その地で二人は自分たちの思うような統治・政治ができず行き詰まりを感じていたのかもしれない。主流派ではなく少数派であった可能性もある。

 三世紀は邪馬台国の時代であるが、古田武彦は三世紀から四世紀への倭国の連続性・同一性は疑えないとしている。倭国の中心が筑紫から大和へ移転などがあった場合、積年のライバルである高句麗がこれを知らない筈はないという。知っていれば好太王碑の文面に表れている筈だと述べている。更に倭国の宗主国にあたる南朝、その東晋朝の史書にもそのような記事がないことを挙げている。

 森浩一は神武陵と銅鏡について次のように述べている。

 「7世紀には磐余彦の陵があったのは事実とみられる。好太王の碑から実在性は別として、五世紀には始祖王として想念されていた。王の実在性が想念されるにつれて陵が移築か新造された。

 いわゆる神武陵は高句麗の始祖王の影響を受けて新造されたと考える。銅鏡副葬や大量生産技術や超大型銅鏡への固執なども、北部九州西地域とヤマトとは直線的に結ばれている。」(記紀の考古学)

 神武が攻略した大和の磐余(石村)の旧名は、「片居」或いは「片立」と呼ばれていた。神武が攻略後はその土地の名を磐余に変更した。川崎真治はヤマトやイワレという言葉は弥生時代からあったもので、紀にある記事は真の過去を伝えていると受け取って良いという。

 さらに川崎は言語学を駆使して、神武は犬をトーテムとするアーリア系狗加であり、馬をトーテムとするアルタイ系馬加の現天皇家とは血がつながらないと論じている。(混血の神々)

 新編古事記

 伊波礼毘古(神武)は兄の五瀬と高千穂の宮で協議した。いずれの地に行けば繁栄出来ようかと相談の結果、東の豊かな国を目指すことになった。

 まず日向を発って筑紫に向かって行った。豊国の宇佐に着いて、その地の豪族との戦いに勝利した後、和解し宇沙比古、宇沙都比売の二人が足一つ上がりの家を作って提供した。

 そこから移り筑紫の岡田宮に1年程居た。又そこから安芸国に行ったが、土地の勢力に阻まれて進めず多祁理に7年留まった。

 長兄の五瀬は安芸において病気になり死亡した。次に吉備に進んで高島に8年の間留まった。

吉備を発って速吸門まで来た時、船に乗って漁をしている者に出会った。このあたりの航路に詳しいという海人族である。

名前は棹根津彦といい、伊波礼毘古の軍備を見て叶わないと思い、従うこととして先導役を担った。棹根津彦は後に倭国造の祖となった。

伊波礼毘古は浪速の渡りを経て河内湾の白肩津に泊まった。この時、登美の那賀須泥毘古が軍勢を揃えて待ち構えていて戦いとなった。伊波礼毘古勢は船の中から盾を取り出して闘ったのでそこを盾津という。いまは日下の蓼津という。

 この戦で次兄の稲氷は手に登美毘古の矢を受けて負傷した。稲氷は私は日の神の息子なのに日に向かって闘ったのが良くなかった。

 これからは日を背にして闘うと言って、一旦退却して南へ迂回した。その時手の血を洗った所を名づけて血沼海という。さらに紀の国の男之門に至った時、雄叫びを上げながら死んだ。墓は紀国の竈山にある。