高天原の侵略 神々の降臨 ⑩

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より

遥かなる邪馬台国

 古文献にあらわれる「倭」を、多くは日本或いは九州と捉えているが井上秀雄は、倭は朝鮮南部にあったとしている。この他前漢時代には内蒙古地方にも倭があったと見られるという。

後漢時代には先の二か所の他に南方の倭もあった。魏・晋時代でも南朝鮮の倭は、日本列島の倭人よりも中国人にとって確実な存在であった。一世紀中葉には南朝鮮の韓・倭が遼東郡に朝貢したという。

倭が日本列島のみを指すようになるのは五世紀以後のことで、「倭国」は北九州狗奴国を指していたようである。広開土王碑に見られる高句麗と戦った倭は、日本ではなく南朝鮮にあった倭である。広開土王の五万の軍と数度にわたって戦い、五世紀だけで17回も新羅と闘わなければならない理由はなく、海流の激しい朝鮮海峡を渡航させる方法もなかった。

歴代中国と国交を結んでいたのは、倭国即ち倭奴国で中国外交の拠点となっていた地域である(古代朝鮮)

中国の五漢時代の文献「論衡」の考証からは倭の位置は中国の東北部とされる。同じく「山海経」の記述からは、倭は後の楽浪郡の辺りと考えられている。また後漢書の「烏桓鮮卑列伝」からは二世紀後半には、倭人の一支族が中国の東北地方西南部に住んでいたことが窺われる。

これらの文献にあらわれる倭人は、明確に他の種族とは区別されており、「魏書」や「東夷伝」の記事に出てくる倭人の直接の祖先ないしは兄弟と見られる。(邪馬台国の言語)

邪馬台国の位置を比定する考察の際に使われるのは、「魏志倭人伝」であるが同書の記述の多くは実態に即していない。特にその旅程の記事については何通りにも読めて、その読み方のどれもが明確には否定できないありさまとなっている。従って旅程の記事からのアプローチは労多くして利あらずと思われる。

邪馬台国の比定考証に使われる参考文献の多くは中国の史書であり、その中の魏志倭人伝の読み方・解釈は人によって実にさまざまである。そこで中国人の学者が読めば、正確に読めてその実態が解明されるのではないかという期待があった。しかし同書を読んだ謝銘仁・張明澄は邪馬台国九州説をとり、張声振と汪向栄は畿内説をとっている。

やはり邪馬台国の考証にあたっては、考古学の成果を重要視する必要があろう。三世紀中頃の邪馬台国時代には広形銅矛、銅剣から鉄剣、鉄刀に移行していたと見るのが有力な説と見られる。

この鉄剣、鉄刀が出土するのは、博多湾岸から筑後平野にかけての地域である。また邪馬台国時代の遺物とされる小型仿製鏡は、主に甘木市や筑後平野から出土している。邪馬台国の時代に近い弥生時代(1800年前という)の、遺跡分布図を見ると宮崎県南部を除くと有明海沿岸部に多くの遺跡が集中している。

これは筑後平野から熊本にかけてのエリアとなり、鉄刀の出土地域とも重なり合っている。鉄剣は瀬戸内から近畿へと東漸し、次に鉄刀が東漸し九州の鉄製文化と共に古墳時代以降の近畿の文化と繋がったといわれる。

これらの事から、安本美典は広形銅剣文化は鉄刀文化に滅ぼされ、邪馬台国は東遷したとみている。(季刊邪馬台国)

邪馬台国を大和とみる論者の多くは、弥生時代の大遺跡である巻向遺跡を邪馬台国に比定している。石野博信もそのうちの一人である。纏向地域には三世紀頃に作られた、大きさが80メートル前後の前方後円墳が四基ある。同地区のホケノ山古墳は三世紀後半の築造とされるが、箸墓古墳よりも古い古墳であることは多くの研究者に支持されており、実際の築造年代はさらに遡るとみられる。

巻向遺跡の範囲はおよそ縦横二キロメートルくらいであり、二世紀末頃に突然現れて、四世紀の中頃には突然消えて殆ど無人地帯になってしまっている。この纏向繁栄の時期は奇しくも邪馬台国の時代にあたっている。

同遺跡は大大和古墳群と共に消えて、その後は佐紀楯列古墳群の方に古墳が築かれていく。纏向遺跡が消えた後から三輪山の信仰は本格的に始まっている。

纏向遺跡では各地の土器が沢山出ている事も、石野が邪馬台国と関連づけて考える要素の一つと見られる。石野博信によると、鹿児島や福岡、島根、東は静岡や神奈川の土器までもが発掘されているという。

もっとも多いのが愛知県を中心とした地域の土器だとしている。この事からか石野博信は愛知を狗奴国と想定しているようだ。同氏が邪馬台国の中枢地と比定しているエリアは歩いて3~40分で端から端まで行けるほどの狭いエリアであり、すぐ北の天理市にかけての平野部分を含んでいないなど、イメージがしっくりこない。北に隣接している柳本古墳群は何国に属していたのか、そこに国境のようなものがあったとは考え難い。

 神武天皇を邪馬台国からの分派・分国で畿内に東征したとみる論者がいる。田中卓は高天原を筑前山門郡に比定し、これを原ヤマトと呼んでいる。森浩一は邪馬台国を北部九州にあったとみて、筑紫平野東部を一つの候補地としてあげている。狗奴国は熊襲とみて熊本県球磨郡と大隅半島にまたがる地域とみている。弥生時代の九州では北部と南部の考古学的状況が際立って異なるとも述べている。

 絹の断片が付着している銅鏡が幾つか出土しているが、弥生時代に養蚕や絹織物の技術を持っていたのは北部九州だけだった。倭人伝には倭人は糸を紡ぎ絹や綿を作っているとあり、弥生時代に絹が出土するのは福岡・佐賀・長崎の三県に集中するという。

必然的に邪馬台国はこの三国のいずれかとなるのだろう。絹の東方への広がりは、絹織物の技術を持った集団の移動が考えられるとして、布目順郎は邪馬台国東遷説を支持している。(布目順郎、絹の東伝)

 これに対して森浩一は銅鏡愛好の風習の東伝があったとする。弥生時代中期~後期の三雲・井原・平原遺跡では、数十枚の銅鏡を埋納しているが同時期の奈良県の遺跡には銅鏡副葬の形跡は皆無である。

 ところが前方後円墳の築造が始まり、絹が使われだすと殆どの古墳に銅鏡が副葬され始めた。このことは北部九州の文化が伝わったのは事実であり、集団の移動があったと想定される。

 すなわち邪馬台国の東遷を考えると説明がつくとしている。また弥生時代中期から後期(前100~後300年)にかけての、高地性集落遺跡も九州から東へ移り、近畿地方に至っている。この逃げ城を作らざるを得なかった状況は、長い争乱が九州から東へと移った形跡を示している。

 また巻向地区が突如として、三倍の規模になったことを指摘してこの時期に、卑弥呼の宗女台代が巻向に東遷したとする説も唱えられている。

 二世紀末に九州甘木市にいた物部氏と尾張氏は、協力して畿内に入り物部氏は河内に尾張氏は葛城に入ったと唱えるのは相見英咲である。指令を出したのは、出雲系邪馬台国王家の卑弥呼であったと示唆している。

倭国騒乱時に南九州に逃れていた天皇氏は、神武(ホホデミ)の時に大和へ東遷し卑弥呼に仕え頭角を現した。相見は物部氏の血を引く崇神が邪馬台国を滅ぼしたとしている。

 今尾文昭は素環頭鉄刀について発表している。弥生時代の墓から出土した鉄刀の長さは殆どが20~30センチであり、古墳時代に入る頃になると長くなってゆき、80センチ前後のものになると述べている。

素環頭鉄刀が登場するのは弥生中期の後半で、その出土の分布では弥生墓からの出土は福岡と佐賀に集中している。弥生の終りから古墳の始まりの頃の出土分布では、(東日本を除く富山、愛知辺りまで)各地に広がっている。この弥生墓からの出土した素環頭鉄刀は殆どの人が舶載品とみている。と報告している。

安本美典は倭人伝にいう矛について以下のように述べている。

銅矛の出土例は九州で373例みられ、近畿では10例である。鉄矛は九州で9例または15例あるが、近畿や関東では発見例がない。

この事から矛の使用については銅矛、鉄矛に関わらず九州説に有利である。杉原壮介によると西暦200年代は広型銅矛が使われていた。

更に倭人伝がいう倭王に貰った刀についても同様の事を述べている。

鉄刀は九州から10例、または28例、近畿では5例である。銅剣は九州で110例あるが近畿では19例である。鉄剣は九州で87例または51例、近畿で9例または1例である。弥生時代の鉄製武器は北部九州を中心に普及がみられ、弥生時代の近畿においてはほとんど普及がみられない。

弥生時代の銅鏡は九州138面、または325面または200面、近畿は6面または8面または13面である。(吉野ヶ里遺跡と邪馬台国)

卑弥呼が魏に遣わした難升米を、地名を含んだ難の升米とする説があり、森浩一は難は奴国、都市牛利を伊都国の王族ではないかとしている。つまり派遣したのは共に北九州の王族であると推測している。

中国の江南には山頂部に築かれた山城、固陵城があり、高地性集落の原型も江南から伝わった可能性が強い。中国で初期の稲作を行っていた江南と九州および日本海沿岸・越の交流は古くからあったと想定される。

紀では神功皇后と卑弥呼を同時代人として捉えているが、これは大いに疑問である。

伊予に勢力を持っていた越智氏はもと越氏だったと思われ、竜蛇との関係や入れ墨の風習もあったと推定され倭人伝との係わりが注目される。

江南の紹興は銅鏡の生産地であり、日本で出土する三角縁神獣鏡の故郷であろう。

江南地方は日本に磁器を輸出するだけではなく、工人集団をも送り出し、あるいは移住して日本の生産技術に大いに貢献した。

吉野ヶ里遺跡の南東からは大量の越磁が出土している。有明海沿岸と江南(呉)の間での活発な通商関係があった。呉に派遣された身狭村主青は呉の孫権の男(息子)・高の後なりとされている。

 三世紀の魏略にある倭人の伝説で、倭人は呉の太白の子孫となっている。太白の子孫なら入れ墨をしていてもおかしくはない。(古代史の窓)また顔に入れ墨をした埴輪が何体か出土している。

顔に線を幾筋も引いた線刻の文様が多い。奈良県田辺町堀切の7号墳から出土した戦士の埴輪には顔に引かれた線状の文様がくっきりと残っている。粘土がひび割れたような、木の葉の葉脈のような文様であり、何かの形を表現したものではなさそうだ。

田辺町の北部は中世に隼人荘と呼ばれていたこともあり、この戦士は隼人と関係があるのかもしれない。

森浩一は考古学の資料では、弥生人の男子は顔に刺青をしていた。これは古墳時代にもかなり見られるが、古墳時代になると立派な武人は殆ど入れ墨をしていないという。中国の曹氏の二百年頃の墓から倭人磚が発見された。これに関連し中国の学者は大量の倭人が会稽あたりに移住したとする。その時期は高地性集落遺跡が現れる、倭国大乱の時期にあてている。

森浩一はこの説を肯定できるものとしている。神武は東征したがこれは逆に西方への大量移住であり、一説には数百人から数千人としている。二世紀にこうした出来事があったならば、神武の東征もあながち伝説と断定はできないこととなる。

 近江雅和は卑弥呼を海部氏系図と尾張氏系図に出ている日女命として、その墓は丹後に求めるべきだろうと言っている。この日女命を卑弥呼と唱えるのは近江一人にとどまらない。

 「契丹古伝」は卑弥呼の祖先が朝鮮から日本に渡ったとしている。倭人伝にいう国中が乱れた時代に、卑弥呼は畿内に逃れて邪馬台国連合を建てた。後に大和の崇神に追われて丹後に退き死んだと推理している。(記紀解体)

 宇佐家の伝承では、邪馬台国は安芸国府中村の多家神社を中心とする地域にあったとしている。宇佐氏は月神(うさぎ)即ち月読命を天の神・氏神とする海部族である。

 田中卓は投馬国を五島列島・知訶島に否定している。一見遠回りの航路のように見えるが、ここから対馬海流に乗り対馬へ渡る航路があったという。邪馬台国は筑後の山門郡に比定し、新航路として大村湾から諫早の船越を船を担いで横断し有明海に入ったとしている。(邪馬台国と稲荷山刀銘)

 このコースを取ることにより、水行10日の旅程に合致するとしている。山門郡には鏡が出土した車塚古墳や瀬高町に墳墓集団があるほか、女山からは銅鐸が二本出土しているなど、考古学的見地からも補強を加えている。

 同氏は卑弥呼の円墳については直径三十数メートルの墓と推考している。車塚古墳との関連性も含め、三十数メートルのものであれば今後見つかる可能性を秘めている。

 箸墓は卑弥呼の墓か

箸中山古墳(箸墓)を卑弥呼の墓とする識者も多く、河上邦彦もそんな一人である。河上は魏志倭人伝に径(円墳)百余歩とあることから、魏の歩は五尺(一尺24センチ)であるから144メートル、余歩を6メートルとして計算すると150メートルの円墳になるとした。だが同時期で該当する円墳はなく、箸中山古墳を円墳として後方部は後に作られたものと考えると、後円部の直径は160メートルであるから卑弥呼の墓に合致するという。

 しかし、これだけの論証では素直に頷けるというところまではいかないのが実情である。箸中山古墳の直径を160メートルとしているが、これは基底部・地盤面のことであろう。

 千葉の国立歴史民族博物館にある箸墓の模型と説明文には、後円部は四段に築成され、その上に径42メートルの高さ5メートルの円丘を載せる、と記されている。

 第一、平面図から読み取ったであろう160メートルの基底部は歩けないではないか。

基底部から後円部の頂上までが垂直の壁で立ち上がっているわけではない。径42メートルの後円部を歩くと、百余歩ではなく35歩になってしまう。河上が言及する、後方部は後から付け足したとする説であるが、確かに纏向古墳群には円墳が多いが箸中山古墳よりも古いと見なされているホケノ山古墳は前方後円墳である。

また前方部には段築が5~6段あると思われ、高さも16メートルに及び、長さは120メートルほどになる。

これだけの精緻な設計をして、かつ膨大な土の量を調達し、後円部の各段丘に等高して接続するのはかなり難しいと推測される。後円部を痛めてしまうことも考えられる。更に箸中山古墳には周濠があったことが確認されている。近年ではそれも二重に巡らされていたとする調査結果も発表されている。橋本輝彦も近年の調査報告で、箸墓古墳は最初から前方後円墳として築造され完成をみたものとして、前方部が後に付加されたことを否定している。

このようなことから箸墓古墳は元円墳であり、前方部を後から付け加えたとする説は支持し難いものとなる。

「はしはか」に「箸」の字を当てると文字通り箸のイメージが強くなる。ここから後世に、箸でホトを衝いて死んだヤマトトモモソヒメの説話が生まれたと見る向きもある。「箸」は、元は土木工事や土器つくりの集団を意味する「土師」であったが、いつしか「箸」になったとする説もある。

また「はし」は橋をも意味するものとされる。後円部は神世界であり、こちら側は人間界であり、その中間が前方部・はしであるという。神世界と人間界を行き来する巫女はその中間の人であり、即ち「間人(はしひと)」と呼ばれるという。「箸墓」の「はし」は橋であり、間(はし)である所以とされる。

卑弥呼の墓は円墳の可能性が強いが、倭人伝にはその高さが記載されていないことから、森浩一は周溝墓の類で古墳ではなかったとみている。高さが記されている光武帝陵のように、中国では平面規模よりも高さが身分制を表すものとして尊重された形跡があると述べている。

「墳」と「冢」の区別は、はっきりしないが墓の高さを意識して書くときは、「墳」の字を使うようだ。薄葬が徹底していた魏の時代には、原則的に墳丘はないという。

卑弥呼の墓の大きさについては、直径144メートル前後になるとする岩田重雄の説を紹介している。熊本県の城南町には、大型の円形・方形の周溝墓が群在している他、九州には女性の支配者が多いと論じている。

 また福岡県では奈良・大阪の土器が多く、他にも各地の土器が出てくるが逆に福岡の物は他の地方には行っていないと同氏は言っている。

 前期古墳は全国にあるが、ほとんどの地域では1~2基だけである。ところが大和では約60基もある上に規模は他に比較して大きく、二百メートル以上の物が四基あり、その勢力の大きさがわかる。(三輪山の考古学)

 何冊もの神話・古代史の本を書いている古田武彦は、邪馬台国九州説に立ちその宮殿跡(神殿)を福岡の吉武高木遺跡であると断定している。更に冒険を犯すように同遺跡の木簡墓は、ニニギの陵墓である可能性が極めて高いといっている。

 遠い遠い、はるか霧の彼方の伝説の人物ニニギは果たして実在の人物であったのだろうか。

 彼が実在していたとしたら、当然その父のオシホミミ、彼の子のホホデミも実在していたことになる。ホホデミとその子のウガヤフキアエズは、芦原中国の攻略に何の貢献もしていないばかりか、政治の事績としても特筆するほどのものを残していない。だがこのことゆえに却ってその真実味を放ってくるともいえる。

 卑弥呼は魏から銅鏡百枚を貰っているが、古田はこれを博多湾を中心として分布している前漢式・後漢式銅鏡と考えているようだ。三種の神器を持つ弥生王墓の分布状況と一致している。

 三角縁神獣鏡はこの博多湾近隣の太陽信仰の勢力の一派が、東方の近畿地方へと勢力を拡大していった事実を証言するものだという。確かに三角縁神獣鏡は近畿を中心として分布している。

 また古田は「呼」には「こ」と「か」の音があるとして、卑弥呼をヒミカと読んでいる。これは「日」と「甕」で神聖なる甕を意味すると言っている。この論説は福岡に多い甕棺墓には直結するが、卑弥呼のイメージには結びつかないように思える。だが古田はこの考証を発展させて、筑後国風土記に出ている筑紫の君の祖・甕依姫を卑弥呼と想定したのである。

 「依姫」は称号であるから卑弥呼とは「みか」の名前が一致する、共に巫女でしかも同時代の人である事をその理由に挙げている。

 多くの著書を世に送り出している古田武彦の論証するところは、歴史学・考古学の世界からは無視或いは沈黙をもって迎えられているようだ。

 松本清張は長広舌の末に邪馬台国を、筑後山門郡に比定する説に賛成している。邪馬台国の東遷について最も早く言及したのは和辻哲郎であり、また考古学者の立場から北九州の青銅器文化は突然消滅したが、その担い手が大和に移り古墳文化を発達させた。

 甕棺墓に埋葬された鏡、玉、剣は古墳に埋葬されるようになり、三種の神器にまで発展していったと言っている。この邪馬台国の東遷を倭国の大乱の時期と考える論者には、橋本増吉、植村清二、坂本太郎などがいる。

 谷川健一も邪馬台国の東遷の事実の反映を、神武東征説話に求める説に賛成している。谷川は大胆に論を進めて東遷時の邪馬台国の首長は崇神であって、紀では神武と記されている。

 呉の滅亡を機に邪馬台国と狗奴国は和解し、後に狗奴国と婚姻しその力を借りて東遷した。三韓から安全な距離をとれる畿内へ侵入したのは、313年前後と推定している。尚、谷川は邪馬台国を筑紫平野に比定している。

 ミマキイリヒコの名の由来は、筑紫の水沼からやって来て大和の三輪地方に住みつた男としている。

 纏向や大阪で破砕された銅鐸が発掘されている。物部氏に属する工人たちが急いで銅鐸を破砕しなければならなかった理由は、邪馬台国が東遷してきて、銅鐸文化を破壊し始めたからである。

 物部氏と蝦夷の連合政権は生駒山の東側にあったが三輪山の付近に移らざるを得なくなった。(白鳥伝説)井沢元彦は宇佐神宮に祀られている比売大神を卑弥呼と断定している。宇佐神宮に並ぶ三殿の中央には比売大神が祀られ、向かって右側には神功皇后、向かって左側には応神天皇が祀られている。

 必然的に中央の祭神が主神である。比売大神は従来言われている三女神ではないと論じている。

 言語学者の立場から論証を試みる長田夏樹は、邪馬台国時代の北部九州のts方言と大和のs方言は明らかに異なる。音韻学的にTs音がs音に変化することがあっても、s音がts音になることはきわめて少ない。

 北部九州は確実に邪馬台言語圏に所属していた。この事から邪馬台国が畿内にあった確率は非常に低く、言語の音韻的断絶は畿内説に致命的であろうと述べている。

 邪馬台国が畿内にあったのならば、何らかの伝承が今に伝わっていそうなものである。大和には神代にも及ぶような説話・伝承が残っていてそれらは記・紀に記載されている。

 だが記・紀には邪馬台国の名前はおろか、卑弥呼や男弟の名前、台代の名前の片鱗も見えていない。また卑弥呼の墓に比定できるような適当な墳墓も見つかっていない。

更に、邪馬台国の東に一海を渡るとまた国があり皆倭種である、との倭人伝の記事に当たる国はどこにも見当たらない。これらのことが邪馬台国畿内説に頷けない主因となって立ち塞がっている。

 徐福渡来伝説

 中国では秦の始皇帝に遣わせられた徐福の伝説を、史実として捉え日本で神武天皇と言われている人は徐福の事であるといわれている。呉書には、会稽の人が風に流されてある島に着くと、そこには徐福の子孫と称する人たちがいて、会稽にも時々交易にやって来ると書かれている。

 彭双松の研究による徐福の航路をみると、佐賀に上陸した後に九州を一周し瀬戸内海から熊野を経て富士山に行っている。このコースは九州の前半を除けば、神武東征のコースにそのまま重なるようである。

徐福の伝承地や墓は日本の各地にあるが、特に佐賀市や熊野にはその伝承が今も多く残っている。この他では津軽、八丈島、青ヶ島、富士山、串木野市、八女市、延岡市、名古屋市などに徐福の伝説が残されている。

 偽書とされている古代文書に「神皇紀」(宮下文書)がある。神皇紀は神代文字で書かれていた実録を、徐福が漢字に当て嵌めて録取したものが基本原本になっているという。

 これらの文書を発見し整理・再編したのは三輪義凞である。神皇紀では記紀の神話の記述と違って、年次や名前など微細に亘って筋の通った記述を行っている。同文書では徐福伝をその祖先の事から始めて次のように語っている。

 「徐福は儒学を修め、インドに行き仏学を7年に亘って学んだ。後に始皇帝に仕えすこぶる寵用された。

 徐福は上申して、東海にある大元祖国の三神山に不老不死の良薬がある、これを求めに行きたい。ついては金、衣服、食糧、船85艘、男女五百人が必要であると皇帝に許可を求めこれをゆるされた。

 西暦前244年6月20日に出帆した。10月25日に紀伊に到着した。駿河を経て5日に富士山の西麓・高天原に到着した。徐福は機を織らせた。武内宿禰が来てその門下に入り、一子の矢代宿禰をも入門させた。矢代は秦人に学んだので姓を羽田と改めた。

徐福は西暦前208年に逝去した。徐福が伴って来日したのは男271人、女287人計558人である。その子は福岡、福島、福山、福田の姓に改めた。福島に改姓した二男の福万は熊野に移住した。」(日本古代文書の謎)

 種々の文献に徐福は男女三千人を伴って来たとあるが、徐福渡来説を始めて記した「義楚六帖」は次のように記している。

「秦の時、徐福五百の童男、五百の童女を率いて、此の国に止まれり、今人物一にして長安の如し」(徐福伝説考)

 また同書では日本僧の弘順大師から聞いた話として、徐福の子孫は皆秦氏を名乗っているとしている。この義楚六帖の成立は、960年頃とされている。

徐福が伴って来た人数は文献により異同があるが、神皇紀が一番少ない人数となっていて実数に近いと思われる。

 神皇紀は精密に記述されており、その論旨には矛盾が少なく且つストーリーは真に巧妙に編まれている。その内容からこれが真実の歴史書と思いたい、真剣に研究してみたいと思わせるものを持っている。

だが徐福の名前を出していること、そして同じ名前の王が51代続いたウガヤ朝があったとしている事、後半部分に後世的な表現を見せている事から先の気持ちは萎えてしまう。