高天原の侵略 神々の降臨 ⑨

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より

天宇受売命 木花佐久夜毘売

 上代では男が名前を尋ねてそれに女が答えると結婚を承諾した事になった。この項では歴代の天皇の命が短くなったことが語られている。この事は古事記編纂の際に朝廷の圧力がなかった如くのようである。

 日本書紀とは明らかに意図したものが違っている。

 新編古事記

 

 邇邇芸は天宇受売に指示して、先導してくれた猿田彦は汝に心を開いた、故に汝が送って行き今後はその名を名乗って仕えよといった。

 これにより猿目の君たちの女は猿女君と呼ばれるようになった。猿田彦は阿坂村にいて漁をしている時にひらぶ貝に食われて溺れ沈んだ。

 その時の名はそこどく御魂といい、泡が立ったときの名はつぶたつ御魂、泡がはじけたときの名はあわさく御魂という。

 天宇受売が猿田彦を送って帰るとき、あらゆる魚を集めて天津神に従うかどうか訪ねた。皆は仕えるといったが、ナマコだけは返事をしなかった。天宇受売はこの口は答えぬ口といい小刀をもってその口を裂いた。

 これにより志摩から初物の魚類を献上する時は猿目にも下されるようになった。

 邇邇芸は笠沙の岬に至った時に、美人に会ったので名を尋ねると大山津見の娘で神阿多都比売またの名は木花咲耶姫と答えた。

 邇邇芸が大山津見結婚の承諾を求めると喜ばれた。そして大山津見は姉の磐長姫と貢物をそろえて奉った。

 邇邇芸は姉の磐長姫を醜いとして送り返して、木花咲耶姫と一夜契った。大山津見は娘二人を贈ったのは、磐長姫を仕えさせれば天津御子は長命になり、木花咲耶姫を召せば世が栄える事になるので献じたが、磐長姫を返したので御子の命は木の花のように短くなるだろうと言った。

 これにより歴代の天皇の命は短いものになった。木花咲耶姫は妊娠したことを告げに来たが邇邇芸は一夜の契りだけで妊娠した事を疑った。

 木花咲耶姫は尊の子ならば産むときに幸運を持っている、他の人の子ならば運を持っていないだろうと言った。

 お産のときに産屋を建てて火を掛けた。火の盛んな時に火照命が生まれ隼人阿多の君の祖となった。

 次に火須勢理命が生まれ、次に火遠理命又の名は天津日高日子穂穂手見命が生まれた。

 

 海幸彦・山幸彦日向神話

 この説話は皇統の起源を説明し支配の過程を語ることが、基調となっている日本神話の内容とは異質のものが感じられる。地方の庶民的な伝承・説話などがここにはめ込まれたようにも思える。海幸彦山幸彦の名前に、皇統譜の中の人物の名前があてがわれた可能性が強いと考えられる。

 この他、多くの研究者が海幸彦山幸彦の説話はインドネシアや、太平洋諸国に伝えられる神話と類似していると指摘している。井上光貞はこの説話は九州南部の隼人の伝説ではないかと言っている。この点は松前健の説と一致している。

日向神話の隼人の服属の説話は後次的なものであり、その舞台を日向に設定したのは神話の時代から服属していたことを示したかったからである。隼人が具体的な姿で現われてくるのは天武天皇の時代からである。(宮崎県史)

宮崎の青島にある青島神社には、日子穂穂手見、豊玉姫、塩土の神が祭られている。伝承ではここに日子穂穂手見が住む宮があったという。ところがある日、日子穂穂手見は突然いなくなってしまったが、後に急に帰ってきたので島の人々は服を着る暇もなく裸で出迎えた。

 神事では旧暦の十二月に、男だけが裸になって、海から帰ってくる神を迎える祭りを行っている。日子穂穂手見が三年もの間過ごした綿津見神の宮は、薩摩半島の開聞岳にある枚聞神社であると言われている。

 同町には玉ノ井という井戸があり、ここが日子穂穂手見と豊玉姫が出会った所とされている。(天皇家のふるさと日向を行く)

「日本書紀注釈上」所収の仮名日本紀の一書によると、塩土の老翁の別名は事勝国勝神であり、イザナギの子であるという。しかしこれでは世代が合わないことになる。

 若狭国遠敷郡の若狭比古神社には、日子穂穂手見、豊玉姫を祀ると伝え、三方郡の宇波西神社は鸕鶿草葺不合尊を祀ると称している。

 山幸彦の説話と似ている、水江浦嶋子の伝説地は紀に丹波国余社郡管川の人とある。

新撰姓氏録には安曇氏の祖神は綿津見豊玉彦とあり、安曇氏の本拠地は志賀島である。そこの志賀海神社には豊玉彦や綿津見の神を祀っている。

この分族の安曇氏は阿波の名方郡に綿津見豊玉比売神社を祀っている。塩満玉・塩干玉も安曇氏が伝承していたものである。

 神膳に奉仕する安曇氏の職掌由来譚が海幸彦・山幸彦の物語である。この安曇氏は古くは倭の水人とされ、潜水漁業に長じ、顔や体に入れ墨し龍蛇崇拝や海神信仰を持っていた。(日本神話の謎)

 新編古事記

 火照命は海幸彦と呼ばれ魚をとり、火遠理命は山幸彦と呼ばれ狩をして獣皮などを採っていた。

 ある日お互いの道具を取り替えて火遠理命は海の漁に出たが魚は釣れず針をなくしてしまった。

 火照命は針を返せと何度も催促したので、火遠理命は自分の十握剣で千の針を作って返したが、火照命は元の針を返せと言って受取らなかった。

 綿津見・海神の宮訪問

 山幸彦が歓待されてその快適さゆえか、三年もの間逗留した海神の宮とはいったい何処にあったのか。海神の宮の所在が分かれば、そこからさほど遠くない所に海幸彦と山幸彦の拠点が求められるだろう。

    田中卓はこの海幸彦山幸彦の神話を、神宮皇后の新羅征討の史実の反影とみている。海幸彦が隼人の祖であり、熊襲の祖先とも考えられることがその根拠の一つとなっている。新羅征討で援助した筒之男神は海幸を海神の宮に導いた塩土の翁とは同一神とする説もあり密接な関係にあるともいう。

 海神の宮は干満二珠のある(宗像大菩薩縁起)対馬の綿津見神社に比定している。豊玉姫のお産の話は、神功皇后のお産の話に類似性が見られることもある。皇后は紀に如意珠を得たとあり、宇佐八幡宮縁起にも竜宮城より干満両珠を得たとあることが山幸の乾満両珠と類似している。

 古田武彦は海幸彦・山幸彦の舞台を筑前(の日向)として、海神の宮の所在を「豊玉」のある対馬或いは大分県と論じている。

紀の第四の一書には海神の乗る鰐(さめ)が橘の小戸に居るとあり、その通りとするならばイザナギが禊祓いをした場所と同じ所になる可能性が高い。

 宮崎県北郷町の潮嶽神社は火照命・海幸彦を祀っている。山幸彦に負けた負け犬を祀っている神社は他にはないであろう。

 この地の伝承では海幸彦は石の船に乗って、ここに着いたという。山幸彦に追われ山間のこの地にやって来たのだろう。

 この地には奇妙な風習があり、それは婦女子は決して縫い針を人には貸さないというものである。これは海幸彦が釣り針を貸したことから不幸が始まった事を戒めているのである。

 また子供が生まれて初参りすると、額に必ず紅で犬という字を書くという。犬はこの地では隼人を意味する。隼人は天孫族と違って入れ墨をしていた。大久米命は伊須気余理比売に「などさける利目は?」と訝しく思われた。大久米命もまた隼人だったのである。

薩摩半島の南端の開聞岳には、綿津見の魚鱗の宮があったという伝承が存在する。開聞岳は航海の目印となり航海安全の神でもある。

 開門町には「塩屋」の地名があり、「塩釜どん」という自然石の神が祭られている。開聞の神をまつった神社が枚聞神社であり,かっては和多都美神社と呼ばれていた。また開門町には山幸彦が豊玉姫と出会った「玉の井」という井戸がある。

開門町の西北十キロメートルの知覧町には豊玉姫神社があり、祭神は豊玉姫である。

綿津見神は阿多隼人と考えられ、その根拠地は野間半島であり、そこは綿津見の神の本拠地と考えられる。(梅原猛)

このように海神の宮の所在の比定は対馬、鹿児島,と北と南とに分かれている。ここで参考になると思われる話が「上記研究」に載っている。「上記」には穂穂手見(山幸彦)が妃の豊玉姫と、壱岐対馬に行幸する模様が語られているという。

すると山幸彦の住まいは、壱岐対馬から船で行ける所でそう遠くはない所、ということになり筑前あたりが想定される。

だが、ややこしいことに「上記」では対馬の婚約の習俗を述べているが、「日本の民俗」によれば、その習俗は対馬にはなく鹿児島郡に見られるという。その習俗とは男は結婚したい女の家に自分の履物を投げ込み、女が承諾するときは自分の履物を家から外に投げるというものである。

 鹿児島では女があの人ならと思うようになると、女下駄と帯を男に贈り男がその女下駄を履いて歩くようになると、二人の仲は公認になるという。この二つの説話には類似点が見られる。

海幸彦と山幸彦の説話の舞台を、考える上で欠かせないのが橘の小戸の所在である。この三者の所在は相互に関連している。イザナギが黄泉の国から戻って、禊をしたのが橘の小戸である。さすれば宮崎ではいかにも遠すぎる。このように考証してみると、干満二珠と豊玉の地名がある対馬説も有力なものといえようか。

 新編古事記

 火遠理は海で泣いて途方にくれていると塩土神がやってきて理由を聞いた。塩土は汝のために働こうと言って目無し籠の舟を作って火遠理をのせた。

 暫く行くと海の道がある、その道に乗って行くと綿津見の宮がある、其の門に桂の木がある、その木の上に居れば海の神が計らってくれると教えた。

塩土が舟を押し流すと舟は海流の道に乗り、火遠理は綿津見の宮に着いた。

そして火遠理が木に登って待っていると綿津見の神の娘豊玉姫の侍女が水を汲みに来た。侍女からの知らせで豊玉姫が出てきた。

綿津見に会わせるとこの方は天津彦の御子空津彦なるぞと言った。すぐ中に招き入れてアシカの畳八枚を敷き、絹の畳八枚を重ね座らせて娘を献上した。火遠理は綿津見の宮で三年を過ごした。

火遠理は針の事を思い出し悩んでいると、綿津見の神が魚を集めて問いただし針を見つけてくれた。

綿津見は火遠理に、この針を返す時はこの針は憂鬱になる針、いらいらする針、貧しくなる針、愚かになる針と言って後ろ手に渡しなさいと教えた。

さらに兄が下に田を作れば上に田を作れ、そうすれば兄は三年は貧しいままになる。

恨んで攻めて来たら潮満玉を出して溺れさせ、謝れば潮干玉を出して助けてやりなさいと教えた。

綿津見は二つの玉を火遠理に贈り、鰐を呼んで送らせた。火遠理は持っていた子刀を鰐の首につけて帰らせた。

やがて火照はまずしくなり攻めてきたが、火遠理は潮満玉で溺らせ潮干玉で助けた。そこで火照は服従する事を誓った。

 鰐の皇子・鵜萱葺不合命

鵜萱葺不合の誕生譚そのものは、南方系の神話の影響が色濃く反映しているようにも見えるが、鵜萱葺不合命の名前は生まれたときのエピソードが元になっており、ある種の信憑性が感じられる。

日南市にある鵜戸神宮には巨大な洞窟があり、ここで豊玉姫が出産をしたといわれている。多くの海鳥も訪れ産屋の屋根を鵜の羽で葺いたというのも頷ける。同社の裏側には豊玉姫が綿津見の宮に帰る時に、残して行ったという乳房の形をした「お乳岩」がある。また洞窟の出口には亀石がある。姫が乗って来た亀だが姫は急に竜になって帰ったために取り残されたという。

邇邇芸が高千穂の宮から動かなかったという事は、葦原中津国を治めよとのアマテラスの命令でやって来たのだから、此処が葦原中津国であったという事になるが….。

御陵の位置は詳細には伝わっていなかったのか、ぼかしてあるようだ。

宮内庁の「陵墓要覧」では川内市に比定されている。梅原猛によれば、神仏分離・廃仏毀釈の運動は薩摩から始まって日本の政策となった。この蛮行には幕末から明治にかけての国学者の説くところが大きく影響していた。日向三代の陵墓と伝承される場所は、宮崎・鹿児島に幾つもあったが明治7年に全ての陵墓は鹿児島県内に指定された。

邇邇芸の可愛山陵は川内市に、彦穂穂手見の高屋山陵は溝辺町に、鵜萱葺不合の吾平山上陵は吾平町に定められた。梅原は薩摩人の支配する明治政府は、どうしても鹿児島に持って行きたかったのであると述べている。

陵墓要覧の示す陵墓位置を明確に否定しているのは古田武彦である。紀の記事の筑紫の日向、日向の高屋、日向の吾平などは、その他の記載例などから全て筑紫・福岡であるという。その三代の陵墓は、三種の神器が出土している吉武高木遺跡を主として、三雲、須玖岡本、井原、平原の各遺跡を挙げている。

邇邇芸が降臨・渡来した地は北九州とするのが妥当と思われ、日向三代はその地を大きく出て行った記録はない事から、渡来した地でその生涯を送ったのかもしれない。だが、古田は「高屋」「吾平」が福岡の何処なのか、その地名の名残の有無には言及していない。

前之園亮一は「帝紀」「旧事」には、この日向三代の説話はなかったとして天岩屋戸から邇邇芸の降臨譚に直結していたと断定している。その理由は天岩屋戸説話と、邇邇芸の降臨譚双方に登場する神々は殆ど同じと論じている。

前之園は天岩屋戸話と邇邇芸の降臨譚の間に、日向三代の出雲神話が後に挿入されたという。

記には鵜萱葺不合の父・穂穂手見は高千穂の宮に580年間居たとあるが、鵜萱葺不合の年齢は記していない。しかるに「上記」では鵜萱葺不合朝は51代続いたとしている。また「竹内分書」と「九鬼文書」では73代となっているが。「旧事本紀」には鵜萱葺不合朝の記録はない。(後藤隆)

(近江雅和は、上記は72代、宮下文書・九鬼文書・竹内文書は51代とする。)

神皇紀(宮下文書)では鵜萱葺不合朝は51代続いたと述べている。鵜萱葺不合は、富士山麓の高天原から逆に筑紫へ遷都した事になっている。初発の二万八千の軍勢がやがて十万になり、東と南から攻めて九州を二年かけて制圧した。

切枝間山(阿蘇山)を神都として日向高千穂峰と名付けた。鵜萱葺不合朝最後の51代の時に真佐勝彦と長髄彦の中国で反乱を起こし大内乱となった。本州は殆どが賊国となり、皇軍は瀬戸内海と東海・相模から攻めた。この時に長髄彦を攻めた五瀬王は白肩津(枚方)で流れ矢を受けて戦死した。

 大久米命の軍は伊勢の度会に入り、伊瀬崎から伊賀を通り山城に進軍した。

佐野王命(神武)は熊野口から進軍したが苦戦し、兵が足りず四方に檄を飛ばし兵を集めた。やがて敵は敗退し比叡山に籠った。

大内乱勃発から17年が経過し、51代鵜萱葺不合は陣中で死んだ。三毛野入野命は水戦で苦戦し入水した。長髄彦は実は新羅人だったと言い、敵軍には新羅の兵や舟軍が大勢いた。比叡山が落ちると佐野王命は宇陀に向かった。追い詰められた長髄彦は国見山で自害し、大内乱は36年かかって終結した。

以上は神皇紀の要約にすぎないが、同書にはこの戦争の経過が細かく語られている。だがその記述には、やや後世的な表現が含まれているようにも思える。この内乱・戦争は記紀に言う神武の東征である。「上記」(大友文書)にも類似の記事があるがその名前など詳細は異なっている。

 日向王朝と西都原古墳

 時に日向王朝ともいわれるこの日向三代の説話と、広大な台地に広がる西都原古墳群との関わりはいまだ明らかになっていない。同古墳群には大小300基余りの古墳が存在していることから、この地方に強大な勢力が存在していただろう事が窺われる。

 記紀によれば、日向からは歴代の天皇に何人もの妃を出しており、天皇家との繋がりも深い地域である。

 同古墳群の主墳ともいうべき男狭穂塚・女狭穂塚古墳は、邇邇芸命と木花開耶姫の陵であると伝承されている。だが両古墳の築造年代は五世紀前半とみられており、想定される邇邇芸の年代からは四百年近くの隔たりがある。

 西都原古墳群の多くの前方後円墳は、畿内型古墳とも呼ばれ畿内の影響を強く受けている。何れも五世紀代とされ古いものでも四世紀代には遡らないといわれている。少なくとも三世紀の物は皆無であり、日向三代との関わりは無いに等しいと言わざるを得ない。

 また北部九州には巻向型前方後円墳が14基あるが、何れも巻向の古墳の半分以下の規模である。副葬品についてみると、畿内の古墳は剣・鏡・玉を埋納する北部九州の儀礼を継承している。

北部九州に分布し出土する庄内式土器は、畿内から搬入されたものと同地域で作られたものがあるが、いずれも畿内から移動した人の手によっている。(新邪馬台国論)

 これらの事から北部九州の勢力が畿内に入り、時を経てその一部が北部九州に戻ってきたと想定されるのである。またはその影響力が逆流してきた・派生してきたということになろう。

 考古学の成果は近年富に増大してきているが、その調査報告は位置関係や周囲の状況、古墳の形状や寸法、出土物の詳細な説明に終始している。当り前かもしれないが事実の列挙に留まっていて、出土物の製造時期には言及するが築造年代の推定までは踏み込んでいない。

 従って幾ら調査報告を読んでも、痒いところには手が届かず歴史を推理・想定することはできないのが現状である。やはり古文献の研究・解釈がより重要となる所以でもある。

新編古事記

妊娠した豊玉姫は、天津御子の子は海中にては生むべからずと言ってやってきた。海辺に鵜の羽を萱にして産室を作り火遠理に異郷の人は子を生む時は、元の姿に戻って産むもの、生むまでは見ないでくれと言った産室に入った。

火遠理は其の言葉を奇異に感じて産室を覗いてしまった。そこには鰐が這いずり回っていたので火遠理は逃げ出した。

それを知った豊玉は恥じて、海の道を通って通う積りだったがその道を塞いで帰ってしまった。

後に養育する目的で妹の玉依姫を派遣した。産室が出来上がらないうちに生まれた子は天津日高日子波限建鵜萱葺不合の命という。

火遠理命・日子穂穂手見命は高千穂の宮に、一説では五百八十年住んでいた。その墓は高千穂の山の西にある。