高天原の侵略 神々の降臨 ⑧

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より

天皇家の始祖・穂邇邇芸尊

 天皇家の祖先の発祥地は九州とされている。記・紀の説話からは高天原の所在地は九州と想定されていたようだ。或いは海外・天空ともとれる曖昧な存在として記述を進めている。

 国の観念や国境などがない古代にあって、九州は大陸や朝鮮半島との深い関係を持っていた。全国にある八幡社の総本社・宇佐神宮の近くには、加羅からの渡来人の集落・辛島郷がある。時代は下るが北部九州の霊山・英彦山の開創者は魏の善正と伝えられている。このほかに雷山は天竺の清賀、背振山は天竺の徳善大王の皇子、求菩提山は高麗の行善と伝えられている。(田村圓澄)大陸や朝鮮半島からの渡来者が頻繁にあったことを窺わせる。

 穂邇邇芸尊の名前は水田に稲穂がにぎにぎしく、豊かに実っている様を表す名前になっていると一般に解釈されている。神代の説話はここに終わり邇邇芸尊からは人代の物語が展開されていく。

 倭国大乱の時に邇邇芸は、大伴氏と久米部氏を伴い南九州に逃避したと論じているのは相見英咲である。紀における多くの随伴神は物部氏の伝承を採ったと推定する。

 また前之園亮一は邇邇芸の降臨地について、伊勢を本籍地とする猿田彦に道案内されて、伊勢へ天降った筈であると言っている。

 神皇紀では邇邇芸の時に西北の大陸から、異国の大軍が壱岐から筑紫を攻めて来たとしている。対馬から筑紫を攻められて、一時は四国まで敵軍が抑えたという。これに対し、武知男を総司令として、経津主、武甕槌、玉柱屋、建御名方を大将として一万八千人で迎え撃ったと述べている。

この時に多くの皇子(幹部)が戦死したという。また戦陣にあった木花咲夜姫がその妊娠を、邇邇芸に疑われ三人の子を室で産んだ後に、富士の火口に飛び込み自害したとしている。いま浅間神社では木花咲夜姫を祀っている。

ひるがえって田中卓は天孫降臨の伝承は不可解なことが多く、首尾一貫していない、だがそれは無理な習合造作せずを得なかったのであり、そのことは動かしがたい定着性があったとしている。

 つまりその個々の伝承をなかったものと出来るなら、もっと辻褄のあうストーリーを形作れたと言いたいのであろう。梅原猛は邇邇芸が降臨した場所を鹿児島の野間半島の笠沙と推考している。

同地は邇邇芸の一行の船が漂着した所と伝えられていて、近くの黒瀬海岸にはニニギの尊上陸地の碑が建っている。

 そこは邇邇芸が通ったとして、「神渡」とも呼ばれているという。邇邇芸の旅程を考察するに、韓国から笠沙に来て、稲作に適している高千穂に行ったとする。霧島は白州台地で農業は難しいのも考証の理由に挙げている。

 木花咲耶姫と出会った笠沙の御前は日向にもあったと推定している。これを裏付けるように、今宮崎市に木花台、木花駅、木花小・中学校の名前がある。

 日向風土記(713年詔)に、邇邇芸は日向の二上峯に天降ってきたが天は真っ暗で、昼も夜もわからず困っていた。そこで土着の民、土蜘蛛の忠告通りに千穂の稲をモミとして投げたところ、天は晴れたとされている。

 ちなみにこの籾を撒くと霧が晴れた話は霧島山にも伝わっている。

宮崎県西臼杵郡の高千穂は「知鋪ちほの里」と呼ばれている。高千穂は狭いので天孫族は西都市に移った。三代目のウガヤフキアエズは日南市で生まれ、四代目の磐余彦は霧島山麓の狭野で生まれた。

天孫族は南九州の一帯を支配下におさめた。高千穂には神武を案内した猿田彦を祀る荒立神社がある。同社には天の鈿女も一緒に祀っている。高千穂神社には神武の兄、御毛沼命を祀っている。

高千穂神社の伝承では御毛沼命は東征から、故郷へ帰って来た事になっている。

高千穂の二上山中の二上神社にはイザナギとイザナミが祀られている。荒立神社から串触峰の方に下がった所に二十体王宮社があり、邇邇芸の従者を祀った所といわれている。

串触峰の近くには四皇子峰があり、ここは神武の四兄弟五瀬、稲飯、御毛沼、磐余彦を祀ったところである。西都市には都萬神社があり、都万は妻であり、木花咲耶姫を祀っている。(天皇家のふるさと日向を行く)

 都万神社の西に御舟塚があり、ここは邇邇芸の船が着いた所で、この一帯が笠裟沙の御前といわれている。日向には前方後円墳が多く、夥しい出土品も優れていて近畿の出土品と類似している。

 「日本書紀注釈上」の「仮名日本紀」の一書によると、天の浮橋は日向の襲の高千穂の串日の二上の峯にあるとしている。

 朝鮮の「三国遺事」の檀君神話では、天帝がその子の桓雄に三符印という宝を持たせ、三人の風雨の神と三千の部下を供に、太白山の山頂の壇という木の傍らに降下させ、その子が朝鮮を開いたとしている。更に朝鮮では、祖神が山頂に降下する神話は他に幾つも伝えられており、日本神話と類似しているだけではなく、言語上の一致も見られるといわれている。

渡来人から伝えられたそうした伝承を、奈良時代の役人たちは日本神話に採り入れてしまったのであろうか。天孫降臨の説話は本来が、高御産日と邇邇芸の話であったが、そこによそ者のアマテラスと押穂耳が入ってきたというのは松前健である。紀の本文には高御産日が邇邇芸だけを天降らせたとある。

 松前健は、この素朴な伝承が宮廷公認の伝承であり、大嘗祭に結びついているという。そして天の岩屋戸の伝承と、伊勢神宮に結びつくアマテラスと押穂耳の話が政治的に結びつけられたという。

 このため話の筋が、ややおかしなものになってしまったとする。高御産日が天皇家の元々の祖神であったとすると、ではアマテラスはいつ何処からやってきた神なのであろうか。

この点が理解に苦しむところであるが、松前は天の岩屋戸神話を伊勢・志摩の海人らの伝えた東南アジア系の神話であろうとしている。朝鮮半島との交渉が盛んになって、大陸の日の御子の思想が朝廷内にも浸透してくると、大王家の祖神としてのもっとも適当な太陽神が探し求められた。

 天照神や天照御魂神がアマテラスの前身と思われ、これらの神はいずれもが海人に関係しているという。だとすると天火明がアマテラスのモデルであったことになってしまう。これは一種異様な不思議な話ではある。

 記では邇邇芸は三種の神器を授けられて天降ったことになっている。だが「古語拾遺」をみると、鏡と剣が天つ璽であり、矛と玉とは自ずから従うと記されている。このことから松前健は神器は元二種だったが後に玉が加わったとしている。

傍証として「神祗令」や「延喜式」に天皇即位のときに、忌部氏が神璽の剣鏡を奉じると出ており、「令の義解」や「令集解」では、これは鏡と剣の二種をさすと記されていることを挙げている。

ちなみに鏡は宇多天皇(887~897)の頃に宮中の温明殿に祀られ、特別の祭祀を受けるようになって即位の儀式には用いられなくなったようだ。また事実上、天徳(957)以来の度重なる火災による焼け損じで儀礼に用いるには耐えられる物ではなかった。(日本神話の謎)

 この話が事実とすれば、神宝の鏡の管理は少しお粗末なものだったというしかない。

伊勢神宮に厳重に保管されている鏡は、アマテラスの御魂代であるが、この鏡と同等の物として宮中に祀っていた訳で、その鏡が焼けてしまったとは情けない話ということになる。

 邇邇芸が天降った「高千穂」は松前健によると固有名詞ではないという。天孫降臨神話は元々稲の収穫祭・新嘗際の縁起譚であると断じている。日向風土記逸文を引き、邇邇芸の説話は大和宮廷の伝承ではなく日向の風土伝承で地名説話であったらしいとしている。

 松前は邇邇芸、彦穂穂手見、ウガヤフキアエズの三代は隼人の地に生まれ、隼人の母を持ち、その地に墓所をもった隼人族であり彼等の伝えた伝承であったと述べている。

 景行や仲哀の時代には隼人族を熊襲と呼んで盛んに征討したといわれている。

さらにこの隼人族の祖先伝承が、宮廷神話に取り入れられた時期は五世紀の初め頃と考えられるという。

邇邇芸の降臨した高千穂の峯とは、日向説と薩摩説に大別されるが古田武彦は筑紫の博多湾岸と糸島郡との間の高租山としている。理由としては近くに日向山と日向峠があり、このあたりが日向と呼ばれていたことや串触山があること、韓国に向かっていることなどを挙げている。(盗まれた神話)

 天孫降臨神話について我々はこれまで、大和朝廷に伝わった説話・伝承として捉えていたが、ここに古田は歴史の根幹をも揺るがしかねない問題を提起した。すなわち、この神話の本来の姿は九州王朝の姿に他ならないと論じたのである。九州王朝と大和朝廷とは共通の始祖神話を持っていた。

 つまり共通の始祖がいて後に二つに分かれた王朝である。天皇家は自ら九州日向から近畿へ来たとしている。行き着く結論として、天皇家は先在の九州王朝の分流であった。

 アマテラスは誓約うけいでスサノオが産んだ子・押穂耳を、自分の物実から生まれたので自分の子であると主張して系譜をややこしいものにした。だが、押穂耳の子の天菩日の子のタケヒラトリが出雲国造の祖とされている事からみると、やはり出雲と関係の深いスサノオの子であろう。

 スサノオの直系は天火明であり、邇邇芸系の神武は傍流に属していることになるという意味のことを古田はいっている。尚、天火明の系統は記・紀では切り捨てられているとする。

 新編古事記

 高御産日は押穂耳尊に指示した。葦原中国は平定された汝行って統治せよ。押穂耳は答えた。天降る準備中に邇邇芸が生まれたので彼を遣わすのが良いでしょう。

 この御子は高御産日の娘・万幡豊秋津師姫との間の子で兄に天の火明尊がいる。

 これにより邇邇芸を常世の国葦原瑞穂の国へ行って治めよと派遣した。

 異形の神 猿田毘古神

 梅原猛は、アマテラスを祀る神社は三輪神社や賀茂神社、熊野神社、八幡神社よりも遥かに少ない。出土する様々な祭器は今の神道よりも別の宗教が古くからあったことを語っている。

 八百万の神々があり、様々な宗教が存在していた。それを律令政治に相応しい神の元に従属させる必要があった。そのためアマテラスの元に従来の神々は体系づけられたとする。

 古事記は宗教書、日本書紀は思想史として読むとき、以上のことが合致してくる。

記・紀は新しい日本の構築に必要な書物として作られたとみている。

 出雲風土記に佐太大神が生まれて間もない時に、川で金の弓矢を拾う説話が載っている。「上記」にも殆ど同じ内容の話が記載されているが、それは猿田彦の説話になっている。「上記うえつふみ」では猿田彦の父は、大年神の子のククキワカムロツナネで母は神産日の娘のキサガイヒメとなっている。猿田彦の「猿」は「さ」とも読めることから、田中勝也は謎の神格だった猿田彦は佐太大神と同神であり、出雲の土着神であったとしている。田中はこうした伝承内容の符号を「上記」以外には見出せないという。

 更に出雲風土記と「上記」とだけに記される、ツルギヒコ、クニオシワケなどの神名がある他に、国引き伝説が共通していると述べている。

 猿田毘古神は後に道祖神と同一視され、賽の神としての信仰が広がった。猿田毘古神の超巨大な鼻や化け物のような姿が、悪神や災いの侵入を防いでくれると信じられたのか、その相貌と何かしらの関連がありそうだ。

 記は猿田毘古神は阿耶訶に居たとしている。その猿田毘古神はいま三重県松坂市にある阿射ざ加神社に祀られている。この猿田毘古神について次田真幸は、伊勢の海人系氏族の進行した神であるという。猿田毘古神は伊勢の土着の神と言われ、伊勢市の猨田彦神社は伊勢神宮の近くに鎮座している。

猨田彦神宇治土公氏の伝承が天孫降臨神話の中にとり込まれた。猿は元来太陽神とされたが太陽神は、稲田の神とも考えられて「猿田毘古」と呼ばれたのであろう。(日本神話と神々の謎)太陽が育てる「田」の神様が猿田毘古に仮託されたのだろう。

 新編古事記

 邇邇芸が天降ろうとしている時に、道の辻に高天原から葦原中国までを照らしている神がいた。

 高御産日は天の鈿女に指示して、あなたは毅然とした態度で交渉できるから行って誰なのか訪ねなさいと言った。

 その神は答えて国津神の猿田毘古なりと言い、天津神の御子が天下ると聞いて案内するべくここに来たと答えた。

 天孫の降臨 侵略開始

 出雲国風土記によると同国の祖神たちも天降って来たことになっている。このことは一部の支配者層が外来の人々であったのか。或いは大和朝廷の影響を受けるようになってから、支配者が天下って来た事を物語っているのか詳細は不明である。

 前者だとすると出雲の先住者や統治者は何処から来たのかまた誰であったのか。全く先住者が居なかったとは考えられない。

 後者であったとすれば、この神々は天孫降臨の際に供俸してきたのか、又は大和から派遣されたのか。どちらであったとしても記紀などに記録が見られない。

出雲風土記には次の三神が天降って来たと記されている。

  大国魂命 

天御鳥命 

宇夜辨命

 

 天岩門別の神や登由気の神などは丹波国に祀られていることから、丹波の勢力が天孫降臨に大いに活躍しているらしいことが分かる。登由気の神は後に伊勢外宮へと出世している。

以下は明らかに派遣・侵略軍の編成である。鏡・勾玉・鏡草薙の剣を授けて天下らせた。

新編古事記

 ここにアメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤ併せて五部族の族長を加えて派遣した。

 また八尺の勾玉、鏡、草薙の剣を持たせて、思金、タジカラオ、アメノイワドワケを添えて遣わした。

 いまこの思金の命は今は五十鈴野宮に祀っている。

次に登由気は今渡会にいる。天岩門別又の名は櫛磐窓・豊磐窓は御門の神となる。

次のタジカラオは佐那那県にいる。

中臣の祖はアメノコヤネ、忌部の祖はフトダマ、猿女の君の祖はアメノウズメ、鏡作りの祖はイシコリドメ、玉祖の祖は玉祖命である。

邇邇芸は天の浮橋から、筑紫の日向の高千穂の串触岳の麓に至った。

天忍日と天津久米は天の矢筒を負い、頭椎の剣をつけて天の波士弓を持って天真鹿児矢を手に持って天孫の先にたって仕えた。

天忍日は大伴の祖天津久米は久米の祖である。邇邇芸は此処は韓国に向かい笠沙の岬にまき通って朝日が差し夕日が差しよい所だといって宮を建てて住んだ。

 

 

三種の神器と神剣の行方

 上古には三種の神器は天皇家だけが持っているものではなかった。土地の豪族が貴人を迎える時などには、礼を尽くして榊に三種の神器を吊るす習慣があったようだ。

 三種の神璽の観念は天智天皇の頃に、成立したものであると論じるのは西宮一民である。西宮は現在いわれているような鏡・剣・勾玉と、修飾限定されたのが天武朝の事と考えている。

 ところが説話の上では鏡と剣は宮中にはないので、天武天皇は忌部氏に践祚の折に新天皇に献ることを命じた。これが三種の神器の始まりである。記紀の述作者は、これを神代及び崇神朝のこととしてその起源を述べたとしている。妥当性のある論説であるが、ここでは説話の史実性は明らかになっておらず、鏡と剣は現実に(伊勢)神宮と熱田神宮とに長年にわたって祀られている。

三種の神器、なかでも神剣・草薙剣は、相当に複雑な経路を辿って伝世されている。

この神剣の行方を研究することは、歴史の細部を検証することであり重要な意味を持っている。

神剣天叢雲はスサノオが発見・入手してアマテラス側に渡り、アマテラスから邇邇芸に託され日向へ運ばれた。この後、神剣の行方は記録されていないが、神武の系統により大和にもたらされたと思われる。

紀によれば宮中に祀られていたアマテラスは、第10代崇神の時に豊鍬入姫に託して笠縫村に移された。第11代垂仁天皇のとき、アマテラスを豊鍬入姫から離して倭姫命に祀らせた。このアマテラスという表現は、三種の神器を意味しているのだろう。

倭姫は菟田に移り、後に近江に移り美濃を巡って伊勢に至り、アマテラスのお告げによって伊勢に宮を立てた。垂仁はこの翌年に物部に指示して、出雲の神宝を献上させている。第12代景行天皇の太子・倭健が伊勢の倭姫より神剣・天叢雲を託されていることから、倭姫により、アマテラスの三種の神器は伊勢に移されていた筈である。

ヤマトタケルが焼津にて草を薙ぎ払い、難を逃れることが出来たので、神剣をこの後、草薙剣と呼ぶようになった。倭健から一時期尾張の美夜須比売にわたり、その後に熱田神宮に祀られた。

 この時期あたりで代器(レプリカ)になったとする論者もいる。「古語拾遺」には崇神の時代に、神威を恐れて同じ宮中に居られると不安であるとして、斎部氏に鏡と剣を作らせ、これを護身御璽とされたとある。

  これは今日の践祚の日に神の御璽として使う鏡と剣である。本物の鏡と剣は笠縫村に、神籬(比茂呂儀)を立ててアマテラスと草薙の剣を移した。その日の夕方、人は皆集まり終夜宴を開き楽で歌った。

 ここで注意を払いたいのは、古語拾遺には剣を移した記事だけが書かれていて、紀に書かれている倭大国魂神(大物主神と同一視されている)をも、宮中から同時に出したことは書かれていないのである。

重要なことではなかったので省略したのか。あるいはその事実がなかったのか、その詳細は分からない。古語拾遺を読む限り、朝廷の官人はアマテラスと別居することが余程嬉しかったように見える。これは何を意味しているのだろうか。

ちなみに崇神記には、大物主と意富多多泥古の物語はあるものの、アマテラスを移したという記事はない。

アマテラス勢力を支配して、その支配を確立し継続していくために、アマテラスを祀っていたが祟られることが多かった。ゆえに複製品を作り笠縫村へと追放したと言っているのと同じである。

ここで菅原道真の故事が思い起こされる。紀では言葉を濁して、オブラートで包んだような表現をしているが、古語拾遺は斎部氏(忌部)の家伝なのではっきりと書いている。

また、ヤマタノオロチから出てきた天叢雲剣の話のほかに、見過ごすことの出来ない重要な記事を載せている。

豊芦原中国を建御雷と経津主が平定したときのことである。大巳貴(オオナムチ)と事代主の二人が退去する際に、国を平定した矛を二神に授けたというものである。

「私はこの矛で国を平定した、天孫がもしこの矛を用いて国を納めれば、必ず平安が来るであろうから私は退去する。」と言ってその後隠れられた。

ここに経津主と建御雷は、帰順しない悪しき神々を誅し復命した。

という記事である。

この大巳貴と事代主の矛の事は他の古文献には見えない。実際は大巳貴が退去する際の条件として、所有していた貴重な剣を献上したのではなかったか。そのことが、ヤマタノオロチの伝説に置き換えられたかもしれない。

高天原勢力の以前に、大国を長く支配していた王朝の神剣を得て、新興勢力の宝となり後に神剣とされるようになった可能性がある。

大蛇がいて、その体内から剣が得られたという説は、科学的にも常識的にも信じられない。「神話」といわれる所以である、と言ってしまえばそれまでの事であるが、できるだけ科学的に究明していきたいものである。

尾張国風土記逸文には、倭健が夜厠に立った時に桑の木に架けた剣が光り輝いていたので、この剣は神気があるから斎き奉って我形影とせよと言ったので熱田社を建てたとある。

 熱田神宮の祭神・日神の象徴として、草薙の剣が祭られていたと考証しているのは松前健である。この剣が大蛇からでた天の村雲剣とは、本来全く違った剣であることは明らかで、同一視されただけであろうという。

田中卓は伊勢国風土記を引いて、倭姫命が伊勢に巡行したときに随伴していた大若子命が、草薙剣を使用して安佐賀の豪族を平定したとしている。

 そしてこの草薙剣は神代の説話を除いて、出雲の振根の検校・伊勢の平定・越の勢力の討滅・東国蝦夷の征伐にも使われたとする。

崇神天皇から景行天皇の時代に使われたものであり、これらは皆同一のものであり、今に伝わる三種の神器の一つであると信じてよいと言っている。

この間、およそ50年程と考えられるが、果たして当時の技術で作られた鉄剣が錆びもせず、折れることもなかったのだろうか。生活用具や武器も、進化していくであろうに最強の武器足り得たのか疑問である。

しかしながら実際に使う武器ではなく、天皇から討伐の全権委任を受けた旗印・象徴としての役割を負っていたと考えれば頷けるものがある。

第38代天智天皇のときに大事件が起きた。紀によれば道行という僧が、熱田神宮から神剣を盗み出して新羅へ逃亡を企てたのである。道行は捕まったが、後に許されて法海寺の開寺に携わった模様。法海寺略由緒によると、道行は新羅国王の太子であり、国王の命を受けて神剣を盗み帰国する目的で渡来したとある。(日本神話の考古学)

盗まれた神剣は熱田神宮に返された。

その後、第40代天武天皇のときに天皇の病気が重くなり、占ったところ神剣の祟りとされ、すぐに熱田神宮に返したと紀に記されている。この一時期は宮廷に保管していたようだ。

この後、神剣についての記述は殆ど見られなくなる。神宝についての興味は失われたかのようにもみえる。記は第33代推古天皇の記事までで終わり、紀は第41代持統天皇の記事までで巻を閉じる。この後の歴史書は「続日本紀」に移っていく。続日本紀の、第45代聖武天皇までの記事をチェックしたが、アマテラスや神剣についての記事は載っていなかった。

僅かに、元正天皇が鏡を見て心を痛めたという記事と、聖武天皇の時に出雲の国造が、熊野神社の神剣と鏡を献上した記事くらいである。その後の歴代天皇の事績にも目を通したが、目についたのは第100代後小松天皇が、吸収合併した南朝から三種の神器を受け取った記事くらいだ。

出雲国造はその代替わりごとに朝廷に出仕して、神賀詞を述べ貢献物を献上することになっていた。その品物の種類・数量も「臨時祭式」によって、剣・鏡・玉・馬などが細かく決められていた。天皇や朝廷の高官たちは、出雲の神宝・その中でも特に剣と鏡に強い執着を持っていたようだ。

出雲の国造の代替わりごとの神賀詞奏上は、戦国大名の起請文差し入れや、江戸時代の参勤交替や、独立した国が旧宗主国に挨拶に行くようなものだったと思われる。

出雲勢力は強大であったので、それだけに警戒され忠誠を求められたのか、或いは出雲側が、自らの正統性を認めてもらうためのデモンストレーションだったのか。大和側と出雲双方の思惑が入っているようだ。

 スサノオの剣は十握であるから、刃渡りおよそ60センチ程と思われる。しかるに草薙剣は、盗み見した神官の記録によると、約81~84センチ程である。十握の剣は名前のニュアンスからすると、今までになかった程に長い剣であったから、その長さにびっくりして十握の剣とよばれたように思える。

だが草薙剣はそれよりもまだ長い、十四握ともいえるほど長いもので、弥生時代の北部九州で出土した銅剣よりもかなり長い。

一体この違いはなんだろう。この辺に謎が含まれているように感じられる。産地の違いか技術の違いか、時代の違いか?また邪馬台国の会の活動報告によれば、刀剣研究家の川口渉氏が草薙の件について、熱田の尾張連家の言い伝えとして次のような内容を紹介している。

 長さは1尺8寸(54センチ)

 鎬はあって横手がない

 柄は竹の節のようで5つの節がある。

 区(まち:刃と柄の境部分)は深くくびれている。

 神体の入れ物は、樟の自然木を横に切り中をくりぬいてある。長さは4尺。

(1.2m)

 

 長さが54センチならば、スサノオの十握の剣(60センチ)の長さとあまり変わらないものとなる。こちらの伝聞の方がよりリアルなものとして迫ってくる。更に韓国慶尚南道良洞里出土の鉄剣の写真を見ると、尾張連の伝えと符合していてこの剣ではなかったかと思わせるほど酷似している。

 森浩一は十握の剣は鉄剣で(草薙剣は、やや銅製説が強い)草薙剣より強かった(勝った)のは十握剣と推測している。荒神谷遺跡で出土した358本の、銅剣の長さは約60センチで十握の剣とほぼ同じ長さである。

 この銅剣の製作年代は、弥生時代の中期末から後期にかけてとみられている。すなわち西暦、前100年~後100年及び200年にかけてということになろう。

 スサノオの剣の呼称  所在 吉備(岡山)の石上布都魂神社(祭神スサノオ)

日本書紀 (一書含む)

古事記

古語拾遺

先代旧事本紀

十握剣

十拳剣

 天の十握剣 

十握剣

蛇の麁正

斬蛇の剣

大蛇の羽羽 

蛇の荒正

蛇の韓鋤(からさひの剣)

生大刀

 天の羽羽斬剣

天の蠅斬剣

          

アマテラスの神剣の呼称  所在 熱田神宮

日本書紀 

古事記

古語拾遺  

先代旧事本紀

天の叢雲剣

都牟羽の大刀

天の叢雲

天の叢雲剣

草薙剣

都牟刈の大刀

草薙剣 

草薙剣

草薙剣

 都牟(つむ)は、おつむのつむ、頭を意味するという説がある。すると都牟刈の大刀の名前の意味は、頭を切る大刀ということにならないか。また、つむがりはアイヌ語であり、つむ=強い、ガリ=作る、立てる、の意味であるともいう。

スサノオの十握の剣は様々な名前で呼ばれていて、色々な伝承があったことを窺わせる。

 中でも「天の羽羽斬剣」の名は、重要な意味を示唆しているようにも受け取れる。「天の」が冠されると、どうしても天神系の氏族がイメージされる。

 天の羽羽とは、天の羽羽矢が連想されるのである。天神系氏族が用いる独特の武器・天の羽羽矢を切る剣、すなわち国神系のスサノオの戦いぶりを象徴しているようにも思える。

 「布留神宮記」には次のように記されている。「上古には蛇を羽々といえり、この剣蛇を切りし故に名づけたり、またの名を天蠅斬剣ともいえり、蠅その刀に飛べば自ずから斬られる故に名づける。」

 「蛇の韓鋤之剣」は、鋤という田器に似ていることから名づけられたと釈日本紀等に見える。旧事本紀には韴霊剣刀、布都主神魂刀、佐土布都、建布都、豊布都ともいえり。社家の伝説には八岐剣といえり。とある。

また「布留」とは「布」の転語ならん。「布留」とは「振」の字義なり。とも言っている。(神道体系)これにより初めて「布留」の由来が分かったように思う。

 草薙剣 歴代の所有者

 スサノオ

 アマテラス(天神)

 邇邇芸

 豊鋤入姫

 倭姫(伊勢神宮)

 倭健

 美夜須姫

 熱田神宮

天武天皇 

 熱田神宮

 布都御魂(剣) またの名を佐土布都神、または甕布都神

 所有者

 建御雷之男神

高倉下(天香語山命)

神武天皇

 所在 石上神宮(天理市)

 記をよく読むと神武は、邇邇芸の代からの草薙剣を授かっていないようだ。少なくとも託されたという記述はない。そして高倉下を通して建御雷の神剣を授かっている。草薙剣を託されているのなら、建御雷から布都御魂を貰う必要もなく、草薙剣を使えば敵を倒せたはずである。

 ここで不思議なことは、建御雷の持っていた剣は十掬剣(とつかのつるぎ)であり、国譲りの時に持参してその上に胡坐をかいている。古語拾遺によれば、大国主に攻め勝ったこの時に、大国主と事代主から矛を献上させている。

その後に芦原中国を平定した剣として、高倉下に授ける時には布都御魂という名称に変わっている。

 この間の事情をどう考えたら良いのだろう。十掬剣が芦原中国を平定したことにより昇格して「布都御魂」と呼ばれるようになったのか。また大国主から献上させた矛が、布都御魂となったとも考えられるのである。

建御雷は、芦原中国を平定した時の剣と言って高倉下に授けている。この言葉をそのまま読めば十掬剣になるが、大国主から献上させた矛のその後の行方は記されていない。

大国主から献上させた矛は、当然神宝として珍重された筈である。強大国に攻め勝ち、従属させた証としても大事に取り扱われたと思われるが、記・紀や諸文献にその後の記述はない。

大国主の矛が布都御魂にならなかったとすれば、神宝として天神系氏族に記録され、伝世されたと推測できるが、そうした様子は一切感じられない。これは大国主の矛が布都御魂に、変身したからその後の記述がないのであろう。

草薙剣はスサノオがアマテラスに献上したとあるが、詳しい経緯は記されていない。そこでその間の事情は推理・推測するしかあるまい。

スサノオは大蛇から得た剣をその婿である大国主に授けた、大国主はこの剣を国譲りの時に建御雷に授け、それがアマテラスに渡ったとすると比較的すんなりしたストーリーとなる。

一旦アマテラスに渡った剣は国譲りに成功した功績により、建御雷が管理していたと考えると、高倉下に授けることも可能になる訳である。

古語拾遺の記事にあるような事実は、なかったとすることもまた可能である。だが古語拾遺の記事を、歴史の中に組み込んだ方がより、しっくりとしたストーリーを形作ることになるのである。

熱田神宮の神官が、草薙の剣を盗み見た時の記録に「刃先は菖蒲の葉のようになり、中ほどはむくりと厚みがあり、全体が白い色をした剣であった。」とある。この記録を読む限り、銅矛が連想されるのは私一人ではあるまい。鉄剣は腐食して黒くなるが、白くはならない筈である。

 この推測が正しければ、古代天皇家の神剣は全て出雲、或いは芦原中国から出ている。長い歴史と文化をもった大国・芦原中国は北九州から畿内、紀州までを勢力範囲に収めていたと考えられる。

出雲の国神とみられるスサノオの足跡は、新羅から北九州そして紀州にまで及んでいる。出雲神社もまた然りである。高天原勢力の、最大のライバルであった芦原中国には神宝が蓄積されていたのだ。

言葉を換えて言えば神宝は、天神系が国神系の出雲勢力から簒奪したものであった。また神武に直接授けないのはどうしてだろう。神武は邇邇芸の曾孫である。思うに邇邇芸と神武は嫡流の系統・血筋ではなく、この間に火遠理命の系譜を挟んでしまったのではないか。

または神武は邇邇芸の傍系の血筋だったとも考えられる。もっと大胆に推理を進めれば、ここで支配者(氏族)が入れ替わったと主張することもできる。

「上記研究」では、アマテラスが神剣は元々自分のものであり、天の岩屋隠れの時に伊吹山に落としたものだと言ったとある。

 住吉大社神代記には社有の宝物の中に神剣草薙の剣があると記している。「神財流代長財」の項目に、神世草薙剣一柄、験あり、日月五星、左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武。と記されている。

 田中卓はこれを神剣を一時預かっていたこともあり得るが、おそらくは代器であろうと言っている。また禁秘抄に禁中の宝剣の一つには背に北斗、青竜、白虎の銘があり、百済から伝わったものかと記されている。

 これは恐らく後世に伝わったものであり草薙剣ではあるまい。草薙剣は古くから伝わった物なので、稲荷山鉄剣のような素朴なものと想像できる。

 さてここにもう一つ考証を加えるべき説と史料がある。それは「地名辞書」にある次の大和の記事である。

  「今、山辺村大字布留及びその山中の古名なるべし、石上神宮の石成神社参考すべし。備前国磐梨より蛇の麁正神を比に移したるに因り、其名出しならん。以之以波古言相同じ。」

 スサノオが大蛇を切った剣が蛇の麁正であるが、紀ではこの剣はいま石上にあると言っている。だが第三の一書には「今吉備の神部の許に在り」としている。このことは石上は大和の石上神宮ではなく、備前国赤坂郡にある延喜式内社石上布都之魂神社であるとする説がある。(青銅の神の足跡)

 神皇正統記にも三種の神器の記事は、村上天皇条、後朱雀天皇条、後鳥羽天皇条の三か所に記載されている。次に記事の概要を順に示しておこう。

 最初の記事は天徳年中に内裏が炎上して、神鏡は灰の中より発見されたとしている。「円規損ずることなくして分明あらわれ出給。見奉る人、驚嘆せずと云うことなし。」と御記にみえ侍る。と記しているが「御記」は不明。

 二番目の記事では長久の頃の火災で、神鏡も焼けたが猶霊光を放っていたので、その灰を集めて安置したとしている。

三番目の記事は平家滅亡の時の神器の状況である。平家滅びて内侍所、神璽は帰ってきたが、宝剣はついに海に沈んで見つからなかった。「昼の御坐の御剣を宝剣に擬せられたりしが、神宮の御告にて神剣をたてまつらせ給しによりて、近比までの御まぼりなりき。」

 内侍所は神鏡で八咫の鏡でありその正体は皇大神宮にある。内裏にあるものは崇神の時代に再鋳造された鏡である。宝剣の正体は天の叢雲の剣で熱田神宮に安置されている。西海に沈んだのは崇神の御代に同じく作り替えた剣である。神璽は八坂瓊曲玉であり、神代より今に変わらず代々の身を離れぬお守りだから、海中より浮かび上がってきたのも頷ける。と結んでいる。

 事実であるかもしれないが真に都合のよい、しかも合理的な説明となっている。最後に、「物知らぬ類は上古の神鏡は天徳・長久の火災にあい、草薙の宝剣は海に沈んだと伝えている」と述べている。

 一説には安徳より三代あとの順徳天皇の即位のときに、伊勢神宮の倉から一本の剣が選ばれて三種の神器の一つに加えられたともいう。