http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html 【高天原の侵略 神々の降臨】 より
阿遅志貴高日子根神の神度剣
忍穂耳は遣わされてすぐに帰ってきた、次に遣わされたのは天菩卑能神である。紀では天穂日神と表記される。田中卓の研究によれば、国造尊たか能よしが記した「天穂日命神社棟板」に「天穂日命大巳貴の命と君臣になる、また後兄弟になる。」と記されているという。
「千家鎮守社旧記」には「天神の許しを受け、大巳貴の尊を祀り奉る、…中略…吾体は即ち是天穂日命なり…中略…元は能義郡能義宮に祀られていたが、後に此処に新しく建てた」とある。(新撰姓氏録の研究)
上記二者ともに近世の資料ではあるが、天菩卑の子孫たる国造家の伝承を伝えている。
天菩卑神は大巳貴家から嫁を娶り、土地を貰って大巳貴が祀る神を信奉することになったのだろう。新撰姓氏録は16年の歳月を費やして、815年に成立したといわれている。天菩卑は出雲大社の摂社に祀られている。この出雲には、天菩卑は高天原から釜に乗って天降ってきたという伝説がある。神魂神社には今もその釜が本殿の脇の建物内に置かれている。(古事記の暗号)
天若日子が、神の放った返し矢にあたって死ぬくだりは「旧約聖書」の創世記にある話と同じである。中国或いは韓国から伝えられた古伝をここに挿入したものと思われる。
天菩比神一族は出雲に移住して、大巳貴に協力して行政等の手助けをしていたののあろう。後の子孫は出雲国造になっている。
谷川健一は 阿遅志貴高日子根神は元々大和葛城の高鴨神社に、祀られていた神で賀茂氏の神と見るのが常識となっていると述べている。
新編古事記
天若日子の遺族は喪屋を作り葬儀を営んだ。河雁を給仕として、鷺を片付け係とし、翡翠かわせみを供え物の係とし、雀を米つき女、雉を泣き女めとして八日八夜葬送の宴をした。
このとき、阿遅志貴高日子根神が弔問に来たが、若日子の父や妻は若日子は死ななかった、蘇って帰ってきたと言った。
若日子に似ていたことから間違われた高日子根神は怒り、友人だから来たのに汚き死人に間違えるなと言った。
そして怒りにまかせて剣を抜き喪屋を切り伏せ壊してしまった。その伝承地は美濃の国・藍見河の川上の喪山である。その太刀を大量おおはかり又の名は神度かむどの剣つるぎという。
武神・建御雷神
支配者が天から降臨する、天から高い峰に降りて来たという類の神話は、朝鮮から蒙古にかけての地域にも伝わっている。この点は北方的要素を持っているが、日の御子の降下・稲作(穂のににぎ)などの要素は南方的であり、南朝鮮の伝説と親近性を持っている。
北方的なものと南方的なものとが南朝鮮で結びついて、日本に入ってきたのではないか。(井上光貞)天孫降臨と大嘗祭には密接な関係があるとする説があり、構造が似ていることや類似の言葉が出てくることが根拠となっているようだ。
建御雷は不思議な人物である。記紀においては何らかの操作が加えられたと思われる。梅原猛は建御雷は經津主と同神であるとする本居宣長の説に賛同している。
建御雷の別名は建經津であり、また別の名は豊布都である。
建御雷が高倉下に与えた剣の名は布津の御霊であり、常陸国風土記に登場する「天下り来る神の名を布都大神」と同神とみる。
後に建御雷は鹿島に、經津主は香取神宮に祀られた。これに対し古語拾遺では經津主は下総の香取神宮(中臣系)にいるとしている。
建御雷が記に登場するのはたった二回しかない。出雲国造神賀詞にも、天夷鳥に經津主を添えて、天降し遣わしとあり、建御雷の名前がない。神道五部書では建御雷を「天津美香星」だと言っている。
鹿島神宮の宝物・剣は經津の御霊、石上神社の神剣は經津の御霊である。松前健は經津主は元々は中臣氏や出雲氏とは関係がなく、物部の霊剣布都の御霊の神格化なのであると言っている。
梅原猛は建御雷に活躍させるのは、両神を祖神として祀っている藤原氏の策略という。經津主を表に出して活躍させると、それは物部氏の功績を際立たせことになるからという理由である。
従って建御雷を創作しここに嵌め込んだという論理を展開する。經津主も藤原氏の支配下にあり、記の作成が藤原氏の影響下にあったことを知られたくなかったとする。
確かに建御雷の存在性はあやふやなもので、大きな功績を挙げた割には一回しか登場していない。
もう一回の登場は行動ではなくセリフだけで登場している。建御雷はイザナギの剣についた血から生まれた神であり、親もいなければ子孫もいないとされている不思議な存在である。
強いて言えばカグツチの血から成り出た神なので、カグツチの子になるのかもしれない。芦原中国を攻略した最大の功労者にしては、出自もはっきりせずその後の事績も語られていないという、不可思議なキャラクターである。
記の国譲りでは主役を演じている建御雷神だが、松前健は本来の功績者は紀が主将としている經津主であったことが、神賀詞に語られているとしている。すなわち建御雷神は中臣氏が自分の祖神である建御雷神を割り込ませたとみている。
中臣氏は6、7世紀頃から中央に台頭著しかった氏族であり、後には重要な祭祀を殆ど一手に引き受けるようになった。
ここに誰も論じていない不思議なことがある。建御雷の持っていた剣は天下りをして国譲りを迫った時には十握の剣と呼ばれていた。
しかしながら建御雷が、熊野にいる高倉下に与えた剣の名は「佐土布都神」と名前が変っている事である。この剣は建御雷が「吾は降らずとも専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべし。」と言って、高倉下に与えた物なのでおなじ剣である。
しかるに、記のこの項ではその剣は又の名を甕布都神、または布都御魂という、と説明している。
十握の剣が国譲りの功績で箔がついて、佐土布都神と名前が変わったのであろうか。布都(ふつ)は光ること・神の降臨することとされる。甕(みか)は御厳(みいか)の意接頭語である。(次田真幸)
建御雷の父は伊都之尾羽張神(又の名は天の尾羽張神)であるが、伊都之尾羽張神はイザナギがカグツチを斬った剣の名である。すると更に不思議なことが出てくる。イザナギが持っていた剣が建御雷に伝わっている事である。
記では建御雷は伊都之尾羽張神の子としているが、その前段ではイザナギがカグツチを斬った時に、剣についた血から建御雷が生まれた、と語っている。ということは
建御雷の方が先に生まれた、あるいは建御雷と伊都之尾羽張神は兄弟であったとも考えられる。
いずれにしろ建御雷を生みだしたイザナギが父であるとみられる。すると、イザナギからその剣を受け継いだ正当な系譜・嫡流であったのだろうか。建御雷は中臣氏の氏神であるが、物部の神宝を授かっていた。このことは暗に中臣氏が物部の神宝を簒奪し、その権力を継承したことを物語っているのかもしれない。
新編古事記
高御産巣日は今度は誰を差し向けようかと言った。思金ほか幹部は天の安河の川上の天の岩屋に住む伊都之尾羽張は天の安河の水をせき止めている。彼が適任ではという。
伊都之尾羽張は、それは我子の建雷を遣わすべしと言った。高御産巣日は建雷に天鳥船を添えて派遣した。
二人は河内湾から上陸し、長刀・十握剣を旗印として木に掲げ進軍した。何回かの小競り合いに勝利した後に大国主に問いただした。
汝の葦原中国は海人族の御子の治める国との仰せだが汝は如何に。大国主は吾は引退しているので答えられぬ、今は漁に行っている我子の八重事代主神と交渉せよ。と返事をした。
建雷は天鳥船を遣わし、事代主を呼び戻し改めて問うと、この国は海人族の御子に奉らんと答えた。そして神籬を造りその中で自害して果てた。
建御中方神 諏訪まで撤退
建御中方は軍部を掌握している将軍のような、存在であったと見ることができる。あるいは戦士達に人気があり、影響力を持っていたと考えられる。海に程近い荒神谷遺跡から、整然と並べられ埋納された358本もの大量の銅剣が発掘されている。これらは弥生時代の製作になるものとされている。
荒神谷遺跡を取り囲むように、建御中方を祀る神社が六社あるのも関連性を窺わせる。高天原勢力の軍事力に屈した建御中方が埋納したものではなかったか。武器を捨てること諏訪へ退くことを、降伏の条件とされた可能性もある。大巳貴は出雲に太い柱で高い宮を建てることを望んだ。
諏訪神社にも御柱祭が今に続いている。太い木を伐り出し、運び立てる行事は大巳貴の故事にどこか似ている。
紀の一書には、大巳貴の神殿の建築の様子が詳しく書かれているが、従来それは誇張されたものと考えられていた。しかるに先頃の柱穴の発見で紀の記事の正しさが証明されたのである。
諏訪神社は戦国期いらい武将の信仰を集め、全国に七百社ほども勧請されその末社が存在している。神名大鑑にある信濃の神社約百社のうち、三割強が建御中方を祀っている。建御中方の後裔諏訪神家は三十三氏があった。その後氏族はさらに増えて一族は百六十氏近くにもなった。
建御中方は信濃に第二出雲王朝を建てたのであった。(謎の出雲王朝)記の建御雷と建御中方の力比べの話は紀には出ていない、松前健はこの話は水の精霊お諏訪大神の格闘の話としている。建御中方は諏訪の祭神で出雲とは全く無縁の神であるという。
中世にできた「諏訪大明神画詞」によると、先住の幾多の神を打ち負かし征服者として乗り込んできたとされている。
新編古事記
建御雷、天鳥船神両人は事代主は承知したが他に意見を聞く人はあるかと大国主に尋ねた。
大国主は我子建御名方がいる、そのほかにはいない。と答えた。其処に大石を下げもって建御中方が現れ、わが国に来て難題を突きつけているのは誰だと言い、建御雷軍に襲いかかった。
一旦は退いた建御雷は夜陰にまぎれて焼き打ちをかけ、混乱の中に一気に攻め込んだ。御名方はこれを恐れて退却した。
建御雷は信濃の諏訪まで追いかけて行った。建御名方は降参し諏訪からは出ないことを誓い、葦原中国は海人族に献上するから命は助けてくれと懇願した。
大国主神の敗北と講和
出雲神話は出雲の伝承・説話を、中央が刈り取り記紀に組み込んだといわれる。ところが、この出雲神話は本から中央で創造されたものであるとする説がある。大和朝廷が作り上げた説話であれば、出雲国風土記に見られない理由が納得できる。記・紀を読んだ後世の人々が、その説話に基づいて自分の国に地名説話などを創り上げていったとも考えられる。これらが今も伝えられている伝承になった可能性はある。
田中卓は出雲の国譲りは、崇神天皇の時代の神宝検校の史実が反映しているという。
国の唯一無二の神宝を、手放さなければならない事態とは降伏を意味し、従属の証として差し出したものであると考えるのが普通であろう。
出雲族の根拠地は大和であり、国譲りは大和において行われ、出雲族とその神は出雲へと放逐されたと論じるのは梅原猛である。出雲族の子孫は三輪氏、賀茂氏であり、賀茂氏の神は葛城の高鴨神社である。大巳貴の息子事代主の本拠も大和の高市郡雲梯神社である。(神々の流竄)
これは大変魅力的な説であり、おそらく事実はその通りであったのだろう。事代主の説話は出雲風土記や延喜式には見えていない。事代主が海で船を傾けて隠れたという美保の崎もミホススミの鎮座地で事代主とは関係がないという。松前健は「コトシロ」は普通名詞で、託宣を行う依り代を指しているとしている。
事代主を祀る神社は、大和の葛上郡鴨都味波八重事代主命神社、高市郡の御県坐鴨事代主神社などである。
出雲国造の神賀詞は記・紀の説話に近い内容を伝えている。概要を示せば次のとおりである。
天孫降臨に先立って天菩比が国見をした後に、その子の夷鳥に布都主を副将として遣わし、大巳貴を鎮め国土を献上させた。大巳貴は隠退にあたって自分の和魂を鏡につけ、大物主という名で三輪山に鎮め、御子のアジスキ、事代主、カヤナルミ等の御魂を、それぞれ葛城、雲梯、飛鳥などの神奈備に鎮め、自らは杵築大社に静まった。
またこの由来によって玉・剣・鏡などの神宝の献上がなされたとしている。松前健はこの話は、国造が自家の世襲の時に用いていた呪術を、天皇家に対する服属・奉祝の儀礼に転化したものと考えている。
物部氏が神宝を持って自家の鎮魂方式を宮廷に持ち込み、鎮魂祭での天皇の鎮魂の方式が始まったのと似ていると考証している。
古語拾遺には大巳貴(オオナムチ)と事代主の二人が退去する際に、国を平定した矛を二神に授けたという記事がある。おそらくこの事を指しているとみられるが、武光誠はこの矛を何故か広矛と断定している。
そして広矛は、弥生時代の末期にあたる三世紀末の矛を指しているという。広矛を献上する伝承は、弥生時代末に出雲氏が朝廷に対して行った事を示すことになる。この時に出雲氏は銅矛を用いる祭祀を捨てるとともに、古墳作りを始めて鉄剣を愛用するようになったと論じている。
少彦名が去って大巳貴が困っている時に、御諸山の神が現われて我を倭の青垣の東の山の上に祀れと言った。これは大和の三輪山の事である。さらに天香具山が大和にある事も一つの傍証になりうる。ちなみに出雲風土記にはこの国譲りの話は載っていない。
梅原猛は出雲大社が出来たのは比較的新しく記・紀が成立した頃であるという。(先述したように原出雲族の古伝承では、出雲大社が熊野から杵築へ移ったのは霊亀二年・716年としている。)
国譲りの際に水軍の将、事代主は、天孫族に恨みの言葉を残し海に飛び込んで自害した。その時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である。
また大国主は出雲大社の裏山の、鵜鷺峠の神がくれの岩屋に幽閉されて死んだと伝えている。出雲を占領した天菩比一族は、更に大和へ進攻してここの出雲族をも降した。(謎の出雲帝国)
この国譲りの大事件を松前健は、出雲一族を物部氏がバックアップして大巳貴祭祀権を掌握させたことを神話的に物語った、と簡単に片づけてしまっている。その時期は物部氏が中央で勢力を張っていた5,6世紀の頃としている。
その後は物部氏は没落し經津御霊(布都御魂)の祭祀も中臣氏に奪われている。
出雲大社に祀られている大国主は西を向いている。これに対して参拝者は南から拝礼するので、大国主の横顔を拝んでいることになる。
参拝者が来る南側を向いているのは、御客坐五神の天之常立神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、神産巣日結神、高御産巣日神、天之御中主神である。井沢元彦はこの現象を取り上げ、参拝者は客坐の五神に拝礼しているのと同じという。
人あるいは神に挨拶するのに、その人が横を向いているところへ頭を下げるのはおかしいからという。
更に出雲大社のこの構造は保安官事務所と同じであり、大国主は留置場にいるように見える。この五神は大和朝廷の神であり、閉じ込めた大国主の監視役である。出雲大社の注連縄は、一般の神社と左右を反対にして張ってある。出雲大社は祟りを恐れて大国主を祀っている死の宮殿であるとしている。
また井沢は「出雲」は当て字であり、「イツ」は「厳」で「モ」は「モノ」(霊魂)とする千家尊統説に賛同している。
神皇紀では、アマテラスが出雲に獄舎を設け「天獄」と名づけ、スサノオを監督官にしたとしている。
武光誠は六世紀初めまでは大国主だけを、国造りの神として祀る信仰が全国に広がっていたという。王家の勢力が伸びる継体朝頃からアマテラスが、大国主よりも遥かに上位の神であると主張し始めた。六世紀の半ば頃に大国主の上に、アマテラスとスサノオを繋いだ神話が整えられたと推考している。
新編古事記
建御雷、天鳥船両人は諏訪から帰って大国主に対した。大国主はこの国は献じるが、我の住処を太い柱で天高く建てて吾は永遠に隠居する。我子孫は事代主が仕えていれば反乱しないでしょうと言った。
出雲の多芸志の小浜に屋敷を立てて水戸の神の孫・櫛八玉神に神饌を供えさせた。
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