高天原の侵略 神々の降臨 ⑥

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より

石神神宮では上述の十種神宝とは別に、拝殿裏の地中から各種神宝・神剣が発掘されている。明治7年の「石上神劒発掘の件」報告書では要約次の如くである。

拝殿後の封土は正中線の一丈ほど後にあり、高さは二尺八寸余、中央に要の木の一株がある。

右平地より凡そ一尺余の地中に一面瓦で蓋をしてあり、尺或いは尺余の石を積み重ねて境界をなし、地面より三尺ばかり下に緑色の曲玉・管玉など甚だ多く土石に交じっていた。

正中より五尺ばかり西側に四つに折れた剣があり、又東側正中を距てること三尺ばかりの所から、剣一振り出現、此れは折れ損じ候所もこれなく。伝説の如くこの剣韴孁なること疑うべきにあらねば、神庫に鎮安仕置候。

  神剣が神殿や神庫ではなく、地中に秘蔵されていた理由について同社は応仁以来、人の横暴により神社・寺の破壊が数多くあり、同社も永禄11年には尾張の武士によって宝蔵所等が破壊された。

  その為、宝物や記録が散逸してしまった経験から神剣を埋蔵していたと説明している。この時に発見された神剣は長さ二尺八寸、幅一尺一部の長刀とみられ、先の十種神宝秘伝記の神剣、十握剣(短剣)とは明らかに違うものである。

菅谷文則は石上神宮の神宝の殆どは、前期古墳時代のものと言っているが、秘伝記の神剣や神宝の形状などは、何故か仏教殊に密教の仏具をイメージさせるものがあるように思われる。

 拝殿後の地中より出てきた神剣は、長さや形状が埼玉稲荷山古墳の鉄剣にやや近いようである。推測にすぎないが、十種の神宝は神剣よりも後に伝えられた物ではないだろうか。

記の記事にはスサノオの娘須勢理姫が大国主に蛇の比禮と蜂の比禮を渡したとある。また綿津見の神が山幸彦に塩光玉と潮干珠を授けている。

 これらの記事からは上代には危難にあった時に比禮を振ったり、珠をだして祈願する信仰があったことが窺える。この比禮も玉も饒速日は天神から授かっていた。この十種の神宝のうちの幾つかは今も実際に使われている。十一月に行われる石上神宮の鎮魂祭がそれである。

祭りの中盤、神主と禰宜が拝殿中央の御簾の中に入り、灯りは消され、ひーふーみーよーいーむーなーやーこーとーふるえゆらゆらと、と呪文を唱え鈴をチャリンと鳴らすという。正に死者蘇りの儀式であろう。 

石上神宮略記では、祭りの起源を神武天皇の即位元年十一月、宇摩志麻遅命が勅命により神剣・布都御魂を宮中に奉仕し、その父饒速日から伝わる神授の十種の神宝と、鎮魂神業とをもって天皇のために奉仕したことに始まると記している。(謎の出雲帝国)

天孫の邇邇芸命はこれに対し三種の宝しか授かっていない。これでは危難にあった時に対処できない。これを普通に解釈すれば饒速日が嫡流であり、邇邇芸命は傍流ということになろうか。紀の一書の六と八では邇邇芸命の兄が火明となっている事も傍証を固めることになろう。饒速日の降臨説話が邇邇芸の降臨譚に盗用され、とり込まれたことさえも考えられる。

石上神宮で今も唱えられている「十種の祓詞」には、 饒速日は河内の河上の哮峯に天下り、後に山辺郡布留の石上神宮に移ったとしている。鎮魂祭で唱える祝詞は先代旧事記とほぼ同じ内容である。

 どちらも数を数えた(唱えた)後にふるへ、ゆらゆらとふるへ、などの言葉が入っている。

神皇正統記では宇麻志間見の命が叔父の長髄日子を殺して、神武に従い饒速日の持ってきた十種の神宝を献上した。神武は甚だ褒めて天より持参した神剣を授けた、この剣を豊布都の神という。初めは石上にあり後に鹿島の神宮にある。神武は十種の神宝も後に宇麻志間見の命に預け石上に安置した。と述べている。

古代氏族、宇佐家の伝承では物部氏の原住地は筑後平野で高良神社がその氏神であり、神武東遷以前に饒速日は部族を率いて大和に移ったとしている。

  饒速日を祀る主な神社は次の通りである。

大和 鏡作坐天照御魂神社、他田坐天照御魂神社 

山城 木島坐天照御魂神社、水主坐天照御魂神社

摂津 新屋坐天照御魂神社

丹波 天照玉神社

播磨 揖保坐天照御魂神社

 天照御魂神はアマテラスとは別の日神であり、尾張氏が奉斎する神であり、饒速日を日神とみなす人たちの手で祀られている。(谷川健一)

生駒山の北にある饒速日山は別名を草香山という。饒速日山には太陽信仰があり、神体山として礼拝されていた。頂上には饒速日を祀る上ノ社があり、生駒郡富雄村にある長弓寺の登弥神社が下ノ社と呼ばれていたという。物部氏が滅ぶと山上の饒速日の神霊は下ノ社に移されたという。

長髄彦は伊勢国風土記逸文によると、「胆駒長髄」と記され、生駒大とは関係が深いことが分かる。谷川健一は饒速日の降臨は、銅鐸などを作る工人の東遷に符合しているとしている。

物部氏は倭国の大乱に見舞われた弥生中期後半頃に東遷したと論じている。更に谷川は筆を進めて、邪馬台国が東遷してきた時に、大和に居た先住者・政治主体は饒速日を中心とした物部氏であるとする。この邪馬台国と饒速日の戦いが神武東征説話の中核の物語る所である。

 そして饒速日は天の磐樟船に乗って河内湾の日下にやってきた。物部氏には「マラ」の付く人物が多く、銅や鉄の精錬に従事する集団であったことが分かると述べている。

物部氏の東遷の時期は二世紀の後半で、摂津、河内、和泉、大和へと入った。

邪馬台国の東遷よりも早くから大和に侵入した物部氏は筑紫平野の出身である。それは氏名から分かり、今に残っている信仰からもそれと分かるのである。

畿内に移住した物部氏は、大和に勢威を張っていた長髄彦と婚姻を結んだ。この物部氏の東遷は邪馬台国の東遷の先発隊に他ならない。

大和朝廷は服従した物部氏を厚遇し、それは内物部氏と呼ばれ屈服しなかった物部氏は蝦夷と行動を共にして東国へと去った。

異伝として、延岡市の五ヶ瀬川の二子山速日峯に天孫降臨の伝承がある。その近くの臼杵郡与狩の天神社には饒速日が祭神として祀られている。(白鳥伝説)

 物部氏は更に常陸国にも降臨説話を残しているのである。まるでこちらが天孫族の本家であったかのようにも思えてくる。

「常陸国風土記」には古老の話として、大昔に天降ってきた「普都の大神」が日本各地を巡行して荒ぶる神を平げた。この普都の大神は物部氏の神で石上神宮に祀られている。

 物部氏は常陸の地に信太群を領有しており、下総の香取社は物部氏が奉斎する神社である。長い史料と論証を重ねた末に民俗学の大家、谷川健一は次のように断定したのである。

 物部氏の東遷は倭国に大乱があった時で、河内の日下に根を下ろし「ヒノモト」と称し王国を築いた。邪馬台国の東遷は楽浪・帯方両群が消滅した時期に行われた。

倭国の中心であった邪馬台国は機内で物部を打倒し、「唐書」にいう「日本」を併合しその国号を簒奪した。

 記紀に征討の記事がない国は近江、美濃、飛騨、尾張、山城、河内である。安本美典はこれらの国々は既に、饒速日の治める領域に入っていて天皇家との連合政権が成立し、次第に天皇家が領有し物部系が現地の管掌権を持つようになったと推考している。尾張や美濃など大和朝廷による征討伝承のない国々を、宇摩志麻治が平定したという伝承があると論じている。

 先代旧事本紀には饒速日の天降りに随伴した豪族や船長、40人余の名前が詳しく記されている。その豪族の名前の多くは、北九州の地名と類似のものとして読みとることができる。

 これらの地名の中には大和と同じものも見受けられ、九州から大和へと地名が移って来たという事も考えられる。

  葦原中国の侵略

 葦原中国とは高天原以外の東日本を指しているように見受けられる。中心的な役割を演じているのは、北九州から出雲、畿内にかけてと紀州の地である。局所的な言い方をするときは、大和平野を想定していると推測される。

 平坦で芦が生い茂り、豊富な水・土壌があり水田耕作に適していると思われたのだろう。大和には巻向川、初瀬川、草川、五味原川などがありいかにも芦原の名がふさわしく思える。

 大和には今も芦原に似た茅原●●大墓古墳の名前が残っている他、桜井市に出雲の地名が残っている。古代の大和平野の纏向遺跡の辺りは出雲庄(初瀬町)であり、三輪山には国神系の大物主が祀られていたことから、この地域の支配勢力は出雲系だったと知れるのである。

 岸俊男によるとは文明年間の絵図に、初瀬川沿いの江包と大西の中間にオオナムチの小字名があるという。そのすぐ近くには素盞鳴神社がある他、大西にある杵島神社の末社には稲田姫が祀られているという。

 近年、大和は原出雲族の支配地だったとする識者が増えてきている。武光誠は三輪山の大神神社は、大和の大国主信仰の核となっていたという。高天原勢力は葦原中国に対し再三の侵攻を試みてついに国譲りを成功させたが、後に侵入した土地は大和であって出雲ではなかった。日向降臨譚を別にすれば、天孫は何故出雲に降臨しなかったのか、その謎も氷塊するようだ。

 弥生時代の山陰は、早い時期には北九州との密接な関連が見られるが、三世紀の頃には畿内勢力と結んでいたことが窺われる。出雲には特異な勢力が、存在していたとみられがちだが事実はそうなってはいない。出雲にある前期の古墳からは鏡が出土しているが、量は多くなく鏡式にも種々あるので、畿内勢力によって分与されたと考えられる。(新修島根県史)

 高天原勢にとって、当初から水の豊かな平野が広がる大和は垂涎の土地であったのだ。大和にその豊かな土地があることは、饒速日やその他の一族が既に何度も移住していたことで高天原にも伝わっていた。

 日向に天孫降臨して勢力を拡大した後に、大和へ侵攻を開始し国譲りを迫り、大和での支配権を徐々に確立したものと考えられる。すなわち国譲りと天孫降臨の順序が逆であったのではなかろうか。この場合、邇邇芸命の日向降臨が神武の大和侵入譚に反映しているとみられる。

 日向三代と言われる邇邇芸、穂穂手見、鵜葺屋葺不合は、何れも九州南部の豪族と婚姻を通じて深い関係を持っている。天皇家の原郷は九州南部にあったと考えても決して可笑しくはないと思われる。

 出雲は神話のほかには、政治的な事績を具体的に語られている部分は少ない。門脇禎二は遺跡などから、四世紀中頃の出雲は健部郷、塩路郷、杵築号、宇賀郷の四地域が連合体制を敷いていたとみている。日御碕は海上交通の重要港であり、連合体制の中心にはキツキ神があったという。

 出雲国造の神賀詞に三輪山や葛城山の神奈備に、神々を鎮座させたという件が出ているが、これは蘇我氏政権下に出雲西部に進出したことを考え合わせると自然に理解できる。出雲西部が大和政権の服属下に入ったのは、六世紀後半から七世紀初めの頃でこの時に出雲の祭祀権が献納された。(出雲の古代史)

 鹿児島県の肝属郡には唐仁古墳群と呼ばれる大古墳群がある。そこには前方後円墳六基、円墳百三十三基もあり、唐仁大塚古墳は全長137メートルもの大古墳である。その時期を五世紀前半と推定されているようだ。

 唐仁古墳群の北には全長135メートルの横瀬古墳がある。森浩一はこの古墳は「ヤマト・カワチ」的で大和か河内から古墳造営の技術者を派遣しないかぎり、築造できないという印象を持っているという。

 これらの大王墓ともいえる規模の大きさの古墳を築造できるほどの勢力はいったい何者であったのだろう。畿内地方へ東遷した高天原の残存勢力が更に発展を遂げたのではなかったのか。

 九州南部とみられる熊襲は、時代に応じて何度も反乱をおこしている勇敢で好戦的な勢力である。一派を畿内地方に送り出しても、地元を有利な扱いにしてくれないのなら、首をすげ替えてやるといった気概が窺われる。薩摩が中心となって成し遂げた明治維新が思い起こされるのである。

 記紀の編者は収集した全ての説話・伝承を網羅し記事に仕立てあげた為に生じた矛盾であった可能性が考えられる。記紀では一つの説話を別の時代の出来事として、二つの説話を作り二つの記事にしている所が幾つも見られる。

 この場合、登場人物の名前も変えられて説話の内容も少し変ったものになっているが、全体を貫くストーリー性・プロットはほぼ同じである。少し注意して読むと、良く似た話が前にも出てきたとすぐに察せられるのである。

 近江雅和は伊勢の伊雑宮は原出雲族の「イサワトミ」を祀る神社であったという。「イサワトミ」は神名帳考証などによると伊勢津彦の子供とされる。

「宗像三神奉齋神社調」によると宗像三女神または、そのうちのどれかの女神を祭る神社は京都府に146、全国で6,117もあるという。(古代史の窓)

大変な数である。これらの地域には、大巳貴系氏族の影響が及んでいたことが考えられる。

 大国主の末裔・富氏の伝承によれば、大和や紀伊は出雲の分国であるとしている。出雲王朝は北九州から新潟に至る地域を領有していたのである。(謎の出雲帝国)

 柳田康雄によれば、吉野ヶ里遺跡の近くで出土した銅矛の鋳型は、島根の志谷奥遺跡や荒神谷遺跡の一部の銅剣と共通の鋳型である可能性を指摘している。(海を渡った人びと)

 弥生中期から後期にかけてはその墓の数などから、近畿よりも北部九州の人口の方が圧倒的に多かったという。(諸王権の造形)

 アマテラスはよそ者だとする説、天皇家の祖先ではないとする説を唱える論者は多い。これに光明を当てると思えるのが、岡政雄の論証である。次にその要約を紹介しよう。

 「高御産巣日神系の北方民族が侵入して来て、アマテラスを信仰する先住の農耕民族を征服し王朝の基礎を築いた。後の天皇族であるが、民族の人数が少なかったことから、先住民族との混淆が急速に進んだ。

女子は多くは伴って来ていなかったから先住民族との通婚が行われ、その習俗の基に夫婦は別居し子女は母の家で育てられた。先住者の文化が必然的に多く取り入れられ、その奉斎するアマテラスを天皇家の祖先として仰ぐようになった。」

先住民族は南方系の文化を担う種族であり、その象徴的な名前が天忍穂耳である。

出雲に中東から移住民がやって来たという説もある。その端を発しているのが旧約聖書に云うエサウとヤコブの兄弟の物語である。弟のヤコブ(イスラエル)とその子孫に迫害され続けた、エサウの子孫はやがてエドムから追放された。このエサウ族が辿り着き住んだのが出雲だという。だが出雲の国もまた国譲りによって失うことになったとしている。(船と古代日本)

谷川健一は、邇邇芸命、穂穂手見命、鵜葺屋葺不合命の三代は全て南方系の海神族と結婚しているという。

この南方系種族は中国の揚子江沿岸から、海南島にかけて居住する海人族で大きな耳輪を下げていた。先の三代の子の殆どに「ミミ」の名前がついている事と関連している。倭人は呉の太白の後裔と称しているが、倭の原郷である南中国の痕跡は補陀落渡海にも見ることができる。

カムヤイミミを祖とする耳族の根拠地、肥後の伊倉や高瀬からも補陀落渡海が行われているのである。南方系の原始的な金属文化が稲作を伴って日本にもたらされ、各地に定着していった。その後に馬や古墳を伴う北方系の支配種族の文化が齎された。その時期は四世紀以降とみられる。(青銅の神の足跡)

 古語拾遺には高御産巣日の子の名前と部下の名前が次のように記されている。栲幡千々姫命、天忍日命、(大伴の祖先)天太玉命、(齊部氏の祖先)。

 天太玉命の部下は阿波の忌部氏の祖先の天日鷲命、讃岐忌部氏の祖先の手置帆負命、紀伊忌部氏の祖先の彦狭知命、出雲忌部氏の祖先の櫛明玉命である。

 これにより高御産巣日の子孫は強大な勢力となったことが判明する。また同書によると高御産巣日は八十萬の神を、天の安河に招集していることから最高度の権力を掌握していたことも窺われる。

 谷川健一は高御産巣日と縁の深い神社に、山城の月黄泉神社があるほかに大和の高御魂神社にも祭神として祀られているという。高御魂神社には新羅からの使者が貢物をもたらした時には、そのあくる月に新羅の調を奉っている。

 こうした事実から高御産巣日は新羅と縁の深い、或いは新羅からの渡来神とする説があることを紹介している。

 この他、対馬には高御魂神社があり壱岐でも高御祖神社に高御産巣日を祀っている。このように高御産巣日は初めは対馬や壱岐に根拠を持っていて、大和・山城へ招請されて天孫降臨では主役を果たすことになった神である。これらの事から高御産巣日の出自が、朝鮮半島と関係あることは自ずから窺われる。(青銅の神の足跡)

 新編古事記

 アマテラスは豊葦原の瑞穂の国・大和は、どうしても我子の忍穂耳に与えたい国であると言い、忍穂耳を攻略先遣隊として派遣した。

正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、海人族が常に使っていた沿岸航法で侵攻して行ったが、攻勢に備えていた大和軍の待ち伏せに会い撤退を余儀なくされた。帰着した正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、敵は頑強な布陣をしていてとても破れそうもないと報告した。

この時にはアマテラスは既に死亡していたので、高御産巣日が天の安河に幹部を集めて協議した。「大和の豪族共はなかなか手ごわい、これを打ち破るには誰を派遣したらよいか。」参謀格の知恵者、思金ほか幹部は天菩卑が適任と判断した。

 天忍穂耳命に変わって大和に侵攻を開始した天菩卑は、当初は善戦したものの二~三ヶ月もすると食料や衣服の調達に支障をきたすようになった。困った天菩卑は大国主に停戦を申し入れ、食料などの提供を受けるに至った。

 時は流れ天菩卑は大国主から小領地を与えられ、いつしか土着の豪農へと変身していった。

 天菩卑からの報告がないまま三年ほど過ぎたため、高御産巣日は再び幹部を集め協議した。大和の国はどうしても支配したい豊かな国である。大和軍に勝てる者はいないかと。ここに思金は、天津国玉の子の天若日子ならやってくれるでしょうと答えた。そこで若日子に当時の最新の武器・天の真鹿弓と天の羽羽矢を授けて派遣した。

若日子が出雲の国に到着すると、待ち構えていた大国主は下照姫を差し出して同盟を持ちかけた。下照姫の美しさと、与えられた領地に満足した若日子はそこに住みついて8年程を過ごした。

 高御産巣日は雉鳴女を使者として遣わして、復命しない理由を問わしめた。天若日子は鳴女の叱責に怒り、天の波士弓・天の加久矢をもって鳴女を射殺した。

鳴女の従者はその矢を持って高天原に帰った。怒った高御産巣日は密かに刺客を送り若日子を殺した。