http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html 【高天原の侵略 神々の降臨】 より
新編古事記
八千鉾神は越の国の沼河姫は美人だと聞き、妻にしたいと思い出かけて行った。その家の前の立ち、姫に向かって恋心を歌にして唄っていたが夜が明けてしまった。
沼河姫は戸の内側から歌を返して、夫は求めていますが今暫くは心の準備をさせてください、明日の夜お待ちしていますと唄った。
大国主とタギリ姫とはアジスキタカヒコネ、イモタカヒメ・シタテルヒメを産んだ。アジスキタカヒコネノはいま賀茂の大御神という。
カムヤタテヒメとの間にはコトシロヌシノが生まれた。ヤシマムジの娘の鳥取との間に鳥鳴海が産まれた。
鳥鳴海がヒナテルヌカダビチオイコジを娶って産んだ子はクニオシトミ。
クニオシトミがアシナダカ又の名をヤガワエヒメを娶って産んだ子は、ハヤミカノタケサハヤジヌミ。
ハヤミカノタケサハヤジヌミがアメノミカヌシの娘、先玉姫を娶って産んだ子はミカヌシヒコ。
ミカヌシヒコがオカミの娘ヒナラシヒメを娶って産みし子はタヒリキシマヌミ。
タヒリキシマヌミがヒヒラギノソノハナマズミの娘イクタマサキタマヒメを娶って生みし子はミロナミ。
ミロナミがシキヤマヌシの娘アオヌウマヌオシヒメを、娶って生みし子はヌノオシトミトリナルミ。
ヌノオシトミトリナルミがワカツクシメを娶って生みし子は、アメノヒバラオオシナドミ。
アメノヒバラオオシナドミがアメノサギリの娘、トオツマチネを娶って生みし子はトオツヤマサキタラシ。
以上のヤシマジヌミからトオツヤマサキタラシまでの神々を十七世の神という。
少名毘古那神 八束水臣津野命
大国主が出雲の東端、美保の岬に侵攻し従えた土地の豪族が、少名毘古神であり後には代官として大国主に協力して現地を統治したのではないか。少名毘古那神は粟と縁があり、穀物神であったとする説がある。
八束水臣津野命は出雲風土記では主役とも言える位置にいる。国引きをして出雲を大きくしたことでつとに有名な神である。記に見える淤美豆奴神と同じとされる。八束水臣津野命の地名説話は意宇郡、嶋根郡、出雲郡にあり、大巳貴やその他の神よりも多い。
このことから八束水臣津野命はこれらの地方で勢力を張っていたのであろう。記では淤美豆奴神を、八束水臣津野命の祖父として位置付けているが風土記では明らかにしていない。
八束水臣津野命の信仰はより古いものと考えられ、大巳貴の信仰は本来的な根深いものではなく、次第に力をつけ八束水臣津野命の信仰にとってかわったということが窺われる。(日本国家の成立と諸氏族)門脇禎二は八束水臣の国引き神話は意宇を中心にして、五世紀後半から六世紀初めにかけての国造りの足跡を、出雲の人々が語り継いだものではないだろうかと言っている。
新編古事記
大国主が出雲の美保の岬にいる時、天の羅摩の船に乗って来る神がいた。周囲の神も名を知らなかったので名前を聞いた。
すると少名毘古那と名乗ったので、カミムスビの祖神に訪ねると彼は自分の子である、兄弟となって国つくりをせよと言った。
国つくりが終わると少名毘古那は又去っていった。かれ「くえびこ」は今では山田のソホドという何でも知っている案山子になった。また大国主が困っていると海を照らしながらやって来る神があった。その神は私を祭れば国作りに協力すると言い大国主は大和の御諸山に祭った。
大年神の神裔
大年神の子には韓神と曾富理神、白日神、聖神がいる。加羅を意味する韓神、新羅の王都とみられる曾富理、百済人が祀った聖神。いずれもスサノオと朝鮮との繋がりをうかがわせる。
白日(しらひ)も新羅が訛ったものと考えることもできる。大年神が父の故国の名前を子供たちに付けたのか。或いはこの韓の名前がつく子供たちが韓で生まれたのであったか。
ところがこの子神たちの解釈は、古田武彦によると少し違ったものになってくる。まず大国魂命は出雲、韓神は加羅、曾富理神は日向高千穂添山、白日神は筑紫の白木原、聖神は筑紫の井尻である。
つまり「天国」周辺の古代政治地図であり、大八島国の伝承より古い性格を有しているという。
新編古事記
スサノオの息子・大年神はカミイクスビの娘・イノヒメとの間に大国御魂の神、韓神、曾富理神、白日神、聖神を産んだ。
また佳代姫との間には大香具山戸臣の神、御年神が産まれた。アメチカルミズヒメとの間には、オキツヒコ、オキツヒメ、オオヘヒメが産まれた。
次にオオヤマクヒ・ヤマスエノオホヌシ(近江の日枝山にいる)次にニハツヒ、アスハ、ハヒキ、カグヤマトミ、ハヤマト、庭高津日、大土・ツチノミオヤを産まれた。
ハヤマトがオオゲツヒメを娶って生みし子はワカヤマクイ、若年、イモワカサナメ、ミズマキ、ナツタカヒ・ナツノメ、アキビメ、ククトシ、ククキワカムロツナネ。
饒速日尊の大和降臨
記では天降らせた最初の神は邇邇芸であるが、神皇正統記ではまず 饒速日を天降らせたが早くに死んだとしており、次に押穂耳を降そうとしたと述べている。アマテラスは出雲・大和への侵攻を指示した侵略者である。アマテラスが二度目に天下らせた、天若日子こそ即ち 饒速日尊であろう。
天若日子は天降る時にアマテラスから、天真鹿児弓と天羽羽矢を授けられている。
紀では饒速日尊に仕えている長髄彦が、天孫の印として神武に天の羽羽矢と歩靫かちゆきを見せたとあり、記では天津御璽を献じて仕えたとある。弓とユキと表現の違いはあるが同じものと考えて差し支えないであろう。古くは末弟が相続することが多く、それは記録にも表れている。
そうしたことからか、饒速日尊の弟とみられる邇邇芸の系統が、正統と見なされ三種の神器が成立した。しかし長男の饒速日尊が正統とされていたなら、二種の神器になっていたかもしれない。記では「饒速日尊」を「邇芸速日命」と表記していて、邇邇芸命との関連性を窺わせるものとなっている。
饒速日尊の別名天火明はアマテラスの孫であり、天若日子はスサノオの孫の下照姫と結婚している。ならば饒速日尊も天若日子も共に孫の世代の人となる。天若日子の父は誰の息子か語られていない。
つまり天若日子の父の天津国玉命は突然現れており、その系譜は記されておらず、誰の子か分からないのである。芦原中国平定の話がここまで進行・展開してきたところで突然現れる神である。
天の菩日神を天下らせる時には、父の名前を記載していないが、若日子のときだけ「天津国玉命の息子の天若日子を..」と、わざわざ父の名前を記載しているのがその証左と思える。天津国玉命の名はここにはじめて登場し知ることになるのだが、他には一切記載がない。本来ここには饒速日尊の名前を書けばこと足りたのではないか。
記・紀の描く天若日子の葬儀の様子と、先代旧辞紀の饒速日尊の葬儀の様子はよく似ている。
天津国玉命の名は大巳貴の別名、宇都志国玉神の対局・ライバルとして登場させた様子がある。記・紀は両書ともに饒速日尊を登場・活躍させたくない意図が明らかに窺える。また饒速日尊につながる物部の系統に箔をつけたくなかったのかもしれない。
その為にここで急遽天の若日子を創造し嵌め込んだとみることができる。
アマテラスが芦原中国平定のために派遣した神は次のとおりである。
天忍穂耳命 アマテラスの子
天菩日神 アマテラスの子
天若日子 天津国玉神の子
建御雷之男神 アマテラスの兄
天鳥船神 アマテラスの兄 イザナミの子
邇邇芸命 アマテラスの孫
こうしてみると天若日子を除けば、すべての神がアマテラスの近親者である。系譜が分からず正体不明の神が天若日子となる。
若日子の名が饒速日尊の名前の代わりに、ここにはめ込まれたとすればアマテラスの孫・近親者となるから、一貫して近親者を降したことになり辻褄が合う。饒速日尊の別名は天火明という説はかなり有力なものであるが、栗田寛は饒速日と火明は別の神であったが一神として皇孫のように偽り作ったと言っている。
吉井巌はこの二神の混同は、物部氏と尾張氏の密接な交渉に基づく始祖伝承の合体とみている。また天火明は記が成立する直前に考え出された比較的新しい神であると論じているのは武光誠であるが、同氏はその根拠を示していない。逆に天火明の存在を隠蔽するために、饒速日などの複数の別名を付けて記・紀を作ったと論じるのは近江雅和である。
「天照国照天火明櫛甕玉饒速日命」の名は、分散された名前を一つに統合したもので、これらは全て天火明のことに他ならないとしている。天火明系は海人族であったことは、籠神社に浦島伝説があることによっても裏付けられる。同社の伝によると、神代に彦火火出見命が籠船で、竜宮に行かれたので篭宮というとある。そして彦火火出見命とは天火明の別名だという伝えがある。
末社に蛭子神社があり、彦火火出見命と事代主を祀っており、彦火火出見命は別命を浦嶋太郎という伝えがある。本社末社共に竜宮に行ったという伝えが一致しており、蛭子神社は「元伊勢根本宮」と言われている。
尚、極秘伝によれば、天火明は山城の別雷神と異名同神である。天火明は大和国と丹後・丹波地方に降臨しこれらの地方を開発され丹波国造の祖神であるという。(逆説としての記・紀神話)
ここでは、ありそうな話が次々に展開している。
「籠神社」という如何にも変わった名前の由来ついては確かに疑問が氷解した。天火明と彦火火出見が同一人とする説は、天火明と彦火火出見は「火」が共通しており記では叔父甥の関係である。
世代も近接している上に、国宝の系図二巻を所有する古神社の伝えであるので、あるいは事実はその伝えの通りであったのかもしれない。しかし次の二点の検証が済まないうちは賛意の表明は出来ないのである。
その一点は国宝に認定された系図二巻であるが、これはその内容が政府によって認証されたのではなく、作成年次が古いことによる国宝指定であったこと。従って古い貴重な史料であるだけでなく、その内容に踏み込んで検証が必要である。もう一点は天火明と彦火火出見が同一人物とすると、山幸彦の舞台が日向ではなく丹後になってしまうことである。
日向三代である彦火火出見の父のニニギ、子のウガヤフキアエズの両人が丹後に居た形跡はあるのか。この三代の事績や伝承が、丹後に残っているかどうかの検証も必要になろう。住吉三神を祀る津守氏も三神ではなく天火明のその系譜を繋いでいる。
神皇紀では天火明は彦火火出見の第二皇子で、尾張国造に任じられたと述べている。神皇紀の記述は記紀その他の文献とは大きく異なっているが、矛盾するところは殆どなくその論旨は筋が通っている。
また武光誠は尾張氏も饒速日を祖とする、物部氏の同族とされていたが、没落した物部氏との関わりを避けるために、天火明の子孫とする新しい系譜を作ったという。
「先代旧事本紀」は他の古文献からの引用や、その逆の引用などからの成立は807年~859年、遅くても823年~906年とみられている。どちらにしても非常に古い文献であることは間違いない。
「先代旧事本紀」には10巻本、30巻本、72巻本の三種類がある。異論もあるが10巻本は、聖徳太子が撰びはじめ蘇我馬子が完成させたと言われている。30巻本は白河の神祗の家に伝わっていたものであり、72巻本は旧事大成経ともいわれ、これは一般に偽書とされている。
30巻と72巻は後代の成立といわれている。安本美典は縷々研究した結果として、先代旧事本紀の序文は後に付加されたものであるが、本文には偽書というものはなく一古史と言うべきと述べている。古事記、日本書紀、天書、古語拾遺から記事を採ったが、他に最古の原書があったとしている。
その先代旧事本紀には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の、またの名は天火明命またの名は膽杵磯丹杵穂命とあり、父は天押穂耳尊、母は栲幡千千姫とある。新撰姓氏録には見えないようだが、熊野連「和田家系図」はイザナギから始まっている大変珍しい系譜となっている。
和田家系図
イザナギ イザナミ
アマテラス 熊野加夫呂岐櫛御気野命
天忍穂耳命
天照国日子日明櫛玉饒速日命 邇邇芸命
高倉下 宇摩志麻遅命
天村雲
先代旧事本紀に饒速日は河内の河上の哮峰に天下り、大和の鳥見の白庭山に移ったとある。住吉大社神代記には、膽駒神南備山の四至は東限、膽駒川、南限、賀志支利坂、西限、母木里公田、北限、饒速日山とある。田中卓はこの地を生駒山脈の北方、田原村の辺りとしている。(住吉大社神代記の研究)
旧事本紀にも種々の異本があるが、森浩一は平安時代初期には出来たとみられると言っている。
古語拾遺に神鏡は石凝姥命神によって二度鋳造され、一度目は少し不満足なもので紀伊の日前の神となり、二度目の鏡は秀麗で伊勢大神として祀られているとある。田中卓は饒速日が奉斎したのが日前の神のご神体の鏡で、邇邇芸命が奉斎したのが伊勢神宮のご神体であろうとしている。
饒速日は紀では天津神の御子櫛玉饒速日尊と記され、天の岩船に乗って神武以前に降臨したと語られている。
アマテラスと高木神が邇邇芸尊に天下りを指示した時の言葉「この豊芦原水穂国は」汝知らさむ国なり。」は持統天皇とその孫の文武帝、あるいは元明天皇とその子孫の聖武天皇がモチーフになっているという学者もいる。
当時の朝廷の状況から言ってもこの説に間違いはないだろう。それでなければ、壮年の父が居るのに産まれたばかりの赤子を派遣する筈はない。アマテラスのセリフ「汝知らさむ国なり。」には、お前が正統の後継者であり、私がそれを決めてやろう、という意味が込められている。
その他に皇位を淡々と狙っている者も多いが、ぜひとも我が血脈に継がせたいという切実な願いが込められている。この説が正しいとすると日本神話の根本部分・説話は持統天皇の時代、或いは持統帝の時代からそう遠くない時に新しく創作されたとみることができる。
饒速日は大年神と同神とする説がある。倭大国魂は大物主であり、饒速日とされている。記には大国主が少名毘古を失って悲しんでいる時に、海から来たのが三輪山の神であり、その後に「故、其大年神」と書いているから饒速日と大年神とも同神ということになる。
また大物主という名前は、記・紀が創作したものであるから両書以外には出てこない。奈良県磯城郡の鏡作坐天照御魂神社は天照国照彦火明が祭神で、「大和志料」によると、天照御魂あるいは火明の別号があるとしている。
大物主は火明でもあったことを裏付けている。崇神朝により、宮殿からアマテラスと一緒に外に出された倭大国魂は、一般に大巳貴とみられているが、近江雅和は倭大国魂は饒速日の事であると論述している。
また大神神社は本来、火明を祀る神社であったものを、記紀成立によって強制的に大物主としなければならなかった。
京都の上賀茂神社の社伝によると、下社の火電神社の火電神は火明であるとしている。火明は時にイカズチ、ワケイカズチともされていた。(「記紀解体」)
ここで饒速日の別名を概観してみよう。
天照国照天火明櫛玉饒速日尊
大物主
大年神
天照国照
櫛玉
イカズチ
別雷神
これに大国主と同神となれば更に大国主が持っている数々の別称が加わることになる。火明は尾張氏、海部氏、渡会氏など古代氏族の祖神でもある。先代旧事本紀では饒速日は十種の神宝を授かって天降りしたとしている。
次の十種である。
旧辞本紀
十種神宝秘伝記
十種神宝秘伝記
沖津鏡
金 火気
外宮神体
辺津鏡
銀 水気
古伝八咫鏡異名也
八握剣
金気
(八都剣神台剣形添加)
生玉
赤 火玉
陽 精魂
死返玉
赤(生玉と同体)
陰
足玉
青 木玉
陽
道反玉
青(足玉と同体)
陰
蛇比礼
鱗虫の災い痛み止め
水字象
蜂比礼
甲虫の災い痛み止め
火字象
品物比礼
鳥獣の災い痛み止め
鳥金気雙有 伊勢宝殿奉
「布留神宮記」には要約次の如く出ている。ちはやふる神代にスサノオ尊が、ヤマタノオロチを切りたまう十握剣、名を蛇の麤正という。スサノオ尊天上より帯びてくだり給う、石上布留の神体これなり。
大蛇の体内より出てきた草薙の剣、尾張国熱田の社の神体これなり。「十種神宝秘伝記」には沖津鏡・辺津鏡共に白銅円鏡と出ている。沖津鏡はある説では金鏡・日の形の火気の鏡である。
辺津鏡はある説では銀鏡・月の形の水気の鏡である。としている。(神道体系)同秘伝記の図によると八握剣は直刀ではなく、八角に分かれた円形の台に両刃らしい刃先を付けたものになっている。
従って刀を使う時には片手で握るようになっている。ここでの最大の謎は旧事本紀が、十種の中に八握剣として十握剣を記していない事である。また「布留神宮記」との異同が生じているのである。旧事本紀によると八握剣とは軽い罪を罰することを教えるものとされる。
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