高天原の侵略 神々の降臨 ⑫

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より  

八咫烏と高倉下

 八咫烏は鳥ではなく神、すなわち人間である。他の文献にはあまり記されていないことだが、古語拾遺によれば八咫烏は賀茂の県主の遠祖であり、神武の籠を導いたことになっている。富氏の伝承では八咫烏は朝鮮からの渡来人で「カラの子」と呼んでいたという。

「神皇正統記」では神魂の命の孫、武津之身命が大烏となって軍の先に立った。

神武はほめて八咫烏の名前を与えたと記述している。

古田武彦によると「山海経」や「史記五帝紀」などに、「湯谷」の記事があるという。そこには「日は初め東方の湯谷に出ず」とあり、そこには太陽の中に三本足の烏がいるとされている。千葉、埼玉、東京の「袋の谷」領域の神社では、三本足の烏がシンボルとされ祭儀の中心となっているところが今でも少なくない。と湯谷と東京の関連性を窺わせる見解を述べている。(失われた日本)

 先代旧事本紀では高倉下の別名が、天香語山命でホアカリ( 饒速日)の子としており、手栗彦命は天香語山が天降った後の名であるとしている。また天香語山は饒速日に従って、天降り紀伊の熊野村にいたと記している。「熊野山草創由来雑集抄」も香語山命は高倉下の別号と記している。

 「熊野伝記」をみると、熊野記に云うとして 饒速日の子が高倉下であるとしているほか、手栗彦命の元の名は天香語山であると語っている。

 記・紀成立以前の古神社で判明しているものは、千六百余社でその半数は分社か勧請によるものである。それを除くと四百余社が残るが、中央の圧力により強制的に記紀神話の祭神に変えさせられた神社が多い。(記紀解体)

 新編古事記

 伊波礼毘古軍は次兄の稲氷が戦死したことにより、御毛沼が伊波礼毘古と共に指揮を執る事になった。

熊野の高倉下との和合が成立し、高倉下が太刀を持って部下とともに加勢したので劣勢は一気に挽回出来た。

 高倉下は熊野山中の道に詳しい八咫烏を味方に引き入れ山道の先導役をさせた。

八咫烏の後について行くと吉野の川尻に到った。

 そこで竹網で魚を取っている人に出会った。土地の者で名を問うと贄持之子と名乗った。

また暫く行くと光る井戸の中から尾の生えた人が出てきた、国津神の井氷鹿といい吉野の首の祖である。

 山に入って行くと、岩を押し分けて尾のような毛皮を身に付けている人が出てきた。これは土地の豪族で岩押分之子といい、移動に協力することに合意した。吉野の国栖の祖である。そこから宇陀に至った。

 兄宇迦斯兄弟と伊勢津彦

 天神地祇あるいは天津神・国津神と呼ばれる区分は、九州の一定地方(高天原)を根拠とする氏族が天神系で、それ以外の地方に番居する氏族が地祇であろう。(田中卓) 

伊勢国風土記によれば、伊勢の地神であった伊勢津日子は原出雲系であった。神武が熊野に侵攻したときに従っていて、後に出雲族とされる天神系の天日別は、標の剣を賜り命令を受けて伊勢津日子を攻めた。

 日別が国を譲るかと問うと、伊勢津日子は既に長く住んでいるといい拒否した。

日別けが伊勢津日子を殺そうとすると、伊勢津日子は国を献上し自分は立ち去ると言った。伊勢津日子は信濃に住まわせたという。

 風土記はもちろん朝廷の命令により、」編纂されたものである。だが膝下で編纂された記・紀と違って事前に検閲される可能性は低いので、より忠実な伝承を取り入れてあると考えられる。

 このくだりは大国主の国譲りとそっくりであり、何らかの関連性がありそうだ。この説話はどちらが先に成立していたのであろうか。また先代旧事本紀では伊勢津日子は後の武蔵の国造になったとしている。

 別に、原出雲族は安房や武蔵にも進出し栄えていたとする説もある。

 新編古事記

 宇陀には兄宇迦斯・弟宇迦斯という豪族がいた。御毛沼は八咫烏を遣わして神の御子に仕えるかと問わしめた。兄宇迦斯は八咫烏に向けて矢を放ち、その鳴り鏑の矢が落ちた所を鏑前という。

 兄宇迦斯は軍勢を集めて戦おうとしたが思うように集まらなかった。このため御毛沼に仕えますと嘘を言い、罠のある御殿を作って迎え入れようとした。

 その時、弟宇迦斯が来て御毛沼に罠があると内通・忠告した。

 大伴の連の祖の道臣命と久米直等の祖大久米命の二人が、兄宇迦斯にまず自分で入って忠誠を示せといった。

 鉾をしごき、弓を引き絞って兄宇迦斯を中に入れた。兄宇迦斯は自分で作った罠につぶされて死に、道臣命と大久米命とはその体を斬り散らした。

 其処を名づけて宇陀の血原という。

 戦時の歌謡・久米歌

 戦の度に久米部がつくった久米歌を歌って戦意の高揚に勤めたようだが、これ等の歌は当時歌われたものかどうか認定しがたい物もあり、またその意味の取り方も様々に解釈されている。

 田中勝也は久米氏を、南九州の肥人を民族の源としていると考えられ、隼人と並んで南九州に早くから定住した民族であるといっている。

 忍坂(桜井市)の大室に至った時に、尾の生えた土蜘蛛が大勢待ち構えていた。

 ここで、 饒速日が登場し帰順するのは記も紀も同様である。「物部社縁起」では、登美毘古ではなく、紀と同じ長髄彦を登場させその間の状況を詳しく物語っている。

 また「物部社境内一之瓶社縁起」には、「物部大明神宇摩志麻治命は 饒速日の御子にして、長髄彦との戦の時に大功があったので、石見国を賜った」としている。

 隼人と同系と言われる久米一族は、顔に刺青をしていたであろう、鯨面分身である。まなじりを青くしていたと思われる。

 阿多は鹿児島県の西南部一帯の古称で阿多隼人の根拠地という。いま日南市にも「吾田東」「吾田西」がある。

 新編古事記

御毛沼は八十膳夫を設け土蜘蛛に御馳走を与えた。給仕には、密かにそれぞれ刀を持たせておいて、歌を合図に斬りかからせた。やがて久米歌が聞こえ、一斉に土蜘蛛を斬り殺した。

 その後に登美毘古を撃つ時にも久米歌を歌った。また兄師木・弟師木を撃つ時にも久米歌を歌った。

 その後に適わぬとみた饒速日は、和解を申し出て天津御璽を献上した。

 饒速日が登美毘古の妹を娶り産んだ子は宇麻志麻遅命・物部の祖である。

御毛沼は日向に帰り、伊波礼毘古は荒ぶる土地の豪族を討伐し畝傍の橿原の宮で近隣の国を支配した。

 伊須気余理比売の結婚

「三輪の大物主の神が、三島溝咋の娘の勢夜陀多良比売を見初めて、比売が糞をひる時に丹塗矢になって便所の下の溝へと流れて行き姫のホトをついた。比売はその矢を床の辺に置いておいたところ、たちまち青年になったので性交した。生れた子は富登多々良伊須須岐比売命又の名は比売多々良伊須気余理比売という。」

これは記が大神神社のエピソードとしているが、この話と同様の逸話は山城国風土記(逸文)にもあり、そこでは上賀茂神社の神の事として語られている。

この丹塗矢伝説を証明するような木製の遺物が、1980年に福岡市で発掘されている。

この板は幅5センチ、厚さ約1.5センチで、丸みを帯びた先端はスキー板のように少し反り返っている。この板の先端部には線刻で女性器が描かれ、隣接して矢が描かれている。

その矢の先端は女性器に接していて、突き刺す寸前となっている。この板絵を菅谷文則は古墳時代のものと推測している。

 新編古事記

 伊波礼毘古命が日向にいた時に阿多の小椅君の妹阿比良比売を娶って産んだ子は多芸志美美命、次に岐須美美命である。

 さらに皇后を探していると大久米命が、神の子と云う美人がいる。三島溝咋の娘の勢夜陀多良比売を、三輪の大物主の神が見初めて比売が糞をひる時に矢になって便所の下の溝から流れて行き姫のホトをついた。

 比売はその矢を床の辺に置いておいたところ、たちまち青年になったので性交した。生れた子は富登多々良伊須須岐比売命、又の名を比売多々良伊須気余理比売という。

 

 ある時、倭の高佐士野を7人の乙女が歩いていた。そのなかに伊須気余理比売がいた。伊波礼毘古は先頭にいる伊須気余理比売を選び大久米命に指示した。

 大久米は比売に会ったが、その裂けている目を怪しんだ。伊須気余理比売の家は狭井河の河上にあった。

 伊波礼毘古は家を訪ねて一晩泊まった。結婚し生まれた子は日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命である。

 多芸志美美命の反逆

 森浩一は、古墳前期の実態は大和が強力な軍事力を背景として、日本の各地を服属させたのではなく、各地域はそれぞれの政治性と生産性を保持しながら、一つの信仰で結ばれたと述べている。

 更に大和を頂点とした政治・信仰網を作り出し、それによっていらざる騒乱を避けることができたのであろうとしている。

 新編古事記

 神武天皇が死んだ後、その子で異母兄の多芸志美美は伊須気余理比売を娶り、三人の弟を殺そうとした。

 これを憂えた母の伊須気余理比売は歌を贈って子達に教えた。神沼河耳命は兄の神八井耳命に武器を持って行き、多芸志美美を殺せと指示した。

 神八井耳命は多芸志美美命を討つ時に手が震えて討てなかった。神沼河耳命は兄の武器を受け取り、討ち入って多芸志美美命を殺した。

 これを見て兄は、今後は弟の神八井耳命に仕えると約束した。神八井耳命の子孫は多の臣大分君、阿蘇君、筑紫・伊予国造・信濃国造、陸奥、常陸、伊勢などである。

 神倭伊波礼毘古命(神武)は一説には、百三十七歳と伝えられている。その墓は畝傍山の東北かしの尾の辺りにある。

 銅鐸は祭祀に使う楽器だった?

 銅鐸について注目すべき見解を述べたのは森浩一である。魏志倭人伝に、銅鐸が全く出てこない理由について考察し次のように述べている。著者の陳寿は東アジアの祭りには強い関心を持っていたので、銅鐸を知っていれば書き落とすとは考え難い。

銅鐸の分布は主に中国・四国よりも東であったので、倭人伝に出ている倭人社会の範囲とは異なるとも考えられる。だが北九州でも小銅鐸や鋳型などが出土しているので、卑弥呼の頃にはもう銅鐸は使われていなかったと思われる。

銅鐸の消滅については、鉄器文化の急速な浸透により銅鐸文化・共同体が破壊されたとする説や、埋納は廃棄とする説、地中保管とする説が出ている。この銅鐸の一斉消滅の理由として、鏡にとって替られたとする説が提起されている。

銅鐸は主として畿内に分布していたとみられているが、小銅鐸の起源は朝鮮半島に見出すことができる。平壌市や大邱市で小銅鐸が発見されている。銅鐸は北九州から出雲・畿内に波及し次第に大型化していったとみられる。

 神武天皇或いは九州勢力の東征は長年に亘ったが、結果的に成功した理由には武器・装備の優位性があった事は容易に想像できる。銅鐸を祭祀に用いていた畿内側は銅剣・銅矛を使用し、九州側は殺傷力の高い鉄剣を使いこなしていたのだろう。

 銅鐸の本来の使用目的は未だにはっきりとは分っていない。一般に祭器視されているが、それもどのように使われたのか具体的な事は解明されていない。考古学会は確たる裏づけのない断定・推定を極端に嫌っているようだ。

 

 当時畿内では神意を占い窺う時に、琴の替わりに銅鐸を用いたのではなかったか。豊作を祈る時や収穫際の時にも使われたのであろう。また葬儀の時にも祝詞を挙げながら、現在の木魚のように使われた可能性もある。親族の泣き役の変わりに用いられたかもしれない。

 一昔前の物干し竿のような物にぶら下げて、木琴を叩くステック状の棒で叩いたのだろう。頭頂部に開けてある大きめの穴は、何かに吊り下げる用途とみて差し支えないだろう。大小の銅鐸を順に並べて独りの奏者が叩いたとも考えられる。叩く場所を上下に移動させる事によって音階を作り出していたのだろう。

銅鐸の発見が個体ではなく、ある程度のまとまった数が同じ場所から発見されているのもこの事を裏付けている。ステックは木であったために、腐って後世には残されなかった筈である。

 続日本紀元明天皇の714年条に、大倭国宇陀郡で銅鐸が発見された記録が残されている。それによると高さ三尺、口径一尺で、作りは異様だが音色は律呂に適っている。その為か雅楽寮に収蔵させたとしている。

律令時代にはまだ銅鐸の使い方が知られていたようだ。支配権を握った九州勢力によって、祭祀・葬儀の方法を強制的に変えさせられ、用を成さなくなった銅鐸は、いつか復活する日を夢見て祭祀場の近くに埋納されたのだろう。宗教自体が新しいものにとって代わったといえる。

合理的な解釈と言えるのではないだろうか。また銅鐸はいつも出雲系の氏族がいた土地から出土するので、三輪山信仰に関りがあるとする論者もいる。梅原猛は鏡祭祀が、銅鐸祭祀を征服したと推考している。しかし記紀には、稲作の祭りや神託を乞う際に銅鐸を使ったとの記事はない。

鏡はアマテラスを岩屋から出す時や、貴人を迎える時に榊の枝に勾玉などと一緒に吊るされている。また豪族が死ぬとその墓に惜しげもなく、数枚から数十枚と副葬されている。したがって鏡は魔から死者の世界を守る、邪を払う祭器と考えられていたことは確かである。

寺澤薫は銅鐸の起源を中国として、陰陽思想が込められた稲作のマツリ道具で、近畿を中心として北九州から中部地方にまで分布していたとしている。銅鐸の絵にサギがいる絵、いない絵、角のある鹿の絵、角のない鹿の絵などが、一年を二分する農業歴に関係し、また僻邪と呪縛の機能を表している。年に二度の農耕のマツリに際し、荘厳の音と光を発する祭器にとどまらないと論じている。

何本もの銅鐸をぶら下げれば、風に揺れたり、叩くたびに揺れて銅の持つ鈍い光が、太陽光を反射してキラキラ光ったことだろう。

 谷川健一はこれまで銅鐸は稲作の豊穣祈願の祭祀に用いると思われていたが、それなら銅鐸を地中に埋めておくことはあるまいと次のように論述している。「揃って地中に埋納されているのには意味がある筈である。

 銅鐸は地霊を鎮めるために、山や海と村との境に置かれたのかもわからない。伯耆国の東伯郡や因幡国の鳥取市などから銅鐸が出土している。ここでは計ったように25キロメートルほどの等間隔で並んでいる。

 これは弥生時代の村落の境を示しているのではなかろうか。」

 つまり谷川の考察では村に外来の災いが入ってこないように、賽の神(道祖神)の役割を担っていたのであろうとしている。

 谷川は銅鐸の出土地は由緒ある古社と関連があり、製作者は伊福部氏と関連しているとみている。神社の境内には古墳が多くみられることから、古墳の主を祀る所から神社は出発しているとみる。

 この事実がある以上、神社の起源は弥生中期まで遡ることになる。土地の霊を祭る祭祀から、祖霊を祭る祭祀に移行していったが、その間の信仰には断絶はなかったという。

 綏靖天皇

 神武天皇の後の八帝すなわち綏靖・安寧・懿徳・孝昭・考安・孝霊・孝元・開化天皇は、実在しないと架空説を唱える研究者は多い。記紀にはこの八帝の事績が殆ど記されていないことも根拠の一つとなっている。

 前之園亮一は主として和風諡号の研究から、神武から開化までの九代は実在ではなく神代の神であり、次の崇神・垂仁は中ツ代の半神半人であると述べている。開化までと次の崇神の時代では、諡号も皇居や陵の位置も大いに異なっている。九代は神々であるから、葛城王朝から崇神王朝への交代は当然なかったと論じている。

 これに対して津田左右吉は八帝の名は帝紀にだけ記載があり、旧辞には載っていなかった、記紀は帝紀と旧辞を繋ぎ合せて論述されているから、このような結果になったとしている。

 井上光貞は八帝の名前はヤマトネコなどの部分が後世的であり、八世紀の天皇の名前と著しく似ていると言っている。更にこの八代の天皇の系譜はきれいに父子となっているが、後世の皇位継承をみると極めて複雑なものとなっていて、父から子へという単純なものではなかったと論じている。

 兄弟が次々と皇位を継ぎ、次の世代には嫡長子たる長兄が優先するという二つの原則があったという。

また系譜をみれば末弟が皇位を継いでいるケースも多い。田中卓は九代架空説の諸氏の論法を悉く論破して実在説を証明している。記紀編纂者は九代を二十代にも三十代にもすることができたはずである。

それをしなかったことにより、各天皇の年齢を過大なものにする不合理さえも冒しているが、この歴代数に動かし難い理由があったに違いないとしている。

姻戚関係をみると神武、綏靖、安寧の三天皇は事代主の系統の娘を妃にしている。また次の懿徳、孝昭、孝安、孝霊天皇は磯城県主や十市県主などと婚姻を結んでいる。これらの氏族はいずれも畿内の既存勢力であろう。

このように初期の妃は、殆ど土地の豪族・臣下の子女から出ているが後には天孫系統・皇別から多く出ている。

古族の物部氏や他の緒家も祖先の系譜を伝えており、この間の代数は記・紀と大同小異であり、記・紀の系譜の代数を古くより承認していたとみている。他の豪族と違って皇室には氏がないことも、断絶がなかった証拠である。首長のことは、ただ大王と言えばそれで通じていた筈であり、大神といえば三輪の神を指していたのと同様であると述べている。

 新編古事記

 神沼河耳命は葛城の高岡宮に住んで天下を治めた。磯城の県主の祖、河俣毘売を娶って産んだ子は師木津日子玉手見命一柱のみ。

 天皇の年は四十五歳。墓は衝田岡にある。

 安寧天皇

師木津日子玉手見命は片塩の浮穴宮に住み天下を治めた。河俣毘売の兄、県主波延の娘、亜久斗比売を娶って産んだ子は常根津日子伊呂泥命、次に大倭日子鋤友命、次に師木津日子命三柱なり。

 師木津日子命の子は二柱あり。その和知都美命の子は淡路の御井宮に住んだ。娘の名は蝿伊呂泥またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売、妹の名前は蝿伊呂杼。

 ともに孝霊天皇の后になった。

安寧天皇の年は四十九歳で墓は畝傍山の美富登にある。(書紀は御陰・ミホト)

 

 懿徳天皇   

 大倭日子鋤友命は軽の境岡宮(橿原市大軽町)に住んで天下を治めた。師木の県主の祖賦登麻和訶比売の命またの名は飯日比売命を娶って、産んだ子は御真津日子訶恵志泥命、次に多芸志比古命なり、但馬の竹分、葦井の稲置の祖である。懿徳天皇の年は四十五歳で墓は畝傍山の真名子谷の上にある。

 孝昭天皇

御真津日子訶恵志泥命は葛城の脇上之宮に住んで天下を治めた。

妻は尾張の連の祖奥津余曾の妹余曾田本毘売命で産んだ子は天押帯日子命、次に大倭帯日子国押(忍)人命の二柱である。

 天押帯日子命の子孫は、春日臣,小野臣、柿本臣、伊勢 近江、その他である。

天皇の年は九十三歳で墓は脇上(御所市)の博多山の麓にある。

            

 考安天皇

 大倭帯日子国押(忍)人命は葛城の室の秋津島宮に住んで天下を治めた。

 妻は姪の忍鹿比売命で産んだ子は、諸大吉備進命、次に大倭根子日子賦斗邇命である。天皇の年は百二十三歳で墓は玉手岡にある。

 孝霊天皇

 大倭根子日子賦斗邇命は黒田の廬戸宮に住み天下を治めた。妻は十市県主の祖、大目の娘細比売命で産んだ子は大倭根子日子国玖琉命一柱である。

 また春日の千々速真若比売を娶って産んだ子は千々速比売命。

また意富夜麻登玖邇阿礼比売命を娶って産んだ子は夜麻登登母々曽毘売命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘売古命又の名は大吉備津日子命、次に大和飛羽矢若屋比売である。

 また意富夜麻登玖邇阿礼比売命の妹、蝿伊呂杼を娶って産んだ子は日子寝間命、次に若日子建吉備津日子命である。

 大吉備津日子命と若建吉備津日子命は播磨の氷河の埼に斎部を据えて神を祀り、播磨を入口として吉備を平定した。

 大吉備津日子命は吉備の上道の臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道の臣などの祖である。

日子寝間命は播磨の牛鹿臣の祖であり、日子刺肩別命は越の利波の臣、豊国の国前臣などの祖である。天皇の年は百六歳で墓は片岡の馬坂の上にある。

 孝元天皇

 大倭根子日子国玖琉命は軽の堺原宮に住んで天下を治めた。妻は穂積の臣の祖内色許男尊の妹内色許売命で産んだ子は、大毘古命、次に少彦名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘々命である。

 また色許男命の娘伊迦賀色売命を娶って産んだ子は、比古布都押之信命。

 また河内の青玉の娘波邇夜須毘売を娶って産んだ子は建波邇夜須毘古売命である。

 比古布都押之信命が尾張の連の祖意富那毘の妹、葛城の高千那毘売を娶って産んだ子は味師内宿禰。又紀国造の祖宇豆比古の妹山下影比売を娶って、産んだ子は建内宿禰である。

 建内宿禰の子は次の9人である。

 波多八代宿禰   波多臣 近江臣などの祖

 許勢小柄宿禰   許勢の臣 軽部の臣などの祖

 蘇賀石河宿禰   蘇我臣 などの祖

平群都久宿禰   平群臣 などの祖

木角宿禰     紀臣などの祖

久米能摩伊刀比売      

怒能伊呂比売

葛城長江曾都毘古 玉手臣などの祖

若子宿禰     江間臣などの祖。

天皇の年は五十七歳で墓は剣池の中の岡の上にある。

 開化天皇

 若倭根子日子大毘々命は春日の伊邪河の宮に住んで天下を納めた。妻は丹波の大県主由碁理の娘竹野比売で、産んだ子は比古由牟須美命だけ。また継母の伊迦賀色許売命を娶って産んだ子は、御真木入日子印恵命、次に御真津比売命である。

 また和珥の臣の祖比古国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶って産んだ子は日子坐王。

 また葛城の垂水の宿禰の娘わし比売を娶って産んだ子は、建豊波豆羅和気である。

比古由牟須美王の子は大筒木垂根王、次に讃岐垂根王。この二人には5人の娘がある。また日子坐王が山城の荏名津比売又の名葉苅幡戸部を娶って、産んだ子は大俣王、次に小俣の王、次に志夫美宿禰王なり。

 また春日の建国勝戸売の娘沙本の大闇見戸売を娶って産んだ子は、沙本毘古王、次に袁耶本王、次に沙本毘売命、又の名は佐波遅比売(垂仁天皇の后)次に室毘古王である。

また近江の御上の祝が祀っている天御影神の娘息長水依比売を娶って産んだ子は丹波比古多々須美知能斯王、次に水穂之真若王、次に神大根王、又の名は八瓜入日子王、次に水穂之五百依比売、次に御井津比売。

 また、その母の妹袁祁都比売命を娶って産んだ子は山城の大筒木真若王、次に比古意須王、次に伊理泥根王である。

 大俣の王には二王子あり伊勢の品遅部君などの祖なり。丹波比古多々須美知能斯王は丹波の河上の麻須郎女を娶り四人の子が生まれた。緋婆須比売命、真砥野比売命、弟比売命、朝廷別命である。

 山城の大筒木真若王が同母弟の伊理泥根王の娘丹波の阿治佐波毘売を娶って産んだ子は迦邇米雷王、この王丹波の遠津臣の娘高材姫を娶って産んだ子は息長宿禰王。

 この王が葛城の高額比売を娶って産んだ子は、息長帯比売命、次に虚空津比売命、次に息長日子王なり。

 天皇の年は六十三歳で墓は伊邪河の坂の上にある。

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