上善如水

http://erikaishikoro.blog.fc2.com/blog-entry-366.html?sp 【上善は水の若し (老子 第八章)】 より

原文

上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。

書き下し文

上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず、衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に処(お)る。故(ゆえ)に道に幾(ちか)し。居(きょ)には地が善く、心には淵(えん)が善く、与(まじわり)には仁が善く、言には信が善く、正(政)には治が善く、事には能が善く、動には時が善し。それ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)め無し。

現代語訳

最上の善とはたとえば水のようなものである。水は万物に恵みを与えながら万物と争わず、自然と低い場所に集まる。水は、源泉の上流においては清流の水であるが、低い下流に行けば行くほど汚濁して、大海に注げば浄化され、蒸発して雲となり雨水として清らかな水に戻る。

その有り様は「道」に近いものだ。住居は地面の上が善く、心は奥深いのが善く、人付き合いは情け深いのが善く、言葉には信義があるのが善く、政治は治まるのが善く、事業は能率が高いのが善く、行動は時節に適っているのが善い。水の様に争わないでおれば、間違いなど起こらないものだ。

上善如水という有名なお酒の名前にもなっている。残念ながらまだ飲んだことはないが、さぞかし飲みやすいお酒であろう。

「善悪は相対的なもの」と言っていた老子が最上の善を語っている。水をたとえに「争わない徳:不争の徳」を説明している。

「上善」とは「上徳」と通じるものがあり、水は清濁あわせのんで「不争の徳」を象徴する。

ことさら「上善」を説いているが、2500年前の老子が生きた時代は、上と下、善と悪、陰と陽、白と黒、勝と敗、と言った二元論的思考法しかなかったので、現代のような多元論的(多角的、多様な価値観)思考法からすれば矛盾点もでてくる。

老子第五章に、無為自然を説き、「天地は仁ならず」(天地は依怙贔屓などしない)というくだりがあるが、天がえこひいきをしないなら、善人の味方もしないはずである、と思うのが自然である。

この表現については司馬遷も疑問に思ったらしく、『史記』の伯夷列伝のなかでこの言葉を引用し、仁者と讃えられた伯夷が山中で餓死したことや、孔子の弟子の中で最も優秀だった顔回が若くして死んだことなどを挙げて、「天道、是か非か(天の道は果たして正しいのであろうか、間違っているのであろうか)」と疑問を投げかけている。自身が正しい主張によって武帝の不興を買い、宮刑(腐刑とも言い宦官のように去勢され男でなくなる)に処せられた司馬遷は天命というものに対して色々と思うところがあったのであろう。

老子の時代も現代も、いつの時代も変わることはないようである。


https://www.sobo-aomogutan.com/entry/2020/09/17/072717 【上善如水「水のようにしなやかに生きよ」という老子の思想】 より

「上善は水の若し」(じょうぜんはみずのごとし)は老子の文言です。同じ名前の日本酒もありますね。

上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道にちかし。

上記の文をわかりやすく説明すると一番良い生き方は水のように生きることである。

水は万物に恵みを与える。水は争うこともしない。水は最後には人が嫌がるような低い場所に落ち着く。だから道に近いのだ。※道=道徳や真理などを幅広く表す言葉

という意味になります。

老子は水を何事にも抗うことなく生きるものの象徴として捉えていました。

しかしそれは決して卑屈な意味などではなく水をもっと大いなるものとして捉えていたようです。

天下の至柔は天下の至堅を馳ていし無有は無間に入る。

こちらも分かりやすく説明すると世の中で最も柔らかいものが世の中で最も堅いものを動かす。また形のない水は一見隙間のないような所でも入っていくことができる。という意味になります。

確かにやわらかい水は岩をも動かすこともできますしどんな形にも姿を変えることができるためちょとした隙間にも入っていけます。

水はしなやか!争わない!でも無敵!すごい!のです。

つまり「上善如水」で最も伝えたいことは水のように大いなる力を持っていたとしても

身の丈に合わない野望に捕らわれたり無駄に争ったりせずしなやかに謙虚に善良に生きるのが人の道ということです。

このような考え方は競争下社会に置かれて疲労困憊している我々現代人にとってとても大切なことなのかもしれませんね。

わたしには水のような力はありませんがしなやかに生きていきたいものです。