水都を偲ぶ -暮らしを支えた河川と掘割-

https://guidetokyo.info/history/chronicle/chronicle11.html  【水都を偲ぶ -暮らしを支えた河川と掘割-】 より

文・菅原 健二 すがわら けんじ 1952年北海道生まれ。東洋大学法学部卒業後、現職。

主な著書に『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』、『川の地図辞典〜多摩東部編〜』『川跡からたどる江戸・東京案内』などがある。

江戸から昭和にかけて、日本橋・京橋界隈は、四方を川に囲まれた、まさに「水の都」であった。

江戸城建設、河岸など産業利用にはじまり、現在の水上観光利用まで、江戸東京のまちと、水辺の関わり方の変遷を追う。

東京駅八重洲口の東側、外堀通りの先にある街が八重洲、日本橋、京橋だ。現在も再開発が進行中で、多くの高層ビルが連なる東京の中心地。今から約400年前のこの区域が、四方を川に囲まれた水の都・江戸の中心地だったとは想像できないかもしれない。しかし、この区域の南北を貫く通り町筋(※1)は江戸の商業活動の中心地として発展し、町人の生活・文化を代表する「まち」であったのだ。そしてその生活を、たくさんの川や掘割が支えていた。

江戸城建設や、生活物資輸送に活躍した日本橋・京橋の川。

家康が江戸入りした天正18(1590)年当時、このあたりは、日本橋から京橋・銀座、新橋へとつづく半島状の低地で、江戸前島(※2)と呼ばれた。西側には日比谷入江(※3)と呼ばれる内海があり、東側の海岸が現在の首都高速都心環状線の付近にあたる。

北を流れる日本橋川は、道三堀とともに家康の江戸入り直後に掘られた運河で、江戸の初期から舟運の中心的な役割を果たしてきた水路だ。日本橋川とつながる道三堀は、内濠と外濠を結び、行徳(現・千葉県)からの塩をはじめ、江戸城を建設するための資材や物資、生活用品などを、城の近くまで運び入れるための水路であった。

日本橋川は河岸が多かった川としても知られている。両岸には上流から裏河岸や西河岸、魚河岸、四日市河岸(木更津河岸)、鎧河岸、兜河岸、茅場河岸、南・北新堀河岸などの河岸地が河口部まで連なっていた。ここから食料や生活物資が荷揚げされ、江戸市中に運搬された。なお最上流部に架かる一石橋は、橋の上から常磐橋・呉服橋・鍛冶橋(外濠川)、日本橋・江戸橋(日本橋川)、銭瓶橋・道三橋(道三堀)を見わたすことができることで、「八つ見橋」とも呼ばれた。南西の橋詰には「一石橋迷子しらせ石標」があり、人通りが多く賑やかな場所だったことが分かる。

江戸時代前期の様子。徳川家康は最初の天下普請で日比谷入江を埋め立て、城下を拡張した。第2次の天下普請で、楓川から江戸城側に10本の船入堀ができる。江戸城完成後、埋め立てられて、町屋が起立した。(「武州豊島郡江戸庄図」寛永9年、1632年より筆者作成)

日本橋は、慶長八(1603)年の創架とされ、五街道の起点の橋。擬宝珠のある橋は、江戸城見附御門の他は、日本橋と京橋の二橋のみであった。現在も橋の中央に「日本国道道路元標」がはめこまれ、文字どおり江戸・東京を代表する橋といえる。

外濠とは、江戸城の外郭にめぐらされた濠のこと。最初の天下普請(※4)(1606〜07年頃)で日比谷入江が埋め立てられ、江戸前島の尾根筋の西側に外濠が掘られた。この水路は、城の防衛を目的につくられたが、同時に排水路や運河の役割も果たしていた。城側城廓には石垣が組まれていたが、東側の物揚場は城辺河岸と呼ばれていた。沿岸につづく八重洲・日本橋・京橋一帯は商工業者の集住地域で、取り扱う原材料や加工された製品を輸送する水路としても利用されていた。

東側の楓川は、日本橋川から江戸橋際で分かれて南に流れ、京橋川・八町堀(桜川)・三十間堀に合流。東側の沖合が埋め立てられて、八丁堀地区が造成された際に、埋め残されてできた約1.4キロメートルの水路だ。西側の河岸地には材木商が多く住んだことから、本材木町と町名がついた。この本材木町と外濠との間に、材木関係の町名が多かったのが特徴だ。上・下・北富槇町や大鋸町、檜物町、正木町、榑正町、桶町、元・南大工町などの職人町だ(※5)。

第二次の天下普請(1612〜15年頃)で、ここから外濠との間に10本の「船入堀」が掘られた。目的は、江戸城建設の資材(主に石垣用の石材)を陸揚げするためであった。江戸城が完成すると、紅葉川(現・八重洲通り)を除き、寛永9(1632)年までに八本の船入堀は、通り町筋の西側まで順次埋め立てられた。元禄3(1690)年までに、残った水路も埋め立てられて町屋が起立した。

紅葉川は、日本橋川と京橋川の中間にあった船入堀。東海道と交差する場所に中橋が架けられていた。日本橋と京橋の間にあたることから中橋と橋名がついた。この水路も、西側が安永3(1774)年に埋め立てられて中橋広小路となり、残った水路は弘化2(1845)年に埋め立てられて町屋となった。

この地区の南を流れるのが京橋川。外濠と同時期に開削された水路といわれる。東海道と交差する場所には京橋が架けられていた。橋の名は、日本橋から京都方面に向かって最初に渡る橋だったことによる。楓川・八町堀(桜川)・三十間堀川とつながり、舟運で重要な役割を果たしていた。川岸沿いに、大根河岸・竹河岸・白魚河岸と、河岸地がつづいていた。そして大根河岸は青物市場として、関東大震災後の築地移転まで、この地に存在した。

江戸時代後期の様子。現在の日本橋・京橋あたりが埋め立てられた様子がわかる(「泰平江戸絵図」部分/天保13年、1842年)

明治以降、水辺から大通り沿いへの交通・産業・景観の変化。

元禄期にほぼ完成された江戸湊の運河網と河岸は、明治、大正、昭和期まで舟運の機能と役割を果たし、その原形を保ってきた。明治期の流通事情の中で、水運の占める割合が徐々に低下しはじめるのは中期以降のことだ。

明治の初期に、交通機関の変化に合わせて、橋の整備が行われた。明治6(1873)年5月に日本橋が架け替えとなり、同8(1875)年3月に京橋が石橋、同年5月には江戸橋も石橋へと、架け替えられている。その後、明治34(1901)年に江戸橋が新たに改架、12月には京橋も鉄橋に、翌44年3月31日には現在の石造りの日本橋が完成した。

また明治9(1876)年12月から13(1880)年にかけて、従来から俗称で呼ばれていた河岸地に正式名称がつけられた。日本橋川では裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、鎧河岸、茅場河岸、北・南新堀河岸など。外濠は城辺河岸。楓川では楓河岸、本材木河岸。京橋川では大根河岸、竹河岸、白魚河岸などだ。明治16(1883)年には東京の川筋の名称も決定されて、河岸地と同様に俗称で呼ばれていた日本橋川、外濠、楓川、京橋川などの河川名も正式に決まる。川沿いの河岸地には、舟運を利用すべく、各種倉庫が建ち並んだ。中でも江戸橋際の三菱倉庫は「七つ蔵」と呼ばれ、異彩を放った。

一方で明治20年代になると、会社組織化した企業が、日本橋から京橋に至る大通りを中心に進出する。明治中期以降、大正にかけて、市街地の変化もはっきりとしてきた。その後の市区改正や陸上交通機関の発達、産業の発展が、さらに商業活動の中心を移動させた。とくに明治36(1903)年に市電が開通してから、日本橋から江戸橋及び京橋を中心に街は大きく変化していく。大通りや表通りには銀行・商社・会社事務所、デパートなどが進出した。

この地域の旧日本橋区に、本材木町一丁目(現・日本橋一丁目)に日本橋郵便局、元四日市町(現・同一丁目)に森村銀行、白木屋呉服店、平松町(現・同二丁目)に加島・住友両銀行支店、通三丁目(現・同二丁目)には川崎貯蓄銀行、新右衛門町(現・同二丁目)には日本興業銀行日本橋支店などが進出する。そして旧京橋区では北槇町(現・八重洲二丁目)に千代田信託株式会社、南伝馬町一丁目(現・京橋一丁目)に髙島屋呉服店、同三丁目(現・同三丁目)に第一生命保険相互会社などが挙げられる。このような近代都市にふさわしい近代建築が建てられたのは、明治末年から大正にかけてであった。

三菱倉庫と江戸橋。江戸橋のたもとに建てられた、当時最先端のモダンな建物。当時は舟運を利用し、日本橋川側に設けられた窓からクレーンを用いて荷を引き揚げていた(提供・中央区立京橋図書館)

関東大震災後の復興事業で新設された幹線道路・昭和通り(写真手前の上から下に延びる太い道路。橋は江戸橋)。道幅44mの通りが、新橋から上野にかけて新設された。これにより、昭和10年に移転することで役割を終えようとしていた日本橋魚河岸の敷地が真っ二つに分割される形になった(提供・中央区立京橋図書館)

大正12(1923)年9月1日に関東大震災が発生。この大地震で東京は壊滅的な被害を受けたが、震災直後から「帝都復興事業」という都市計画によって復興がはじまる。復興事業は、土地区画整理を中心に幹線道路の新設・拡張、河川・運河の改修などが行われ、この区画整理で東京の市街地が大改造され、新しい街並みができた。また日本橋沿いにあった魚河岸が、築地に移転して開業するのは昭和10(1935)年のことだ。

こうして整備された街並みなど、都市の骨格にあたる部分は、今日までほとんど変わっておらず、現在の東京の原形もここにあるといえる。

幹線道路は幅員22メートル以上の道路、53路線が整備され、この道路建設にともなって96の橋が新・改築されている。この地域では昭和通り(新京橋が新架・江戸橋が改架)や永代通り(千代田橋が改架)、八重洲通り(八重洲橋が改架)、鍛冶橋通りなどが新設・拡張された。

また市内の運河は、日本橋・京橋方面と本所・深川地域を対象に、改修11、新削1、埋め立て1の合計13本の事業が実施された。これによって橋台地が撤去され、川幅を拡げ、水深も深くして、エンジンを動力とした船も航行できるようになったことが大きな特徴だ。この地域を囲む日本橋川は幅員47・深度1.8m、楓川は幅員33・深度1.8m(海運橋・兜橋・松幡橋が改架)、京橋川は幅員33・深度1.8m(紺屋橋・炭屋橋・白魚橋が改架)へと改修され、橋も新・改架された。新たに開削された楓川・築地川連絡運河は「復興運河」で、楓川・京橋川・桜川が築地川と結ばれた。この運河の開削は、築地の中央卸売市場や汐留駅などとの連絡を考慮したもの。この結果、日本橋と築地方面との舟運が大変便利になった。

さらに防火帯・避難所として隅田・浜町・錦糸の三大公園と小学校に隣接する52の小公園がつくられた。これらの復興事業の完成は、昭和5(1930)年のことだ。

戦災復興、そして高度経済成長で都心の川が埋め立てられる。

関東大震災で大きく変化した東京は、その約20年後、再び大きな転機を迎える。そのきっかけは、太平洋戦争時の東京大空襲であった。

東京の復興は、戦災残土のかたづけから始まった。しかし事業の進行がさらに残土を生み、残土の山が復興を妨げる悪循環が起きていた。

東京都は残土で都心部の水路を埋めるのが合理的と判断する。「現在舟行に役立たない川」「浄化の困難な川」を残土で埋め立て、土地を造成・売却して事業費を捻出する方法をとった。こうして都心部を流れる川のうち、昭和22(1947)年度に外濠東京駅前、翌23年度に三十間堀川・東堀留川・龍閑川・新川が埋め立てられ、24年度にも浜町川・真田濠・鍛冶橋下流外濠と埋め立てられて、江戸湊の運河だった川が消えてしまった。

この他にも、都心の川が消えた理由がある。東京は昭和30年代の高度経済成長とモータリゼーションの時代を迎え、39(1964)年10月にはオリンピックが開催された。このオリンピックのために、新幹線や高速道路などの建設が進められたが、とくに高速道路の建設は、公共用地の利用が原則とされ、川の上の空間が利用された。そのため楓川や築地川、京橋川なども次々と埋め立てられ、37(1962)年12月には首都高速一号線が開通。日本橋川の上空には、「ふた」をする形で高速道路が走ることになった。

日本橋川は都心に残る数少ない川のひとつといえるが、水辺環境と親水性を失ってしまった現在の姿を、残念に思う人も多いといわれている。近年、都心部の水辺空間の活用が話題となり、日本橋の景観と青空の復活を求める声などもあり、今後の水辺議論の活性化に注目していきたいと思う。

首都高速道路の建設が進む、日本橋川の様子。(撮影・市毛幸明/昭和37(1962)年頃/提供・中央区立京橋図書館)

明治44(1911)年から架橋100年のタイミングで日本橋橋詰につくられた、日本橋船着場。東京スカイツリーなどと結ぶ観光船が発着するなど、近年、水上観光の盛り上がりを見せる。防災船着場でもある(撮影・渡邉茂樹)

(※1)通り町筋(とおりちょうすじ) 神田川に架かる筋違橋から日本橋・京橋方面に続く通りで、本町通りとともに江戸のメインストリートだった。日本橋を起点とする東海道につながる。現在の中央通り。

(※2)江戸前島 本郷台地の南につづく半島状の低地で、地形学上は日本橋波蝕台地と呼ぶ。その範囲は、現在の日本橋・京橋・銀座と大手町・丸の内・有楽町・内幸町を含む地域。

(※3)日比谷入江 現在の皇居外苑・日比谷公園・内幸町と西新橋・新橋・芝大門・浜松町の範囲をいう。

(※4)天下普請 信長、秀吉の例にならって、家康が制度化した。将軍の命により大名の禄高に応じて課せられた築城・寺社造営・土木工事(普請)のこと。軍役と同じ扱いだった。

(※5)槇町の「マキ」は真木=柾目のとおった良質の木材のこと。大鋸町の「大鋸」は槇を製材する縦引き用鋸(のこぎり)のこと。檜物町の「檜物」は檜の真木を「へい」(剥ぐ・剥がす)で「まげもの」にしたもののこと。正木町も槇の町。榑正町の「榑」も真木を「へい」だ薄板のこと。

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