http://chrono2016.blog.fc2.com/blog-date-20191112.html 【岩櫃城跡(群馬県東吾妻町)】より
歴史・沿革
岩櫃山(いわびつやま)は、日本の北関東、群馬県吾妻郡東吾妻町にある、標高802.6mの奇岩・怪石に覆われた山。 ぐんま百名山の一つでもあり、群馬県を代表する名勝で、吾妻渓谷と共に吾妻八景を代表する景勝地であります。
山頂部の南面は約200mにもなる岩壁が切り立つ断崖絶壁。約600万年前(新生代新第三紀中新世末期〈メッシニアン〉)の噴火活動によって形成された山が、風雨と川の流れに侵蝕された結果、断崖だらけの荒々しい山容となった。山体は大部分が岩島層に属す。上部地層は主として安山岩質凝灰角礫岩と安山岩溶岩、下部層は主として凝灰岩で形成されています。このため岩場は脆く、ロッククライミングは不可能です。
登山道は4つのルートがあり、JR吾妻線群馬原町駅からアクセスする平沢地区からの「沢通り」「尾根通り」、JR吾妻線郷原駅から古谷地区にアクセスする「密岩通り」と「赤岩通り」があります。いずれも愛好者からの評価は高い。
「沢通り」は、文字通り、ゴツゴツした石に覆われた水のない沢をのぼるルートで鎖やハシゴはあるがビギナー向き。「尾根通り」は、中腹にある岩櫃城の中城や長い竪堀、二の丸を通り本丸を抜けて尾根を進み、「沢通り」に合流するルートで、岩櫃登山の王道。「赤岩通り」は、潜龍院から郷原城跡を抜けて「尾根通り」「沢通り」と合流していくルートで、山の正面を仰ぎ見つつ城跡の雰囲気を感じることができる。「密岩通り」は、「密岩神社」や「鷹の巣岩陰遺跡」といった文化財を感じつつ、岩櫃一のスリル「天狗の架橋」もあるルートで、上級者向け。
4つのルートそれぞれに魅力があり、春夏秋それぞれの表情を4通りのルートで楽しめることになる(冬場は登山自粛)。そして、山頂からの眺望に優れ、上州の山々が見渡せるほか、晴れた日には富士山を遠望することも出来ます。
戦国時代の岩櫃山東麓中腹には、真田氏ゆかりの難攻不落の山城として天下に名を馳せた名城・岩櫃城(いわびつじょう)がありました。年代は定かではありませんが、南北朝時代の頃に築城されたと考えられています。城郭の規模は136haと上州最大規模を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。
現在遺構の残る城跡は、標高600m弱にあり東西約140m、南北約35mの陣地である主郭を中心に四本の尾根上に郭が点在する。東に伸びる尾根に沿って、本丸・二の丸・中城が置かれ、城域は山肌を広域的に削って敵兵が攻めにくくする水のない空堀や、防御のために土を盛る土塁などの工夫が複雑に張り巡らされ、東と南側に吾妻川、北に不動沢が流れ、西に岩櫃山がそびえる要害の地です。また、保存状態は極めて良好。南北約600mの範囲をひな壇状に造成した城下町もありました。
築城説の一つとして鎌倉時代にこの地を治めた吾妻太郎助亮(あがつまのたろうすけふさ)によって築城されたと伝わるものですが、伝説の域を出ません。後に助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、下川辺氏末裔とされる吾妻氏(後期吾妻氏)がこの地を支配し、この城の城主として最初に名前が出てくるのが吾妻太郎行盛です。
しかし、行盛は南北朝時代の貞和五年(1349年)に南朝方の里見氏に攻められ吾妻河原において自害したと伝わります。当主行盛が戦死、その子・千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護され、関東管領山内上杉氏の偏諱を受け斎藤越前守憲行と名乗りました。その後、関東管領上杉憲顕(うえすぎ のりあき、初代関東管領)の支援によって岩櫃城を奪回し、その後その子孫である吾妻太郎斉藤越前守憲広まで六代にわたる東吾妻支配の本拠となりました。
岩櫃城主となった斎藤氏時代の詳細は、斎藤氏系譜と同様に複数伝わっておりはっきり致しません。地元の旧記では吾妻行盛-斎藤憲行-行禅-行弘-行基-行連-憲広(基国)と系譜を伝え、行禅のときに重臣秋間氏の反対を押し切って柳沢城を家臣で娘婿の柳沢安吉に与えたが、行弘のときに柳沢安吉は反乱を起こし鎮圧されたという。一方「斎藤氏系図」(『吾妻郡城塁史』記載)では、越前国大野郡にあった斎藤基国の子・斎藤憲行が入り、憲行の長男・憲実が岩櫃を継ぎ、他の兄弟は分家したのだが、五男・憲基の子孫たる大野氏の勢力が拡大、家臣の秋間氏を滅ぼして宗家・憲実を支配下に置いたという。その後、大野氏は大野憲直のときに、四男・山田基政の嫡孫で岩下城主・斎藤憲次の反乱によって滅び、岩櫃城は憲次が支配し、その子・憲広に受け継がれたという。
斎藤憲広は上杉氏に属して勢力を拡大したが、郡内の豪族羽尾氏と鎌原氏(三原庄)の領地争いに介入(羽尾氏に味方)したことで、両氏の仲介に入っていた信濃国小県郡の真田氏、および真田家の主家である甲斐の武田氏による介入を招くことになる(羽尾氏・鎌原氏・真田氏は共に海野氏系で近い関係にある)。戦国時代末期の永禄三年(1560年)に鎌原幸重が武田家の信濃先方衆である真田幸隆を介して武田家に臣従して、武田氏の後ろ盾を得る。それに対して、永禄五年(1562年)に斎藤憲広は羽尾幸世など羽尾氏と共に鎌原城を攻略し、鎌原氏を信濃に追い払う事に成功する。しかし、程なく鎌原城を奪回されるなど真田勢の攻勢を受ける事になります。
永禄六年(1563年)になり上州攻略を目論む武田信玄は、真田幸隆に命じて斉藤憲広の守る岩櫃城を攻めさせます。憲広は堅城を利用して奮戦するも、家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走しました。斎藤氏は憲行の末子・城虎丸が近隣の嶽山城に篭っていたが、永禄八年(1565年)に落城、斎藤氏の勢力は駆逐されました。
こうして岩櫃城は甲斐武田氏の手中に落ち、信玄は真田幸隆をそのまま吾妻郡の守護を命じました。天正二年(1574年)に幸隆が世を去ると、幸隆の長子である真田信綱(さなだ のぶつな)が岩櫃城主となりましたが、翌年の天正三年(1575年)五月二十一日の「長篠の戦い」で信綱・昌輝兄弟が戦死しました。そして、真田幸隆の三男真田昌幸(さなだ まさゆき)が相続しました。その後、昌幸の長子真田信幸(さなだ のぶゆき、後の信之)が城主となり、次子真田幸村(さなだ ゆきむら、正確には信繁:のぶしげ)も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。
真田昌幸の時代、天正十年(1582年)に、織田信長・徳川家康勢に攻められて主家武田勝頼(たけだ かつより)が劣勢となると、真田昌幸は武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて武田家の巻き返しを図ろうとしました。しかし勝頼は小山田信茂(おやまだ のぶしげ)の岩殿城に向かい、そこで信茂の裏切りにあって天目山で自害しました。、これにより武田家は滅亡しました。父真田幸隆より仕える重臣として、真田昌幸は最後まで主君武田勝頼を織田信長より守り抜くつもりでした。もし勝頼が昌幸とともに断崖絶壁の地形を生かした岩櫃城に二、三年籠城していれば、その後の歴史は大きく変わったともされています。
武田氏滅亡後、真田氏は独立勢力となります。天正十八年(1590年)小田原北条氏が滅亡すると、一度北条氏の支配下に置かれた上州沼田は再び真田氏の支配下に置かれ真田信之は初代沼田城主として入りました。
岩櫃城は、沼田城の支城として、真田氏の二大拠点である信州・上田城と上州・沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な役割を果たしました。このため大改造も行われ広い城域を生かしその中を沼田と上田を結ぶ街道を通してありました。
慶長五年(1600年)、「関ケ原の戦い」では昌幸(西軍)と信之(東軍)は敵味方に分かれました。この時岩櫃城は昌幸の叔父の矢沢頼綱(やざわ よりつな)が城代となり、信之側の城となっています。
そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も元和元年(1615年)に徳川家康の発した一国一城令により四百余年の長い歴史を残し廃城となりました。以後信之は原町(現 東吾妻町原町)に陣屋を置いて一帯を統べました。
平成二十八年(2016年)一月十日から同年十二月十八日まで放送されたNHK大河ドラマ第55作目の『真田丸』では、実写映像とCGとVFXとで制作されたオープニングタイトル(制作者:新宮良平、EPOCH Inc.)のクライマックスシーンに岩櫃山が用いられた。
このように歴史に彩られた岩櫃山の麓の平沢地区の登山口では、毎年十一月三日に「紅葉祭」というイベントが催され、県内外から多くの観光客が訪れる。地元で採れる山菜を使った郷土料理などが振舞われる。
また、岩櫃山は真田氏に代表される中世の遺構だけでなく、「密岩通り」の山頂から20mほど下には弥生時代の墓「鷹の巣岩陰遺跡」があり、埋葬遺跡としては価値の高い遺跡と注目されている。そして、岩櫃山へのアクセス拠点となるJR郷原駅付近では、土偶界のスーパースター・国指定重要文化財「ハート形土偶」が出土しており、縄文時代から岩櫃山は人々の拠り所となっていたことが想像されています。
岩櫃城は、昭和四十七年(1972年)に町の史跡に指定された。また、平成二十九年(2017年)続日本100名城(117番)に選定された。 令和元年(2019年)十月十六日、国の史跡に指定されました。これにより群馬県内では金山城跡(太田市)、箕輪城跡(高崎市)に続いて三件目の城跡の国指定史跡になります。(案内板各種、岩櫃山・岩櫃城パンフ各種、東吾妻町HP、Wik等より)
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