松籟は天に岩櫃山眠る 五島高資
— 場所: 岩櫃山
http://iwabitsu-sanadamaru.com/history 【大河ドラマ「真田丸」の地 岩櫃】より
「勝頼様は来なかったけど、あなたは来てくれますか?来てくれた方を、お護りします!」
真田の進言と、武田氏の滅亡
戦国のトップ企業「甲斐・武田氏」、外様でありながら実力でその重役に列した子会社「真田氏」—。織田・徳川連合軍の甲州征伐で窮地に陥った武田勝頼に真田昌幸は、「岩櫃への撤退」を進言。「守り通す」ことを約束した。しかし、結局、勝頼は、譜代重臣の別の進言を受け入れて裏切りに遭い、超トップ企業・武田はあっけなく滅亡した。
天険の山城、岩櫃城
岩櫃城は、天険の山城。のちに真田昌幸・信繁が徳川家康を恐れさせた上田城や大坂城「真田丸」の原型といえる堅城。もし、勝頼が逃げて来たら、真田は織田・徳川連合軍を散々に苦しめたことだろう。3カ月後には本能寺の変で信長は破れ、武田・真田・岩櫃、そして日本の歴史は大きく変わっていた―。
岩櫃をめぐる旅
上州・東吾妻町の「岩櫃」。古来より修験文化と一体となったパワースポットでありながら、四季折々の美しい表情に包まれる。山の中、林の木立、青い空に、大いなる歴史ロマン、戦国の息吹が木霊する。NHK大河ドラマ「真田丸」のシーンを思い出しながら歩けば、信繁様と心と心が響き合う。そんな予感めいた岩櫃。あなたは来て下さい。
岩櫃の歴史・観光スポットを見る
岩櫃と真田の歴史
????「岩櫃城」築城。築城年および築城主は不詳。この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を出ない。
1563年(永緑6)真田勢の攻勢により岩櫃城が落城。信繁の祖父にあたる幸隆が吾妻郡守護代となる。
1567年(永緑10)信繁、昌幸の次男として生まれる。
1575年(天正3)長篠の戦い。父・昌幸の兄二人が戦死し、昌幸が真田家を継ぐことになる。
1582年(天正10)《2月》昌幸、岩櫃山南面に、武田勝頼を迎えるための御殿(現在の「潜龍院跡」)を作るが、勝頼が吾妻の地に来ることはなかった。
《3月》武田勝頼が甲斐の天目山にて自刃。武田氏が滅亡。昌幸、織田信長に臣従
《6月》本能寺の変。織田信長死去。
《10月》
昌幸、徳川家康に従属。徳川家と北条家が和睦。条件として、真田家の沼田領は北条家に引き渡される。
1583年(天正11)昌幸、上田城の築城を始める。
1584年(天正12)昌幸、家康から沼田城を北条氏政へ引き渡すよう求められるが拒否。
1585年(天正13)昌幸、家康と決裂し再び上杉家に臣従。信繁、人質として上杉家へ。
昌幸、家康軍を上田城で撃退(第一次上田合戦)。
1587年(天正15)昌幸、上洛し秀吉に正式に臣従。秀吉の命で、再び家康の配下となる。
この頃、兄・信幸が本多忠勝の娘・小松姫を妻にする。
1589年(天正17)秀吉の裁定により真田領となった沼田の名胡桃城を、北条勢が攻略。秀吉は激怒し小田原出兵を宣言。
1590年(天正18)小田原・北条攻め。真田家も出陣。
《8月》信幸が沼田城の初代城主となる。諸社に寄進し、岩櫃城を除く吾妻郡の城と砦を破脚。
1600年(慶長5)下野国犬伏にて真田家の去就を協議。
信繁と昌幸は西軍に、信幸は東軍に残る(犬伏の別れ)。
信繁と昌幸は、上田城にて、関ケ原へ向かう徳川秀忠軍を翻弄する(第二次上田合戦)。
関ケ原の戦いで東軍勝利。
西軍についた信繁と昌幸は、高野山のふもと九度山に配流される。
東軍についた信幸は沼田・上田を領する。
1611年(慶長16)昌幸、九度山で死去。
1614年(慶長19)信繁、豊臣秀頼からの依頼に応じ、九度山を出て大阪城入場。
「大阪冬の陣」にて真田丸を築き、徳川方の攻めを防ぐ。
同じ頃、信幸が吾妻郡に郷村改を出す。岩櫃城下平川戸宿で市が開かれ、大いに賑わう。
1615年(慶長20)大阪夏の陣。信繁、戦死(享年49)。
同年頃、徳川家康による「一国一城令」に伴い岩櫃城破脚。信幸は城下町を現在の原町に移した。
http://iwabitsu-sanadamaru.com/spot/iwabitsuyama 【岩櫃山】より
群馬を代表する山
群馬県東吾妻町のシンボルで、標高802.6メートルの奇岩・怪石に覆われた山。ぐんま百名山のひとつにして、吾妻八景のひとつ、群馬県を代表する名勝。南側の正面は奇岩が組み合わさったような高さ200メートルの断崖絶壁。この岩場は脆く、ロッククライミングは不可能。登山道は4つのルートがあり、JR群馬原町駅からアクセスする平沢地区からの「沢通り」「尾根通り」、同郷原駅から古谷地区にアクセスする「密岩通り」と「赤岩通り」がある。中腹には武田の三堅城のひとつ、戦国・真田氏の拠点だった岩櫃城跡があり、北関東を代表する山城とされている。
岩櫃山岩櫃城本丸跡
待ち受ける4つの登山道
登山道は、いずれも愛好者からの評価は高い。「沢通り」は、文字通り、ゴツゴツした石に覆われた水のない沢をのぼるルートで鎖やハシゴはあるがビギナー向き。「尾根通り」は、中腹にある岩櫃城の中城や長い竪堀、二の丸を通り本丸を抜けて尾根を進み、「沢通り」に合流するルートで、岩櫃登山の王道。「赤岩通り」は、潜龍院から郷原城跡を抜けて「尾根通り」「沢通り」と合流していくルートで、山の正面を仰ぎ見つつ城跡の雰囲気を感じることができる。「密岩通り」は、「密岩神社」や「鷹の巣岩陰遺跡」といった文化財を感じつつ、岩櫃一のスリル「天狗の架橋」もあるルートで、上級者向け。
4つのルートそれぞれに魅力があり、春夏秋それぞれの表情を4通りのルートで楽しめることになる(冬場は登山自粛)。
岩櫃山
多彩な催しが岩櫃を彩る
毎年11月3日には平沢地区の登山口で「紅葉祭」が行われ、地元でとれた山菜を使った郷土料理などが振る舞われ、地元住民らが登山客と一緒に美しい紅葉を愛でる伝統行事となってる。また、地元の歴史愛好家サークル「あざみの会」による「戦国真田の岩櫃城跡探検隊」は春と秋に開催され、その都度、趣向を変えて、岩櫃を中心に東部吾妻の真田氏の城跡を体験学習およびパネルディスカッションする企画で、県内外の真田氏愛好者から高い評価を得て、多くの観光客が訪れる。また11月頭の連休に合わせて町や県の協力を得て地元任意団体が開催する「岩櫃城 忍びの乱」は、「歴史で遊んじゃ、うんまくねぇんかい!?」を合言葉に、「真田」「忍者」「岩櫃」をキーワードに子供から大人まで楽しめる複合イベントとなっており、県内外から1000人を超える人が歴史と岩櫃にふれあっている。新緑のシーズンにはNPO法人浅間・吾妻エコツーリズム協会によるエコツアーも不定期で開催されている。
古くから愛される山
岩櫃山は真田氏に代表される中世の遺構だけでなく、「密岩通り」の山頂から20メートルほど下には弥生時代の墓「鷹の巣岩陰遺跡」があり、埋葬遺跡としては価値の高い遺跡と注目されている。また、岩櫃山へのアクセス拠点となるJR郷原駅付近では、土偶界のスーパースター・国指定重要文化財「ハート形土偶」が出土しており、縄文時代から岩櫃山は人々の拠り所となっていたことが想像されている。
http://iwabitsu-sanadamaru.com/spot/iwabitsujo-honmaruato 【岩櫃城本丸址】より
武田の三堅城はダテじゃない!
岩櫃城は標高802メートルの岩櫃山全体を機能的に活かした巨大な山城。甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田の三堅城と呼ばれている。西側、南側は巨岩による絶壁と吾妻川により守られており、おもに上杉や北条を意識して東側の防御に重きをおいている。特徴的な岩櫃山の正面から見ると、城の中心地は裏側に隠れているように存在している。「なんだ、あの厳めしい山の顔は見せかけだけか!」と侮ったあなた、それは大きな間違い。すでに真田の術中にはまっていますよ。
本丸に攻め込むのは、タダごとじゃない
隠れるように地味に山腹に広がる岩櫃城は、実は、縦横多様に伸びる無数の深い堀と、それを見下ろす数々の曲輪、自然の地形、複数の支城が連携構築された恐怖の城。本丸への近道は、岩櫃山の西側からの登り口「平沢口」登山道となるが、かつてはこの登り口にたどり着くのさえ至難だったことだろう。途中、複数の堀切にそれぞれ大坂城「真田丸」の原型にもみえる斥候曲輪があった。それらを抜けたところは町人街「平川戸」だが、その町は第1次上田合戦を彷彿とさせる迷路のような仕掛けだったかもしれない。それを眼下に見下ろす天狗の丸、そしてそれらを挟みこむように配置された土塁と深い堀、さらには、忍者集団を統率していた出浦昌相による出浦渕が待ち受けている。どんな罠があるのか、だれも知らない魔の渕だ。でも、でも、安心してください。今は伏兵や罠、火攻めに遭うこともなく登山道入口まで車で登れます。トイレまであります。
現在は、歩いて30分でパッと本丸
登山道から歩き始めると、なんと10分ほどで、早くも中城の開けた扇状地。その先の全長100メートル以上の一直線竪堀を登れば、もう三の丸。左手に碁盤の目曲輪を感じた頃には、本丸まであと150メートル。付近に群生する篠竹を「これは矢の原料だな」などと想いを巡らしながら、急な短い木製階段を登れば二の丸。頭上(本丸)からの射撃や投石に気をつけて、最後の堀を乗り越え、斜面を進めば、本丸。登り口からは、わずか30分足らずの城攻め。そのまま進めば岩櫃山頂に行けるけど、本丸を抜けたところに複数の枡形が!伏兵に襲われるかもしれないので、お気をつけ下さい。
みなさんの真田様への熱い思いを本丸に残してください
本丸にはあづまやがあり、登山者ノートが備え付けられている。みなさんが感じた岩櫃城、道中に天から響いた真田幸村様の声をご自由に書き込んで下され。本丸には河川にあるような巨大な丸い岩もあり、「なんのためにこんな石がここに運ばれたんだろう?」という謎に思案を巡らすのも健全な岩櫃城本丸の楽しみ方ですよ。近年では、発掘調査が行なわれ、この本丸から石垣や鍛冶場・鉄砲玉などが発掘されている。
http://iwabitsu-sanadamaru.com/spot/senryuinato 【潜龍院跡】 より
武田の命運を握った幻の城館
織田・徳川連合軍による甲州征伐時、真田昌幸様が主君・武田勝頼公に退却を進め、名門武田の家運を挽回しようとしたのが「岩櫃城」。結果、勝頼公は岩櫃には入らず、天目山で自害してしまうが、昌幸様が勝頼公を迎えるために3日間で建てたといわれる館城が、古谷御殿。そこに潜龍院(せんりゅういん)という寺があったため、この地を「潜龍院跡」と呼んでいる(東吾妻町郷原古谷地区)。絶壁の岩櫃山の眼下に開けた不思議な空間で、山の中に開けた庭園のよう。さしづめ、真田のマチュピチュ。岩櫃山を外から見ている限りはその空間の存在など想像することはできない。入口手前20メートルに近づいても、木立のベールに包まれている。しかし、そこに足を踏み入れるや、一瞬にして現代社会とは隔絶され、訪れる者の魂は、パッと戦国の世へと飛んで行ってしまう。真田氏が築いた特徴を持つ石垣が残り、その上に館城があったことが容易にイメージされる。
潜龍院跡の石垣
潜龍院も岩櫃城の一角
東に郷原城、西は狭く大人数でまとめて侵入できない入口。南は土塁と急斜面。北はもちろん岩櫃山の大絶壁。いったん敵兵がなだれ込もうとすれば、勝頼公は郷原城へ引き、スルスルッと岩櫃城本丸へと逃げ込むことができる。そしてこの空間に閉じ込められた敵軍は頭上(岩櫃山)からの一斉射撃で、文字通りに「シラミつぶし」。空間には巨大な岩も転がっていて、岩櫃山の自然落石なのか、戦国の世の攻防による岩石落としなのかは分からないが、いずれにしても、頭上からの攻撃は、まさに鉄槌と呼べるものだったに違いない。岩櫃山の岩陰は猛禽類が住処としていて、潜龍院をウロウロするわれわれは彼らから常時監視状態で睨みつけられている。これが日本一の兵(ひのもといちのつはもの)からのロックオンだったらと思うと、ゾゾッと身も凍る。
歴史の檜舞台に上がることなく…
しかしながら、この御殿は幸か不幸か、実際の戦いには使われることなく、役目を終えたと思われる。古谷御殿の跡地は、昌幸の麾下・祢津潜竜斎昌月なる人物がもらい受け、山伏寺としたという。それが、この地の現在の通称「潜龍院」のもと。この寺は、岩櫃城が破却されてから67年後(1682年)、岩櫃山の大火の時に炎上した。その後再建されたが、明治2年の修験寺廃止令で廃された。江戸時代には修験寺は寺子屋としての役割を担っており、中でもこの潜龍院は格式が高かったと言われている。護摩堂は明治17年に東吾妻町原町の顕徳寺に移された。現在の顕徳寺はその後改築されているが、潜龍院当時の面影は残されているとされる。
顕徳寺(潜龍院の移築先)顕徳寺(潜龍院の移築先)
夏草や 兵どもが 夢のあと
ここは四季折々の楽しみ方がある。5月の新緑と青い空、9月の彼岸花とうろこ雲、湿った雪が朝露とともに氷輝く360度の冬化粧…。そして夏の夕暮れなどは、「夏草や兵どもが夢のあと」の句が心に響いてくる。大坂夏の陣の幸村様の激闘を目に浮かべて、その無事を願う岩櫃城の人々の心を想う晩夏は、胸の前で思わず手をあわせる。四季それぞれの潜龍院のたたずまいを、岩櫃山の大迫力というメーンディッシュに付けあわせる。ほかに何があるわけではないが、心のなかに得がたいひと時が広がる。JR吾妻線「郷原駅」から歩いて20分。自動車は古谷地区の登山者駐車場をご利用下さい。
http://iwabitsu-sanadamaru.com/spot/mitsuiwa-jinja 【密岩神社】 より
修験の山・岩櫃
岩櫃は、古来から修験文化の宿る敬虔な山。岩櫃城の支城で「岩鼓の要害」といわれる柳沢城の下には、岩櫃城の鬼門(東北)の鎮守として建てられ「観音様」と親しまれる瀧峩山金剛院不動堂がある。600年前に建てられたという。また天狗の丸には「岩櫃神社」があり、山頂近くにはかつては祈祷の祠もあり、現在は原町に移った善導寺もかつては岩櫃城の鬼門・切沢にあった。このように信仰と深く関わる岩櫃のなかで、とりわけ、謎と伝説に包まれているのが「密岩神社」。
謎と伝説、断崖の社
奥宮といわれる古くからの神社は、東吾妻町郷原古谷地区からの密岩通り登山道の中腹にある。崖の岩の中に造られた社で、だれがどうやって造ったのかは謎。現在は落石により損傷が激しく、しかも参道も脆く危険で、行く事ができない。遠くからその様子をうかがうよりほかにない。しかし、古くから密岩神社を慕う地域住民の厚い志により、2011年5月に、よりお参りがしやすい古谷地区の中心地に里宮が設けられ、遷宮が行なわれた。
岩櫃随一の撮影スポット
秘境の社・密岩神社奥宮をお参りできないのは残念だが、ドーンと聳える芸術的な岩櫃山を背景にする密岩神社里宮は、修験の山と一体となった神聖な佇まいを感じさせる。NHK大河ドラマ「真田丸」の撮影クルーは初めてここを訪れ、その迫力に、そのスピリチュアルに、一同が一様に嘆息を漏らした。岩櫃山の迫力ある山容、それが日本の信仰と結びついている精神世界、その両面が1枚の絵に同時に映し込まれたかのように、心象的に魂を揺さぶる場所といえる。
大隅桜の無情を味わう
密岩神社里宮から5分ほど歩くと、幹の太さが吾妻地域で最大の桜「大隅桜」があります。
岩櫃山のエコツーリズムに尽力されているNPO法人「浅間・吾妻エコツーリズム協会」によるとエドヒガンザクラの巨木で、高さ18メートル、幹周り7.4メートル、根本回りは10.9メートル。推定樹齢は300年以上なのだという。真田信繁様の壮絶な最後を脳裏に思い描き、この老桜が岩櫃をバックに散らす桜吹雪を見る。そこで何を感じるのか? どんな声が聞こえるのか? そこには間違いなく歴史ロマンの醍醐味が凝縮されているに違いない。
http://iwabitsu-sanadamaru.com/spot/kannonyama-fudotaki【観音山・不動滝 - 岩櫃城】より
JR群馬原町駅から岩櫃山の東の登山口がある平沢集落へ向かう途中、平沢川越しに御堂がみえる。不動滝を見下ろす瀧峩山不動堂で、この背後の山が瀧峩山(観音山)。ここには百観音の石仏が祀られている。延享4(1747)年に百所(百基)の観音石像が祀られてから観音山になったという。要塞のような山城「岩櫃城」につながる真田道「バンショウ坂」を北側から睨みつけるように座しており、岩櫃城破却によりできた町「原町」を一望する山頂、胎内くぐりや迷路のような洞窟、ヒカリゴケ、ガメラのような岩、マイナスイオンに包まれる不動の滝などを楽しめるほどよいハイキング名所。地元では小さい子供たちの冒険の山である一方、麓にある「不動の滝」脇の不動堂(瀧峩山金剛院)は今から600年以上前に岩櫃城の鬼門(東北)の鎮守として建てられたと伝わっており、以降、江戸時代を通して瀧峩山は吾妻の修験道のメッカとしても繁栄していた。地元の人からは親しみを込めて観音山と呼ばれてる。
観音山・不動滝(象ヶ鼻)観音山・不動滝(胎内窟)
天然の岩窟と石門に、観音像は百体
観音山の天然の岩窟や石門などは、登山道のない西山を含めるとその数は二十を超える。小さい山のそこらじゅうが穴だらけというイメージだ。修験道のメッカであったことも大いにうなづける。観音山には小さいながら二つの峰がある。高い方の「東山」には西国三十三番と板東三十三番、「西山」には秩父三十四番の観音像が全部で百体も安置されているおり、麓の瀧峩山不動尊の堂の裏から、一体あるいは数体ずつ、天然の窟屋や露座で祀られている。像容はシンプルで、坐像は30センチ、立像が45センチほど。いずれも15センチの蓮華座にはめ込まれている。奇岩と仏像をみつけながらのハイキングは十分なほど楽しい。
岩櫃城の支城・柳沢城は必見
しかしこの観音山の魅力は、そうした修験文化だけに留まらない。ここには、真田氏以前に築城された古城「柳沢城」がある。岩櫃城の支城で、小さいながらも独特の築城技術により、別名がかっこいい。その名も「岩鼓の要害」だ。伝説では永禄6(1563)年に真田軍が岩櫃城を陥落させた際、岩櫃城主・斉藤憲広は、この柳沢城にいた嫡子・斉藤越前太郎らが駆けつけたことで討ち死にを逃れ、越後に落ちのびることができたといわれている。それが事実であれば、真田氏以前からも柳沢城は岩櫃城を支える城として格別の機能を持っていたことになる。しかし、真田氏は岩櫃を手に入れるや、この柳沢城にも手を加えていることが見て取れる。真田氏以前の古城と見られる部分には「箱堀」などの古い造りが見られるが、東側に見られる「薬研堀」は真田氏特有の東側からの敵の進入に備えたものと言える。真田氏が古い城をより機能的に設えた痕跡があちらこちらに見ることができる。この柳沢城跡は開発はほぼ入っておらず、当時のまま、土が堆積し、緑に覆われている状態であることから、ハイキングをしながら、当時の山城のイメージをつかむことができる。修験文化を楽しみながら、さらに、戦国の世の守り手、攻め手になったつもりで歩いてみれば、この山の楽しさはさらに膨らむ。
観音山山頂の柳沢城跡
不動滝で自然への畏敬を感じて
そしてなんといっても、観音山に欠かせないのは不動滝。岩だらけの岩櫃山から、よくもこんなに水が流れるものだと関心するほどの水量が箱庭のようにコンパクトな滝壺にドドンと落ちる。3段30メートルの滝で、近くからは最下段の滝しか見えない。滝脇のトレイルを進むと第3石門、ハシゴ、鎖、そして洞窟があり、ちょっとしたスリルを味わいながら滝の上部に行くこともできる。滝が落ち込む滝壺は浅く、裸足になって入っていけば、滝はもう目の前に感じることができる。冷涼な水しぶきを体に浴びて、身を清める。周囲の修験文化と独特の岩石に覆われた滝を仰ぐと、まるで自然への畏敬が全身を包むようだ。
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