何喰はぬ顔の出てくる氷室かな

拾遺放光 柿本多映句集 〈高橋睦郎 選〉

柿本多映句集・高橋睦郎編『拾遺放光』深夜叢書

ピアノ鳴る家や西日の鬼瓦  柿本多映

満水の池を覆へり春の空  同

何喰はぬ顔の出てくる氷室かな  同

陽炎を跨いで入る非常口  同

八月の鯨のやうな精神科  同


http://manabook.jp/icemanlibrary06nomura.htm 【信州の氷室】.より

一 はじめに

  一日 晴 氷売来

    八文で家内が祝ふ氷かな

 この文は、一茶『七番日記』文化12年(1815)6月のものである。文化12年6月1日は、太陽暦の7月7日にあたる。江戸時代、信州でも庶民が、夏氷を口にすることができたのである。一茶はほかにも、6月に氷や雪の句をいくつか詠んでいる。

 江戸時代6月に売り歩いた氷は、冬、氷を氷室に蓄えておいたものであろう、この氷室が、どこにあり、どのような構造であったか等は一切不明である。ところで、信州でこのように記録に残っていない氷室のほかに、藩主に献上した氷を蓄えた氷室があった。寒冷な信州でも、相当量のきれいな氷を採集し、夏まで蓄えておくのは、そう簡単なことではない。この氷室についてのべてみたい。

二 日本の氷室

 信州の氷室の前に、日本古代の氷室についてのべる。

 昭和63年10月、奈良平城宮跡の、長屋王宅跡から多数の木簡がみつかり、そのなかから、「都祁氷室」(つげのひむろ)の木簡が発見された、と報道された。また、平成元年2月、NHKから、長屋王宅とともに、木簡や都祁氷室なども放映された。

 この都祁氷室については、『日本書記』仁徳天皇62年に、

 額田大中彦皇子ぬかたのおおなかひこのみこ闘鶏つけに猟したまふ。時に皇子山頂より望みて、野中を瞻みそなはすに、物有り、其の形廬いほの如し。仍りて使者を遣して視しめたまふ。還り来りて曰く、窟なり。困りて闘鶏稲置大山主つげのいなぎのおおやまぬし喚して問ひて曰く、其の野中に在るは何窟ぞ。啓して曰く、氷室なり。皇子曰く、其の蔵むるさま如何に。亦奚にか用ふ。曰さく、土を掘ること丈余ひとつえばかり。草かやを以て其の上に蓋ひて、敦あつく茅荻ちすすきを敷きて、氷を取りて以て其の上に置く。既に夏月を経て消えず。其用ふこと、即ち熱き月に当りて水酒に漬ひたして以て用ふ。皇子即ち其氷を将ち来りて御所すめらみことに献る。天皇歓びたまふ。是より以後、季冬しはすに当る毎に必ず氷を蔵め、春分きさらぎの始に至りて氷を散あかつ。

 この文は、仁徳天皇(大鷦鷯天皇おおささぎのすめらみこと)の弟である額田大中彦皇子が、闘鶏に猟に行かれた時、盧いわやのようなものが見えるので、村長の闘鶏稲置大山主に「あれは何か」と質問されたところ「氷室でございます、土を一丈ばかり掘り、茅でおおい、底にちがや・すすきなどを敷きその上に氷をおきます」と答えた。皇子は氷を持ち帰って、仁徳天皇に献上し、天皇はよろこばれたという。

 発見された木簡は3枚で、1枚は都祁氷室、深一丈、回六丈(一丈は3メートル)、氷の厚さ、三寸と二寸半(一寸は3センチ)で、二つの氷室はそれぞれ茅500束でおおった。人足は20人で、各人に布や米4升、塩を給した。うらに、和銅5年(712)2月とある。

 2枚めは、和銅四年・六月閏六月・七月八月の日付が三〇日ばかりあり、同日に氷をどの位運び、運搬者に氷駄銭ヒダセン二一文を払ったとある、3枚めは畧。

 神話の世界の物語と思われていたことが、事実だったのである。延喜式(927)の巻40に、氷室についての規定があり、次の10ヶ所の氷室があった(表1)。これらの氷室は、国家が経営管理し、夏季朝庭へ氷を運搬した。

 表中、大和国山辺郡都介が、長屋王の都祁で、現在奈良県天理市福住町に氷室神社があり、神社の近くに、氷室跡や氷を採取した池と伝えられるものがある(写真1)。山城国栗栖野氷室は、現京都市北区西賀茂氷室町で、氷室神社や氷室跡がある。丹波国池辺氷室は、現京都府船井都八木町の神吉氷室に比定され、八木町の氷所ひどころに氷室神社がある。石前氷室は金閣寺の近くといわれるが定かでなく、近所に氷室町という町名がある。他の氷室はいづれも、氷室跡は明確でないとされる、延喜式にはないが、奈良市三笠山麓にも氷室があったと伝えられ、春日神社の近くに氷室神社がある。これらの氷室神社の祭神は、大鷦鷯天皇おおささぎのすめらみこと(仁徳天皇)・額田大中彦皇子・闘鶏稲置大山主命の三神で、創始は福住氷室神社(允恭3)とされる。

氷貯蔵・運搬等についても、延喜式に規定があり、毎年4月1日~9月末まで、天皇・中宮・東宮等の氷として宮中へ運んだ、年間の量は800駄以上(1駄は約86キロ)という。

 王朝時代から江戸時代にかけて、多くの歌人が氷室の和歌を詠んでいる。謡曲に、池辺氷室が主舞台の『氷室』がある。『枕草子』『源氏物語』等に、夏、氷を削ってたべる場面がある。

三 信州の氷室

 江戸時代、信州に次の3ヶ所に氷室があった。

 1 小諸市川辺・氷こおり

 2 長野市松代町・西条

 3 東筑摩郡本城村・乱橋みだればし

 これらの氷室の氷は、氷朔日(こおりのついたち)の6月1日、藩主に献上された。延喜式氷室が、地面を掘ったものであったのに対し、これらの氷室は、風穴等を利用した、石積みの氷室であった。断熱材は芒等であったと思われる。京都の仙洞御所(御水尾上皇の江戸初期)に石積みの氷室が現存し、お冷しという。韓国の慶州にも石積みの氷室がある。

 1 小諸市川辺 氷氷室

 旧川辺村大久保の氷部落にあり、現在使用中の氷室もある。

 大原幽学の天保2(1831)6月の日記に(1)

 一八人連れで布引山へ行く、途中氷室村には氷室あり、六月一一日に公儀へ氷を献上するとふ。

とある。そこで、小諸市の大塚清人氏に問いあわせた所、小諸藩の「御用部屋日記」や郡誌・地名辞典等の資料を送っていただいた。氷献上の「御用部屋日記」の文は次のようである。

○明和2(1765)乙酉年 日記

    六月朔日乙己

   今朝大久保村より氷差上候。

○安永3(1774) 日記

    六月朔日

   例年通氷村より今日氷指上候。

○嘉永5(1852)壬子 日記

    六月朔日

 大久保村より当年は氷献上、残多分ニ有之候間、信之助様江上度旨申立候段、山中江助申聞候ニ付、為上候様申達、尤御挨拶は無之其許へも少々差出、大殿様江も差上候旨山中江助申聞候。

 氷献上は、元禄の頃からで、大久保村の名主が行ったという。郡誌・地名辞典等には、次のようにある。

 ○『北佐久郡誌』(大正4年)の川辺村に、

 風穴・大字氷にあり此地御牧原東北の中腹高位層にありて、一帯重畳せる石礫にして、其石層中常に冷風通じ、盛夏と難も頗る冷涼なり。昔元禄年間、一個の風穴を造り、凍氷を貯蔵し時の藩主に献ずるを例とせしが、明治六・七年の交春蚕種残多々ありしを、此氷室に貯蔵し好成績を得、現今之を経営するもの二会社あり。年百万枚以上に上り、これが依托者三十有余府県に亘る。

 氷風穴同益社・有志者の合資経営する所、風穴第一号より第六号を有す。

 ○『長野県町村誌』東信篇(昭和11年)の大久保村に、

 氷神社 社地東西六間・南北八間、面積一畝一八歩、村の西の方氷組にあり、祭神少彦名命、社池内に氷室あり、毎年暑中三ッ目を以て出す。

 ○『長野県の地名』(平凡社)大久保村に、前の部分畧

 氷集落近辺の風穴を利用しての蚕種貯蔵業は、明治初期以後各地で養蚕が行われるようになると隆盛を極め、その寄託範囲は遠く九州・北海道・朝鮮にまで及んだ。

 ○『千曲之真砂』瀬下敬忠・宝暦3(1753)・巻1、

信濃国名産物出所

布引山氷室 佐久郡布引山麓氷村ヨリ年年六月朔日。

 小諸市観光課に『小諸の風穴と町並み』市川健夫他(平成5)なるB4版30数枚のパンフレットがあり、うち8枚に、風穴の成因・現状等が説明されているが、江戸時代の氷室については記載がない。風穴の冷気の発生源として、永久凍土存在の可能性があるとしている。

 この氷室は、氷部落から登り道ではあるが、自動車の通る道で、10分とはかからない距離にある。氷室の大体の位置関係は図1のようで、1~4の石積みの氷室ははっきりしており、他にも氷

室跡と思われる石積みもあるがはっきりしない。5は氷室神社 6は氷室稲荷社 7は番小屋の跡といわれる。いずれも江戸期の氷室に手を加えて使用したものであろう。

 最大の氷室で、土屋満氏の所有、Aの入口部分、Bの冷蔵室、Cの氷保存室の3室に別れ、A室B室には電気設備があり、3室トタン屋根におおわれる。入口の戸に墨書があり次のようである。

2 長野市松代町西条・西条氷室

 宝暦9年(1759)の松代藩御用部屋日記に(2)

  六月朔日

今朝例年之通西条村より氷相納候

とある。『朝腸館漫筆』鎌原桐山・巻之九に「西条風穴の氷」として、次のようにある。

 六月今暁寅の刻、西条村より佳例の如く氷を持来る。予め昨日西条の役人来りて、今朝氷貢する事を届く。氷は青茅の苞にして来る、氷の大小年に寄りて定りなし、年によりて少しもなき事あり、今年も消えてなし、旱乾の年は多く、雨多き年は少なし、今年比日雨繁かりし故にや消たり、公の台所を始とし、当番の郡奉行支配の代官、月番の邦相勝手係の邦相矢沢氏望月氏(中畧)予が家を加えて凡十ヶ所也。

 ○『長野県町村誌』東信篇(昭11)の西条村に

 氷室跡 本村未の方、字大嵐山の中腹にあり。松樹一株梢を交へ石櫃現存せり。其原由年月不詳と雖も、真田氏松代藩主たりしとき毎年六月一日暁、本村村吏氷を献ず。廃藩以降廃絶せり。

とある。松代町西条の西楽寺・霊屋の附近の幅2メートルの舗装農道の終点から、谷間の道を行く、風倒木多く手入れは全くされていない、やがて左手に平坦部があり、そこに氷室跡がある。6×5×深2メートル、三方が土砂に埋まり、一方のみ石垣がわかる。やがて全部埋まるであろう。

3 東筑摩郡本城村 乱橋氷室

『信濃』(昭8第2巻)に、「らうゑん」の筆名(栗岩英治)で「氷室の話」なる一文がある。④要約すると次のようである。

東筑摩郡本城村、乱橋に氷室神社があった。神社の床下ば風穴で、昔は氷を保存して、何れへか奉献したものだといっていたが、『信府統記』を見ると

氷大明神(東向)乱橋村

(村ヨリ辰の方一〇町三四間)

社地ヨリ六月朔日に氷を上る。縁起来由知れず。(以下略)。

とある。

 ○『信府統記』の第七に

乱橋村ノ東ノ山ヨリ毎年六月朔日、氷ヲ領主へ上ル、小キ洞ニ寒中ヨリ雪氷タタエテ夏マデアリ、此上ニ氷明神トテ、小キ洞ヲ立タリ、当国ニテ氷室ノ例ニ准ルナルベシ。

同書第一九にもある、これは前記『信濃』のらうゑん氏の文で、略す。

 ○『長野県町村誌』南信篇の本城村に、

氷社・社地東西三〇間、南北一一間、村の午未の方にあり。大巳貴神を祭る。祭日六日一一日、社地中老樹なし。

風穴・二ヶ所。大洞山の山脉其東に赴く連山中、荒田山の北陰と、又虚空蔵山の支山、大平山北陰に、世俗風穴と称する所ありて、夏月と雖も岩間より氷雪を出すものあり。就中大平山の氷室は、往時六月一日毎に、国守へ献氷の礼節ありて、其遺跡猶今に至りて存するものあり、近時二所共に一室を構え、蚕種を貯蓄するに其妙を得たり。是皆山心に隠池ありて、水面上寒冷にして、空気濃原なるを以て、夏月に至れば、外面の稀薄なる空気と平衡せんと欲し、岩隙際より寒冷なる空気を発す。依之温素茲に近付くこと能はざるに依てと云ふ。

 ○『長野県の地名』(平凡社)本城村に、

(前略)、古代創始の氷神社が、自然の風穴を利用して建てられている。『信府統記』の「松本領諸社記」に(『信府統記』第一九の文、前出略)、『東筑摩郡誌』に(『長野県町村誌』南信篇と同じ、略)、と記す。ここに今も氷大明神を祀っている。

 

 ○『角川・日本地名大辞典』の乱橋村に、

 

 (上略)、当地の信仰の中心は氷武神社で、旧暦六月一日に国司や領主に氷を献上するのが例であったという(『信府統記』)。

 氷武神社脇の氷山風穴は古く、安政四年に岩戸の荒田山風穴に分社している。

 (近代では)氷山風穴により、蚕種冷蔵業が成功した。

 この氷室は、乱橋の東村の茸工場の近くに、「お氷様こりさま登山口」の柱があり、そこから約500メートル、10分位の所に、お氷様すなわち氷武こおりたけ神社がある。前記らうゑん氏の文では、神社の下が風穴とあるが、現状では神社の下は石を敷きつめその上に神社があり、氷室は神社の手前約20メートルにある。石積み・トタン屋根、内部はまっくらで、懐中電燈持参の再度の訪問で写真・寸法をとる。内部は4.5×3.5×高1.8メートル、温度は10月21日外気温と同じ、冷風はない。この氷室の隣に、ほぼ同じ寸法の氷室跡がある。石積みの厚さは1~1.8メートルある。神社の崖下の斜面に、8×5メートル、4×3メートルの石積みがあるが、氷室跡か否かは不明である。

 現在、江戸時代信州にあって、6月1日藩首へ氷を献上した氷室について知られるのは、以上の3ヶ所である。

 県内に、氷室なる地名があるのは、

  南安曇郡・梓川村・氷室

  東筑摩郡・坂井村・氷室(修那羅峠北麓)

である。氷室なる地名ではあるが、現地で聞いても、また地名辞典等をみても、かつて「氷室」が存在したことはないと思われる。長野市信更に氷の田なる地区があり、同地区内に氷熊という部落があるが、氷との関係はないと思われる。

 将軍家への献上で、小諸藩は氷餅とたてしなつけわらび(5)を、諏訪藩でも氷餅を献上した(6)。将軍家への氷献上では加賀藩が知られているが、献上したのが天然氷か雪をかためたものか、加賀から江戸への氷輸送等は、多くの文献・諸説があって、明確でないという。兼六園に氷室の跡があり、江戸では東大構内の三四郎池の近くに氷室跡があったという。

 幕府ではこのような氷献上とは別に、奈良奉行所の『御納戸日記』に、

富士の氷を駄馬をして江戸に運ばしむ、一駄の氷(一六貫)八貫から四貫となる。

とある、という。

四 一茶、氷朔日の俳句

 氷室の氷は、6月1日藩主へ献上された。太陽暦では大体7月上旬である。この6月1日は氷朔日(こおりのついたち)で、氷を供ず・氷室の使い・氷の貢・氷の御物・氷室・氷室守・賜氷の節・氷餅を祝う・氷室の節句等の季語がある。古代、氷室から宮庭へ氷を献じた故事による。

 本文の冒頭に、一茶の『七番日記』をあげた。一茶の俳句は2万句といわれるが、氷朔日・氷室・氷・雪の貢等の句は27句に及び、他の俳人にくらべ断然多い。彼の句は、『七番日記』・『文政句帳』にあり、文化9(1812)4句、文化10年・5句、文化12年・5句、文政5(1822)9句、文政7年・2句、文政8年・2句、計27句である。このうち文化9年は、前年より江戸・房州あたりにおり、そこで詠んだ句である。

 文化12年は、

(五月) 二八日・善光寺ニ入

     二九日・略(小の月)

(六月) 一日   氷売来

二日

三日梅松寺ニ入(小布施)

とあり、6月1日は善光寺あたりにいたと思われる。果たして、一茶が氷朔日の句を、6月1日に詠んだかはわからないが、日記からすると、他の年も、6月1日には、六川・浅野・牟礼・律野等にいて、柏原にはいなかったようである。

一茶の句を季語等によってわけると次のようになる、

ア 氷室

鶯よ江戸の氷室は何が咲     文化9

番をして鶯の鳴氷室哉      文化10

鶯も番をして鳴氷室哉      文化10

二句・三句は6月1日題として詠んだ句である、

水の奥氷室たづぬる柳哉       芭蕉

神秘そも人には説かじ氷室守    蕪村

他に氷朔日の句は、多くの俳人が詠んでいるが、「氷室」「氷室山」「氷室守」などを詠んだ句が多い。(略)