連歌の起源

http://yamazakinomen.mizutadojo.com/matuobasyo.html  【鹿島紀行】 より

鹿島紀行  松尾芭蕉

 舟をあがれば、馬にものらず、細脛のちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはたと云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり。

   雪は申さず まづむらさきの つくば哉

と詠しは、我門人嵐雪が句なり。すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

【口語訳】

舟を上がると、馬にも乗らず、細い脛の力を試そうと、歩いて行く。 甲斐国からある人が届けてくれた檜木づくりの笠を、おのおのが被って旅支度をし、八幡という里を過ぎると、そこに、鎌谷が原という広い野原がある。 この広大な様は、古の詩にある「秦甸(しんでん)之一千(余)里」のようであり、遥か彼方まで見渡すことができる。 筑波山が、向う正面に、二峰を高く並べて立っているのが見える。かの中国にも双剣の峰があると聞くが、これは、中国山水詩の母たる廬山(ろざん)の一隅に存するものである。

 雪は申さずまづむらさきのつくば哉

    (雪を頂く姿が見事なのは言うまでもないが、春立つ頃の、山紫に

     霞みたなびく筑波山は格別のものであるよ、)

と詠んだ句は、我門人嵐雪によるものである。総じてこの山は、日本武尊と火守り老人との問答唱和が伝えられて、連歌の起源に関わる山とされ、初の連歌撰集の題にも名付けられた。筑波山を眺めながら、和歌を詠まないことはあってはならない、また、句を詠まずに通り過ぎてはならない。まことに愛すべき山の姿ではある。

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※ 「鹿島紀行」は、芭蕉が門人曽良と宗波を伴い、鹿島神宮へ月見を兼ねて参拝した時のものである。服部嵐雪の俳句は、筑波山の素晴らしさを詠っている。古来より名山の誉れ高い山である。

           令和2年3月25日 記


http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza11.htm 【Ⅰ 連歌の起源】 より 

一、問ひて云はく、連歌はいづれの代より始まるにや。つたはれる様もこまかにうけ給はり侍るべし。

答へて云はく、古今仮名序に貫之の書ける、天の浮橋のえびす歌と云ふは則ち連歌なり。まづ、男神発句に、  あなうれしゑやうましをとめにあひぬとあるに、女神の付けてのたまはく、  あなうれしゑやうましをとこにあひぬと付けたまふなり。
歌を二人していふを連歌とは申す也。二はしらの神の発句・脇句にあらずや。此の句、三十一字にもあらず短く侍るは、疑ひなき連歌と翁心得て侍るなり。古の明匠たちにも尋ね侍りしかば、まことにいはれありとぞ仰せられし。

又、連歌とて云ひおきたるは、さきに申しつるやうに、日本紀に、景行天皇の御代、日本武尊の東の夷しづめに向ひ給ひて、この翁がこの比すみ侍る筑波を過ぎて、甲斐國酒折宮にとどまり給ひし時、日本武尊御句に、ニヒハリツクバヲスギテイクヨカネツル珥比磨利菟玖波塢須擬底異玖用加禰菟流 すべて付け申す人のなかりしに、火をともすいとけなき童の付けていはく、 カヽナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ伽・奈倍底用珥波虚々能用比珥波菟塢伽塢 ↑化けると思います。偏が「簽」の竹冠を抜いたやつで、つくりが「式」という字です。と申し侍りければ、尊ほめ給ひけるとなん。其の後、万葉集に入りたる家持卿の、佐保川の水せき入れて植ゑし田を といふに、 刈るわさいねはひとりなるべし と付け侍る。 (二条良基『筑波問答』)

[解説編]*************************

 連歌の起源と題して良基の連歌論書『筑波問答』の一節を挙げました。

 この本は筑波から出て来た老人が京のとある貴族の屋敷の庭が気に入って入り込み、その家の若い貴族と話していると、この老人連歌の事に甚だ詳しいことがわかり、そこで若い貴族が質問し、老人がそれに答える、という設定になっています。最初の「問ひて云はく」が若い貴族の質問、「答へて云はく」以下が老人の答えです。

もちろんこれは良基が設定したもので、答えの内容が良基の認識を物語っているとみて間違いありません。

それによると、ここで良基は、初期の連歌の例を三つ挙げています。一つは古事記や日本書紀に見えるイザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みに当たっての言葉の掛け合い。

  あなうれしゑやうましをとめにあひぬ(イザナギ)

  あなうれしゑやうましをとこにあひぬ(イザナミ)

というもの。

実は古事記では天の御柱を回って声を掛け合った時、イザナミの方から声を出してしまったため、生まれた子供は骨のないヒルコだった。そこでなぜそんな子供が生まれたのか、これはきっと女が先に声をかけたからだ、と考え、もう一度柱を回って、今度は男の方から声をかけたことになっているところ。すると淡路島を始めとする日本の国土が生まれたというもの。意味は要するに、「おおっ、嬉しいなあ、いい女に会った」「あらっ、嬉しいわあ、いい男に会った」ということ。

もう一つはこれも古事記・日本書紀にある話で、ヤマトタケルノミコトが父景行天皇の命令で東国征伐を行ない、常陸国新治郡筑波から甲斐国酒折宮に辿り着いた時、ミコトが

ニイバリツクバヲスギテイクヨカネツル(新治の筑波を過ぎて、一体幾晩寝たことだろう)

と詠んだのに誰も答えられなかった時に、そこにいた童(古事記では御火焼ミヒタキの翁)が、

カガナベテヨニハココノヨヒニハトヲカヲ(日々を並べると、夜としては九夜、日としては十日でございます)と答えたというもの。

三つ目は万葉集にある、ある尼と大伴家持のかけあい。例文の筑波問答ではどちらが家持のものかわかりにくくなっていますが、万葉集ではまず尼が、佐保川の水を堰き入れて植えし田を と詠みかけ、家持が、 刈る早稲は一人なるべし と続けたことになっています。

この万葉集の例は若干意味がとりにくいのですが、尼の前句は、「この田は佐保川の水を塞き止めて水を流し、私が苦労して植えた田なのですよ」という表面の意味に、「そのようにこの娘は私が手塩にかけて育てた大事なむすめなのですよ」という裏の意味を含むもの。家持の方は、「その早稲を刈って食うのは一人でしょうよ」そして「あなたの大事な娘といっても、いつかは一人の男のものになってしまうのですよ」というような意味だろうと考えられています。

さて良基はこの三つの例のうち、二番目のヤマトタケルノミコトの例が従来連歌の初めと言われて来たが、自分はもっと前の、イザナギ・イザナミノミトコの例だと思う、と述べているようです。これは連歌の社会的地位の向上のために、その由来を神代の昔からと考えたかった良基としては当然のことでしょう。とはいえ、この掛け合いが歌と呼ぶべきものとは思えません。

それに対してヤマトタケルの例は、いつごろからかわかりませんが古くから連歌の始まりと考えられていたらしく、ここから、和歌の道を「敷島の道」と呼ぶのに対して、連歌の道を「筑波の道」と呼び慣わすようになりました。良基も連歌最初の撰集を「菟玖波集」と名付けたところを見ると、これを最初と見るのが穏当と考えていたのだろうと思われます。

しかし現代においては、その説は支持されていません。ヤマトタケルと童または御火焼の翁の例は、477・577という歌体になっており、この577という形は、記紀万葉に他にも例のある片歌という歌体であり、要するに片歌の唱和の例と考えられています。

尼と大伴家持の例もこれが初めての連歌の例と考えられているわけではなく、二人がこういう歌を作ったのは、当時こういうやり方で歌を作ることが他にも行なわれており、その中からたまたま家持の例が残ったまで、ただ現存最古という意味では、これがそれだと考えられています。
これが現代の連歌学者達の見方ですが、私はまだよくわかりません。現代の連歌学者達が万葉集の例を現存最古の連歌の例と考えるのは、575と77の組み合せという後世の連歌と同じ形である、ということを大きな根拠としているようですが、二人で一首の歌を作るのが初期の連歌の姿と考えていいならば、ヤマトタケルの片歌の唱和も、そういうものと見ることが不可能ではない。

カタという言葉は古来完全を意味する「マ」に対して、完全でない、どこかが欠けているという意味を表していました。すると片歌とは、それだけでは完結しない不完全な歌、という意味になる。そして片歌が二つ集まった形、すなわち577577という歌体も万葉集にはあり、旋頭歌(セドウカ )と呼ばれていました。

ヤマトタケルが477の歌を詠んだ時、これは片歌だからこれだけでは完結していない、もう一つ片歌が加わって初めて一つの旋頭歌になる、と考えて誰かがそれを詠むことを期待していたとするならば、それは「佐保川の水を堰き入れて植えし田を」と詠んでそれに続く77を誰かが詠むことを期待していた尼と同じ心理だったのではないか。

そう考えれば、ヤマトタケルの片歌の唱和を連歌の起源と見る古来の説もあながち否定できないのではないか、などとも考えるのですが、まだ大伴家持の例を現存最古の例と考えた現代の説の根拠を十分確かめていないので、これはあくまでも素人考えにとどまります。

とはいえ仮に家持の例を現存最古の例と考えても、それが作られたのは8世紀の半ば以前。今から1200年以上も前のことになります。この国で、一つの歌を複数の人間が合作するという習慣がそれほど昔から行なわれていたことには、やはり注目すべきでしょう。

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