『奥の細道』と歌仙

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza14.htm  【Ⅳ 俳諧の発生と展開】より

 ○竹馬狂吟集(一四九九)より

<A>足なくて雲の走るはあやしきに  何をふまへて霞たつらん

<B>王も位をすべるとぞ聞く  縁までも油みがきの院の御所

<C>暗き夜に小便所をやたづぬらん  そこと教へばやがてしと(尿・師と)せよ

<D>あながち(強ち・穴勝ち)なりと人や笑はん 生まるるもまた生まるるも女ヲナゴにて

 ○新撰犬筑波集より

<E>霞の衣すそは濡れけり   佐保姫の春立ちながら尿シトをして

<F>月日の下に我は寝にけり   暦にて破れをつづる古ぶすま

<G>命知らずとよし言はば言へ  君故に腎虚せんこそ望みなれ

<H>誠にはまだうちとけぬ仲直り  めうとながらや夜を待つらん

<I>ふぐりのあたりよくぞ洗はん   昔より玉磨かざれば光なし

<J>人を突きたるとがは逃れじ   あはれにも越ゆる蚊遣りの死出の山

 ○守武千句(俳諧之連歌独吟千句-天文九年一五四〇成立)より

  飛梅やかろがろしくも神の春   われもわれものからす鴬

  のどかなる風ふくろふに山見えて   目もとすさまじ月のこるかげ

  あさがほの花のしげくやしをるらん   これ重宝の松のつゆけさ

  むら雨のあとにつなげる馬のつの   かたつぶりかと夕暮の空

      -以下略-

[解説編]**************************************************

中世に入って百韻の形式が確立するとともに、連歌はその表現を洗練させて行き、その傾向は良基・宗祇の時代を通して一層進められましたが、誰もが良基や宗祇のような優美な作品を詠んでいたわけではありません。むしろ圧倒的多数の人々は、菟玖波集や新撰菟玖波集といった公的な撰集には採られるべくもない、庶民生活に密着した作品を詠んでいたのだろうと思われます。

その多くは記録されることもなく詠み捨てられていたのだろうと考えられますが、新撰菟玖波集の数年後、15世紀の最末期に成立した『竹馬狂吟集』、更にその数十年後に山崎宗鑑によって編纂されたと伝えられる『新撰犬筑波集』(正式には「俳諧連歌抄」)に、そうした作品の一部が伝えられています。ここには前者から4つ、後者から6つ、比較的わかりやすいと思われる付合を抜き出しました。

<A>は「雲が走る」という表現に対して、「足がないのに雲が走るってのは変だなあ」と無邪気に疑ってみせた前句に、「それじゃあ霞は何を踏んで立つんだい」と、これまた無邪気に切り返したもの。

<B>は「王も位をすべる」、即ち退位することがあるものだという幾分政治的な内容をも持つ前句に対して、それは院の御所は縁まで油で磨いてあるからだよと即物的に応じたもの。

<C>は暗い夜に小便所を尋ねるという卑近な前句に対して、「尿」と「師と」の掛け詞で、「そこと教えたらすぐにオシッコしなさい」、同時にこんな些細なことでも、教えを受けたのだから「師と」して尊敬しなさいと答えたもの。

<D>の前句は「あんまりだと人が笑うんじゃないか」というかなり汎用性のある内容。付句作者はその「強ち」という言葉を「穴勝」にすり替えて、いささかHに付けました。

実は両集を通して量的に目立つのは、このような猥褻なもの。しかしこれはかなり綺麗に付けた方で、露骨に性器の名前を出すものも多く、<I>がその1例です。また説明していると時間がかかると思って抜き出しませんでしたが、時代色を反映して男色関係の作品が目立ちます。中世俳諧の実態を知るためには例示した方がよいのですが、私が気持ち悪い。それから現在差別語とされている語を話題にして笑いの対象にするといったものも目立ち、これまた実際にある以上取り上げてもよいと個人的には考えますが、気にする人もいると思うので取り上げませんでした。両集とも新潮古典集成の一冊として出ていますので、全部見たい方はそれをご覧下さい。

さて『新撰犬筑波集』に移って<E>はその巻頭の付合。霞を「霞の衣」と言う「衣」の縁で「裾」を出し、その裾が濡れたとする前句に対して、付句は裾が濡れた理由を、春の女神である佐保姫が、立春の今日「春立つ」の縁で立ち小便をしたからだ、ととりなしたもの。猥褻、と言うよりは大らかな付け味なのだろうと思いますが、ともかく春の女神に対していささか失礼な付句ではありますね。但し女性が立ち小便をするというのは当時としては別に珍しいことではなかったそうで、女神をお転婆娘にしたというわけではないようです。

<F>は「月日の下に寝た」という前句の「月日」を暦の月日に取り成して、旅寝を思わせる前句の世界を、破れた衾を暦でつづった貧しい人の姿に転じたもの。

<G>については余り説明する必要はないですね。<H>もそうだと思いますが、夫婦喧嘩は夜になって解決するものだという付合です、と一応説明してしまった。

<I>はさっき書いたように男性性器「ふぐり」を出した前句に、「玉磨かざれば光なし」という金言で応じたもの。

<J>はいささか殺伐な前句に、それは蚊のことだったのだと無難に応じたものでした。

『竹馬狂吟集』は中世最初の俳諧撰集として注目すべきものですが、撰者不明、また余り流布しなかったので、多くの写本版本となって流布した『新撰犬筑波集』の撰者と伝えられる山崎宗鑑が、次の荒木田守武と並んで、後世俳諧の祖と目されることになりました。
その守武は伊勢神宮の神官。古くから伊勢神宮は連歌の中心地の一つで、そこの神官の間では連歌が愛好されていました。守武もそこの神官として純正連歌の詠み手としても活躍しましたが、ある時思い立って数年がかりで、全て俳諧の句だけを千句詠み通したというのが「守武千句」(正式には「俳諧之連歌独吟千句」、別名「飛梅千句」)。守武の目論見通り面白い作品であるかどうか、問題はありますが、試みとしては確かに画期的でした。なお「千句」とか「万句」とかいうのは、連歌でも俳諧でもあくまでも百韻を基本としたもので、百韻10巻をまとめたものが「千句」、100巻まとめたものが「万句」です。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza15.htm 【 『奥の細道』と歌仙】 より

 ○『奥の細道』発端

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家  表八句を庵の柱に掛け置く。

 ○『奥の細道』須賀川の条

須賀川の駅に等窮といふ者を尋ねて、四五日とどめらる。まづ「白河の関いかに越えつるや」と問ふ。「長途の苦しみ、身心疲れ、かつは風景に魂奪はれ、懐旧に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。 風流の初めや奥の田植歌 むげに越えんもさすがに」と語れば、脇・第三と続けて、 三巻となしぬ。

 ○歌仙「風流の」の巻

 (初表)               作者 分類

 発句 風流の初めや奥の田植歌      翁 夏

 脇句  いちごを折つて我がまうけ草  等窮 夏

 第三 水せきて昼寝の石や直すらん   曽良 雑

 平句  びくに鰍の声生かすなり     翁 秋

 〃  一葉して月に益ヤクなき川柳     等 秋月定

 〃   雇ユヒに屋根葺く村ぞ秋なる    曽 秋

 (初裏)

 平句 賎の女メ が上総念仏に茶を汲みて  翁 雑

 〃   世の楽しやと涼む敷物      等 夏

 〃  ある時は蝉にも夢の入りぬらん   曽 夏

 〃   樟クスの小枝に恋を隔てて     翁 雑恋

 〃  恨みては嫁が畑の名も憎し     等 雑恋

 〃   霜降る山や白髪おもかげ     曽 冬

 〃  酒盛りは軍を送る関に来て     翁 雑

 〃   秋をしる身ともの読みし僧    等 秋月出

 〃  更くる夜の壁突き破る鹿の角    曽 秋

 〃   島のお伽の泣き臥せる月     翁 秋月

 〃  色々の祈りを花に篭りゐて     等 春花定

 〃   かなしき骨をつなぐ糸遊     曽 春

 (名残表)

 平句 山鳥の尾に置く年や迎ふらん    翁 春

 〃   芹掘るばかり清水つめたき    等 春

 〃  薪引くそり一筋の跡ありて     曽 冬

 〃   をのをの武士の冬篭る宿     翁 冬

 〃  筆とらぬ者ゆへ恋の世にあはず   等 雑恋

 〃   宮に召されし浮名恥づかし    曽 雑恋

 〃  手枕に細きかひなをさし入れて   翁 雑

 〃   何やら事の足らぬ七夕      等 秋

 〃  住み替へる宿の柱の月を見よ    曽 秋月

 〃   薄あからむ六条が髪       翁 秋

 〃  切り樒枝うるささに撰り残し    等 雑月定

 〃   深山つぐみの声ぞ時雨るる    曽 冬

 (名残裏)

 平句 さびしさや湯守も寒くなるままに  翁 冬

 〃   殺生石の下走る水        等 雑

 〃  花遠き馬に遊行を導きて      曽 春花

 〃   酒のまよひのさむる春風     翁 春

 〃  六十の後こそ人の正月ムツキ なれ   等 春花定

 挙句  蚕飼コガヒする屋に小袖重なる   曽 春

      元禄二年卯月廿三日

[解説編]**************************************************

前回資料には「俳諧の発生と展開」と題しながら、『竹馬狂吟集』『新撰犬筑波集』『守武千句』の簡単な解説だけでその後の展開に触れませんでしたが、これは去年の公開講座でもほとんど触れられなかったところですので悪しからず。時間があっても、要するに近世に入って貞門派→談林派→蕉風という展開があったことをなぞるだけの予定でした。が今回はなぞっておきますか。
ええ近世に入って世の中が落ち着いて来ますと、教育が普及して識字率が徐々にアップ。それまでは文学とは縁がなかった町人・農民の間にも文学に関わろうとする欲求が生まれて来ました。
その欲求にまず答えたのが松永貞徳という連歌師。貞徳は自分の本領をあくまでも正統連歌にあると考えていましたが、初心者を連歌に導くためには初めから優美な純正連歌など無理な話。そこで連歌に入る階梯として俳諧に目を付け、弟子達を指導した訳です。後に俳諧として生温いと批判されるようになりますが、この人が俳諧人口を増やした功績は大きい。
で貞徳一門の微温的俳諧にあきたらず、俗言を大幅に取り込んで自由奔放の俳風を生み出し、短期間ではあったけれども一世を風靡したのが西山宗因を盟主と仰ぐ談林派。その弟子の中で特に著名なのが井原西鶴でした。
この人の俳諧はみんなで集まって座を楽しむのではなく、大向こうの受けを狙うパフォーマンス俳諧。愛妻の死を惜しんだ記念興行で一日一昼夜、すなわち24時間のうちに1000句を詠んで以来矢数俳諧と言ってスピードを競う連句の第一人者となり、数多(だったかどうかは不明)の挑戦者を退け、ついには多くの聴衆の面前で一日一昼夜2万3千500句独吟という後にも先にもありえない大記録を達成してしまいました。
しかし本来俳諧は、或いは連歌・連句というものは、複数の人間が座に集まって詩心の交響を楽しむのがその本質。一人で大向こうの受けを狙う西鶴は、やがて小説の世界で日本初のベストセラー作家にはなっても、俳諧の世界の第一人者とはなれなかった。
この西鶴を「西鶴が浅ましく下れる姿」と批判して、貞門とも談林とも違う新風を打ち立て、近世俳諧の第一人者になったのが松尾芭蕉というわけでした。
でここには、『奥の細道』から連句に進みやすい部分を二ヵ所抜き出し、そのうち須賀川の条で話題にされている等窮邸での歌仙「風流の」の巻を例示しました。これは『連句への招待』(和泉書院)でも例示されているもので、「分類」の欄は同書を参照しました。季と雑は説明するまでもないと思いますが、そのほか恋と月花の定座・出所も表示しました。

さて芭蕉の奥の細道の旅は元禄2年(1689)。去年はちょうど300年目(元禄2年を1年目と数えれば、正確には一昨年が300年目なのでしょうが)ということで東北各地では記念行事が、また出版界でも関係書の出版が相次ぎました。

300年経って今なお東北諸地方の振興や出版界の売り上げに貢献出来るほど芭蕉の人気は根強いわけですが、現在における芭蕉の評価は主に今言うところの俳句、また『奥の細道』を始めとするいくつかの紀行文に負う所が大きい。

しかし『奥の細道』に散りばめられたいわゆる「俳句」はあくまでも近代以後の呼称で、芭蕉の時代には「発句」だったのだし、芭蕉自身はその「発句」よりも俳諧こそ「老翁が骨髄」と言っていたという。芭蕉を正当に評価するためにはその俳諧、すなわち連句に注目する必要があります。

『奥の細道』に散りばめられたいわゆる「俳句」は、少なくとも現代の俳人が旅に出て俳句を詠むのとはかなり違った意識で詠まれていたはず。それは『奥の細道』を少し注意深く読めばすぐに気付くことです。

たとえば「月日は百代の過客にして」と始まるあの有名な冒頭部分、出発に先立って深川の芭蕉庵を引き払い門人杉風サンプウ の別荘に移ったというところに、 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 という句がありますが、その後を「表八句を庵の柱に掛け置く」と締め括っています。「表八句」とは百韻連歌を書く懐紙四枚のうちの最初の一枚、初折の表に八句書いたところから名付けられたもの。この時実際に八句詠んだのかどうかはわかりませんが、とにかく芭蕉としては、発句だけを詠んだのではない、少なくともこの句を発句として巻いて行く八句の最初の句としてこの句は詠んだのだと主張しているわけです。

次の須賀川の条はもっと明白で、芭蕉を迎えた等窮に「白河の関いかに越えつるや」と問われた芭蕉は、その答えの中で  風流の初めや奥の田植歌 という句を詠み、それを発句として三巻の歌仙を巻いたと述べています。この時実際に三巻詠んだのかどうか、本当は一巻だけだったようですが、その一巻は次に引いたように、丸ごと歌仙として残されています。

『奥の細道』に散りばめられた発句の全てが、このように実際に巻かれた歌仙の発句として使われたわけではないのでしょうが、それでもこのほかにもいくつかの発句が歌仙とともに残されています。発句しか残っていないものも、機会があれば歌仙の発句として使われる可能性のあるものとして詠まれたのだろうと考えられるのです。
発句の近代以降の俳句との違いは、俳句が脇句を予想しない、時には読者すら予想しない孤立した一編の詩であるのに対して、発句は常に脇を予想する、要するに誰かの応答を期待して詠まれたというところで、当然のことながらその表現は他者によって理解可能なものでなければなりませんでした。今なお芭蕉の句が口ずさまれ、土地起こしの起爆剤として利用されているのも、発句の持っていたそういう性格によるもの、などと言ったら勿論言い過ぎですが。

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