http://weekly-nagano.main.jp/mt/mt-search.cgi?search=%E6%9B%BD%E8%89%AF&IncludeBlogs=1&limit=20 【曽良の辞世句 ~「風雅の道」に別れを告げる~】 より
春に我 乞食(こじき)やめても筑紫かな 河合曽良
日本を代表する紀行文学といえば、何はさておき松尾芭蕉の「おくのほそ道」だろう。同行二人(どうぎょうににん)、行程約2400キロの長旅を支え合って歩いたのが、信州人の河合曽良だった。
芭蕉より5歳年下で1649(慶安2)年、上諏訪宿の酒造業、高野七兵衛の子に生まれた。どういうわけか母の実家で養育される。
さらに伯母の嫁ぎ先である福島村、今の諏訪市中洲福島の岩波家へ養子入りした。岩波庄右衛門正字(まさたか)を名乗ることになる。
ところが、養父母ともに相次ぎ死去してしまう。やむなく伊勢国長島(三重県桑名市)の寺で住職をしている叔父を頼って旅立った。12歳のころらしい。
経歴にあいまいな部分が多い。二十のころ、長島藩に武士として抱えられ、河合惣五郎と称した。曽良は俳人としての名だ。
「おくのほそ道」には曽良のことがしばしば登場する。日光東照宮を訪れたくだりで、芭蕉はこう記した。
〈曽良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく〉
曽良は河合氏、名は惣五郎。江戸深川の芭蕉庵近くに住み、私の家事や炊事の手伝いをしてくれる。こんな意味だ。今回は、松島や象潟の景色を一緒に楽しみ、あるいは私の旅の難儀をいたわろうと同行する、とつづる。
よほどの覚悟だったのだろう。出発に当たっては髪をそり、僧侶のまとう墨染めの衣。名前の惣五郎は法名らしく惣五を宗悟と改めた。
東北、北陸の名所旧跡をたどる旅は、150日余りに及び、美濃の国大垣で終わる。しかし、旅そのものが人生である芭蕉にとって、一つの旅の終わりは次なる旅の始まりだ。
それから5年後、西国へ再び長途の旅に出た芭蕉は、大坂で病没。以降、曽良の俳句人生も精彩を欠いていく。
一時は消息さえ途絶えた曽良が晩年、身分を武士に戻し、こつぜんと表舞台に現れた。1709(宝永6)年、幕府の諸国巡見使「岩波庄右衛門正字」としてだ。
翌年3月半ば、北九州へ出発する。冒頭の句は旅立ちを前に詠んだ辞世と受け止められ、後に上諏訪の菩提(ぼだい)寺、正願寺の墓碑に刻まれた=写真下。
春になれば、自分は重大な役目の巡見使として筑紫に向かう。これまでのように風雅の道に浸っているわけにいかない...。気持ちを入れ替えたのだった。
一行44人で唐津(佐賀県)を見回り、対岸の平戸藩壱岐島に渡る。北端の勝本までたどったところで曽良は病に倒れた。そのまま5月22日、客死である。
享年62歳。当時の寿命では老境に差し掛かっている。曽良は、どういうつもりだったのだろうか。考えれば考えるほど、壱岐を訪ねたい願望が突き上げてくる。思いがけずチャンスは巡ってきた。
〔巡見使〕江戸幕府が将軍の代替わりごとに派遣した地方監察の臨時役人。宝永6年、6代将軍徳川家宣となったときの諸国巡見使は、全国を8つの地域に分けて実施している。
http://weekly-nagano.main.jp/mt/mt-search.cgi?search=%E6%9B%BD%E8%89%AF&IncludeBlogs=1&limit=20 【永遠の旅人・曽良 ~今も諏訪と壱岐の懸け橋に~】より
行き行きて たふれ伏すとも 萩の原 河合曽良
5月の連休明け、北陸新幹線6時11分長野発下り「はくたか」に乗り込んだ。九州の北、玄界灘に浮かぶ島、壱岐を目指す。江戸時代の俳人河合曽良が、旅の途中で生涯を閉じた終焉の地である。
野鳥や草花など自然観察に向かう一行15人の中に加わった。現地との事前折衝で驚いたのは、思いのほか曽良がよく知られた有名人であることだ。
島巡りの定期観光バスを運行するバス会社に、曽良の墓なども訪ねたい意向を伝えた。すると、「曽良のことで信州から?。だったら、貸し切りをガイド付きで用意しておきます」
昼食を相談した土産物店のおかみさん。「曽良の生まれた信州諏訪とは縁が深いですよ。店には御柱の法被を壁に飾っています」
心強い応対に安心して金沢で北陸本線特急「サンダーバード」に乗り換える。京都から博多までは新幹線「のぞみ」。博多港を超高速船「ジェットフォイル」で出て約1時間10分、午後5時には壱岐の南西、郷ノ浦港に着いた。
89-utakiko-0801p1.jpg
305年前の1710(宝永7)年3月1日、曽良は幕府の命を受け、北九州地方の状況を調べて回る巡見使の用人として江戸をたつ。
唐津などを巡り5月7日、一行は郷ノ浦に入港する。翌8日、陸路を北端の漁村勝本までたどった。15日には対馬に向け乗船したものの悪天候で動けない。
人生50年の時代、数え62歳の曽良の身に疲れがたまったのだろうか。宿泊先の海産物問屋中藤家で床に就いてしまう。5月22日、息を引き取った。
その漁港一帯を見下ろす城山公園に上って目を見張る。何と御柱が1本、すっくと立っている。諏訪市が運び、寄贈したのだった。
傍らで1989(平成元)年5月、曽良忌280年祭に建てられた〈行き行きてたふれ伏すとも萩の原〉の句碑が御柱を見上げている。もともとは「おくのほそ道」の旅で詠んだ1句だ。金沢を過ぎて曽良は腹をこわした。師の芭蕉に迷惑を掛けまいと独り先を行く。
〈病身で歩き続けても倒れて死ぬかもしれない。だったらせめて萩の乱れ咲く野原で終わりたいものです〉
惜別の情を芭蕉に書き残したのだった。
城山公園を少し下ると、海を背に曽良の墓がある=写真下。中藤家の墓地の一角だ。両側にきれいな花が供えられている。死して300年余り、信州生まれの見ず知らずの旅人に寄せ続ける島の人の優しい心根に、涙がこぼれ落ちた。
急に一つの想念が浮かんでくる。曽良は行き行きて倒れ伏す場所を探し求め、歩きに歩いていたのではないか。そして行き着いたのが壱岐であったのだ、と。
そういえば芭蕉も死の直前、相通ずる境地を詠んだ。
〈旅に病んで夢は枯野をかけめぐる〉
〔壱岐〕九州と対馬の中間に位置し、古来、朝鮮半島と北九州を結ぶ要衝。江戸時代は平戸藩領だったので長崎県に属する。しかし、交通の便、人や物の交流は福岡との関係が深い。
http://www.nisimino.com/nisimino/turedure/67_index_msg.shtml 【不思議な随伴者曾良】
より
芭蕉の奥の細道の旅に5歳年下の曾良が随行したのは誰しもが知るところである。芭蕉は「曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく」と記している。この曾良が丹念に付けていた道中の詳細が知れる日記が残っていて、それによって芭蕉が実際の旅を下敷きに作品としての『おくのほそ道』をどのように造り上げたかが分かったのだった。芭蕉の旅の随伴者が当初予定された路通だったら、こんなふうにはいかなかったろう。曾良の細かい気配りと几帳面が旅を円滑に進め,また後世に貴重な資料を遺してくれたのである。私は以前、この日記の内容がはじめて公開された昭和18年刊の『曾良奥の細道随行日記』を入手して興味深く読んだ。この本には岩波文庫本では大垣出発のところまでしか載せていないその後の曾良の旅の記録があり、曾良が芭蕉との旅のために用意した訪れるべき神社や歌枕などのリスト、旅中での俳諧の書留め、曾良の元禄4年の近畿の旅の記録なども載っている。これらすべてが一冊の書留帖に記載されているのであり、いまではその影印本も刊行されている。
近年、この曾良の日記に真正面から取組んだ研究書を金森敦子氏がものされた。『曾良旅日記を読む―もうひとつのおくのほそ道』である。金森氏は先に『芭蕉はどんな旅をしたのか』を著された方であり、新作も芭蕉・曾良二人の旅の実態を同時代の資料も縦横に駆使して生き生きと描き出した労作であって、新しい知見がたくさん盛り込まれているが、ただ私が曾良について年来、不思議に思ってきた事柄は、あいかわらず謎として残っている。その一つは曾良は何をして生活していたひとかということである。若いとき、親戚が住する伊勢長島の大智院に居たことは確かで、あと62歳のとき、幕府の巡見使の随員として九州方面に赴き壱岐で客死したほか、職に就いたことを伝える資料がない。金森氏は今回、彼が吉川惟足(これたる)に学んでいることから各地でフリーの神職として働いたのではと推察されているが、他に考えようがないということで、それを証しするものがある訳では無い。彼は地誌編纂の関祖衡や並河誠所と知己だったようで、このあたりから幕府隠密説も出るのだろうが、隠密にしてはいささか目立ちすぎである。
もうひとつの不思議は彼の日記における時刻の書留めである。江戸中期の日本に彼の日記ほど細かく時刻を記した資料はない。彼は子丑寅卯の十二支で時刻を記すが、大垣を9月6日の辰の刻(午前8時前後)に出た舟が「申の上刻」(午後3時ころ)杉江着というふうに、2時間ほどの幅がある一刻を上中下3つに分けて記述するのである。『時計の社会史』で角山栄氏は当時のガイドブックに紙縒りを立てると簡単な日時計になる仕掛けがあったりしたが、雨や曇天にもかかわらず記述があるからこれではないとして、時の鐘の普及に触れていられるが、これまた芭蕉たちの旅がそれに恵まれていたとは思えない。同じころ、ケンペルは最新のオランダ製懐中時計を持って東海道を旅して細かい時間を測っているが、そんなものが芭蕉の手に入る筈はない。金森氏は曾良には大体の時刻を読む特別な能力があったとされているが、そうとしか言いようがない、これもあいかわらずの謎である。
0コメント