https://rinto.life/124404/2 【元禄時代に生きた旅人兼俳諧師「松尾芭蕉」と『奥の細道』を元予備校講師がわかりやすく解説】 より
江戸時代を代表する俳諧師松尾芭蕉。彼の生涯はわかっていないこともおおく、『奥の細道』での健脚ぶりは松尾芭蕉が隠密・忍者だったのではないかと言われるほどです。忍者かどうかはさておくとして、芭蕉は蕉風俳諧を確立し、『奥の細道』で次々と名句を詠みました。今回は松尾芭蕉について元予備校講師がわかりやすく解説します。
松尾芭蕉が生きたのは江戸時代の中でも非常に華やかだった元禄時代。5代将軍徳川綱吉の治世でした。このころ、農村では商品作物が数多く生産され経済的にも大いに発展します。経済発展の恩恵を最大限受けた上方の町人たちは多くの資金を文化活動につぎ込みました。その結果生まれたのが元禄文化です。芭蕉が生きたころの様子をまとめましょう。
5代将軍、徳川綱吉の政治
1680年、4代将軍徳川家綱が死去し養子として迎えられていた徳川綱吉が5代将軍に就任しました。家康が江戸に幕府を開いてから80年近くが経過し、社会はとても安定しています。
家康から秀忠、家光にかけては諸大名を威圧する武断政治が行われていましたが、家綱・綱吉の時代は学問(朱子学)中心の政治に切り替わりました。この政治を文治政治といいます。
綱吉といえば生類憐みの令が有名ですね。生類憐みの令は動物や子供、病人を憐み、保護することを目的とした法律でした。年末時代劇の題材としてよく取り上げられる『忠臣蔵』の事件が起きたのも綱吉の時代です。
1704年には浅間山が、1707年には富士山が噴火するなど天災が多い時代でしたが、元禄時代の人々はそれにめげず、力強くいきました。
経済的な発展
江戸幕府が開かれて以降、政治がとても安定したため農業・手工業・商業が大きく発展しました。幕府や藩、村々が新田開発をおこなうだけではなく経済力をつけた町人が新田開発を請け負う例も見受けられます。
また、干鰯や油粕、〆粕など金肥とよばれる肥料が流通。高額で売ることができる商品作物の栽培で金肥は利用されました。西陣織や有田焼、伏見や灘の酒など各地で特産物の生産が盛んになります。
陸上交通や海上交通も大きく進歩しました。五街道とよばれるメイン街道だけではなく、脇街道とよばれた街道が全国各地に張り巡らされ以前よりも往来が容易になります。
松尾芭蕉は全国各地を旅しますが、元禄時代の経済発展や道路整備が、芭蕉の旅を可能にしたともいえますね。海上交通の面では東廻り航路や西廻り航路が開拓され、特産物の産地と消費地である江戸・大坂が結ばれました。平和で豊かな好景気というのが芭蕉の生きた元禄時代の経済状況だったのです。
上方で花開いた元禄文化
元禄時代の経済成長の恩恵を最も受けたのが上方(京・大坂方面)の商人たちです。彼らは商売で得た利益を文化活動に注ぎました。経済発展による好景気の影響で、かつては「憂き世」だった現世が、「浮き世」となり生活を楽しむ余裕が生まれます。
元禄時代の三大文学者が井原西鶴、近松門左衛門、そして松尾芭蕉でした。
井原西鶴は『好色一代男』や『日本永代蔵』、『世間胸算用』などの小説を書いて大ヒットさせます。近松門左衛門は『曾根崎心中』や『国姓爺合戦』、『心中天網島』など人形浄瑠璃の脚本家として有名でした。
また、絵画の世界でも大きな変化が見られます。元禄時代の代表的絵師といえば菱川師宣と尾形光琳でしょう。
歴史の教科書に必ずと言っていいほど掲載される菱川師宣の「見返り美人図」は一度見ると忘れられない印象を持たせます。尾形光琳の「紅白梅図屏風」は金地の煌びやかな屏風で大胆な構図が魅力ですね。こうした華やかな町人文化が栄えた時代に松尾芭蕉は生きたのです。
松尾芭蕉と俳諧
元禄時代に生きた松尾芭蕉は、現在の三重県北西部にあたる伊賀国に生まれました。若いころは伊賀をおさめていた藤堂家の侍大将、藤堂良忠の家に奉公します。主人の死後、芭蕉は江戸にいきました。その後、当時有数の歌人で、江戸幕府に歌学方として召し抱えられていた北村季吟に学んだともいわれます。松尾芭蕉と俳諧についてみてみましょう。
松永貞徳と北村季吟
松永貞徳は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて生きた人物です。室町時代に流行した連歌を里村紹巴から、和歌や歌学の知識は細川幽斎から学びました。20歳のころには豊臣秀吉の秘書である右筆をつとめます。貞徳は連歌の中で詠まれていた五・七・五の短詩を俳諧として独立させました。
江戸時代初期に活躍した北村季吟は貞徳から俳諧を学びます。同時に和歌や歌学を学び、『源氏物語湖月抄』などを執筆しました。季吟の歌に関する知識は幕府から注目され、幕府歌学方に任命されます。
若いころの松尾芭蕉は主君のかわりに季吟のもとを訪れ、俳諧の添削をしてもらっていました。芭蕉は主君と共に季吟に弟子入りし、俳諧の勉強をしたと考えられます。
蕉風俳諧の成立
貞徳、季吟と受け継がれた俳諧は芭蕉の登場によって蕉風俳諧という形で結実しました。蕉風とは文字通り、芭蕉風の意味。
蕉風俳諧は「さび」「しおり」「細み」「軽み」などを重んじる俳諧の一派です。「さび」とは、古びて味わいのある様子を表す言葉。物静かで奥ゆかしい風情などをあらわしますね。
「しおり」や「細み」は、作品に対する作者の繊細な感情表現をあらわします。「軽み」は、日常生活の中の美をみつけ題材としてとりあげつつ、過度に誇張せずに自然に表現すること。
こうしてみると、芭蕉は派手にごてごてと飾ったような俳諧は好まず、シンプルで日常にあるような美を愛でたように思えます。言葉遊びの面が強かった貞徳や季吟の俳諧に比べると、現代の俳句に大分近づいてきたように感じますね。
松尾芭蕉の旅と最後の句
伊賀国に生まれ、江戸で俳諧師として活躍した松尾芭蕉は全国各地を旅して俳句を作ります。1864年8月、芭蕉は伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張の各国を回りました。現在でいうと三重県、奈良県、京都府、岐阜県、愛知県などをめぐります。
この旅を記したのが『野ざらし紀行』でした。旅の途中で故郷の伊賀に立ち寄り、前年に死去した母の墓参りをしています。
江戸にもどった芭蕉は「古池や 蛙飛び込む 水の音」という有名な一句を作りました。蛙といえば「鳴く」ことを連想する人が多い中、あえて「飛ぶ」ことに注目し、飛ぶ姿と蛙が飛び込むことで発する「ぼちゃん」という音に着目したこの句は蕉風俳諧を象徴する一句として有名になります。
亡くなる直前には「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」という一句を詠みました。往年、全国各地を旅した芭蕉は病の床の中でも旅をしたいと思ったのでしょうね。
『奥の細道』
松尾芭蕉の代表作といえば俳諧紀行文『奥の細道』でしょう。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」ではじまる『奥の細道』は東北地方や北陸地方を旅した芭蕉の旅行記。『奥の細道』の中には名場面がたくさんありますが、今回は旅の始まり、松島、平泉、立石寺、新庄、象潟、出雲崎を取り上げます。
『奥の細道』とは
『奥の細道』とは、1702年に刊行された松尾芭蕉の俳諧紀行文です。1689年、弟子の一人である河合曾良を伴って東北地方や北陸地方の各地を巡りました。旅に要した期間はおよそ5か月。数々の古典を引用しながら、各地の情景を題材として歌を詠みます。
1689年5月、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵を出発。栃木県の日光に向かいました。日光では家康をまつった日光東照宮を訪れ「あらたふと 青葉若葉の 日の光」と日光を称えます。
芭蕉はさらに北へ向かい白河の関を越えて東北に入りました。東北では松島、平泉、立石寺、象潟など数多くの名所旧跡を訪れます。また、最上川の急流下りも体験したようですね。
その後、日本海側を南下した芭蕉は新潟・富山・金沢・福井と移動。福井から内陸に入り、岐阜県の大垣で『奥の細道』は終わっています。車のない時代、長距離を移動するは大変だったはず。40代の芭蕉にとっても体力勝負だったに違いありません。
旅の始まりから松島まで
芭蕉は旅に向かう心境について冒頭分で述べています。月日は永遠の旅人で、人生も旅であるというのは芭蕉の人生観が現れているように思えますね。旅に出たいという気持ちを抑えきれなくなった芭蕉は、旧暦3月に白河の関の北にある「みちのく」へと旅立ちました。
歌枕の地である白河の関は東北地方への入り口。ここを越えると、目指す「みちのく」です。旧暦5月4日、白河の関に続いて歌枕で有名な多賀城を訪れました。多賀城は古代日本の朝廷が東北制圧のために置いた城で、しばしば、歌にも登場します。
旧暦5月9日、松尾芭蕉は松島に到着しました。現代でも風光明媚な地として知られる松島を見て、芭蕉は感動のあまり句を詠むことができません。「松島や ああ松島や 松島や」というのは後世付け足されたもので、芭蕉自身が読んだものではないようです。
平泉から立石寺経由、新庄まで
旧暦5月13日、岩手県南部の平泉に到着しました。平泉は平安時代末期に奥州藤原氏が本拠地を置いた場所です。芭蕉が訪れたころ、平泉には奥州藤原氏の業績をしのぶものがほとんど残されていませでした。
芭蕉は「三代の栄耀一睡のうちにして」と表現し、過去の栄華が残されていないことを記します。そして、杜甫の春望を念頭に「夏草や 兵どもが 夢のあと」、「五月雨の 降り残してや 光堂」の句を詠みました。
旧暦5月27日、芭蕉は山形領の立石寺に到着。立石寺を参詣しつつ、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」と詠みます。夏の風景が一瞬にして浮かぶ句ですね。
旧暦5月29日には新庄で最上川を前に「五月雨を あつめて早し 最上川」の句を詠みました。最上川は急流としても知られています。五月雨のころなら、水量が多く流れもさぞかし急だったでしょう。
このあたりは、中学校の古典の題材としてもよく取り上げられるのでご存知の方も多いと思います。
日本海沿岸の旅行、象潟、出雲崎
最上川を下って日本海に達した芭蕉は、北上して秋田県の象潟にはいります。目的は松島と並ぶ名所として知られた象潟の風景を見ることだったでしょう。現在の象潟は1804年の象潟地震での隆起やその後の干拓事業のため、陸地化しています。
芭蕉は当時の象潟と松島を比較し、「松島は笑ふが如く、象潟は憾むが如し」と評しました。そして「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠みます。古代中国の絶世の美女として知られた西施を象潟の風景に重ねました。
旧暦7月4日、芭蕉は越後国出雲崎に到達します。出雲崎から対岸の佐渡を見て「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」と詠みました。日本海の荒波と佐渡島、その上に広がる天の河の様子が目に見えるようです。
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