http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/sora2/sora2.htm 【曾良の句碑】 より
春にわれ乞食やめても筑紫かな
「春にわれ…」の句碑 勝本町城山公園
句碑 建立へ!!
壱岐では、明治の中頃から大正にかけて、優れた俳人がおられ、勝本にも熱心な人達が句会を行っていました。その当時、句会を初音会と言っていたようです。
明治41年、信濃の曽良の会より代表者が来られ、曽良二百年祭が行われ、当時の勝本の俳友初音会の方が全員参列されました。その時、曽良記念碑建立の計画が出ましたが、実現されませんでした。
昭和8年、松永安左エ門の委嘱をうけて、東京から本山桂川氏が壱岐に来られました。目的は、民俗調査ということで一ヶ月余り滞在されました。桂川氏が俳人でしたから、勝本北斗会で氏を中心に句会が開かれました。(北斗会の前に、北星クラブが大正12年に創立されていますから、この頃、北斗会となっていたようです。)
この時、再び曽良の句碑を建てようということになり、「春にわれ乞食やめても筑紫かな」を刻むことにして、字は桂川氏の斡旋で岐阜の俳誌『海紅』の同人・塩谷鵜平氏に依頼し、彫刻は当時勝本で墓石等を造っておられた、箱崎の川上仲一石工にお願いし、運搬や建立は勝本北斗会が中心になって進められました。
昭和9年5月22日、曽良の忌日に除幕式が行われています。
會良 筑紫路へ!!
曾良は、巡見使の陪従になることを許されると、「ことしわれ乞食やめても筑紫かな」の句を作っています。
芭蕉が世を去って、悶々の淋しい日々を送っていたいた曽良が、巡使に推挙されたことは大きな悦びであったようです。
「今年は、今までのような粗末な服装では旅行できないが、やっと念願筑紫に行ける」という喜びに満ちた気持ちが表れています。
遺品の中には笈があったようなので、帰りは笈を負うて托鉢姿で帰る予定だったようです。
宝永6年11月に、随員を承諾した曽良は、収入のなかった時で、思わぬ旅費手当の臨時収入で、いつにないゆとりのある年越しができるようになり、「千貫匁ねかせてせわし年の暮」と実感のこもった句をのこしています。
又、歳旦の試筆には、「立初むる霞の空にまつぞおもう、ことしは花にいそぐ旅路を」と記しています。
このような当時の曽良の心の弾みからも、「春にわれ・・」の句が生きてくるようです。
行き行きてたふれ伏すとも萩の花 「行き行きて…」の句碑 勝本町城山公園
「 元禄二年(1689)旧暦秋、芭蕉、曾良の二人旅は石川県山 中温泉にたどりついた。江戸深川出発以来百二十余日、行を共に した二人はここで別れることになる。長い道中も終わりに近づき、 健康を害した曾良が師の足手まといになることを懼れた為である。
別れの句を受けた芭蕉は、『行く者の悲しみ、残る者の憾み、隻
鳧の別れて雲に迷ふがごとし』と『奥の細道』に綴っている。
芭蕉の笠には、『乾坤無住同行二人』と書かれていた。
曾良翁二百八十年忌記念事業実行委員会 平成元年五月二十二日建立 」
句碑の建立
平成元年5月22日、「曽良忌280年祭」が、曽良の出生地信州より、諏訪市長始め、各界代表190名の墓参団が来島され、盛大な記念大法要が営まれ、墓所の側には、「曽良二百八十忌記念碑」の建立や植樹等がなされ、なお、城山公園東入口には、新しく「記念句碑」が設けられました。句碑には、「ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の花」の句が刻まれています。
元禄2年6月27日、二人は野山に月日を重ね夜に入ってから、石川県の山中温泉に辿り着いたのですが、ここで腹痛に苦しみ、芭蕉の足手まといになることを心配した曽良は、芭蕉と別れて、伯父の秀精法師を頼るのですが、その折の「曽良の別れの句」です。
これに対し、芭蕉は、「今よりは書付け消さん笠の露」の句を残しています。芭蕉の笠には、『乾坤無住同行二人』と書かれていたので、この同行の字を曽良と別れるために、消さねばならないと悲しんでいます。
「行く者の悲しみ、残る者のうらみ、二羽のケリのわかれて、雲に迷うが如し」と奥の細道に記しています。今日から一人旅になるので、笠に記している「同行二人」の文字を、笠に降りる露で消してしまおう、という師弟の情の濃さが表されています。
https://blog.goo.ne.jp/kanwa_notes2005/e/27a3e7256ab9bf89049770ac4a3823b7 【河合曾良の事ども (諸国巡見使)】 より
「河合曾良の事ども」シリーズは本稿で十本目のエントリになる。だらだら書くのはいい加減にして、間もなく完結させたい。芭蕉のおくのほそ道*は、日本の近世文学史上屈指の作品であり、紀行文中の最高傑作であることは万人が認めるところである。これに花を添えたのが随伴の曾良が遺した曾良旅日記である。このリンク先にも「奥州行脚の史実を正確に伝え、芭蕉の俳文を解明する根本資料として重要である」とある。曾良旅日記には俳諧書留も載っており、第一級の史料であことは論を待たない。拙ブログの前稿でほんの一部の章を紹介したので興味のある方はご覧ください。
* おくのほそ道の中の秀句で且つ私のお気に入りの句は本編の最終稿で掲載したい。
おくのほそ道は歌枕(名所旧跡)を訪ねての旅である。曾良は旅に先立ち巡歴予定の歌枕を調査*している。曾良旅日記の前半に「神名帳抄録」と「歌枕覚書」が載っている。曾良は俳人ではあるが、地理・歴史に明るかったことが数多い門弟の中で芭蕉の随伴に抜擢されたと考えられる。道案内人でありツアーガイドの役目を果たしたといえよう。
* 延喜式神名帳より調査している。
しかしながら旅先での曾良の行動は、芭蕉に随行する以外の目的や任務があったのではないかとする説がある。穏やかでないのは、少数派だが、曾良隠密説であるばかりか、芭蕉隠密説までネットに飛び出してくるありさまだ。なるほど、おくのほそ道の研究が進んでいるとはいえ、今も解明できない謎の部分があるのは事実だ。
例えば旅の行程の長さに驚かされる。約600里(2400Km)の距離を約150日間の日数で走破してしまう。そしてまた、これだけの大旅行の旅費をどう工面したのか?寂び侘びの生活をしていた芭蕉にそんな大金があったのか?芭蕉庵を手放し旅費に充てたとする説もある。名士からの多額の餞別もあったかも知れない。仮に旅費を賄えたとしてもその大金をどのように携帯したのか?付き人や警備の者もいない二人だけの旅だ。道中追い剥ぎに遭っても不思議でない。着ている物も武士のように頑丈なものではなく質素な服装が描かれている。曾良は法衣である。曾良旅日記には托鉢に出ているところが記されている。「一 十九日 快晴。予、托ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス。」とある。
そこで曾良の略年譜を次のようにあらためて整理してみる。上述の不可解な部分の謎解きをしてみようという訳である。(笑)
略年表から私が注目する事柄は次の五つである。(1)寛文7年、徳川幕府による諸国巡検使の制度がほぼ確立したこと。(2)その翌年寛文8年、曾良が伊勢長島の大智院滞在時、長島藩へ仕官したこと。書記のような仕事に就いたといわれる。(3)天和元年、曾良江戸へ出立し吉川惟足に入門、神道を学んでいること。(4)宝永6年、幕府派遣の諸国巡検使の用人に任命されていること。(5)巡検使(用人)任務中客死している。
<参考> 江戸幕府巡検体制の一考察-大舘右喜-pdf
さてまとめに入る。以上注目した上の五つは歴とした証拠にはならないが、おくのほそ道の曾良は幕府の密使とか隠密ではない。ましてや芭蕉は歌枕を旅する俳諧師だ。曾良の任務は芭蕉の世話をしながら、陸奥方面への諸国巡検使の事前視察と考えられる。上のリンク先を見ても分かるように、歴史は下って天保7年(1836)の巡検使の動向によれば、巡検正使を使番、副使を小姓組・書院番より選び、編成している。供人数は40名程度を召し連れ、内、用人2名、給人2名、侍7名、徒歩5名、足軽中間又者が24名と書いてある。曾良は芭蕉亡きあと幕府派遣の巡検使の用人にまで出世したのである。従っておくのほそ道行脚は、その下積み生活だったと思料できる。このように考えると、先に述べた謎はすべて氷解するのである。
曽良隠密説が成り立つとしたら? その目的は仙台伊達藩の動静を内偵することと言われています。 必要の有無??を検討してみました。
https://www.matsushima-kanko.com/miru/detail.php?id=145 【天麟院 てんりんいん】より
天麟院は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)との間に生まれた娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提寺で、 陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。
五郎八姫は、徳川家康の六男、松平忠輝の正室でしたが、忠輝は父である・家康の政略方法に反発を強め、大阪夏の陣遅参等により、高田65万石を取り上げられたため、五郎八姫は離縁されて仙台へ戻り仏門へ入りました。政宗は不幸な娘に同情して娘の信仰生活を全面的に支援したといわれています。
なお、松島町富山の大仰寺には、出家時の五郎八姫の遺髪、仏舎利があり、門外不出の寺宝となっています。
この五郎八姫の悲劇が「松島の月まづ心にかかりて(松島の月が楽しみ)」と絶賛していた松島には、わずか1泊しかしておらず、しかも1句も詠まずに通過している理由ではないでしょうか?
https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20191216-444301.php 【【 松島 】<島々や千々に砕けて夏の海> 絶景から生まれた『誤解』】 より
月光に照らされた松島湾。「ほそ道」からうかがえるように、松島の月は芭蕉の憧れだった
仙台を出た松尾芭蕉と河合曽良は一路塩釜、松島へ。道中、多賀城の「壺碑(つぼのいしぶみ)」をはじめ歌枕や塩釜神社を巡り、船で松島に渡った。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)冒頭で「松島の月先心にかゝりて」と記していた念願の地だ。曽良の「日記」によると、到着は1689(元禄2)年5月9日(陽暦6月25日)の昼ごろ。快晴だった。
心ひかれる場所
260余りの島々からなる松島。日本三景の一つに数えられ、古くから歌枕、瑞巌寺を擁する霊場として知られていた。芭蕉以前には伊勢出身の俳人大淀三千風(みちかぜ)が訪問している。三千風が1682(天和2)年に出版した「松島眺望集」は芭蕉の句を「桃青」の号で収録。眺望集が松島行を促したとの見方もある。
「ほそ道」に従い、記者は塩釜港(宮城県塩釜市)から遊覧船で松島に向かった。船内ガイドによると、東日本大震災で一部が崩壊、変形した島もあるという。個性的な島々を間近に眺め、50分ほどで松島の船着き場に到着、「ほそ道」に従い「雄島」へ向かう。諸国から訪れた僧侶らが修行した瑞巌寺ゆかりの霊場だ。曽良〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉(ホトトギスよ、松島の絶景にふさわしい鶴の身を借り鳴いてくれ、の意)と芭蕉〈朝よさを誰まつしまぞ片心〉の両句碑が、仲むつまじく身を寄せる。〈朝よさを...〉は出立以前に詠んだ無季の句。こんなにも松島に心ひかれるのは誰かが待っているのか。自分の片思いか―。恋慕の情にも似た切なさに、胸が締め付けられた。
にもかかわらず芭蕉は、待望の松島を漢詩文の引用や島々の擬人化をはじめ技巧を凝らした美文で紡ぎ出す一方、口をつぐんだ。「ほそ道」に採った句は、碑にあった曽良の〈松島や...〉。肝心の主人公は一句も詠めず、寝ようにも興奮のあまり眠れないという。ここに翁(おきな)の企(たくら)みがありそうだ。原点に立ち返ろう。
「ほそ道」は創作だ。技巧的には「白河の関」で披露した「絶景の前の沈黙」という「文学的ポーズ」(連載第9回「道標」参照)が想起される。黙ることでかえって対象の存在感を引き立てる。心憎い演出である。俳聖をも黙らせる景観を求め、記者は高台の「西行戻しの松公園」へ駆け上った。
狂歌師流の諧謔
〈松島やああ松島や松島や〉。松島湾を見渡し口ずさむ。美人に「キレイですね」と言い寄っても仕方がないように、圧倒的な光景にただただ嘆息するばかりである。芭蕉の句と思われがちなこの歌。実は江戸後期の狂歌師田原坊の作で、感嘆詞の「ああ」は元々「さて」だった。仙台藩の儒学者桜田欽斎の松島案内「松島図誌」に収められ、流布したようだ。絶景を前に言葉を失った芭蕉への、狂歌師流の諧謔(かいぎゃく)といったところか。松島町文化財保護委員長の今野勝正さん(74)によると、町内では昔からこの歌が書かれた風鈴などが土産物として売られていたという。「庶民の間で広まったのだろう。地元でも勘違いしている人がいる」と笑う今野さん。「松島に参った芭蕉の姿をうまく突いているよう」と語る。
〈島々や千々に砕けて夏の海〉(「蕉翁句集」)。芭蕉は松島をこう詠んだ。「散在する島々。眼前に広がる夏の海に、美しく砕け散っているようだ」。描写の重複を嫌い採用を見送ったのか、虚飾を排した写生のような一句。「ほそ道」の華美な記述とは対照的だ。人知を超えた自然の造形を前に、虚勢など意味をなさない。陸海空が織りなす松島の眺望は、ありのままの人間を慈悲深く包み込んでくれるようである。すがすがしい表情で兜(かぶと)を脱ぐ俳聖の姿が浮かぶ。
「ほそ道」では、11日に瑞巌寺を詣で、翌12日に平泉へ出発。途中「道を間違え」、石巻の港で万葉歌人大伴家持も詠んだという金華山を望む。「日記」によると、瑞巌寺は9日中、雄島の前に訪れており、出立は翌10日。石巻は旅程に入っていたとみられる。道中、喉の渇きに苦しみ、宿に困り、大雨に降られた。旅の厳しさを演出し、石巻港からは地理的に見えないはずの金華山をも海上に眺めた。旅の感慨は、芭蕉流の意匠で文芸作品へと昇華されている。
淡い期待を抱き石巻漁港(宮城県石巻市)の岸壁から太平洋をにらんだ記者だったが、変わらぬ海に広がる現代的な消波ブロックに「不易流行」を感ずるのみだった。
http://nihonmystery.seesaa.net/article/115148297.html 【徳川5代将軍綱吉は伊達家に暗殺されていた!?】 より
3日の「新説!?日本ミステリー」の5代将軍 徳川綱吉は正室に暗殺されていた、そして黒幕は伊達家だった、の特集について。
伊達家は徳川家とは折り合いが悪く、関が原以降、伊達家は外様大名の中でも徳川将軍家から最も迫害を受けていた。
江戸の町の開拓、日光東照宮の大修理など、伊達家は諸大名の中でも一番金のかかる工事ばかり請け負わされ、中でも綱吉の代に伊達家が押し付けられた工事は、伊達家をつぶしかねないほど伊達家の財政を圧迫した。
思い余った当時の伊達家当主 伊達綱村は、将軍綱吉の暗殺を企てた。
そして、その実行犯となったのが、綱吉の正室、信子だった。
実際、綱吉は不可解な死を遂げている。
ある記録によると、1708年12月28日に綱吉は突然体調を崩したが、翌年1月9日には快気祝いをするまでに回復した。しかし翌日、容態が急変し、そのまま亡くなったという。
そしてその後まもなく、正室信子が亡くなったが、信子の墓は柵で囲まれており、この柵は罪人を意味するものである。
伊達家と信子の実家、鷹司家は、藤原氏を祖とし、この両家は親族であったため、信子が綱吉の暗殺を引き受けたのではないか・・・。と、以上のような内容でした。
伊達氏の先祖が藤原氏。そういやそうでした。
確かに伊達氏も、そして鷹司家も、藤原北家 (ふじわらほっけ:藤原不比等の次男 房前(ふささき)に始まる)の家系ですね。
伊達家がそういう事情を抱えていたのなら、伊達家が綱吉を暗殺したという可能性はあるかもしれません。
ただし伊達家には、「黒はばき」という隠密集団 (忍び)がいましたから、伊達家がだれかの暗殺を企てたなら、実行の可能性の高い選択肢として、まずは黒はばきを使うことを考えるのではないでしょうか。
伊達家が綱吉暗殺の黒幕だったというなら、信子ではなく、黒ばばきが直接的、または間接的に手をくだしたのならという条件つきで、その可能性はあるかと思います。
将軍を暗殺などしたら、信子自身も実家の鷹司家も、タダですまないことはわかっているでしょうし、親族だからという理由だけで、将軍暗殺という大事を、それも公家出身のおひいさん(お姫様)がやるなんて、ありえませんって。
これが戦国時代の話で、信子が武士の奥方だったら、まだしもわからなくはないです。
あの時代の武士の奥さんたちは、たとえば、自分の夫が敵の首を取ったとなれば、首の見栄えをよくするためにその首を洗い、化粧を施したりしていましたし、そういうことにも耐えうる神経だったなら、まるっきりわからなくもありません。
でもお公家さんではね・・・。謀略をめぐらすことはあっても、実行犯というのは、そら相当強引すぎまっせ。
それに将軍を暗殺して、よほど鷹司家にメリットがあるというならばともかく、そういうエピソードはなかったし。
親族だからといって絶対的な絆があるとは限らないし、権力者や権力に近い場所にいる人間ほど、親族というだけでは動けないことのほうがむしろ多いんでは?
(もっとも、そういうことがあるからこそ、より絆を強めるために政略結婚というものがあるのですが。)
そんなわけで、綱吉が暗殺されていた可能性はあると思うし、伊達家が暗殺の黒幕、というのはありえても、信子が実行犯というのはありえましぇーん!!!
また、それとは別に、ちょっと前に、「日本史サスペンス劇場」でも、やはり信子が綱吉を暗殺したのではないか、という内容をやっていましたが、信子が綱吉を暗殺したという理由は違っていました。
綱吉と信子は政略結婚で、2人の間に愛情はなかった。
綱吉には他に寵愛していた側室がおり、信子のところに綱吉のお渡りはなく、当然、信子に世継ぎが生めるわけもない。
また、信子の姑にあたる桂昌院は平民出身だが、公家出身の信子とは折り合いが悪く、世継ぎが出来ないことを桂昌院からことあるごとに責められ、孤独と絶望のあまり、信子は綱吉を暗殺した、という内容でした。
こういう理由なら、信子が綱吉を暗殺することもありうるかもと思えますね。
https://ameblo.jp/o-tude/entry-11955698709.html 【大籠 東北の隠れキリシタンと伊達政宗の野心】 より
「架場(はしば)…」 凄い地名だな…
やや日が傾きかけた午後。実を言うとそのバス停を初めて見たとき、内心そう思いました。
“架”という漢字は例えば「十字架」と用いられるように、本来「柱に木や板をかけわたす」意味があります。でも、私はこのあたりで昔なにがあったかを予め学んで来ていたおかげで、この地名をみておおかた由来を察知できました。
それはつまり、ここが「首を架けた場所」だったということです。
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諸星大二郎の漫画に『生命の木』という名作があります。
1976年に発表されたこの作品は、東北のとある隠れキリシタンの里を舞台にした伝奇ものですが、独自の創世記や隠れキリシタンの弾圧史を織り込み、独特の作風とあいまって奇妙な迫力をもっています。
初めてこの作品を読んだ時、そもそも東北に隠れキリシタンなどいたのだろうか…と、たいへん興味を持っていると、ある地域で隠れキリシタンの大弾圧があった歴史に行きあたることがありました。
それが、岩手県の大籠という場所です。
岩手県一関市の中心部から車で約1時間ほど。
宮城県との県境にある大籠地区は車以外での交通手段が難しい辺境の地で、かつて藤沢町の一部でしたが、現在は平成23年の町村合併で一関市に編入されています。
冒頭の「架場バス停」で大籠地区に入ったことを知った私は、まず大籠キリシタン資料館に立ち寄ってみました。
江戸期の大籠地区は仙台藩領として伊達家の支配に属しており、たたら製鉄の盛んな土地でもありました。
この地にキリスト教信仰が持ち込まれた正確な経緯はよくわかっていないようですが、ここでは永禄元年(1558)、備中から招いた千松大八郎という製鉄技術者が伝えた、と説明されています。
―慶長三年より、元和にかける迫害が大籠にも開始されるようになった。けれども辺地の千松に依って蒔かれた種はすくすくと生長し、強い迫害にもひるまずキリストの教えは確固たる地盤の下に信仰の根を養っていたのである。 (『大籠の切支丹と製鉄』より)
藤沢町文化振興協会発行の冊子『大籠の切支丹と製鉄』を読んでいると、やけに肩入れした前フリが目立ちます。
これは他の隠れキリシタンの里(例えば天草や長崎など)でも散見されるクセのようなものですが、キリスト教を信仰あるいは擁護したい者の意向が十分含まれた資料の特徴で、もとより中立性や客観性は期待できません。
しかし綿密な調査をもとに点在する史跡をあきらかにしている点で価値があるのと、この地では今もキリスト教、あるいは教会が一定の影響力をもっていることが推察される点で参考になります。
ではなぜ、大籠のキリシタンは弾圧されたのか。
この地を統治する仙台藩伊達家は、当初キリシタンに温情的でした。
それは支倉常長がスペインへ派遣された「慶長遣欧使節」にみられるように、藩祖・伊達政宗が外国とのつながりを重視したためもあったでしょうが、大籠の地においては製鉄の労働力を重視したためでもあったでしょう。
たとえば、大坂の陣で「騎馬鉄砲」という他家にない兵科を用意できた伊達家の経済基盤には、この大籠の存在があったかも知れません。
また、慶長8年(1603)、徳川秀忠に謁見したスペインの宣教師ルイス・ソテロが東北地方で布教活動を許された例があるように、徳川幕府も当初は禁教に積極的ではありませんでした。
が、スペインなどが植民地政策の一環として用いたキリスト教とそれに感化されたキリシタンたちは幕府体制に組み込まれることを嫌い、当時貿易相手だったイギリスやオランダが幕府に忠告するまでになりました。また、外国勢力に接近する伊達政宗の姿勢は、やっと戦国の世を終わらせた幕府にあらたな危機を感じさせるのに十分でした。
この危機感は、たとえば先の宣教師ルイス・ソテロが本国スペインの国王や宰相にあてて、
―スペイン国王陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するよう仕向けるしかありません。
―政宗は幕府によって迫害を受けている日本の30万人のキリシタンの力を得て幕府を倒し、みずから皇帝になろうとしている。
と記した書簡が残されていることからも、あながち的外れではないことが考察できます。
慶長17年(1612)。
幕府は慶長の禁教令を発布し、キリシタンを厳しく取り締まりはじめます。
当時、伊達政宗がスペインなど外国勢力と結託し、キリスト教の力を利用しようとしていたことには多くの状況証拠がありますが、幕府の嫌疑を受けた政宗は自らの保身のため、領内にいたキリシタンへの態度を一変させました。
保護していた彼らを、弾圧しはじめたのです。
**********
元和9年(1624)年。政宗のお膝元である仙台の広瀬川で、カルヴァリヨ神父ら9名が真冬の川に水牢で漬けられた末、凍死しました。
寛永13年(1636)、政宗が死去。
さらに寛永14年(1637)10月、あの島原の乱が勃発したことで全国的にキリシタン弾圧が加速します。
ここ大籠に多くのキリシタンが潜伏していることを把握していた仙台藩ははじめ、幕府には「転んだ(転宗した)」ことにして届けようとしたそうですが、それを知った信徒たちが「転んでない」と騒いだことから方針を転換。
そして、寛永16年(1639)からその翌年にかけて、大規模な隠れキリシタン弾圧が行われたのです。
架場のバス停から道路沿いに少し行った場所に、やはり首塚がありました。
架場(はしば)首塚です。
文字のかすんだ案内板にはこうあります。
「殉教者の首を曝首(架掛)にして後、その傍に穴を掘り、斬罪の理由書とともに埋められた」
左は「首実検石」。
仙台藩の検視役がここに腰を下ろし、処刑の模様を確認した場所なのだとか。
右は「地蔵の辻」。
首実検石から道一本をはさんだこの場所では合計200余名におよぶ処刑が行われ、流れ出た血が近くの二股川にまで及んで川を赤くした、と伝えられています。
左は「台転場」の跡。
地区の入り口であったこの場所には柵が設けられ、踏絵をもってキリシタンの詮議がなされました。踏めないものは地蔵の辻にて処刑されたと伝えられます。
案内板には「当時は毎晩亡霊が出て地元民を悩ませたため、南無阿弥陀仏の碑を建てた」とあります。
キリシタンの霊が化けて出て、南無阿弥陀仏で成仏した…のかどうかは大いに疑問ですが、このあたりが日本的信仰の面白いところです。
生き残った者たちは、もしかすると彼らのために十字架でも建ててやりたかったかもしれませんが、やはり禁教の世でそれは憚られたのでしょう。
右は「千松の墓」。
大籠に最初にキリスト教を伝えたという、千松大八郎その人の墓とされています。その所在はずっとわからないままでしたが、近年になって発見されたのだそうです。
その他にも、「上野刑場」「祭畑刑場」「トキゾー沢刑場」…と、大籠地区には10数ヶ所におよぶ処刑場跡などの関連史跡が点在していて、この異様さは島原や天草にもみられないものです。集落の規模と比較しても、その処刑者の多さには驚くほかありません。
―伊達家の保護で発達したキリシタンは、やがて徳川幕府より異端視される日が来た。
『大籠の切支丹と製鉄』では、「伊達家は幕府ににらまれてしぶしぶ弾圧を…」といったイメージをつくりたいようですが、藤沢町の教育委員会まで編集に名を連ねる冊子にしては陳腐な内容に思えます。
戦国期から江戸期にかけての歴史をあらためて眺め直してみると、この大籠で起こった大規模な弾圧のその源流には、「福音を宣伝する方策」に奔走するソテロとそれを信じた民衆、さらには伊達政宗の野心と保身の影がちらつくのです。
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