http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/06/03/%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e6%97%85%e7%ab%8b%e3%81%a1%e3%80%80%e5%8d%83%e4%bd%8f%e3%81%ae%e4%b8%83%e6%97%a5%e9%96%93%e3%81%af%e8%ac%8e%e3%81%a7%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%84/ 【曾良の旅立ち 千住の七日間は謎ではない】 より
曾良の旅立ちは、随行日記によると元禄2年の3月20日である。奥の細道では「弥生も末の七日」に深川を旅立ったと書かれていることから、20日からの曾良の7日間の行動が謎とされてきた。その謎が、曾良の隠密説の根拠となったり、曾良の書き誤りと指摘されたりもしてきた。しかし、曾良は極めて几帳面な性格であっただろう。それは奥の細道における曾良に関する記述からしても、想像ができる。だから、随行日記の冒頭から書き誤りがあるはずがなく、事実と考えざるを得ないのである。
では、3月20日に千住に揚った曾良は何をしていたのか。随行日記の曾良の記述に誤りはないとこだわっていたら、「巳三月廿日、日出、深川出船。巳の下刻、千住に揚る。」という書き出しが旅の始まりの書き出しでないことに気がついた。随行日記の書き出し文には「一」(ひとつ)という数字がつけられておらず、自分の行動を記した前書きのようなものではないかと思われるのである。随行日記における奥の細道の旅の記録は、実は「一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。」より始まっている。
こう考えた時、櫻井武次郎氏の「奥の細道行脚―『曾良日記』を読む」(岩波書店、2006年7月)に書かれていることに納得がいったのである。櫻井氏はこう述べる。「その後に出現した芭蕉書簡などから、現在では二十七日に深川を船出したことは事実として動かしようがなくなったが、たぶん曾良は、ここで芭蕉を待っていたことだろう。江戸からはむしろこちらの方が連絡しやすいところに位置しているわけだし、諸方への連絡や準備などに曾良の七日間は用いられたと想像される。」
しかし、光田和伸氏(国際日本文化研究センター准教授)は、著書「芭蕉めざめる」(青草書房、2008年12月)で次のとおり反論する。第一に、3月20日の「日出」「深川出船」から千住に揚るまでに6時間弱を要していることになり、徒歩で2時間で行ける所をどうしてわざわざ船に乗って何をしていたのか不思議である。これは「日出」ではなくて「同出」と読むべきで、芭蕉も曾良と一緒に船で出て千住に揚ったと考えるべきだとする。第二に、櫻井氏も触れている芭蕉書簡、光田氏も紹介しているが、3月22日付け落梧(芭蕉の弟子で岐阜の呉服商)あて書簡、同日付け李晨(岐阜、伝記不詳)あて芭蕉書簡である。この手紙では芭蕉は3月26日に深川を出発したことになっている(夜明けの出立を前日の日付けで言うことがある)。しかし、これらの書簡はセットで偽造されたものだとするのである。
このように考える光田氏は、芭蕉と曽良が特命を帯びて千住で待機していたのだと想像し、千住周辺を探すと伊奈家代官屋敷があったことに気付き、そこに二人が滞在していたと推理するのである。しかし、あまりにも突飛な想像であろう。伊奈家との接点を証明するものはなく、水戸藩からの手紙(日光で曾良が届けた)→千住は水戸街道の到着地→手紙を待つ場所は伊奈代官家屋敷→7日間千住で待機という連想でしかない。補強材料として、芭蕉が那須黒羽滞在中に杉風に宛てた4月26日付けの手紙を出し、「曾良は無事に達者にしておられます」(宗吾無事に達者に致され候)と曽良に敬語を使って書いていることや、見送りに杉風だけが来てくれて出発したのだということが確定するというのだ。これも連想である。
芭蕉書簡の微妙なあやを根拠とすることに危うさを感じる。誰よりも杉風が来てくれたことがうれしかったという芭蕉の気持の表現が、杉風だけしか来なかったとすり替えられているのではないか。まして、「曾良はおそらく寺社奉行直属の諜報員で、ことによると、老中にも通じている人物である。」と言い切ることに、違和感を感じるのである。「日出」か「同出」かという問題は残るにせよ、芭蕉書簡が偽造とは思われず、旅立ちは3月27日であり、門人の多くが集ったと考える。
門人との正式な別れが千住であったことを考えるとき、曾良は大きな宿場町で商店も様々あった千住に先に行って、長旅への準備や旅先への手紙などに余念がなかったのではないかと想像されるのである。門人の間では、師匠の「送別会」を行う場所は、最初から千住大橋が予定されていたのではないだろうか。曾良は随行日記を公表するために記したわけではなく、自分自身が忘れないために記していたに過ぎないと考えればよいのだと思う。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/07/22/%e5%8d%83%e4%bd%8f%e5%ae%bf%e3%81%af%e3%80%81%e9%99%b8%e5%a5%a5%e3%81%ae%e6%97%85%e4%ba%ba%e3%82%92%e8%a6%8b%e9%80%81%e3%82%8b%e5%a0%b4%e6%89%80%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f/ 【矢立初の千住宿は、陸奥への旅人を見送る場所だった】より
北千住の矢立初芭蕉象
「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもい胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく。 行春や鳥啼魚の目は泪 これを矢立の初めとして行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと見送るなるべし。」 「奥の細道」の「旅立」の文を読むと、人々との別れの映像が映画のワンシーンのように瞼に浮かんでくる。困難な前途を考え二度と会えないかもしれないと思うとき、芭蕉にも曾良にも見送りに集まった門人たちにも、言葉では言い尽くせない思いがあったのではないだろうか。曾良は、仲間の門人たちとの別れを惜しみながらも、前途に生じるであろう困難を思い、気持ちは押しつぶされそうになっていたのではないか。足取りは重く、ただ涙が流れるだけであったのか。
江戸時代、千住宿は旅人を見送る場所であった。「江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州街道内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。」(北千住、貫目改所案内板から)。深川から船で同行した門人だけでなく、江戸中の数多の門人たちが見送りに集まったのではないだろうか。
すでに曾良は3月20日に千住宿に先行し、旅先への諸連絡や旅支度を整え、師芭蕉の到着を待っていた。以前に書いたように、曾良の旅立ちまでの7日間は決して謎ではない。旅の準備のため、先行していたのだ。曾良は旅支度に何を準備していたのだろうか。まず、二人とも旅の僧の装いである。べっ甲や脚絆の予備、短冊や墨筆の予備とかも用意していただろうか。そこで、「奥の細道」の「草加」の箇所の、次の文章が参考になる。「痩骨の肩にかかれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐい、あるいはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて路次の煩となれるこそわりなけれ。」蕪村の筆による旅姿もそうであるが、門人許六の画いた二人の旅姿を見ると、芭蕉も曾良もかなり着込んでおり、着物の袖にもさまざまの物を入れていた様子がうかがえる。加えて、曾良は、身体の前後にずだ袋を背負っている。許六の画では、芭蕉のきりっとした顔付きに比較し、なぜか曾良がニコニコした顔をしているのが印象的である。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/07/02/%e6%a0%97%e6%a9%8b%e3%81%ae%e9%96%a2%e6%89%80%e3%82%92%e9%80%9a%e3%82%8a%e3%80%81%e9%96%93%e3%80%85%e7%94%b0%e3%81%ab%e6%b3%8a%e3%82%8b/ 【栗橋の関所を通り、間々田に泊る】より
千住で長旅のための準備を終えた曾良は、3月27日、いよいよ前途三千里の漂泊の旅に師匠芭蕉とともに旅立つ。千住で入念に旅先への連絡や必要な備品の準備をしたとはいえ、現代と違い死を覚悟しての旅であろう。橋のたもとで見送る門人の姿が小さくなるにつれ、寂しさが募って行ったに違いない。カスカベまでの九里余りをなんとか師匠と歩き、1泊目は東陽寺に泊る。今日は疲れたのであろう、曾良随行日記の1泊目の記述は極めて短い。
28日は、前夜よりの雨が残り、朝7時の出発の時に止んでいた雨がすぐに降りだした。しかし、午後1時頃には再び止んだというから、激しい雨ではなかったのであろう。栗橋の関所を通過するときには雨は止んでいたと思われる。曾良随行日記には「手形モ断モ不入」とあるから、何とスムースな通過か。今日2泊目は、日光街道沿いの間々田宿に泊る。関所からは近い。
明日は、いよいよ「室の八嶋」を訪ねる。曾良は、あらかじめ準備していた「名勝備忘録」の最初にこの「室の八嶋」を記していた。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/07/02/%e6%97%a5%e5%85%89%e8%a1%97%e9%81%93%e3%81%8b%e3%82%89%e5%a4%96%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%80%8c%e5%ae%a4%e3%81%ae%e5%85%ab%e5%b6%8b%e3%80%8d%e3%81%ab%e5%af%84%e3%82%8b/ 【日光街道から外れて「室の八嶋」に寄る】 より
曾良随行日記の3月29日の行程の記録は、きわめて詳細である。朝7時に間々田宿を出発し、同晩、鹿沼に泊るまでの一日の行程が、これほどまでと疑問に思われるくらい、詳細に記録されている。日光街道をわざわざ外れて行かなければならないから、後々のために、行き方を忘れないように書き留めたのであろうか。あるいは道なき道だったのか。曾良随行日記から行程を整理すると、間々田→小山(小田)→木沢→(姿川)→飯塚→(小倉川)→惣社河岸→室の八嶋→壬生→吉次ガ塚→楡木→鹿沼という八里のルートになる。
これほど遠回りした理由は、歌枕「室の八嶋」に参詣するためである。旅の最初に訪ねる歌枕として当初から計画していた。曾良が歌枕の解説をしているので、師芭蕉に推薦したのかもしれない。この地は平安時代から不思議な煙が登り立つ名所といわれ、多くの歌人が詠んだ東国の歌枕である。それは、現在、栃木市にある下野惣社大神(おおみわ)神社の境内の中にある。木立の中に身を置いて、この地のいにしえの姿を想像してみた。道ともいえぬ細道をたどり、河川と森林が入り組んだ鬱蒼とした奥地に、ひっそりと簡素な社と八島をもつ池が見え、あたりは霧に覆われていたのではないだろうかと。何の煙が立ち上っていたのかと。私でさえ想像が搔き立てられた。
奥の細道では、同行曾良がいわく「この神は木の花咲耶姫の神と申して、富士一体なり。無戸室に入りて焼きたまう。誓いの御中に、火々出見の尊生まれたまひしより、室の八島と申す。また、煙を詠みならわしはべるも、このいわれなり」と、その縁起を紹介している。芭蕉も曾良も、その縁起に思いを馳せ、かつて立ち昇っていた煙を思い浮かべ、否が応でもインスピレーションが掻き立てられたのではないだろうか。木の花咲耶姫は富士浅間神社のご神体であるが、この地も富士との縁があることで立ち寄ったのかもしれないと考えた。富士はインスピレーションを掻き立てる。奥の細道の旅立ちに際して、心に残る姿として「富士の峰幽かに見えて」と富士への思いを書いた師芭蕉の心を思いながら、曾良は案内しようと思ったのだろうか。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/07/18/%E6%9B%BE%E8%89%AF%E3%81%AF%E3%80%81%E6%B2%B3%E5%90%88%E6%B0%8F%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E6%83%A3%E4%BA%94%E9%83%8E/ 【曾良は、河合氏にして惣五郎と云へり】 より
剃り捨てて黒髪山に衣更 曽良
「曾良は、河合氏にして、惣五郎といえり。芭蕉の下葉に軒を並べて、世が薪水の労を助く。このたび、松島・象潟の眺めともにせんことを喜び、かつは羇旅の難をいたはらんと、旅立つ暁、髪を剃りて、墨染めにさまを変へ、惣五を改めて宗悟とす。よって黒髪山の句あり。衣更の二字、力ありてきこゆ。」 「奥の細道」で芭蕉は、このように曾良を紹介し、曾良との関係を述べ、旅への曾良の決意を表現した。いつ頃からだろうか、曾良は師と陸奥へ旅することを夢見ていた。近くに住み生活の世話をし日々の暮らしをともにする中、「いつかは松島や象潟をともに訪ねてみたい」と夢を同じくするようになったのではないだろうか。しかし、自分が旅の同行者に選ばれるかわからない。そして、いよいよ二人だけの旅に出かけることが決まり、その旅立つという日に、曾良は髪を剃り僧侶となったのである。曾良の決意には、並々ならないものがあった。
しかし、この内容は事実と少し違うようである。法体になって名を改めた時期は、諏訪市教育委員会編集・発行パンフレットの「河合曽良」によると、前年である。元禄2年(1689)の年初めに「旧年名を改めて 古き名はあたらしき名のとしおとこ」の句を残しているので、実際は旧年、元禄元年(1688)曾良40歳の時のことと考えられているようである。曾良が随行者に選ばれたのは元禄2年(1689)3月27日出発の2か月前頃だったようであり、それからすでに旅立ちに向けての準備は忙しく精力的でもあっただろう。曾良が旅に持参した延喜式神名帳抄録、名勝備忘録(曾良随行日記と一連の記録)にその一端が垣間見えるのである。
さて、曾良の句が触発された歌枕の黒髪山(男体山)を参拝したのは、奥の細道では4月1日の衣更の日となっている。しかし、曾良随行日記は、4月1日は朝7時頃に鹿沼の宿を出て正午ごろに日光に着き、養源院を訪ね大楽院を案内してもらってから、「日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。」したと記しており、黒髪山を参拝した事実が書いていない。日光に着いたのは正午で、その余裕もなかったと思われる。前日の3月29日(元禄2年は小の月で30日はなかったという)に泊った鹿沼からは7里の道のりであるから、4月1日に日光に着いて泊ったのは間違いない。しかし、黒髪山を参拝したのは翌日4月2日だったのかもしれない。しかし、曾良随行日記にも記録がない。芭蕉は、奥の細道では、存在しない3月30日を設定して、前日すでに日光山の麓に泊り、翌日の4月1日衣更えの日にに御山を参拝したことにした。
私は本文を書いているうちに、御山参拝の事実がどうであったか、4月1日でも4月2日でもどちらでもいいのではないかと思うようになった。極端に言えば、どこからでも参拝できるのだから。ここに芭蕉は、僧に姿を変え気持ちを新たにする曾良の覚悟を表して、同行曾良の忍耐強い人物像を効果的に表したかったのであろうと思う。また、そのことにより今後の長い旅の困難も暗示したが、ここ日光山の日の光はなんとかがやいていることだろうか。
あらたうと青葉若葉の日の光 芭蕉
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2017/07/17/%e6%95%85%e9%83%b7%e3%81%ab%e7%9c%a0%e3%82%8b%e6%9b%be%e8%89%af%e3%80%81%e5%a2%93%e6%89%80%e3%80%8c%e6%ad%a3%e9%a1%98%e5%af%ba%e3%80%8d%e3%82%92%e8%a8%aa%e3%81%ad%e3%82%8b/【故郷に眠る曾良、上諏訪「正願寺」の墓所を訪ねる】より
曾良は、生まれ故郷の信州上諏訪からはるか遠く、玄界灘の壱岐島勝本でその生涯を終えた。享年62歳、宝永7年(1710)のことである。師芭蕉と同様に、旅を棲家とし、旅に病んで、旅とともに生涯を終えた印象がある。息を引き取る瞬間、曾良の脳裏にはどのようなふるさとの光景が巡っていたのだろうか。私はいつも思うのだが、齢61歳の曾良がなぜ幕府派遣の「巡検使」という体力の必要な過酷とも思われる仕事に就いたのだろうかと。もう一度旅らしい旅のできる仕事をしたかったのだろうか。果たして、故郷の上諏訪に対する想いはどのようなものであったのかと。曾良の生い立ちと育ち、そして伊勢長島での生活については複雑で、これから徐々に書いていきたいと思っているが、その一生は決して幸せと安寧に満ちたものではなかっただろうと想像する。漂泊の人生の哀愁を感じるのである。しかし、今は望みどおり、故郷上諏訪で、そして最後の旅先壱岐島の「萩の原」の中で静かに眠っていることだろう。
壱岐島の墓石の正面には戒名「賢翁宗臣居士」、右側面には「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」と記されていると聞く。この壱岐島勝本の「曾良の墓」については、司馬遼太郎が「壱岐・対馬の道 街道をゆく13」で詳しく触れている。司馬遼太郎は、この文の前半で曾良の人となりを紹介していき、巡検使になった曾良について「漂泊をこのむかれは自分を「乞食」であると思いたがった。そのことは『春にわれ乞食やめても筑紫かな』という句があることでもわかる。その「乞食」が、やとわれの吏員になったのである。巡検使の威光は大そうなもので、随員といえども諸大名がおそれた。曾良にはなにやらわが身が阿呆らしかったであろう。」と書いている。篤実な性格の曾良はとにかく仕事に忠実で、そのまま壱岐島で客死することになってしまった。しかし、巡検使になることも旅先で死ぬことも、自らがすすんで選んだ運命であったろう。玄界灘の孤島は、死に場所としてはもっともふさわしかったのかもしれない。
それから30年後の元文5年(1740)、曾良の甥にあたる河西周徳は、上諏訪の正願寺に供養のための墓所を建立した。河西周徳は、曾良の母の実家であり養育してもらった銭屋河西家の当主であり、元文2年(1737)には曾良の遺稿集「ゆきまるけ」を編集した俳人である。曾良の遺品も河西家に伝えられ管理されてきたが、現在、正願寺には背負いかご、文台、硯箱が保管されているという。私が訪ねた日は、あいにくの小雨であった。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f/ 【河合曾良の真実】より
河合曾良は、『奥の細道』で師芭蕉とともに漂泊の旅をした俳人である。この旅では、日々の天候、行程、宿泊場所、出来事などを詳細に記録した旅日記を残した。今日、それは『曾良随行日記』として世に知られるようになった。日記の存在は曾良没後からも知られていたようであったが、親族に遺品として保管されているうち、その行方はわからなくなっていた。やがて、その存在さえも忘れられるようになった。約230年後、その存在と内容が世に明らかになったのは、昭和18年(1943)のことである。そこには、旅日記とともに「名勝備忘録」「俳諧書留」なども書かれ、曾良が『奥の細道』に際して周到な準備をし、覚悟をもって臨んだ真実が隠されていたのである。
『曾良随行日記』が明らかになるまでの曾良に対する評価は低く、誤解と偏見に満ちたものであった。いや、それは今日もなお続いており、再生産されているのである。曾良について、旅に対する覚悟を持った一人の「俳人」としてではなく、ただ「俳聖」芭蕉に付き従った「秘書」としか見ない評価である。『奥の細道』の中で紹介される曾良の句でさえも、芭蕉の代作であるとする暴論がまかり通っている。
こうした暴論は、求道の詩人としての芭蕉自身の価値を貶めるものであるだけでなく、『奥の細道』の文学的価値を損なうものであることを指摘しておかねばならない。また、芭蕉と曾良の師弟関係は、代作をしてもらうような従属関係ではなく、旅を共にして道を究めんとする同志の関係であることは言うまでもない。この師弟関係についても、誤った見解が流布されていることに懸念を覚える。しかし、『奥の細道』自身が真実を語っている。
「剃捨て黒髪山に衣更 曾良 曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。衣更の二字力ありてきこゆ。」と。
芭蕉は、曾良の紹介をしながら、この旅の目的を明らかにし、曾良の旅への覚悟に心を動かされているのである。また、弟子曾良との関係も「同行二人」として志を一つにしていることを明らかにしている。こうした感懐は「奥の細道」全編を通底していることは明らかだ。
にもかかわらずである、著名な俳人荻原井泉水氏でさえ、この旅の曾良の覚悟を理解できないとは…。新潮文庫「奥の細道を尋ねて」(新潮社、昭和12年8月7日発行)において、「芭蕉は曾良の句をほめてゐるけれども、黒髪を剃りすてたといふ事を其山の名に託して、そこに卯月朔日、衣更の季題をはめただけの、是こそ観念一片の作である。」というのである。
曾良の句は観念的と言われているが、その発信源は荻原井泉水氏だったのだろうか。その真偽はともかくとして、季題のみを気にする机上の近代俳人には、僧の姿に自らを変え羈旅への覚悟を示した俳人も「観念的」と捉えられるのだろう。このように、曾良への誤解や偏見は挙げればきりがないが、近年看過しがたいのは、「曾良は幕府の隠密だった」という説がまことしやかに流されていることである。曾良は、何も知らない芭蕉を利用して、幕府の諜報活動を行っていた隠密という訳である。
ことここに至って、私は、曾良の名誉を回復しなければならないと思った。そのためには、不明になっている曾良の経歴を可能な限り明らかにして跡付け、そこに貫かれている生き方と精神に少しでも近づかなければならないと思った。先達は、諏訪の俳人今井黙天氏であり、諏訪の歌人宮坂万次氏である。そして、『奥の細道』を曾良の立場に立って素直に読みなおし、そこにある芭蕉や曾良の素晴らしい句を心で感じてみたいと思う。その素養はもとより私に備わってはいないが、むしろ素人の読者であることの強みを発揮することができるのではないか。そして、いつか河合曾良の真実の伝記を書いてみたいものだと思っている。
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