旅 立 ち  東京から日光へ(例幣使街道)

http://www13.plala.or.jp/r-shirakami/0400.html  【旅 立 ち  東京から日光へ(例幣使街道)】より

明治11年(1878)6月10日、午前11時。イザベラは、通訳の伊藤を伴って、荷物用も含めて3台の人力車で麹町(こうじまち)・英国領事館前を出発する。

 彼女の服装は、鈍いとび色の縞のツイード地の短い服に、黒染めしていない革の丈夫な編み上げ靴、帽子は日本製の編み笠で白い布カバーの付いたものだった。見ようによっては洋服に編み笠だからユニークといえばユニークか。

 持ち物は、空気枕、ゴム製の風呂、敷布、毛布、簡易ストレッチャー、鞍、馬勒、着替え、部屋着、ローソク、ブラントンの日本大地図、数冊のイギリスアジア協会誌、サトウ氏の英和辞典。

 また食べ物は、原則として現地調達。その他補助食品として、若干の肉エキス、乾しブドウ、チョコレート、ブランデー少々などであった。大旅行の割には手荷物が少ないと思われるが、旅行中、肉を食べられないなどのいくらかの不自由さを除けば、あとは全て現地で揃うと考えて、またその通りであった。

 私の例で誠に恐縮だが、インド旅行の際などは、薄い寝袋に身の回りの若干のアイテムをバックパックに入れて、空港までは、ジーンズ、半袖に防寒コートという出立ち。防寒コートというのは、インド旅行の最適なシーズンはインドでも日本でも冬の時期に当たるが、インドでは北インドの一部を除けば、気候は大まか日本の初夏の感じである。空港や機内では、暖房設備が行き届いているので半袖でも十分。あとは現地に着いたら、町の洋品店に行って、現地服を注文すれば、採寸して2,3時間で作ってもらえる。そして値切ったサンダルを履いてしまえば、インド悠久の旅の始まりというわけだ。

 これと同じように、旅慣れたバードは、自らの生活習慣をそのまま旅に持ち込むのではなく、異文化との接触を積極的に取り入れた人物だったのだろう。まさに旅の達人というべきだろう。

 英国公私館を出発し、これは全くの私の想像だが、イザベラ一行は麹町から現在の靖国(やすくに)通りを抜けて、秋葉原付近から国道4号線の日光街道へと入って行ったのでなかろうか。

 途中、時折、葬式の行列を見かけながら、と書いている所を見ると、当時は葬式が多かったのだろう。所々の茶店で休息しながら、更に街道を走って行く。今で言うドライブインに当たる茶店には、菓子、干魚、漬物、餅、干柿、雨傘、人馬用の草鞋などがあって旅人の要に供していた。

 この挿絵は、日本奥地紀行に載せられている挿絵ではあるが元となる写真がある。それは同年代に隅田川辺の茶屋を撮影した絵葉書で、外国人向けに販売されていたものである。恐らくイザベラは、これを含めてかなりの写真絵葉書をイギリスへ持ち帰り、出版の際に絵葉書からスケッチを起こさせて転用したと思われる。この他の挿絵にも、同様に絵葉書と同じ構図の挿絵が見られる。特にこの挿絵には、自分らしき姿を茶屋内に描かせてまでいる。現代なら著作権問題になりそうな事だと思われるのだが・・・。

 また、日本茶を初めて飲んだのだろう、

『お湯はお茶の葉の上にちょっとの間だけ浸すのでよい。浸液は透明の淡黄色液体で、すばらしくいい香りがする。いつ飲んでも、気持ちよくさわやかである。日本茶は、湯の中によどませておくと、不快な苦味と健康によくない収斂性を帯びてくる。牛乳や砂糖は用いられない』

 と、彼女は日本茶が気に入ったようだ。

 千住(せんじゅ)、草加(そうか)、越谷(こしがや)と進み、夕方五時頃、粕壁(かすかべ)に到着し、日本奥地紀行の第一夜を迎える事になる。

 粕壁は、現在の埼玉県春日部市。一般的に鉄道や自動車の無い時代、早朝江戸を発っての一泊目は粕壁が順当だった。

 春日部市は、現在でも桐材が多く取れる地域でもあり、桐タンスなどの桐細工が盛んに行われている地方都市でもある。近年は都心から東武伊勢崎線で1時間あまりと通勤にも便利で、埼玉都民のベッドタウンとしても発展してきた。

 街の繁華街を、今でも旧日光街道が貫いていて、所々に昔の名残を留めている。イザベラが粕壁に来た当時は、江戸期からの名残で多くの宿屋があった。

『私たちは大きな宿屋でその晩を泊まることにした。この宿屋は、階下にも二階にも部屋があり、大勢の旅人がおり、多くの悪臭があった。宿屋に入ると、宿の亭主が、両手を組みながら平伏し、床に三度、額をすりつけた。それは大きくて老朽の建物で、少なくとも三十人の召使いが大きな台所で忙しそうに働いていた』

 彼女が宿泊した宿屋が、どこであったかを指し示す宿帳などの資料は、現在では何一つ残っていない。彼女の記述から当時街道筋にあって、女中を30人以上も抱えた大きな宿屋は、三枚橋にあった「高砂屋(たかさごや)」(現、春日部市粕壁3丁目4番)であったと思われる(資料提供:春日部市立郷土博物館。因みにこの資料館は高砂屋跡裏手にあたる)。

 更に、『外ではドンドンという太鼓の音がしていた』という一文から、ごく近くに寺があったのではないかと推測し、「高砂屋」の跡地へ行ってみた。

 越谷方面から行くと、旧日光街道は春日部市一宮の交差点で左に折れ、そこから200メートル程の左手に、高砂屋の跡地にあたる粕壁3丁目4番はあった。現在は銀行があり、隣には大きなマンション。お寺はと探してみると、ちょうど一宮の交差点近くに曹洞宗医王山東陽寺がある。

 このお寺の開基は1632年、あの松尾芭蕉が「奥の細道」紀行の折りに宿泊したと言われる寺である。境内には芭蕉宿泊碑の他、「奥の細道」の旅立ちの一節が書かれた石碑も置かれている。

 この東陽寺の他、芭蕉の宿泊先には同じ春日部市内にある小渕山観音院であったという説もある。

 さて、結局は憶測の域を出ないものの、奥地紀行の全体を通して、彼女の宿屋が、どの宿場でも最高の宿屋、もしくは出来うる限り良い宿泊をしている、という環境と条件から考えても、粕壁での宿屋は当時1、2を争うこの「高砂屋」に間違いはないだろう。

 更に彼女は、この旅行第一夜で幾つかの発見と経験をしている。

 ・宿屋の部屋が襖一枚で隔てられていて、襖を取り払えば大きな座敷になる事。

 ・タタミが最も立派な絨毯と同じくらい優雅で柔らかい事。

 ・部屋に合わせて畳を作るのではなく、畳に合わせて部屋を作る事。

 ・そして残念なことに無数の蚤がついている事など。

 またこの夜の騒がしさを、

『その新しい雑音は、まったく私を当惑させるものであった。片方では甲高い音調で仏の祈りを唱える男があり、他方ではサミセン(一種のギター)を奏でる少女がいた。家中お喋りの音、ばちゃばちゃという水の音で、外ではドンドンという太鼓の音がしていた。

 街道からは、無数の叫び声が聞こえ、盲目の按摩の笛を吹く音、日本の夜の町をかならず巡回している夜番の、よく響き渡る拍子木の音がした』

 というものであった。なんだか文章を読んでいるだけで、騒がしい夜の雰囲気が伝わってくるような気がする。引用文中の「サミセン」は三味線のことである。

 更にこの晩の経験は、旅行を通じて夜毎体験することの序章に過ぎなかった。それは外国人が珍しい時代、しかも女性ということもあり、泊まり併せた他の客や、町の住民が一晩中彼女を見物しにやって来る事であった。普通なら大声を上げて追い返す所を、忍耐強く彼女は人々の好きなようにさせる。こうした部分にイザベラの優しさを感じ、また同時に異文化に対して理解していこうとする、前向きな姿勢を感じてしまうのは私だけであろうか。

 また、この晩初めて使った組み立て式簡易ベッドの敷き布が、彼女の体重で動く度にビリッ、ビリッと破けて行き、3時間も身動きできなかった、というから何とも漫画チックなおかしな話である。勿論このベッドから降りると、忽ちノミがやってくるから、破けようとも忍の一字だったようだ。

 さて、翌朝イザベラは粕壁を発ち、栗橋(くりはし)辺りの利根川で渡し船を利用している。この渡しは、江戸時代からあった関所の裏手にあったと思われる。

 途中、人力車の車夫が水当たりで激しい腹痛と吐き気を訴えたので、車夫を交代するという事件があった。この時、車夫が、病気を理由にチップを請求しなかったことが、正直な出来事としてひどく彼女を感心させている。そして、この出来事は、今回の旅行を通して何度も体験する日本人の正直さ、誠実さでもあった。

 このチップを要求しないという国民性は、日本人にとっては極く当たり前の事なのだが、海外ではどこへ行っても要求する、あるいは要求される前にそれとなくチップを渡す、置いておく、と云うことは当たり前の事になっている。海外旅行をしてみると日本人の律儀さに彼女が感心するのも頷ける。

 栃木(とちぎ)で次の一泊をし、宇都宮(うつのみや)を避け例幣使(れいへいし)街道を日光(にっこう)へと進む。栃木市は、明治6年(1873)に、旧下野国を一県とする栃木県庁の所在地となる。後に県庁所在地は宇都宮市に移されるが、この頃はまだ栃木市に県庁があった。

 私も、小学校の社会科の授業で、栃木県の県庁所在地が栃木市でなく宇都宮市だったことを不思議に思ったものだった。今更ながら、なるほどという思いだ。

 現在の栃木市は、蔵の街としても有名で、土蔵を利用した食事処、土産物屋などが多くある。普通、栃木市から日光へ行くには、宇都宮を経由して日光街道(古くは日光道中といった)を行くルートと、鹿沼(かぬま)から例幣使街道を行くルートがあった。

 イザベラは芭蕉と同じ例幣使街道を選んだ。その理由は、地図を開くと分かるように、日光街道と例幣使街道は、ちょうど三角形の直角の二辺と斜辺の関係に似ていて、日光へのショートカットとして例幣使街道を選んだのだろう。

 さて、盆栽や植物好きな方は鹿沼土という土があることをご存知だろう。ではこの土がハウス栽培のようにハウスで作られていることはご存知だろうか。

 私も知ってはいたものの、ハウスの中で大事そうに均された黄土色をした土を見たときは、なぜか見てはいけないものを見てしまったような気がした。このような表現は、土の生産者には申し訳ない記述になるが、考えてみれば、野菜にしろ米にしろ、まずは土を育ててから植える訳だから同じことなんですよね。鹿沼土の場合は、土の状態で終わるだけなのだから。

 土の他、植物のさつきや10月のぶっつけ祭りが特に有名である。この祭り、江戸時代からのもので、市内を練り歩く山車の彫刻がそれは見事である。この彫刻は、日光の陽明門などを作った宮大工たちが建設後、鹿沼に移り住んで作ったとされる山車と言われているのだから、腕前は天下一品の筈だ。

 鹿沼市を抜けて例幣使街道を進むと、ポツポツと目立ち始めた杉並木が今市市(いまいちし)下小倉(しもこくら)という場所から、突如として鬱蒼とした杉並木へと突入する。またこの入り口には目立たないが杉並木寄進碑が建っている。

 例幣使街道とは、天皇の使者が日光東照宮に参拝するために作られた特別な街道で、その起点は京都になる。

 日光の杉並木は、例幣使街道の他に、日光街道、会津西街道の三街道沿いに川越城主・松平正綱によって20年の歳月を費やして植林され、徳川家康の三十三回忌の折りに寄進されたものである。総延長は35キロ以上にも及ぶという。300年以上経た今、堂々とした大杉に成長した杉並木は、そこを通る者へ圧倒的な迫力と威厳を誇っている。 

 車道から一段高くなった場所に杉並木は延々と続き、垣根のようになっているためか、車道からその外側を見ることはできない。しかし、それが却って外界を意識させない落ち着いた気分を醸し出し、良くも悪くも時の流れ感じさせる不思議な空間を演出している。

 ここを通りながらイザベラは、梅雨の頃の蒸し暑さから解放されたのだろうか。日本の美しさを感じたと述べている。

 夕方、今市についた彼女は、ここで一晩ゆっくり休息する。翌日、今市から日光市へと入る。街道は、緩やかな坂を上るようにして正面の大きな山・二荒山にぶつかり、通りは左右へ回り込む。その先に日光東照宮がある。

    日光にて

当初イザベラは、この日光・鉢石で外国人が泊まるような宿屋に宿泊する予定はなかったのだが、気が変わったのか、ヘボン氏から紹介された宿屋へと伊藤を遣いに出す。

 伊藤を待っている間、暇つぶしに通りを散策しながら進んで行く。日光山への入口になる赤い橋は、当時は一般に解放されていなかった。人気のない通行禁止の鍵のかかった橋は、小雨に濡れて淋しく見えた。一般用の橋を渡った時、伊藤が宿の主人である金谷さんを伴って戻って来た。

 6月14日。金谷家の静寂の中で日光での朝を迎えた。東京の英国大使館を出て、まだ4日目だというのに粕壁、栃木の宿屋で受けた日本流の騒がしさにはすでに閉口していた。

 金谷家は、一風変わった2階建てで、石垣を巡らした段庭上に建っていた。人は石段を上がって家に入り、庭は綺麗に手入れされ、牡丹、あやめ、つつじが盛んに咲いていた。金谷家の部屋は、とにかく綺麗でどの部屋も磨かれていた。

『私は部屋がこんなに美しいものでなければよいのにと思う程である。というのは、インクをこぼしたり、畳をざらざらにしたり、障子をやぶったりはしまいかと、いつも気になるからである』

 高級旅館である。夕飯は金の蒔絵の膳に載って運ばれて来た。

 滞在9日目。東照宮へでかける。

『私はすでに日光に9日も滞在したのだから、「結構!」という言葉を使う資格がある』と。ジョークを言える余裕がうかがえる。

 杉並木に囲まれた広い参道を上がって行くと、石橋を渡り、左に五重塔が聳え、更に正面の急な石段を上って行くと、三猿を見ながら陽明門へと上がる。何度見てもこの陽明門は見事である。

 この陽明門、私は小学生の修学旅行で見て以来だった。小さい頃の体験というものは、概ね同様な事が起こるものだが、もっと大きいように思っていた。大人になって(それもいい年になって)改めて見ると、イメージより小振りなのに驚いた。

 しかし、施されている彫刻の見事さには、今の驚きの方が一入である。一日見ていても飽きない、という事から「日暮らしの門」という別名を持つのも頷ける。

 イザベラは『すばらしさにとまどいながら』、恐らく東照宮関係者の次くらいに詳しい描写を奥地紀行に書き残している。

 それによると、120数年経た今も、何一つ変わっていないことがうかがわれる。何かを変える努力より、何も変えない努力と言うものは相当なものだろう。

 後段、彼女の歩いた青森までの道を観察して頂くと、そのことが一層感じられると思う。

 6月22日。馬に乗って日光湯元へとでかける。これは今後の事も考えての実験乗馬旅行であった。日本では、一般に馬には「ハミ」を噛ませないため、乗馬訓練されていない馬を手綱だけでコントロールすることは難しい。この日の乗馬旅行は辛いものになったらしく、やっとの思いで湯元の美しい温泉宿へと辿りついた。この宿屋は、現在は確認できないが湯元の「屋島屋」であった。

『汚れた人間よりも、美しい妖精が泊まるに相応しい』と言わしめた程の宿屋で、部屋に着くと少女がお茶を運んできた。スモモの花が入ったお茶で、アーモンドの匂いがした、というから何だろう。初めは、桜茶かなとも思い色々調べたが分からなかった。

 湯元は、今も昔も湯の湖と山に囲まれている。イザベラの当時は、この村は2本の短い街路から出来ていて標高が高いため非常に寒く、大した娯楽も無かった。

『湖には一隻の屋形船があり、数人の芸者が三味線を弾いていた』

 人々が、散歩以外にできることといえば、

『湯に入り、眠り、煙草を吸い、食べることで一日を過ごす』事。尤も、明治期の初めに、このような山奥まで来る客は、湯治そのものが目的だったから、こうした環境で充分だったのだろう。

 湯元を出る前に、彼女は通訳の伊藤が、宿泊費の上前をはねている事に気付いてしまう。彼女が宿の主人に勘定を頼むと、主人は急いで2階の伊藤のところへ請求書を持って行き、いくらにしたらよいか相談し、結果2人で分け合っていたという。彼女はそれを知りながら、ある程度の額であれば目をつぶるのが寛容だと悟る。

 このエピソードを読んで、私もインド旅行の時に、同様な経験をしていることを思い出した(またしてもインドの話で恐縮である)。

 友人達とツアーを組んで行った時の事。友人達は英語も話せず、旅にも慣れていないので、ツアー会社を通して現地ガイドを手配してもらった。

 一日の観光も大方終わった頃、彼はしきりに土産物屋へ誘うのである。そして、訊いてもいないのに値引き交渉のコツとして、提示値段の5、6割から始めて8割で折り合うように勧めた。

 私はそれまでに何度かインドへは行っているので、半値は常識。それでも色を付けてあげているつもりだったので、8割は高いとガイドに尋ねると、「自分の生活費も入っています」と小声で素直な答えが帰ってきた。日本円に換算してもレートの関係で大したことはないと、そのことは値切り倒したと自慢している友人達には、黙っていた事を思い出した。

 さて、日光の金谷家に戻ってから、町の小学校や子供達の生活振りを観察しに出かけている。

 子供達の通う教室は、西洋式に机と椅子。壁には大きな地図があり。若い教師は黒板を自由に使いながら、すばやく子供達に質問をしていた。生徒は、常日頃の家庭での躾が行き届いているせいか、教室でも静かに教師の話を聞いていて、外国人が突然に訪問しても驚く様子は見せなかった。

 イザベラはこの時授業でやっていた「いろは歌」が気に入ったのか、その意味内容を書き残している。あの「色は匂えど散りぬるを・・・」である。

 家庭内では子供達が何か悪いことをすると、鞭で叩かれたり、人さし指にお灸をすえられたりするが、学校では居残りが懲罰になっていると、教師が説明をした。

 旅館へ戻ると、金谷家の子供の「ハル」のパーティがたまたま開かれていた。12歳のハルは友達を自宅に招待し、お茶、お菓子で接待しながら、色々な遊戯をしながら時間を過ごした。

 その折り、特に実践的と彼女が感心したのは、子供達が結婚式や葬式、また宴会などの真似事、いわば「ごっこ」をしていたことである。

 子供達はかなり正確にこの遊びをするため、実際の場面に直面した場合、何をして、何をしてはいけないのかを自然に覚えるというのである。確かにそういう事は言える。現在は、友人たちと遊ぶというより、いわゆる「お宅」といわれる子供たちが増えていて、社交性に欠けるように思う。一つの事に熱中するのは良いことだけれど、それだけでは矢張り人間の成長、幅という点で不足が出るように思う。

 さて、村の村長でもあるこの宿屋の主人・金谷善一郎さんは、イザベラが横浜で世話になったヘボン博士が日光を旅行した折り、泊まれる宿が無くて困っている彼を見兼ねて、快く自宅に泊めたことが縁で、外国人専用の旅館造りをヘボン博士に勧められた。

 このアドバイスを受けて、四軒町の自宅及び近隣の家を借り受け、夏期のみの外国人専用旅館の営業を始めた。これが現在の日光・金谷ホテルの前身となった「金谷カッテージ・イン」でありました。

 いつもお金が無いといっては嘆いている金谷さんの夢は、お金持ちになって外国人用のホテルを建てたいというものでした。

 この願いは、15年後の明治26年(1893)に叶えられる事になった(「森と湖の館 日光金谷ホテルの百二十年」常葉新平著 潮出版社刊)。

 現在の金谷ホテルには、このカッテージインが残っており往時を偲ぶことが出来る。

 イザベラはその他に、村や村人の様子も描写している。村は商店で溢れ、商売をしていない家は殆どなかった。江戸時代は、今のようにどこへでも自由に旅行へ行ける時代ではなかった。一般庶民の自由な旅行は許されなかったからである。当時、特別な許可なく、あるいは許可が容易に得られる旅行は、お伊勢参りと日光東照宮参りだった。そのため江戸時代から、この地域は十分に観光地の様相を呈していた。

 ここで店先の売り物リストが出ているので引用してみよう。

 『長さ一インチ半で串刺しの干魚、米や小麦粉と少量の砂糖で作られた菓子類、餅と呼ばれる米粉をこねた丸い団子、塩水で煮た大根、豆から作った白いゼリー(豆腐)、縄、ひも、人間や馬のはく草鞋、蓑、雨傘、油紙、ヘヤピン、爪楊枝、煙管、紙ハンカチ(ちり紙)、そのほか・・・』という具合に売られていた。

 村人の様子については、娘は16歳で嫁に出されると、お歯黒や眉を剃る習慣のせいもあって、健康そうな身体は痩せこけ、空ろな顔をした中年の女性になってしまう。またこれはここでの描写に限らず、彼女の行く先々で何度も繰り返し触れられているが、日本人は子供を大変大事に扱い、これほど子供を可愛がる人々を見たことがないと書いている。

『子供を抱いたり背負ったり、歩く時は手をとり、子供の遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子供がいないといつもつまらなそうである』

 更に、早朝、人々が集まっては、それぞれに自分の子供の自慢をしている様子を観察している。筆者にとっては、このイザベラの観察は必ずしも特別なことに感じられない。それとは反対にスコットランドでは、子供を可愛がらないのかと疑問に思う。確かに、欧米では親子という感覚よりも、どこか仲間という感じを受ける。これはあるハリウッド映画を見た時だが、父親が出張か何かで数日出かける時に、7歳の息子に「お母さんを頼むよ。お母さんを守れるのは君だけなんだよ」と、まるで大人に話し掛けるように真顔で話すシーンがあった。日本ではちょっと考えられない場面かなあと思われる。お国柄と言ってしまえばそれまでだが・・・。

 村の散策も終わり、買い物も終わり、未踏の地へ出かける準備も整った。明日はいよいよ日光を離れる日となる。