https://ameblo.jp/msato0596/entry-11605948683.html 【伊勢神宮式年遷宮 と芭蕉 その①上】 より
20年ごとに伊勢神宮は式年遷宮の儀式を行い、「正宮(しょうぐう)」ほかを新しく建て直しあらたまる。奈良朝天武天皇(685年)の世に決められ、第1回は持統天皇の代に執り行われた(690年)とされている。今年は62回目の式年遷宮の年に当たり、伊勢の親族の計らいで奉献団の一員として参加が叶った。伊勢で生まれた私だが、町方にとって大切な行事である「白石曳 (しらいしひき)」(白石持行事)に参加したのは1953年以来になる。3歳の私は、家族と一緒にこの行事に参加している幽かな記憶がある。その後現在まで2回式年遷宮の年があったのだが縁が無く参加していない。3歳の時の幽かな記憶が、今回白石曳に参加して最後に理解できた。町方により市内を練り歩き運ばれた白石(片手で握れるほどの白い石)をそれぞれ2個、白布に包み真新しい新正宮の敷地まで進み、布より取り出し地に置いた時、正宮の神々しい風景に思わず息を飲んだ。3歳の時の記憶の核になっているものは、きっとこのことだと思えたのである。その場所は普段私たちが立ち入ることは出来ず、町方の奉献団に参加したものだけに、20年に一度踏み入れることが許される場所なのだ。私は人生で2度その場所に立ったことになる。はたして3度立てる保証はない。
式年遷宮は20年に一度の儀式ではあるが、その年だけが行事の年ではない。その間に沢山の儀式が毎年のように詰まっている。内宮の場合今年の10月2日、完成した新しい正宮に3種の神器の一つ「八咫鏡(やたかがみ)」や他の宝物を移す中心行事「遷御(せんぎょ)」が執り行われ式年遷宮の山場を迎える。一般にはその年が式年遷宮の年とされる。町方にとって今年の白石曳と同じく大切な御木曳 の行事は、すでに7年前(2,006年)に行われている。
江戸時代に盛んになったお蔭参り・伊勢講 などは、伊勢信仰を唱えながらの庶民の息抜き、遊山でもあった。又、建築技術の継承には20年に一度は理に叶う期間とされている。勿論大きな経済効果も当時から見込まれていたと考えられる。
私が伊勢で育った18年の間、町方の大きな行事は、3歳の時の白石曳と16歳の時の御木曳であった。お木曳のことは勿論よく記憶している。しかしその間の13年、子供から少年の私にとってこの町は、のんびりとした静かな町の印象しか残っていないのである。
今年の夏から秋、伊勢の町は式年遷宮一色で賑わい元気な姿を見せている。祭りの後、また静かな佇まいにもどるだろう。そんな普段の伊勢も風情のある良い町である。
18歳で伊勢を離れた。そして漸く、この町のことは何も解っていなかったのだと気付いた。
松尾芭蕉は、元禄2年『おくのほそ道』の旅を岐阜大垣で結ぶ こととなる。その年は式年遷宮の年に当たり、大垣に逗留し旅の疲れを癒した後、舟で揖斐川を下りお伊勢参りに向かうのである。『おくのほそ道』最後の句 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ はよく知られている。この句は伊勢に向かう舟で、途中まで同舟し見送ってくれた弟子たちと歌仙を巻いた時のものとされている。世話になった弟子たちへの気配りと、自分が目指す二見ヶ浦(伊勢)を合わせた別れの情景が見事に詠まれており、『おくのほそ道』の有名な締めの句となっている。
*二見ヶ浦は、敬愛する西行法師が庵を結んだゆかり地でもあり、そのことと無関係とは思えない。
芭蕉は、もともと伊勢の国伊賀上野の出身。二〇代後半に江戸に出て俳諧師を目指しやがて大成する。しかしその人生は謎めいた部分も多い。『おくのほそ道』に関しても結びの地大垣で一番世話になった弟子、船問屋の谷木因の扱いは理解に苦しむ。『おくのほそ道』の旅のあと大垣で芭蕉を世話し、旅の疲れを癒させた彼は、別れになった揖斐川を下り伊勢参りへ向かう舟や食事の用意をしている。
舟上で巻いた歌仙の最初の発句(「秋の暮ゆくさきざきの苫屋哉」)も木因のものであるし、その後礼状などを見ても芭蕉が感謝していることは明白なのだ。しかし何故『おくのほそ道』大垣の場面で木因の名前は確認できないのだろうか。一説にその後、芭蕉の逆鱗に触れたとのことになっているが定かではない。
芭蕉のミステリーについては、いつか機会があれば触れてみたい。
https://ameblo.jp/msato0596/entry-11613727436.html 【伊勢神宮式年遷宮と芭蕉 その②(下)】 より
8月(2013年)伊勢神宮式年遷宮の町方行事・白石曳(しらいしひき)に参加した。伊勢で生まれ18歳まで暮らした私だが、20年に一度の式年遷宮の町方行事白石曳に参加したのは2回目である。60年前3歳の私の幽かな記憶の核が何であったのか、今回漸く確認することも出来た。しかし式年遷宮一つとっても、18歳まで暮らした伊勢の町のことをいかに知らなかったと気付く旅でもあった。そして伊勢の後、岐阜大垣の町で俳聖芭蕉と伊勢の関係を改めて心に刻むことが出来たのである。
芭蕉が『おくのほそ道』紀行を終えた元禄2年(1689年)、第46回伊勢神宮式年遷宮が行われた。8月21日芭蕉は大垣に到着し、旅の疲れを癒しながら弟子たちとの交歓の日々を暫し過ごした。疲れも癒えたころ、伊勢神宮式年遷宮参詣の為木因 が用意した舟で伊勢長島を目指し大垣を出発するのである。一行は桑名までは舟、その後陸路にて伊勢に向かう。伊勢に着いてから、江戸の弟子杉風 (さんぷう)宛ての手紙に大垣を出発の件が残されている。『おくのほそ道』紀行は、どうも最後にお伊勢参りが企画されていたようである。
水門川船着場 ここからお伊勢参りに出た
〈伊勢より杉風宛て手紙の一部〉
木因舟にて送り如行其外連衆 舟に乗りて三里ばかり慕ひ候
秋の暮行先々ハ笘屋哉 木因
萩にねようか荻にねようか 芭蕉
霧晴ぬ暫ク岸に立給え 如行
蛤のふたみへ別行秋そ 芭蕉
と弟子たちと舟上で歌仙を巻いて楽しんだことが届いている。
元禄2年(1689年)旧暦9月6日、大垣の弟子たちに見送られ曾良や木因・如行たちと舟で水門川を下り、揖斐川本流に出て伊勢長島に着く。長島で宿泊した大智院という寺は、曾良の叔父が住職をしている。『おくのほそ道』紀行の途中病気の為山中温泉で芭蕉と別れた曾良は大垣経由でこの寺に来て治療をし、その後大垣まで出て、旅を終えた芭蕉と再会するのである。
うき我をさびしがらせよ秋の寺 と同寺で詠まれた芭蕉の句は、推敲をへて
うき我をさびしがらせよかんこ鳥(嵯峨日記) という句になったのである。
芭蕉はこれまでに6回伊勢神宮に訪れた説がある。何故か。まず芭蕉は、もともと伊勢の国と接する伊賀上野の出自。伊勢信仰は身近にあったと考えられる。又、敬愛する西行法師 も伊勢二見ヶ浦に庵を結んだことがある。西行は二見ヶ浦にいる時、奥州平泉の藤原秀衡のもとに、東大寺再建の為の砂金の勧進に赴いている。既に69歳になっていた西行の強靭な心身を想像することが出来る。芭蕉は愛してやまない西行の為に、どうしても二見ヶ浦にも赴かなければいけなかったのである。『おくのほそ道』紀行の流れで訪れた二見ヶ浦で詠まれた句 硯かと拾ふやくぼき石の露
(解釈:二見での西行の故事に、海岸で窪んだ石を硯にして使ったとのこと。私が見つけ思わず拾った、窪んだ所に露の水滴がついている石は、西行が硯に使った石ではないであろうか。)
は、西行への想いが直に表現されている。歌と俳句の巨匠は、ここでも500年の時間を超え邂逅しているのである。 (完)
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