https://tesshow.jp/saitama/kasukabe/temple_kasukabe_toyo.html 【医王山東陽寺。春日部市粕壁東にある曹洞宗寺院】 より
東陽寺の概要
曹洞宗寺院の東陽寺は、医王山と号します。東陽寺の創建年代等は不詳ながら、文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に創建したと伝えられ、寛永元年(1624)に焼失、寛文2年(1662)当地に再建、僧熊巌が中興開山したと伝えられます。江戸期には新西国三十三ヶ所30番でした。。
日光道中粕壁宿めぐり案内板による東陽寺の縁起
新々田とよばれるこの辺りは、宿場のなかでは新興の地だった。東陽寺は、文明年間(一四六九-八七)に春日部八幡神社の東隣に開山したが、寛永元年(一六二四)に焼失し、寛文二年(一六六二)に当地で中興したと伝えられる。松尾芭蕉に随行した弟子曽良の日記に「廿七日夜カスカヘニ泊ル」とあり、元禄二年(一六八九)三月二十七日、芭蕉が「奥の細道」の旅で同寺に宿泊したともいわれている。向かいの源徳寺は、明暦元年(一六五五)に開山したが、元文四年(一七三九)に火災に遭い、故事は不詳である。(日光道中粕壁宿めぐり案内板より)
http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/11saitama/002kasukabe/kasukabe.htm
【粕壁(春日部) 埼玉県春日部市】 より
新暦1689年5月16日、芭蕉と曾良は粕壁宿に宿泊する。(奥の細道の記述では草加に宿泊したように見える)
○ 宿泊候補 東陽寺
今回(2010.12.19)千住を出発して最初の宿泊地と曾良日記に記された粕壁宿(春日部)を訪問しました。
宿泊した場所ははっきりせず、二箇所が伝えられています。最初は東陽寺です。
東武伊勢崎線・春日部駅に下車し、駅前通を2つ目の信号を右折(東)し、国道4号線との交差点まで目指します。
春日部は、TVの「クレヨンしんちゃん」が住んでいると言う想定の町だったのですね。
歩道やマンホールの蓋に藤の花が描かれています。駅前通は藤の花祭りが開催されるようです。県道10号線には「粕壁宿」の表示が見られます。道路の向い側には旧家田村本家です。その前に道標が有りました。「東西い八つき(岩槻)、北日光、東江戸、右之方陸羽みち」と刻まれている様です。 国道4号線との交差点・一宮交差点の手前に「東陽寺」があります。山門の右側に「伝 芭蕉宿泊地」の石碑がありました。
本堂の階段の右手には、曾良日記の記載文「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と、芭蕉と曾良の絵が刻まれています。 平成元年に奥の細道紀行300年を記念して建立されたようです。
東陽寺の本堂。 境内には「笑う少女」や観音さん、地蔵さんが配置されご住職のお人柄が偲ばれます。
○ 観音院
国道4号線を北上すると、もう一つの宿泊候補地「小渕山観音院」があります。
直接向かうよりは本の少し楽そうなので電車で北春日部駅まで移動して向かいました。
北春日部駅から東進し、国道4号線に出てから程なく観音院に到着です。右上の写真は仁王門。
仁王門を潜って参道を進むと左手に案内板がありました。
その左手に三角形の石碑がありますが「毛のいえば唇さむし秋の風」の句の碑です。
この観音院、お参りするときは神社と同じく2拍手します。入口に拝礼の仕方がありましたので参考まで。
観音院の正しいお詣りのしかた
当院は近隣唯一の神仏習合の祈願所です
一、まず大鰐口を鳴らします
二、階段を上がりお賽銭をして二拍 合掌いたします 合掌の時に願いごとをお唱え下さい
三、回廊を左から回ります 天井の唐獅子十八体が清浄にいたします
四、正面に戻り再び二拍 合掌してご参拝が終わります
小淵山観音院
http://geo.d51498.com/urawa0328/hosomiti/kasukabe.html 【〜東陽寺〜】 より
国道4号(日光街道)を行き、春日部の『一宮』交差点で県道2号さいたま春日部線に入る。県道2号さいたま春日部線は旧日光街道。ここに東陽寺がある。東陽寺は『奥の細道』の旅、第1日目の宿泊地と伝えられる。山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」の碑がある。
東陽寺境内に、『曽良随行日記』の一節が刻まれた碑がある。
廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余。
ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。
『奥の細道』には「早加(草加)と云宿」とあるが、曽良の随行日記によれば、「カスカベ(春日部)」に宿泊したことになる。
日本橋から春日部まで、およそ35Km。『曽良随行日記』によれば、芭蕉が千住で舟をあがったのが、巳ノ下尅すなわち午前10時過ぎ。芭蕉の足なら、その日のうちに春日部まで歩いたのかもしれない。
春日部の 小渕山観音院 にも芭蕉が『奥の細道』の旅の第1日目に宿泊したという言い伝えがあるそうだ。
東陽寺の近くに「 利根川煎餅 」というお店があった。創業明治38年という「手焼きせんべい」の老舗である。
煎餅は寛永年間(1624年〜1644年)の頃、草加松原で団子の茶店を開いておせんというお婆さんが、立寄った侍の話を聞き、団子を潰してうすく延ばし、よく乾かして色好く焼き上げ、塩味をつけて、お客様に差し上げたのが始まりだそうだ。
芭蕉も煎餅を食べたかもしれない。
享保元年(1716年)4月3日、 稲津祇空 は庵崎の有無庵を出て奥羽行脚。その日は粕壁に泊まった。
おくりの人々もかへりていと心ほそく、行とも道たとたとしからす、四并の勝事をかゝす。妖艶眼に供し、渓辺水人をてらす、と岑參か句も思ひ出て、太平の時に袷そ朝ほらけ
その夜は粕壁 にとまる。
http://www.yyy-sendai.net/kasukabe.html 【=粕壁泊(埼玉県春日部市)=】 より
奥の細道本文では草加に泊まったことになってますが、曾良さんの日記では粕壁泊となっています。
そして粕壁(埼玉県春日部市)には芭蕉さんたちが泊まったとされるお寺があります。
しかも、2件のお寺が名乗りを上げているのです。
東陽寺
(埼玉県春日部市)
国道4号から春日部宿に入ってすぐに東陽寺はありました。
山門前には「伝芭蕉宿泊の寺」の石柱があります。
境内はさほど広くはありませんが、こぎれいにされていました。
墓地を分譲中の営業の人が話をしてくれました。
結構東京から歩いてくる人もいるようで私たち(女房と下の娘)もそのように見られたようです。(車で行って近くのロビンソン百貨店にとめてました。)
と言うことは諸説のように芭蕉さんたちもきっと、草加を過ぎここまで来てたんでしょう。
境内には、曽良さんがつけていた随行日記の「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と書かれた石碑もありますから。(これも門前の石柱も見るからに最近の物のようです。)かなり芭蕉さん泊に力が入ってました。 ”東陽寺山門”
東陽寺山門
写真左
東陽寺山門前、松尾芭蕉宿泊の地の石票
(光線の具合で見づらくてスミマセン)
写真右
同寺本堂横の「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」の碑 ”松尾芭蕉宿泊の地石票” ”「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」石標”
小渕山観音院=
(埼玉県春日部市)
4号線をさらに下り16号バイパスを越しチョット行った左側、古びた仁王門が奥まったところにひっそりたっていました。
仁王門は元禄2年の建立らしい、と言うことは芭蕉さんたちが江戸を出る前の年に立てられたんですね。
夕暮れが迫っていたので裏手に廻り車を置き、(女房たちは車で待機)大急ぎで見に行きました。
ちょうど本堂を寺守?のおじさんが閉めようとしていたところでした。
「ここは松尾芭蕉が泊まったところですか?」と聞くと「そう」とぶっきらぼうな答
え。でもそのあと「どっから来たんだい?」と、「川口からです」と言うと「まぁ、遠くから・・・。」
”芭蕉句碑” チョット写真を撮らせてくださいと言って境内を一回りして帰ろうとしたら、まだ本堂のところにいたおじさん「なんだ、開けといたんだから見ていきな」と本堂の中を見せてくれいろいろ説明してくれました。
芭蕉さんが泊まった説については「そういわれているけど、どうだかね。」とそっけない答え。
境内にポツリとある芭蕉さんの小さな句碑につ
見逃してしまいそうな句碑いては「有名な人が来たことになってるんだから立てたんだろ」と東陽寺とは正反対にさめたところがまたよかったです。
さてさてどっちが本当?もしかしたら両方とも違うのかも。
どちらも確証的なものがありませんが、まぁそれが歴史のロマンとして・・・。
”小渕山観音院仁王門” ”小渕山観音院仁王像” ”小渕山観音院本堂”
観音院仁王門 観音院仁王像 観音院本堂
粕壁宿(埼玉県春日部市)
粕壁宿は旧 日光街道 四番目の宿で、今ではかなりショッピングの道と化してますがところどころに蔵が見えたりして当時の名残を感じます。
小学生の娘が「ここどこ?」と言うので「春日部だよ」というと「クレヨンしんちゃんのとこ?」思わず笑みが出てしまいました。
”古利根川” ”蔵造の商店” ”道標”
江戸時代には古利根川を利用した河岸ができ、水運も栄えました。
蔵造の商店の前には道標が
最勝院(埼玉県春日部市)
春日部の地名の由来とも言われる、春日部氏。
この最勝院には南北朝時代に南朝方の武将として名をはせた春日部時賢(重行)の塚があります。
また、明治時代には千住馬車鉄道が開通しこのお寺の前ににその始発駅があったそうです。 ”最勝院”
=芭蕉さんたちはさらに下野の国を目指す=
その後武蔵野国を通り抜けていった芭蕉さんたち、小山から下野の有名な歌枕である室の八島へ立ち寄り、日光街道の杉並木を歩き 今市から4月1日に日光に入りました。
煌びやかでいつまで見ていても飽きないことから日暮門とも呼ばれる陽明門。
陽明門と徳川家康が祀られている日光東照宮。私も何度か訪れましたが当時の家康の偉大さが本当に感じられますよね。
”日光東照宮陽明門”
芭蕉さんですらこのように書いています 陽明門
「今此御光一天にかゞやきて、恩澤八荒にあふれ、四民安堵の栖穩なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ」
東照宮の輝き、家康の御威光は万人に平穏をもたらしている。恐れ多くて筆を置くと書いています。
その美しや家康公の偉大さを書くことができないということで、その素晴らしさを表現しているのですね。
”あらたうと青葉若葉の日の光”
青葉や若葉が初夏の光に輝く様を日の光にかけています。でもここでも曽良さんの記録によると当日は曇り空だったようです。
日光東照宮の尊さなども含んできっともっと深い意味合いを含んでいるのでしょうね。
それから日光を後に広大な那須ヶ原を横切るように黒羽に向かい知り合いの宅を訪れました。そこで厚いもてなしを受けついつい長居をしてしまいました。江戸を発ちもう一月が経とうとしていました。
疲れを癒しサァもうひとふんばり。山深い雲厳寺、芦野を抜けみちのくの玄関口白河の関目指し下野の国を後にします。江戸から下野、そしていよいよみちのくがもうすぐそこに近づいてきました。
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