日光で旅人に再生

http://kazenisasoware.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_82ab.html 【行きて戻らぬ】より

芭蕉庵を旅費調達のために処分した芭蕉 もう江戸へは帰らぬつもりか?細道は不思議な紀行文 行きかふ年もまた旅人なり  行き交う年とはどういう意味か高校生の時から理解しかねた。時の流れは循環もしない、一方通行ではないのか?

誰と行き交うのか・・・人か、自然か それとも「行き過う」と書くのかそれなら素直に理解出来る

まあ、それはさておき 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 などと他人事のような句をものして夜から別れを惜しんで参集した人々とあれこれと別れを惜しみ さて三月の二十七日にいよいよ旅立つ

あるものは船に乗り千住まで付き従った

ここで上陸、いよいよ別れである、今生の別れとなった者達も交じっていた

行く春や鳥啼き魚の目は涙

幻の巷に別離を惜しみ、見送りの人々との別れにあたり、矢立の初めにこの句を作す

春もおわろうとしている、そのせいではなかろうが弟子たちは泣き、杉風の目にも泪が溢れている 別れの挨拶吟が矢立の初め、俳諧師芭蕉の面目  霞の果てに雁飛び行きて


http://kazenisasoware.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_4e8c.html 【互いに見えなくなるまで】 より

元禄二年三月二十七日

千住に上陸した芭蕉一行はそこで最期の別れを惜しんだ

送る者、送られる者、姿が見えなくなるまで振り返り、振り返り名残を惜しんだのである

耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らば、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着きけり、痩骨の肩にかかれる物、まず苦しむ

芭蕉と曽良はこの日、春日部(粕壁)まで行ったのだが細道では「草加」にしている。

細道が「紀行文」で「旅日記」ではないことは表八句を書きつけた記述からも明らかだがここでのフィクションからも理解出来る。

草加にした理由は芭蕉が隠密や忍者だったからではない

「荷物が重い」これを強調したかったからだ。心を込めた選別を二人はもらったが「旅」には不要の物、まずはその始末が第一の仕事になる。

それは、具体的に江戸と言う土地、そこでの人々の厚情、つまり土地と人のモダシからの別れが旅そのものである

前途に何が待つのかわからないけれど前へ、前へ行かなければならない俳諧師の定めに芭蕉は身を委ねようとする、その決意が千住から草加への件である

《現在、春日部市では芭蕉と曽良が泊まったのは春日部だと宣伝している》

芭蕉一行が何処に泊り、何処を尋ねたかは現在の市町村にとっては重大な関心事になっている。芭蕉が国民的俳諧師であるからだが・・・


http://kazenisasoware.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/1_d32e.html 【奥州行脚の第1日は何処に泊まった】より

27日、夜、粕壁に泊る、江戸より九里余

奥の細道行脚の第1日、曽良は上記のように記すのみ、芭蕉も語らず。

何処に泊まったのか?寺とも言うが不明

語るべきことが無いと言うこともあるまいが、不機嫌と思えるほど語らない

人の世話になったのなら、何か書き留めるはずだから商業旅籠に泊まったと思うのが自然

粕壁を発って「金売吉次」の墓、小山判官の屋敷跡などを横目に間々田に泊り、鹿沼に泊りなどして日光山の麓に着いたとするのが三十日、間々田、鹿沼は省略して、ここでは打って変わって「旅籠の主人」の話しになる。

照会状まで持参して東照宮を拝観しているが芭蕉は語らず、「御山を詣拝」と曖昧に表現

あらたふと青葉若葉の日の光り  芭蕉

剃り捨てて黒髪山に衣更  曽良

仏五左衛門の記述からここは釈教に入る、沈黙の訳はここにある


https://hosomichi.roudokus.com/Entry/10/ 【仏五左衛門】  より

卅日、日光山の麓に泊まる。あるじの云けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。

語句

■卅日 元禄2年(1689年)三月は小の月で三十日は無かった。実際は四月一日。『曾良旅日記』によれば、四月一日昼に日光を見物し、その夜仏御左衛門宅に泊まった。構成上、日光を月がかわった一日に持ってくるために日付を前後させ「卅日」になったものか? ■日光山 下野国の日光東照宮。 ■仏御左衛門 『撰集抄』巻2第8「初瀬山迎西(こうさい)聖人之事」に出てくる迎西聖人の人物像を踏まえたか? ■濁世塵土 濁り穢れた世。 ■示現 神仏が現世に仮の姿を現されること。 ■桑門 出家して修行する人。僧侶。 ■無智無分別 打算やこざかしさが無いこと。 ■正直偏固 正直一途なこと。 ■剛毅木訥の仁に近きたぐひ 「子曰く、剛毅木訥、仁に近し(まっすぐで勇敢で質実な人が仁に近い)」(論語・子路) ■気稟の清質 「気稟(きひん)」は生まれつきの気質・気前。「清質」は気立てが清らかであること。

現代語訳

三月三十日、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直が信条ですから、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言うのだ。

いったいどんな種類の仏がこの濁り穢れた世に御姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに心をとめて観察していた。

すると、打算やこざかしさは全くなく、ただひたすら正直一途な者なのだ。

論語にある「剛毅朴訥は仁に近し(まっすぐで勇敢で質実な人が仁に近い)」という言葉を体現しているような人物だ。

生まれつきもっている(気稟)、清らかな性質(清質)なんだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。

解説

芭蕉は日光山のふもとで一泊します。宿の主人は仏五左衛門といって、なかなか味のある人物です。

「私は正直者でこのあたりでは通っています。あまりに正直なので、みなさん私のことを仏さんなんて言ってます。とにかく正直ですから、何も心配なく、ぐっすりお休みになってください」

「先生、何でしょうねあの主人。自分で自分のことを正直正直って、少し図々しくはないですか」

「いやいや曾良、そんなこと言ってはいかんよ。ああいうまっすぐな人柄こそ尊いのだ。ご主人の上に仏があらわれているのだ」

そんなやり取りも目に浮かぶようです。

「卅日、日光山の麓に泊まる」とありますが、元禄2年(1689年)三月には三十日はありませんでした。実際は四月一日です。『曾良旅日記』によれば、四月一日昼に日光を見物し、その夜仏御左衛門宅に泊まったとあります。章の順番が実際の旅と前後しているわけです。

これも構成上、日光を月がかわった一日に持ってくるためだったと思われます。

仏五左衛門を評して、芭蕉は「剛毅朴訥の仁に近きたぐい(口ばっかり達者で見かけがいいやつは信用できない、地味でかざりっけのない人こそ信じられるのだ)」と言ってます。論語の言葉「色巧言令色鮮なし仁」「剛毅朴訥は仁に近し」に基づきます。


http://kazenisasoware.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_353d.html 【粕壁から脇目もふらず】より

剃り捨てて黒髪山に衣更 曽良  黒髪山は男体山

「室の八島」はたしかに歌枕ではあるが「細道」ではそれだけに留まらず「同行」曽良をさりげなく引き出す序章になっている。

「日光」を両吟の開始に相応しい場所として撰んだ

江戸から引き継いできた物を脱ぎ捨てる、これこそ旅の始まりですよと言うことだ

「衣更」に力ありと評した所以

まず、両吟がありそれの展開が旅の目的

俳諧師、特に芭蕉の旅は歌枕を探るに留まらず「種蒔」にある

蕉風を広めたい!芭蕉の心底にはその思いが強くあった

「黒髪山」と「あらとふと」は曽良が釈教、芭蕉が神祇を詠んでいる

この組み合わせが神官曽良を知る人には笑いを誘ったろう

では曽良について

ここで、曽良を改めて紹介した。曽良との同行二人の旅は山中の別れ迄つづく

滝に籠って  しばらくは滝にこもるや夏の初め

芭蕉と曽良はともどもに日光で再生するのである

何に代ったのか? 旅人に・・・である


http://kazenisasoware.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_e6b0.html 【粕壁から室の八島】 より

曽良日記によれば二十八日に粕壁を出発

現代風に言えば五月十七日、そろそろ梅雨の走りである

やはり雨に降られた

粕壁〜栗橋の関所を越え〜間々田〜小山〜飯塚〜壬生〜総社河岸〜室の八島〜鹿沼と歩を進める

この間に吉次の墓に触れているが寄ったとも思えない。

室の八島の近くに下野国府の跡があるが当時は知られていなかったのか?

この間、俳句無し

選別でもらった物の整理と足慣らしの意味で小休止か

ちなみに室の八島はかっての面影は残しながら大社の風格を留めている

河川が入り組み「水」と「霧」の多い土地だったように推測出来る

 小さな池に八つの島がある