円空と芭蕉の小渕山観音院

https://blog.goo.ne.jp/geibunkyou/d/20130404 【春日部(カスカベ)で、円空と芭蕉が出逢っていたという話】より

松尾芭蕉と円空が春日部で遭遇していたとしたら、春日部に住みながら,いつも放浪に出たいと思っているワタシにとって、こんな楽しい話はありません。

芭蕉=おくの細道、日光街道、第一夜の宿泊地はカスカベ(粕壁)らしい。円空=春日部にも14体の円空仏があり、小渕観音院で逗留修行していたらしい。二人とも放浪者、ワタシの気になる人です。

この間、孫守りかねて、出かけようと思って<春日部の藤うどんまつり>イベントに期待していたのですが、雨、激しい雨。あいにくです。

しかたなく、孫2人を近くの庄和児童センターに送り込み、<1時間したら来るからね>と約束して、ワタシは、階下の図書館へ。新着棚から一冊取り出し、窓際に席をとって、窓の外で濡れている桜をみていました。

*南桜井駅前に自転車置き場ができて消えていた<しだれ桜>が、ここにありました。合掌。

手にとっていた本は、<円空の旅(早坂暁)>です。まさに暇つぶし、うつらうつらしていました。NHKで円空をテレビドラマにした脚本家・早坂暁もまた、円空の放浪にひかれています。

少し長いですが、書き写します。

<松尾芭蕉が、江戸の安穏な生活を清算して、弟子一人を道連れに、北へ旅立ったのは、何を意味しているんだろう。・・・・・芭蕉が旅に出たのは、元禄2年3月のこと。46歳であった。円空はそのころ故郷の飛騨地方を中心に、念願の12万体の仏像彫りに没頭していたのだ。『月山』という信仰の名作を書かれた森敦さんは、紀行文『われもまた おくのほそ道』の中で、芭蕉と円空は出合っていると確信すると書いておられる。

少し突拍子もないかなと思うが、時代といい。旅の軌跡といい、可能性は十分にある。二人とも類まれな“旅の人”であり、その故郷も、岐阜と伊賀とで、そう離れてはいない。

さて、森さんは、二人が出会ったのは、江戸の近く春日部だと断定してみせているのだ>

「ふたりが出会ったのは、春日部だと断定・・・・・」

ソファに浅くかけ、ぼんやりしていましたが、思わず座り直したのです。*85ページ

実際、円空が春日部に滞在していたのは、いつのことだったのか、はっきりわかっていません。何せ、放浪者です。

 春日部教育委員会(郷土資料館)が、開館記念特別展(平成2年7月)「粕壁と円空」の展示図録には、<円空が関東に足を踏み入れたのは1680年代の晩年の頃といわれ、円空仏の分布状況から円空が日光中禅寺住職となった高岳法師から秘法授かるため日光を訪れた際、日光道中、日光御成道を通過していったことを伺がわせています>、<円空という一修験道者が日光を来訪していく際、江戸時代前期の粕壁宿をとおり、また中世以来、関東修験道の中心的役割をはたしていた不動院のあった春日部で造仏活動、布教による庶民救済活動を行って・・・・・>

 年譜には<1689年(元禄2)58歳;6月栃木県日光明覚院旧蔵の白衣観音像を造像する>

・・・・といった内容しかありません。

手元にある円空関連本にも、これより詳しい話はありません。というより、円空本に春日部が登場することは、まずありません。

そして5年後、元禄8年(1695)7月15日、64歳で入寂しています。

一方、芭蕉が、おくの細道の旅で、深川を出発したのは、元禄2年3月27日(旧暦)(新暦では1689年5月16日)。その日、第一夜泊を、芭蕉は草加、随行者の曽良はカスカベと、各々の日記に書き残している。・・・・円空と芭蕉、日付的には、近い。出逢っていた可能性はあります。

研究者は、第一夜泊、正しくはカスカベであったろうとしています。芭蕉の日記は、作品として残す目的(?)もあってフィクションが含まれているから、としているのです。

カスカベの宿泊先は、①東陽寺、②小渕山観音院、③芭蕉の門人で庄屋の尾花三省の所、と3か所が伝わっていて、どれも伝承です。②と③は同じことの様です。尾花さんは代々、観音院の住職さん(現在は尾花繁郎さん)です。

今、東陽寺に芭蕉宿泊地の碑がありますが、ワタシは小渕の観音院に一票。小渕の観音院に一泊したとすると、そこに逗留していた円空との接点もあっただろう、・・です。

 【おまけ】

*2年ほど前に、<埼玉の円空展>に行き、このブログで書いたことがあります。 http://blog.goo.ne.jp/geibunkyou/d/20111129

*今、春日部市は、クレヨン・しんちゃんの街で売り出し中です。粕壁宿プロジェクトもあるやに聞きます。シティセールスの目玉に、円空と芭蕉が出逢った粕壁、ってどうでしょうか。・・・・芭蕉の観光目玉利用には、草加市に大きく水をあけられています。

*春日部市役所シティセールス課のYさんでしょう。クレヨンしんちゃんの絵はがきを5枚同時に持つことができるのです。フェースブックに流れていた写真=市役所がプレスに配っている写真、で無断利用も問題なしでしょう。


https://blog.goo.ne.jp/geibunkyou/e/8d7adcd0cb32e5faf3530c0690e09365 【春日部の観音院、円空と芭蕉の小渕山観音院で気持ちのいい一日】 より

小渕の観音院は、円空仏の宝庫です。といっても7体あるだけですが、いや、7体もあるのです。日本でただひとつの蔵王権現像があります。180,190センチといった観音様があります。彫りあげるには何日も逗留が必要でしょう。

昨日(2月28日)、春のように暖かい日に“おまいり”に行きました。正確には、新しい住職さんと話にいったのです。

山門、楼門、仁王門は、1689年(元禄2年)の建立です。325年前です。さすがに痛みが激しく、仁王さんも痛々しい・・・ですが、それが、余計に仁王様の恐ろしい形相になります。3年前の東北大地震の影響をうけました。そして、この2月から修復工事が始まったのです。

*住職さんと話しながら、本堂を案内してもらいます。開基は、鎌倉時代中期(1258年=正嘉2年)です。本尊の観世音菩薩は、古利根川大洪水で小渕に流れ着いたといいます。

60年毎の本尊衣替え行事、8月10日の<四万六千日>の賑わいのお話を聞きます。

*彫り物や絵馬をみて、ゆっくりまわります。奉納された絵は、ほとんど消えています。栗原伝三郎の和算額も全く読めません。

本堂天井の、<格天井(ごうてんじょう)>の花の絵も、奉納した粕壁宿の商人の名前も、消えかかっています。一度、しんけんに見て、記録しなければいけないなあ、と思ったりします。

*びんずる様です。痛い所、不調の所を撫でるといいのです。同行の知人は、思い思いに撫でていました。こぶとり観音といわれてきたようです。

小渕の観音院は、芭蕉の<奥の細道>の旅の第一日目に泊まったところと伝わっている所でもありです。

もっとも、芭蕉は、奥の細道には<早加>、草加と書いているのですが、随行の曽良が、<カスカベ>と書いています。江戸(千住)を発って、草加なのか、春日部までか?翌日は、間々田(小山市)で泊まっていているから、草加からなら遠すぎます。・・・で、春日部が正しい、でしょう、世間も本当は春日部泊まりとしています。

では、春日部=粕壁のどこか。粕壁宿の入り口の東陽寺(禅宗寺院)か、粕壁宿を出てすぐの小渕村の観音院(修験寺院)なのか。

ワタシは、観音院に一票です。

・・・・芭蕉は、<その日やうやう早加にたどり着きたり>・・・荷物が重かったと書いています。やっとたどり着いたのでしょう。なぜ、草加と間違って書いたのでしょう。粕壁宿を過ぎて、小渕村は<名もなき村>だったのではないか・・と。

 別のこと、・・・禅寺、修験寺院のどちらに泊まったでしょう。

 芭蕉一門、蕉門下生のゆかりの所に泊まった、というのが、<いいね>なのです。

*観音院には、芭蕉の句碑があります。かろうじて<ものいえば 唇さむし 秋の風>と読めます。葛飾蕉門下の不干(ふかん;江戸時代後期の人)が、建てたようです。不干は、隣村の内牧村(現春日部市)の、修験・南蔵院の住職さんです。

奥の細道、芭蕉が旅立ったのは、元禄2年3月27日(旧暦)です。新暦では1689年5月16日です。

観音院の山門が建立されたのも、同じ年、元禄2年です。

その頃、この地域に、観音院に、修験者・円空が逗留していました。

芭蕉と円空は、この地、観音院で、遭遇していたのではないか、という話があるのです。

古くからの言い伝えではありません。

森 敦著<われもまた おくのほそ道>(昭和63年8月1日 日本放送出版協会発行で、ワタシ自身が見つけたのです。

NHKテレビ番組「森敦 おくのほそ道行」の取材記です。番組には、<春日部で円空と芭蕉の遭遇>の話はなかったのでしょう。

奥の細道の取材は、昭和58年春。森敦さん71歳です。

 もちろん、証拠もありません。同じ頃に同じエリアにいたというだけのことです。ちょっと<いいね>のお話です。仮に、芭蕉が、観音院に泊まってないくても、日光街道筋にある観音院には、間違いなく立ち寄ったでしょう。

円空と合ったかも知れません。

・・・・・・と、このあたりまでは、以前に、ブログに書いています。

ここです → http://blog.goo.ne.jp/geibunkyou/d/20130404

驚いたのは、これから・・・・です。

一緒にいった、知人が、<森敦さんの句碑があるよ>・・・・と叫んだのです。

まさに<・・・うそ~っ!!・・・>でした。

句は、読めません。最後は確かに<敦>でした。

そして、裏側に、NHKの取材記でのことが書いてありました。住職・尾花重郎さんが建立されたようです。

*森敦の句碑。次に出かけるときに、しっかり読んできます。

 【おまけ】

*お相手していただいた住職さんが、円空特集の雑誌<美術手帳>を見せてくれながら、そこに執筆されている、みうらじゅんさんに、春日部に来てもらって、円空仏のお話をしてもらったら、どうでしょうね・・・と。

*その日は、ワタシらがやってる市民サロン<ウィークエンドブランチ>の4月6日のゲストに、観音院の新住職さんをお願いにいって、承諾をもらっていたのです。・・・・・年末の<ウィークエンドブランチ>には、そうできると、いいなということになりました。突然、企画会議になったのです。むろん観音院の円空仏7体にもお出まし願って・・・ですね。

*<マイ・ブーム>の みうらじゅんさんは、ワタシにとっては、仏像オタクさんというより、ボブ・ディランおたくさんです。ボブ・ディランの話がしたいなあ・・・と、小声で発言しました。


http://teraosannsou.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-9395.html 【はせを(ばせを)の一句!ものいへば唇さむし秋の風】 より

大型連休が終わり、ようやく通常ペースに戻ったようだ。

わが家の連休中唯一の遠出は春日部行きだった。読売朝刊の記事で春日部小渕の古刹小渕山正賢寺観音院で、この時期だけ円空が彫った仏像の開帳があるとの事で見に行ってきた。

その小渕山観音院の境内で、芭蕉の句碑を見つけた。

「毛のいへば唇さむし秋の風」(句碑春日部市解説)

普通に考えると 「物言えば唇寒し秋の風 」だが何故ここの碑だけに毛が使われて

いるのか??である。大胆に推理すると 「ものいへば唇さむし秋の風」と書いて

あったのではないか・・・。

出典は芭蕉小文庫の「人の短を云うことなかれ己の長を云うことなかれ」「物言えば

唇寒し秋の風」と続く。

松尾芭蕉が奥の細道の旅に弟子の曽良と東京深川を出発し一日目の宿泊地が

草加でなく、ここ粕壁小渕山観音院だったという説もあるが果たして・・・。