遊行柳 (ゆぎょうやなぎ)

まるで踊念仏を唱えているようですね♪ 芭蕉も行脚の歌人でした。


http://www.kanze.com/yoshimasa/nonotayori/yugyoyanagi.htm  【遊行柳(ゆぎょうやなぎ)】より

『遊行柳』の名前は、遊行上人と柳の木の話だからそう付けられたのでしょうか。謡曲に出てくる遊行上人は、遊行十九世・尊皓上人とされていますが、十九世と言うからには一世がいたはずですよね。

遊行一世というのは、実は空也の創始した踊念仏を民衆に普及させた、別名を「捨聖」と呼ばれる時宗の開祖・一遍上人なのです。因みに遊行上人の「遊行」というのは、遊行行脚を指し、一遍上人の後継者を示す呼び名なのです。

芦野の里に行く前に、まずは一遍上人と遊行のことから始めたいと思います。

一遍上人、正式には一遍智真は、十世紀の「市聖」空也上人を崇敬し、その踊念仏を継承し、念仏による衆生の救済を夢見て、全国を遊行行脚した、時宗の開祖です。彼はもともと伊予の豪族河野氏の出身で、十歳の時に母を亡くし、既に出家していた父・河野通広の命で出家します。

そして「随縁」と名乗り、大宰府の浄土宗・西山派の祖・聖達に学んで、「智真」と名を改めます。またこの間に曹洞禅も修めました。智真は都合十二年大宰府に滞在しますが、父の死により伊予に呼び戻され、還俗を余儀なくされます。しかしその後、三三歳の時に再度出家し、信濃の善光寺に参詣の旅に出ます。

そして帰郷後、今度は予州・窪寺というところに庵を結んだ智真は、三年間の孤独な修行に入ります。一遍智真の、この帰郷後の一連の行動は一族間の争いに巻き込まれたからだとされています。

さて智真はここで「十一不二の偈(さとり)」を会得します。この考え方は大変難しいのですが、簡単にご説明しましょう。

 「念仏を唱える、その時その時が臨終であり、念仏は只今の一念である。一念は機の上から言えば初一念であって、本質的には臨終もなければ平生もない。臨終と平生は同一であるとしている。只今の一念のみで往生できるが、一念でとどまることなく念仏を相続せよ。相続が多念であり時分である。多念は一念のつみかさねである。十劫の昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったのは、只今の一瞬に衆生が念仏を唱えて往生するからである。したがって十劫の昔と只今の一念とは不二である。」

 というのが十一不二の意味ですが、御理解頂けましたでしょうか。実は私も書いていて分ったのか、分らないのか、それこそ分らなくなってしまいましたが、つまりは「いつもいつも、臨終の時と思って念仏を間断なく続けなさい。そうすれば極楽往生できますよ。」という教えなのです。

 この悟りを得た智真は、妻・娘・弟子の三人を連れ、空海(弘法大師)の連行の跡を訪ねて高野山と熊野に百日の参篭をします。そしてここでも阿弥陀仏を称える夢で神勅偈を得ます。

 この偈は「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」の四句からなりその頭字を取ると「六十万人」となるところから「六十万人の偈」とも呼ばれています。この熊野参詣を機に、智真は偈に因んで一遍と名乗り、時宗を確立しました。

 ここから一遍上人の遊行に明け暮れる、漂泊の人生が始まります。彼は、南は九州から北は東北地方までくまなく足を伸ばし、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷られた念仏札を配って歩きました。

 一遍上人の旅人生は、「一遍聖絵」に詳しく書き残されています。これは東京の国立博物館にありますので、機会があれば一度見るのも良いかと存じます。なぜならこの「一遍聖絵」は、時宗の教えだけでなく、中世の風俗、主に旅の様子を克明に記したものとして、実に貴重な資料だからです。またこの絵図は全十二巻が失われずに残っている事も特筆に価するでしょう。

 そして一遍上人の旅は、彼亡き後も彼の後継者である、代々の遊行上人によって受け継がれて行くのです。

 さてそろそろ芦野の里へと御案内致しましょう。関東最北の宿場・芦野は、もともと那須七騎の一、芦野氏の居城の辺です。那須七騎とは、平家物語、そして今年春の別会、『屋島』にも出てきた那須与一の子孫と伝えられます。扇を射た功労によって、那須与一は今の栃木県黒磯市辺りに広大な所領を与えられ、その子孫も長くこの地で繁栄することになりますが、その話はまた次の機会に…

 

 先にも述べたように、芦野は那須で最も古くから開けた町なのですが、鉄道の路線からもそれ、高速道路も国道の陸羽線も離れた所を通ってしまい、すっかり往時の面影を失ってしまいました。

 けれども「さびれた」ということはつまり、開発の手が入っていない事でもあり、忙しい都会から出かける者にとっては、かえって一抹の郷愁を誘う場所となっています。

 いつもは写真で、曲の故郷を辿るのですが、今回は芦野に住む、安達雅夫さんのスケッチでここを紹介致します。

 というのも、『遊行柳』と同じく薄暮つもは写真を載せるのですが、今回は芦野にに包まれる頃に訪れたため、私は在りし行上人とや老柳の邂逅を思い浮かべるのにふさわしい雰囲気を満喫できましたが、おかげ日の遊で撮った写真はみな暗くて何も見えないかりとなってしまいました。

 でも良く考えれば、私の下手な写真よりもずっとこの里の良ものばさを感じていただけると存じます。

 JR黒磯駅から国道四号線を越えて東に四キロほど行くと、旧陸羽街道に出ます。この道は、かつて西行が通り、一遍が往き、遊行上人、芭蕉そして与謝蕪村が歩いた道です。

 うねうねと曲がりくねり、いくつもの森を抜けるともう芦野です。芦野を過ぎればもうみちのく、白河の関はすぐそこですから、ここは広い関東平野もそろそろ終わるところです。そのためか左に那須連山、行く手は磐梯山を望みつつ、緩やかに登りとなって、奥州の険しい山並みを予想させます。

 芦野の手前の田んぼの中には、かわいい五輪塔が立っていて、刈り入れの終わった田園風景のアクセントとなっています。これは、昔口減らしのために農家に奉公に出た子供が、仕事が遅いといってその主人に鞭で打たれ、亡くなってしまったのをかわいそうに思った村人が後に皆で供養したものだそうです。

 今ではただ美しい、のどかな田園風景ばかりが印象に残りますが、陸奥というのは、大変風土の厳しい所。何度も飢饉に見まわれ、昔は餓死者が何万人も出たのです。そんな厳しい現実からいつかは解放されて、極楽浄土へ行けると、民衆は一遍上人の教えに救いを見出したのでしょうか。

 旅をするには、自分の足だけが頼りの時代に全国を遊行した上人は、そんな貧しい人々を何とかしたかったのでしょうね。そうでなければ、一生寺も持たず、旅を枕とすることはできなかったでしょう。そして、あんなにも多くの人の信仰を集めることも出来なかったに相違有りません。

 さて、そんな哀しみを秘めた道をたどると芦野の里へと入って行きます。

 芦野は、江戸時代には四五〇〇石の旗本・芦野氏の本陣として栄えました。いかにも街道筋の町らしく、町の真中を一本「仲通り」と呼ばれる通りが貫き、両側に三河屋、油屋といった屋号を今に残す家が軒を並べています。

 町の裏には奈良川が流れ、さすがに本陣だけあって、川沿いには蔵が建ち並んでいます。町の中ほどに三光寺という寺があり、この寺の庇の格天井には、一枚一枚にスミレやあやめなど草花の絵が描かれ、目を楽しませてくれます。

 町の中ほどには、以前軒もあったといわれる旅篭の最後の生き残り、丁子屋さんが店を構えています。もちろんここは今でも旅館を経営していらっしゃいますが、それよりもうなぎ屋さんとしてのほうが、今は有名かもしれません。

 昔は旅篭の片手間に、主に女性により切り盛りされていたそうですが、今は当代のご主人で、先ほどからご紹介しているスケッチを描かれている安達雅夫さんがお店をやっていらっしゃいます。

 さて、この丁子屋さんにはとても変わったお座敷があるのです。これは「蔵座敷」と呼ばれていますが、八畳二間の座敷が土蔵の中にしつらえてあります。

 この座敷が変わっているというのは、もともと蔵だったものを改造して座敷にしたのではなく、座敷として蔵の中に特別に作ったということだそうです。安達さんによると、芦野は本陣であったため身分の高い武士が宿泊することが多く、道中の身の安全を考えてこのような土蔵造りの座敷を考案したのだろうとのことでした。

 土蔵ですから襲われる心配もなく、またこの蔵の裏手は奈良川が流れ、万一火事に遭っても大丈夫とまさに万全の体制です。十年ほど前まではここに宿泊客を泊めていたそうですが、現在は保存のことを考えて取り止めにしたそうです。

 けれども、昼と夜一組ずつ、予約制でここの中でうなぎをいただくことができます。芦野へ行かれた際には、是非お試しになると良いでしょう。

 丁子屋さんのお隣は、布袋屋さんという、これまた江戸時代から続くお菓子屋さんです。ここの名代はその名も「遊行饅頭」です。素朴な黒餡のお饅頭ですが、これをほおばりつつ街外れの遊行柳に向かいましょう。

「遊行柳」は収穫を終えた水田の中にありました。春には桜、夏には紫陽花、そして秋には小菊と彼岸花が咲き乱れる細道を通って、木の下まで行くことが出来ます。ここで西行が「道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ち止まりつれ」と詠み、芭蕉が「田一枚 植えて立ち去る柳かな」と詠みました。往時、このあたりは茫漠とした野であり、そこにただ一本、柳が木陰を作っていたのでしょうか。

 平成三年には遊行第七三世・一雲上人もこの柳を訪れたそうです。丁子屋さんで拝見したお写真で一雲上人は、咲き乱れる紫陽花を背景に、降りしきる雨の中で何事か一心に祈っていられるようでした。

 上人の目に、かつての遊行聖と老柳の精の出会いが浮かんでいたのかどうか、今となっては誰にも分りません。

 芦野はもうすぐ一面の錦秋に包まれます。また春、芦野城址(桜ヶ城)は一千本の桜が咲き誇ります。「道祖神の招きに答へて」小さな旅はいかがでしょうか


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/karasake.htm 【乾鮭も空也の痩も寒の中】より

(からざけも くうやのやせも かんのうち)

 元禄3年12月、48歳。京都での作。 空也は、平安中期の天台宗の僧。早期の浄土信仰を広めた人。後世の空也聖たちは踊念仏を特徴とするが空也が唱導したのではないという。しかし、後世の浄土信仰には強い影響を与え、中でも一遍上人の時宗は空也の影響を強く受けたとされている。

乾鮭も空也の痩も寒の中

 乾鮭は、痩せ細ったものの象徴。しかも、乾鮭は寒中に作られ市中に出回る。一方、空也は空也上人だが、ここでは空也僧のこと。空也僧は、11月13日の空也忌から48日間寒中修業に入る。その修業中には毎夜未明に腰に瓢箪を巻きつけて念仏を唱え、鉢を叩き、和讃を唱えつつ踊りながら街中をデモンストレーションした。空也僧は念仏宗の優婆塞であったから在家の信者たちであった。ゆえに、「弥兵衛とは知れどあわれや鉢叩き」(蟻道『句兄弟』)というような具合でもあった。

 さて、一句はK、K、Kの引き締まった音感が寒中の引き締まった空気を連想させて実に清潔の印象を与える。「乾鮭」と「空也」とは「痩せ」と「寒の中」で連結されているだけで、それ以上の意味はないにもかかわらず、大きなスケールを感じさせる句ではある。芭蕉最高傑作のひとつ。

なお、鉢叩きについては、芭蕉作品として「長嘯の墓もめぐるか鉢叩き」、「納豆切る音しばし待て鉢叩き」 などがある。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/chosho.htm 【長嘯の墓もめぐるか鉢叩き】より

(ちょうしょうの はかもめぐるか はちたたき)

元禄2年12月24日。この日、鉢叩きを見ようというので芭蕉は去来亭訪ねた。鉢叩きとは、空也僧が空也上人の命日の 旧暦11月13日から大晦日までの48日間、鉦を鳴らしたり、竹箒で瓢箪を叩きながら、念仏や和讃を唱えながら勧進して回る都の年末の風物詩であった。ところが、この夜はなかなか鉢叩きが現れず、困った去来は、

箒こせまねてもみせん鉢叩き   (いつを昔)

と詠んで師を慰めたという。落柿舎でのことであろう。

 しかし、二人の期待通り、鉢叩きは夜更けてようやくやって来てことなきを得たのである。この時の句。

 なお、鉢叩きについては、「納豆切る音しばし待て鉢叩き」、「乾鮭も空也の痩も寒の中」などもある。 また、蕉門関係者には鉢叩きの名句が多く、

米やらぬわが家はづかし鉢叩き  (湖春)

おもしろやたゝかぬ時の鉢叩き  (曲翠)

鉢叩き月雪に名は甚之丞     (越人)

ことごとく寝覚めはやらじ鉢叩き (其角)

千鳥なく鴨川こえて鉢叩き    (其角)

今すこし年寄見たし鉢叩き    (嵐雪)

ひやうたんは手作なるべし鉢叩き (桃隣)

旅人の馳走に嬉し鉢叩き     (去来)

などがある。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/hachi.htm 【納豆切る音しばし待て鉢叩き】より

(なっときる おとしばしまて はちたたき)

 元禄3年頃、47歳。

納豆切る音しばし待て鉢叩き

 「納豆切り」は、納豆を包丁で細かく砕いて納豆汁の素材とした。最初、寺院などの精進料理であったが徐々に市民の食材となった。この時期は、朝餉の食材として広く民間で使われたため納豆切りの包丁の音は冬の早朝の風物詩でもあった。

 冬の夜明け、ようやく待ちに待った鉢叩きの音が遠く聞こえる。それをかき消すように民家の台所から納豆切りの音が聞こえてくる。せっかくの鉢叩きだからちょっとの間納豆切りの音を出さないでいてほしい。

 なお、鉢叩きについては、「長嘯の墓もめぐるか鉢叩き」「乾鮭も空也の痩も寒の中」がある。