壬生寺、車塚古墳、愛宕塚古墳、箕輪城、下野国分尼寺跡

http://www.rekitabi.sakura.ne.jp/H23/230101tochigi/230101tochigi.htm 【壬生寺、車塚古墳、愛宕塚古墳、箕輪城、下野国分尼寺跡 】より

壬生寺(みぶじ)

紫雲山 壬生寺(しうんざん みぶじ)は、栃木県下都賀郡壬生町にある天台宗の寺院で、本尊は不動明王です。

円仁(慈覚大師)誕生の地として伝えられます。

慈覚大師、円仁は伝教大師 最澄に師事し、後に第3代天台座主となります。

入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人で、下野国の生まれで出自は壬生氏と言われます。

円仁が遣唐使船により唐に渡り、この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が「入唐求法巡礼行記」です。これは日本人による最初の本格的旅行記で、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されています。

元日のお昼過ぎに訪れました、初詣の人々はあまりおらず、少し閑散としています。

慈覚大師産湯の井戸があります。

古来から、この水を飲むと、子供が安産で生まれ、乳の出ない人は出る等、健康増進、諸病平癒に霊験があるそうです。

■ 車塚古墳

 車塚古墳は、栃木県を代表する古墳時代後期の大円墳です。

 墳丘は三段に造られ、大きさは、直径が82m、堀(周湟)の底からの高さが約11mあります。墳丘の周囲には、ほぼ完全な形で円形に堀と土塁(周堤帯)が廻り、土塁を含めた古墳総全長は約120mに達します。

墳丘南側には、巨大な凝灰岩の一枚石を使った横穴式石室が開口しています。

 石室の奥壁面には赤く色が塗られていた痕跡が認められます。

 江戸時代の古文書などから、当時すでに開口していたことが記されています。

 古墳がつくられた当時は、墳丘全体が石でおおわれその姿はこの地を治めた権力者のお墓にふさわしいものであったそうです。

■ 牛塚古墳

 牛塚古墳は、車塚古墳の道路を挟んだ反対側、西側にある前方後円墳です。

墳形は前方部が短く、上から見ると帆立貝のような形をしているため帆立貝型の前方後円墳とも呼ばれています。墳丘の全長は約47m、後円部の高さは約5mあります。

牛塚古墳の石室については、発掘調査が行われていないので不明ですが、墳形などから古墳時代後期(今から約1400年前)につくられた古墳と考えられます。

■ 愛宕塚古墳

 愛宕塚古墳は、二段に築成された前方後円墳で、前方部を西南西にむけています。墳丘の推定の全長は約65m。

愛宕神社の鳥居です。

周濠は、埋もれて見えなくなっています。

前方部には、愛宕神社が祀られています。1694(元禄7)年、壬生城主 松平輝定が壬生城の鬼門除けとして築いたものと伝えられています。

前方後円墳の形状に見えなくもないです。

■ 箕輪城

 群馬県に武田信玄にも落とせなかった箕輪城という百名城にもなっている城がありますが、こちらは、栃木県の箕輪城です。

 南北朝時代の暦応2年(1339)に南朝方の春日顕国の軍勢の前に箕輪城は戦わずして降伏したという文書が残っています。当時、北朝方の城だったでしょう。

道路脇に、箕輪城を示す偽木型の標識が立っています。

箕輪城の遠望

箕輪城の主郭部分です。雑木林になっています。

 主郭には、鷲神社の小さな社が 建てられています。

 この主郭を取り囲むように土塁が良く残っています。

しいたけを栽培しています。

現在でも、国分寺というお寺があります。

■ 下野国分尼寺跡

 下野国分尼寺跡は、下野国分寺跡の東方約600mのところにあり、国分寺と同じく聖武天皇の詔によって建てられた国立の寺院です。

伽藍(寺の建物)配置は、国分寺と同様に東大寺式ですが、塔はつくられませんでした。

発掘により、全体の規模は南北約270m、東西約145mであることがわかっています。

 現在、主要伽藍の基壇と礎石が復元表示され、史跡公園として人々の憩いの場として活用されています。


https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200911-001.html 【天台座主への道 ―経歴法階とは―】大正大仏教学部特任准教授 木内堯大氏 より

きうち・ぎょうだい氏=1974年、東京都生まれ。早稲田大第一文学部卒。大正大大学院博士後期課程修了。博士(仏教学)。専門は日本天台の思想。天台宗如意輪寺(東京都墨田区)住職。共著に『日本人のこころの言葉 最澄』(創元社)、『仏教の教えを築いた人々』(宗教工芸社)、『天台仏教の教え』(大正大学出版会)など。

■天台座主と探題

永禄6(1563)年に来日したルイス・フロイスの著作である『日本史』に、「日本で新たな宗教を布教するには比叡山延暦寺の許可が無ければ不可能である」と書かれている。このように、かつて延暦寺は日本の宗教界において最も強い権力を保持していた。また、フロイスが「教皇」とたとえた天台座主は、その天台教団の統轄者としての立場にあり、「台嶺の棟梁」とも呼ばれる存在である。

『天台座主記』によると、初代の天台座主は、伝教大師最澄とともに唐へ渡り修学をした義真とされる。義真は延暦寺で初めて行われた大乗戒授戒会の伝戒師をつとめた人物であるが、実は当時から「天台座主」という呼称が存在したわけではない。記録上で「天台座主」と呼ばれた最初の人物は、第3代の慈覚大師円仁である。太政官から円仁に対して天台座主の補任状が正式に発給され、以来、一門統轄者として天台座主の名が用いられるようになった。

第18代天台座主の慈慧大師良源は摂関家の藤原忠平、師輔らの後援を得て、比叡山の復興を成し遂げ、比叡山中興の祖と呼ばれる。また、良源の弟子である第19代座主尋禅は藤原師輔の子であった。以来、天台座主の多くは権門出身となり、特に近世では皇族出身の法親王による天台座主が多く誕生することとなる。

良源の功績として、広学竪義を創始したことがあげられる。広学竪義は教学に関する問答であり、竪者と呼ばれる受験者にとっての教学試験という意味合いがある。この時の論題を決定する任にあたるのが、探題であった。良源の指名によって、最初の探題となった禅芸僧都のもと、安和元(968)年の六月会に合わせて初めて広学竪義が行われたという。

このように広学竪義の算題を選定する役割を担う探題は、延暦寺の教学上の最高責任者とも言える立場であった。しかし、あくまでも教団の統轄者としての天台座主とは異なる地位であった。現在の天台座主は、探題の中でも最も早くその任についた首座探題(古探題)が勤めることとなっているが、そのような事例は当初から幕末まで数例しか見られない。明治3(1870)年、第232世座主久住豪海が法華大会広学竪義において探題をつとめ、以来、首座探題が天台座主を兼ねる慣例が始まっている。明治新政府による神仏分離政策によって天皇家と仏教が離されたことが、新たな慣例が作られた要因となったことが推測される。

それでは探題となるにはどのような階梯を進む必要があったのであろうか。資料の残る焼き討ち以後には、例外もあるが、望擬講→擬講→已講→探題という法階を経る必要があったことがわかる。このことを経歴法階という。

現在ではこのような経歴法階の階梯には、延暦寺一山の長老、宗派行政における重鎮、学識経験者、地方大寺の住職等の選ばれた僧侶のみが進むことができる。

■探題への階梯

天台座主の第一の登竜門である望擬講になるために必要な条件は、まず延暦寺で行われる天台会講経論義霜月会法華十講、及び山家会講経論義六月会法華十講において、問者・講師を務めることである。霜月会とは天台大師智顗の命日(11月24日)に報恩謝徳のために行われる法要であるが、現在ではあらかじめ10月23日・24日の両日に実施されている。山家会とは伝教大師最澄の命日(6月4日)に行われる法要であり、現在では4月20日、21日の両日に行われている。

法華十講とは『無量義経』一巻、『妙法蓮華経(法華経)』八巻、『観普賢菩薩行法経』一巻の計十巻に関して、その教学内容を議論する法要である。まず読師と講師が向かい合った高座にのぼり、読師が経典の巻物をとりあげ経題を高唱する。次に講師が経典の解釈を唱える。次に首座探題が出題した内容に関して、問者が経典の文の中の疑問点を講師に質問し、これに講師が答える。広学竪義とは異なり講師は学徳兼備な僧侶が担当するのである。このような法要は講経論義あるいは論義法要と呼ばれ、延暦寺一山の僧侶が総出仕して厳修されている。

この二つの法要で問者・講師をつとめた僧侶が、6月4日に伝教大師の御廟のある浄土院で行われる長講会の五役に選ばれる。五役とは唄・散華・講師・問者・読師である。唄と散華は法要を彩る声明を唱える役である。

長講会とは伝教大師の廟前で行う論義法要のことである。講師と問者による問答は約2時間も続き、最後に天台座主探題大僧正の精義(おしらべ:問答の可否の判定と補足)があり、合計3時間ほどにも及ぶ法要が終わる。

この長講会において、延暦寺一山の住職では五役、地方寺院の住職では三役を勤め終わった僧侶の中から、天台座主がその年の8月に行われる戸津説法の説法師を任命する。

戸津説法とは東南寺説法とも呼ばれ、比叡山の麓、琵琶湖西岸にあたる戸津の浜の東南寺(滋賀県大津市下阪本)で開かれる説法会のことである。最澄が比叡山の鎮守神である日吉山王権現への報恩感謝、両親への追善菩提、及び民衆教化のために法華経の説法をしたのが始まりとされ、かつては坂本の生源寺、下阪本比叡辻の観福寺、東南寺の3カ寺で、10日ずつ計30日にわたって行われてきたが、焼き討ち以後は東南寺のみとなった。また明治以降には8月21日から25日の5日間に短縮されている。

初日は法華三部経の開経である『無量義経』、2日目は『法華経』第一巻、3日目午前は第五巻提婆達多品、午後は地蔵盆に因み『地蔵菩薩本願経』、第4日目は第八巻観世音菩薩普門品、第5日目は結経である『観普賢菩薩行法経』等を中心に一般の大衆に向けた説法が行われる。そして、この戸津説法を終えると、探題集会を経て天台座主より望擬講に補任される。

次に望擬講の中から探題・已講・擬講・望擬講・宗務総長・延暦寺執行による選挙で擬講が選出される。擬講は4年に1名であり、後述する法華大会において、已講に代わって中日の広学竪義の一ノ問の問者を一昼夜のみ勤めるという役割がある。

擬講に選出されると4年ごと(五年一会)に行われる法華大会広学竪義に先立ち、前年に行われる別請竪義に臨む。別請竪義は探題からの算題に対して、一ノ問は已講が、二之問・三之問は望擬講が質問をし、竪者である擬講が決答するという論義法要である。

この法要が終わると探題集会を経て天台座主が擬講を已講に任命し、一ノ問の問者である已講が同じく天台座主から探題に任命される。

新探題と已講は翌年10月に6日間にわたって行われる法華大会広学竪義において重要な役割を担う。法華大会広学竪義とは天台宗随一の古儀の法会であり、天皇の勅使を招くことから古来より「勅会」と呼ばれ、法華十講と夜を徹して行われる広学竪義という二つの論義法要により構成されている。法華十講の講師は已講が勤める。

また、天台宗僧侶にとっての最終試験である広学竪義は、探題が試験問題を出題し、5人の問者から矢継ぎ早に質問がなされ、それに竪者が答えるという形式の論義法要である。竪者が涙ながらに答えたことに由来する泣き節という節回しが現在も伝えられており、探題の精義に合格した竪者は縹帽子を身につけることが許可される。

法華大会の『法華経』五巻目にあたる中日には、天皇使と新探題、已講の三者が殿上輿に乗って三方向から会場である大講堂の前庭に集まる三方の出会いという儀式が行われている。

このように経歴法階とは、天台宗の統轄者である天台座主が、教学の面においても最高の権威を有するということを示すものであり、学問と修行を共に学び行う解行双修という天台宗の教義を代表する存在であることを意味していると言えよう。


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