夕顔 かんぴょう

http://www.biwa.ne.jp/~futamura/sub62.htm  【夕顔 かんぴょう】より

夕顔について : 夕顔は,インド・北アフリカを原産地とするウリ科のつる性1年草です。

夕顔は初夏に白い花が咲きます。「夕顔」という花の名称は, 夕方に咲き,朝にはしぼんでしまうところに由来しています。

夕顔は,平安時代頃にはすでに栽培されていて,枕草子や源氏物語の中で作品の対象になってきました。

夕顔からは,かんぴょうが作られます。なぜ,かんぴょう(干瓢)というかというと,夕顔の実は「ふくべ」(瓢)と呼ばれ,それをほ(干)したものだからです。

ただし,夕顔の実が野菜として食べられるようになったのは,苦みの少ない「丸夕顔」が伝えられてからとされています。

かんぴょうの産地として有名なのは,栃木県と滋賀県です。

滋賀県では,甲賀市水口(みなくち)町(旧東海道の50番目の宿場町,水口宿)で作られています。  

夕顔の花 :夕顔の花は,もじどおり夕方から咲きはじめます。夕顔の実は,大きいもので高さ35~40cm,重さ7~8kgでした。

水口は,かんぴょうのルーツ :

現在,かんぴょうは栃木県が一大産地のようですが,この水口のかんぴょうは江戸時代から有名で,安藤広重の浮世絵にも描かれています。

かんぴょうは,慶長の初め(1600年ごろ),水口にあった「水口岡山城」主の長束正家(ながつかまさいえ)が作らせ,正徳元年(1711年),この地の水口藩主・鳥居忠英(とりいただてる)が,下野国(栃木県)壬生に国替えになって移った際に,種や栽培法を伝えました。さらに1712年に水口藩主となった加藤氏が,今度は壬生から水口に新しい製法を伝え,その後,改良を加えて献上・贈与・土産品として珍重されるようになったと伝えられています。

水口には松尾芭蕉も訪れ,以下の俳句を詠んでいます。

 「夕顔に かんぴょうむいて 遊びけり」

安藤広重作

水口でのかんぴょう干し 夕顔の種

かんぴょう作り :

 かんぴょうは,7月から8月にかけて,収穫した夕顔の実を薄く削って干して作られます。その作業を見せて頂きました。作業は早朝5時半頃からの開始です。なお,削ったかんぴょう(厚さ3~4mm)の乾燥は,昔は家の横で天日干しされていたようですが,今はビニールハウス内で行われています。

夕顔の実を頂いて帰り,料理してもらったところ,冬瓜(とうがん)のようでおいしかったです。

夕顔にちなんだ文学

(1) 「枕草子」65段

(清少納言)

『夕顔は,花のかたちも朝顔に似て,言ひ続けたるに,いとをかしかりぬべき花の姿に,実のありさまこそ,いとくちをしけれ。

などて,さはた生ひ出でけん。ぬかづきといふもののやうにだにあれかし。

されど,なほ夕顔といふ名ばかりは,をかし。』

(夕顔の花は花の形も朝顔に似ていて,アサガオ・ユウガオと続けて言うような,しゃれた花の姿なのに,あの実といったら,もうぶち壊しだ。)

(なんで,あんなに不格好に育ち過ぎてしまったのだろう。せめてホオズキぐらいであってほしいのに。)

(そうはいってもやはり,夕顔という名前だけはすてきだ。)

(2) 「源氏物語」4の巻

(紫式部) 光源氏が病気の乳母を見舞いに出かけた時のこと。粗末な家の垣根に,きれいな夕顔の花を見つけました。花を摘もうとすると,その家の使いが出てきて,「これに花を載せてお持ちなさい」と扇を渡してくれました。夕顔の花が載せられた扇は良い薫物の香りと共に,きれいな字で和歌が書かれています。

    心当てに それかとぞ見る 白露の 光添へたる 夕顔の花

    (ひょっとしたらあなた様かと思いました。

        白露のような光を添えている夕顔の花のように美しい方なので。)

光源氏は和歌に心を奪われ,次の歌を返します。そして,送り主である女性の元に通い始めるようになります。

    寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる花の夕顔

      (近寄って確かめてください。夕暮れに見た美しい花を。)

しかし,相手の住まいは粗末な家。世間を気にして光源氏はいつもお忍びです。名を明かさぬ光源氏に女性(=夕顔)も正体を知らさぬまま,二人は逢瀬を繰り返しました。

そんなある日,光源氏は夕顔を,人の住まぬ荒れた邸に連れて行きます。雰囲気を変えたデートです。デートを楽しみ,うとうとと眠りについた夜。

光源氏の枕元に,女性の幽霊が立っていたのです。あわてて太刀を抜く光源氏。しばらくすると幽霊は消えますが,おびえた夕顔は息も絶え絶えです。光源氏は必死で夕顔に声をかけるのですが,身体は冷たくなっていき,そのまま亡くなってしまいました。

急を聴いて駆けつけた腹心の惟光の進言で,光源氏はその場から逃げて帰ります。亡骸は,惟光と夕顔の侍女である右近が寺へと運び,葬儀が内密に行われました。

光源氏は嘆き悲しみ,右近に彼女の正体を尋ねます。聞いてみると,彼女は頭中将(光源氏の義理の兄で親友)が以前話した「行くえ知れずの女性」だったのです。彼女には頭中将の子供もいました(後に,この子を養女として育てます:玉鬘)。

(3) 「夕顔」(白洲正子)<一部抜粋(引用)>

『私は夕顔の花が好きなので,毎年育てている。夕方の四時になるといっせいに開き,開け方にはしぼんでしまうが,次から次へ蕾をもっているので,八月の半ばごろから霜が降るまで咲き続ける。名月の晩などは,そこはかとない花が闇の中に浮き出て,えもいわれぬ風情である。

蕾は白いハンケチをしぼったような形をしており,いつも知らないうちにほころびているので,「夕顔の笑みの眉」が開ける瞬間を私はまだ見たことがない。それは白い絹がはらはらとほどけるように咲くのか,それとも蓮の花のように一気に咲くのか,たぶん前者の方であろうと想像していたが,ある日,その決定的瞬間に立ち会うことにした。何もそんな大げさに考える必要はないのだが,人知れず咲くことを思うと,見るのがはばかれるような気がしないでもなかった。

やがて四時になった。ソラ,咲くぞ,咲くぞ,息をひそめて待ったが,蕾はピクリともしない。五時,六時,七時,私はごはんも食べず,タバコも吸わず(もしかすると目ばたきもせずに)見つめていた。

すると不思議なことにその蕾は,かすかにふるえるような動きを見せたかと思うと,さもくたびれたように首を垂れてしまった。他の花は皆元気に咲きほこっているのにこれはどうしたことか。もしや息をふきかえしてはくれぬかと,十一時まで見続けたが,しまいには,まったく生きる力を失って地に落ちた。

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日本には昔から人間と植物の間には細やかな交流があった。交流というより,同等に扱っていたというべきか。そういう文化の伝統を宝の持ちぐされにしてほしくないと思うのである。また『風土記』では「草木言問ひし時」といったように,草木が物をいうのはきわめて自然なことと考えられていた。そういう記憶が失われた今日でも,祖先の記憶は私達の体内に根強く残っているのである。

思うに夕顔は,非常に敏感な植物なので,花を咲かせるという重大な秘め事を凝視されるのが堪えがたかったのではあるまいか。紫式部は,そういう性格を本能的に知っていたとしか思えぬ節がある。源氏五十四帖の巻名はすべて自然の風物に則っており,空蝉も末摘花も,葵の上も,いかにもそれらしく書いてあるが,特に夕顔の君は,その出逢いからして花の精か人間の女か判然としないところがあり,暁を待たずに死んでいく場面で,「ただ冷えに冷え入りて,息は疾く絶えはてにけり。いはん方なし」という描写は,そのまま蕾の花の最後を彷彿とさせる。』

夕顔に似たもの(1)

冬瓜(とうがん): 冬瓜(とうがん)は,平安時代から栽培されているウリ科のつる性1年草の実で,黄色の花が咲きます。

夏に収穫され,冬まで保存出来ることから「冬瓜」と呼ばれるようになった?ようです。

冬瓜は,夕顔と同様ほとんどが水分で,加熱すると白い果肉がヒスイ色に透き通り,なめらかでとろりとした独特の食感になるので,煮物やあんかけ・酢のもの・中華料理のスープなどにされます。

 

夕顔に似たもの(2)

「ゆうごう」:

新潟県出身の近所の方から「ゆうごう」を頂きました。「ゆうごう」とは夕顔のことで,しかも「長夕顔」のことでした。

(新潟県では「夕顔」のことを「ゆうごう」というのだそうです。)

  長さ:約30cm,

胴部直径は約10cmです。

夕顔に似たもの(3)

「メロン」:

滋賀県の草津市,守山市では草津メロン,守山メロンが特産になっています。

そのメロン(実際はマクワウリかシロウリ)に関する記事を目にしました。

草津特産「草津メロン」 メロンの花

『最古のメロン -滋賀・下之郷遺跡 2100年前の果肉- 』 (読売新聞 2007,6,1より引用)

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『弥生時代の環濠(かんごう)集落跡,滋賀県守山市の下之郷遺跡で,約2,100年前のメロンの一種の果肉が出土し,同市教委が31日,発表した(写真,同市教委提供)。種子が見つかることはあるが,果肉は腐ってしまうため,専門家は「現存する世界最古のメロンの果肉と見られ,当時の豊かな食生活がうかがえる」としている。』

2,100年前のメロン(ウリ)の果肉

(守山市教委提供) 『果肉の一部(長さ約10cm)は,マクワウリかシロウリとみられ,環濠跡の土中(深さ約1m)から見つかった。表面は濃い茶色に変色していたが,水分を多く含んだ土が空気を遮断し,果肉が残ったとみられる。

総合地球環境学研究所(京都市)でDNA分析し,メロンと塩基配列が同じことが判明。放射性炭素年代測定で時期も特定できた。

メロンはアフリカ原産で,中東からインドなどを経て日本に伝わったとされる。これまで最古の果肉は,中国で発掘された4世紀頃のものとされていた。

加藤鎌司 ・岡山大教授(植物育種学)の話:「弥生時代にメロンが栽培されていたことを実証し,学術的に大きな意義を持つ」』