天の原 ふりさけ見れば 春日なる  三笠の山に 出でし月かも

http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D1_10.html  【詩歌紹介】 より

天の原<阿倍仲麻呂>

天の原 ふりさけ見れば 春日なる  三笠の山に 出でし月かも   

あまのはら<あべのなかまろ>

あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも

語意

天の原大空 「原」は広い場所

ふりさけ見れば  遠くを見わたすと 「ふり」は接頭語 「さけ」は「離」「放」の字をあて「遠くはなす」の意味

いでし月かも 出た月であるよ 「し」は過去の助動詞「き」の連体形 「かも」は詠嘆の終助詞

歌意

広々とした大空を遥かに見晴らすと、今しも月が上ったところである。思えばまだ若かった私が唐土(もろこし)に出発する前に、春日の三笠の山の端からのぼったのも、この月なのであろう。

出典

「古今和歌集」(巻九)羇旅歌(きりょか)・406

作者略伝

阿倍仲麻呂 701-770

奈良時代の遣唐留学生。霊亀2年(716)16歳で選ばれて翌、養老元年(717)吉備真備(きびのまきび)らと共に唐に留学。名を朝衡(ちょうこう)と改め、玄宗皇帝に仕えた。博学多才。

皇帝に寵遇(ちょうぐう)され、李白、王維など著名文人と交際し文名があった。のち海難に帰国をはばまれて果たさず在唐50余年。その間、節度使として安南に赴き治績をあげた。宝亀元年(唐の大暦5年)唐で没す。

備考

奈良時代のはじめ、仲麻呂が唐の国へ留学生として渡海した時、玄宗皇帝の寵を受け、長年に亘って帰朝できなかった。我が国から藤原清河(ふじわらのきよかわ)らの使節が派遣され、到着したので、一行と共に帰国する許可を得て、明州(めいしゅう)というところの海岸に着いたとき、その地の人々が送別会を開いてくれた。その時、夜になって月が感慨を深めるかのようにさしのぼったので、それを眺め て詠んだ歌である。


https://hyakunin.stardust31.com/1-25/7.html  【天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも】より

あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも

阿倍仲麻呂

解説

阿部仲麻呂(あべのなかまろ/大宝元年~宝亀元年 / 701~770年)は大和の国に生まれ、若くして優れた学才を現し、仲麻呂十六才の時に遣唐使・多治比県守に従って、留学生として唐に渡りました。

玄宗皇帝に仕え、李白や王維らの著名人と交際し、文名が高かったと伝えられています。

三十年近くの滞在の後、仲麻呂が五十一歳の時、宗皇帝に帰国を願い出て帰路に着きましたが、その途中で嵐にあい安南に辿り着きました。

阿部仲麻呂は後に再び長安に帰り、唐の地で亡くなりました。

この和歌もよく知られているもののひとつですが、仲麻呂の帰国を祝って、明州(現・ニンポー)の町で宴会が開かれた時に詠まれたものだと伝えられています。

広い夜空の情景に浮かんだ月を介して、阿部仲麻呂の故郷への思いがとてもよく表現されていますが、この歌は、藤原公任(きんとう)の「和漢朗詠集」などにも収録されていて、自然の情景と人の情念が見事に詠まれています。

読み

 あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも

現代意訳

広い空を振り仰いで眺めると、美しい月が出ているが、あの月はきっと故郷である春日の三笠の山に出た月と同じ月だろう。(ああ、本当に恋しいことだなあ)

 ※ 天の原 /「原」は広々とした場所

 ※ 三笠の山 / 奈良市春日大社の後ろにある春日山の一峰


http://www.hikarij.com/vision/hyakuninisyu/mikasayama.html 【百人一首の風景 奈良市 三笠山(若草山) 御蓋山(春日山)】 より

三笠山(現若草山)

三笠山は現在若草山と称し、奈良市奈良公園の東端に位置する標高342m、面積33haの山。山が3つ折り重なって見えるため三笠山と呼ばれています。

1935年、三笠山に因んで三笠宮が創設される際に、同じ名前では恐れ多いとして、山焼きに因んで若草山に改称されました。

 阿倍仲麿の歌にある「三笠山」は、南隣にある春日山のことで、春日山は御蓋山と書いて「みかさやま」の別名があるとも言われています。  

歌碑(嵐山亀山公園)歌碑(小倉百人一首文化財団建立)

安倍仲麻呂卿碑 安倍仲麻呂説明文 歌意

大空をはるかにふり仰いでみると、月がさしのぼって来たが、[この月はむかし日本にいたころ]故郷の春日にある三笠の山にのぼったあの月なのだなあ。(遣唐使藤原清河に従って帰国しようとして、明洲の海辺で、折からの満月を異郷の空に眺め、望郷の情を詠んだ歌)

阿倍仲麿(古今集)

作者プロフィール

阿倍仲麿(698~770年)は、奈良時代の遣唐留学生。唐で科挙に合格し、唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国が果たせなかった。中国名を朝衡という。

 仲麿は、孝元天皇の皇子、彦太忍信命の血を引く。698年阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。

(安倍仲麻呂とも書く)

歌の背景

留学生として唐(中国)にわたった仲麿は、中国の役人になる試験(科挙)に合格。一緒に唐に渡った吉備真備や玄昉は帰国したが、仲麿は唐に留まった。30年ほど経って、皇帝から帰国を許されたが、船が難破し、唐に留まることになり、50年以上を唐で過ごし、長安(西安)で亡くなった。この歌は帰国を許された時に、ふるさとを思って読んだと言われている。

 阿倍仲麿は、仲麻呂とも書き、いまから1300年ほど前の官僚である。若いときから優秀だったので、20歳のときにいまの中国である唐(とう)へ勉強をしに行った。当時の中国は、日本よりもずっと文化が進んでいて、多くの優秀な日本人が勉強に行ったのである。仲麿は中国で一生懸命勉強し、科挙(かきょ)というとても難しい試験に合格して、中国の皇帝にお仕えした。35年もの間、中国で勤め、いよいよ日本に帰ろうとしたとき、日本へ向かう船が遭難し、仲麿は再び中国へ戻らなければならなくなった。そして、一度も日本に帰ることなく、73歳で中国で亡くなった。