http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyuman2.html 【阿倍仲麻呂】より
阿倍仲麻呂 あべのなかまろ 文武二~宝亀一(698-770) 略伝
生年は大宝元年(701)とも。中務大輔船守の子。渡唐後は仲満と称し、のち朝衡ちょうこうと改めた。晁衡とも書く。百人一首などでは安倍仲麿と書かれる。
霊亀三年(717)、第八次遣唐使の留学生として入唐する。唐の太学に学び、科挙に合格、唐朝の諸官を歴任した。同行した吉備真備・玄昉らは天平六年末、帰国の途につくが、仲麻呂は帰朝を許されず、その後も唐に留まった。天平勝宝五年(753)、遣唐大使藤原清河らと延光寺で鑑真に面会して渡日を依頼。その際自らも帰国を願って許されたが、日本へ向かった船は途中暴風に遭って難破、安南(ベトナム)に漂着し、再び唐に戻ることを余儀なくされた。のち、玄宗などに仕えて正三品の高位にまで昇る。李白・王維ら文人と交流し、その詩は清乾隆帝勅撰の『全唐詩』などに収められている。宝亀元年(770)、在唐五十四年、七十三歳にして唐の都長安に骨を埋めた(贈従二品)。
勅撰入集は古今集と続後拾遺集に各一首が伝わるが、後者は万葉集の阿部虫麻呂の歌を誤って仲麻呂の歌としたものである。
もろこしにて月を見てよみける
あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(古今406)百人一首
この歌は、昔、仲麿を、もろこしに物習はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て、よめるとなむ、語りつたふる。
【通釈】(歌)大空をはるかに仰ぎ見れば、月が出ている――春日の三笠山から昇るのを眺めた月と、同じ月なのだなあ。
(左注)この歌は、昔、仲麿を唐へ留学生として派遣したのだが、何年経っても帰国しないので、日本からまた使者が到着したのに連れ添って帰国しようと出発した。その時、明州という所の海辺で、唐の国の人が餞別の席を設けた。夜になって、月が大変趣深く昇ったのを見て詠んだ、と語り伝える。
【語釈】◇あまの原 広々とした大空。空を平原になぞらえて言う。土左日記ではこの句「青海原」とする。◇ふりさけ見れば 遥かに仰ぎ見れば。「ふり」は振り仰ぐ。「さけ」は遠く離す、遠い距離を置く。◇春日なる 春日にある。◇三笠の山 平城京の東方、春日大社背後の山。現在は御蓋山と書く。山容が天皇に差し掛ける衣笠(絹張りの傘)に似ていることから、この名が付けられたという。遣唐使が航海の無事を祈って三笠山の麓で神祇を祭ったことは、『続日本紀』(養老元年二月壬申・宝亀八年二月戊子)に見える。『万葉集』(巻19、4240題詞)からも、遣唐使が出航前に春日で神を祭ったことがわかる。◇出でし月かも 「し」はいわゆる過去回想の助動詞。作者が月を見ているのは唐においてであるが、その月によって、昔奈良で見た月を回想している。
【他出】新撰和歌、古今和歌六帖、新撰髄脳、深窓秘抄、金玉集、和漢朗詠集、和歌体十種、俊頼髄脳、綺語抄、奥義抄、和歌童蒙抄、五代集歌枕、万葉集時代難事、柿本人麻呂勘文、古来風躰抄、五代簡要、定家八代抄、西行上人談抄、秀歌大躰、百人一首、歌枕名寄
【参考歌】間人宿祢大浦「万葉集」
天の原ふりさけ見れば白真弓張りて懸けたり夜路はよけむ
作者不詳「万葉集」(旋頭歌)
春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく
【主な派生歌】
ふりさけし人の心ぞ知られぬる今宵みかさの月をながめて(西行)
さしのぼる三笠の山の峰からに又たぐひなくさやかなる月(藤原定家)
何処にもふりさけ今や三笠山もろこしかけていづる月影(*源家長[新勅撰])
初時雨ふりさけ見ればあかねさす三笠の山は紅葉しにけり(〃[続後撰])
天の原ふりさけみれば月清み秋の夜いたく深けにけるかな(*源実朝[新拾遺])
年を経て光さしそへ春日なる山はみかさの秋の夜の月(西園寺公相[続拾遺])
春日なる三笠の山の秋の月あふげばたかき影ぞ見えける(二条良基)
影たかみ今もふりさけみかさ山遠き神代に出でし月かも(堯孝)
今宵月みかさの山の草枕夢かうつつかもろこしの空(藤原惺窩)
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