江戸俳諧コミュの宝井 其角

https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1246868&id=9809469  【江戸俳諧コミュの宝井 其角】 より

■ 切られたる 夢は真か 蚤の痕(きられたる ゆめはまことか のみのあと)

この句には「生袈裟にずでんとうと打ち放されたるが、さめて後」と前書きが付けられています。

袈裟とは仏教の僧侶の一番上に着ている法衣で、左肩を覆って右側に流れるようになっている服です。ここで言っている袈裟とはこの法衣そのもののことではなく、袈裟の形のように人の体を左肩から切りつけて右下まで真っ二つに切る事、袈裟懸けを指しています。新しい刀の切れ味を試すのに死体や動物を切って試していましたが、生袈裟とは生きたままの人間を袈裟懸けに切るという物騒な話です。

夜道を歩いていると、新刀の試切りをするために待ち伏せされていた。突然切りつけられ、ものの美事真っ二つにされてハッとすると夢から覚めた。おっ夢だったのかと見渡すと、蚤にくわれた痕があった。こいつに喰われたせいであんな夢をみたのか...

他愛もない軽い笑いの句です。このなんともないことを一句として仕上げた其角の腕もさすがと思いますが、この句を面白そうに周りの人に示し、この句を読んだ人も一緒にうち興じているところを思い浮かべると江戸の人達が俳諧を楽しむ雰囲気が感じられます。

宝井(榎本)其角といえば芭蕉の弟子の中でも筆頭の人物です。芭蕉の俳諧というと侘びだの軽ろみだのと言われますが、その高弟がこういった感じの句を作っているのです。尤もこの句について芭蕉が『しかり、彼は定家の卿也。さしてもなき事をことごとしくいひつらね侍る、ときこえし評に似たり(藤原定家は大したことがないことを大袈裟に言い立てるといわれているが、其角はそれに似ている)』といったとも伝わっていますが...

芭蕉の句はたしかに高く評価されるだけのものがありますが、といって芭蕉の門人や更にその門人と言ったところになると、芭蕉のような芸術至高主義的なところはだんだん薄らいでいます。逆に言えば、江戸時代に俳諧に親しんだ大多数の人は、もっと洒落た、もっと滑稽味のある句を作って楽しんでいたと思います。

其角はこういった遊びの感覚の句が多く、また秀でていると思います。こういった洒落てちょっと芝居がかった感覚は、江戸に生まれ、江戸で育ち、江戸で生活をしている其角にはごく自然のものだったであろうとと感じます。

この句について見ていると堀切実編注『蕉門名家句選(上)』(岩波文庫)を見ていたら、この句の注に「士農工商時代の当時の町人は、このような夢をみることがあったのであろうか」と書いてありました。院生あたりがアルバイトで書いた文章でしょうが、大先生の名前が汚れてしまいますよ。


コメント

■ 明月や 畳の上に 松の影(めいげつや たたみのうえに まつのかげ)

其角の句で洒落っ気の多いものをとりあげれば幾らでもあります。芭蕉の没後、其角の句作りは芭蕉から離れ『洒落風』と言われるようになりますが、ここではそういったものではなく、一見写生句のようなものをとりあげます。

なんの説明も要らない句です。「名月」といえば八月十五日、中秋の日の満月をさしているのは昔からのお約束ごと(今年は10月6日が十五夜です)。秋空に皓々と満月が輝いている訳ですから、お天気は上々。空気はすっきりとして爽やかな感じ。部屋に坐っていると、畳の上にくっきりと松の枝の影が映っている...

この句は其角が見た実景かもしれませんが、それ以上に其角が写し出したい情緒をつくりだす題材を上手く選んで作句していると感じます。この句はどことなく漢詩の風格があり、

  ¶ 日は松の影を移して禅床を過ぐ(温庭イン<竹/均>)

  ¶ 月は花の影を移して欄干に上げる(王安石)

などの影響を受けているのかもしれません。

小西甚一さんの『俳句の世界』(講談社 学術文庫)でこの句を取りあげ、《「名月や」だから「松の影」で、もし「槇の影」だったら、どんなことになりますかね。》と指摘しているのは正解でしょう。「畳」もこれでしょう、「庭面」や「廊下」だったらまったく違った句になるでしょうし、更に「畳」も古畳の雰囲気だったらいけないです、ここはやっぱり新しい畳の感じじゃなくちゃいけません。

言葉と言葉が絡み合って、より美しく主題を表現しています。やはり其角は洒落ている俳人です。


はじめまして。 

其角の事を書かれた日記に心動きました。

また、学者の解釈の中には「?」なものがあるという記述も、目から鱗でした。あの「芭蕉名家句選」解説は笑ってしまいました。

以前から疑問に思っていたことがあります。其角の句に 『草の戸に我は蓼食ふ蛍哉』

がありますが、これに和する句として、芭蕉は『朝顔に我は飯食う男哉』と詠んでいます。この解説なんです。

「私は朝早く起きて、花を眺めるような普通の生活をして、ちゃんとご飯を頂いていますよと反省を促したのである」となっています。

どうも、そんな単純なことなんだろうか。と思っていました。と言うのは、江戸時代の庶民に朝顔という花が伝わると、「朝顔=二日酔い」という、隠語となって広まったという記録を読んだことがあります。朝から赤い顔、青い顔を咲かせている人を「朝顔」と称したのだと思います。

この隠語は、多くの俳句の「朝顔」に掛けられているように思われて仕方がありません。。

この芭蕉の句も、放蕩生活をする其角に対して、

「私も酒を飲むが、どんなに二日酔い(朝顔)であろうと、朝は規則正しい時間に起きて、花を愛でることも忘れずに朝食を食べていますよ」という意味に聞こえてきます。

江戸で生活する其角に、江戸の洒落で応えたのではないでしょうか。自分にはない洒脱さを持つ其角に、「其角風」で”和する”句だったのではないのでしょうか。

芭蕉が酒を飲んだかどうか知らないのですが、飲まない人だとすると、この場合の「朝顔」は、「夜更かしの翌朝」と解釈することもできると思います。

また、朝顔を詠んだ句には、千代女の「釣瓶とられて、、」が有名ですが、これは当初は「美化の誇張」であったものが、江戸の庶民たちには「二日酔い」の川柳として、愛されたような気がします。子規がこの句を「俳句じゃない」と言ってますが、明治にはすでにその隠語がなくなっていたのかも知れません。または、伊予から出てきた子規には、その意味が分からなかったのかも、と思えます。

 千代女の句に

「朝顔や宵から見ゆる花のかず」というのがありますが、これは「釣瓶とられて、、」の流行を受けて、二日酔いの意味を読み直した句に思えます。宴会の飲みっぷりを見ていれば、二日酔い(朝顔)になる、数が数えられる、という意味です。

 また、本人が後年、自分の「朝顔の句」の代表作とした、

「朝顔や おこしたものは 花も見ず」

 これは、恋焦がれて一緒になった新婚の女房に起こされた二日酔いが、あれほど好きだった女房の 顔(花)も見ずに、あわてて仕事へ駆け出して行く様子に思えます。それを、花の朝顔に掛けたものではと。朝顔やの「や」が複数の対象を暗示しているように思われます。

「あさがほや帯して寝ても起はづれ」いかにも酔っ払いの寝姿っぽいです。

 よろしかったらご意見をお聞かせください。

 

いゃ~じつに面白いです。朝顔が二日酔いの隠語とはまったく知らなかったです。

でもそう考えると千代女の句がまったく別に見えてきますね。

特に「朝顔や おこしたものは 花も見ず」の James さんの解釈が面白い(^^)/

この句をこう読むと千代女は江戸時代最大の川柳作家になる感じ。

実にその場の状景というか雰囲気を上手く捉えていると思います。

James さんも書いていますが、別に作句した千代女が朝顔=二日酔いとして詠んでいなくとも、読者がそう解釈して楽しんでいたとすれば、それはそれで江戸の人達にとって充分だったと...。

今度他の句を読むときには、朝顔には特に気をつけて読んでみます (^o^)


年の瀬や 水の流れと 人の身は (其角) あした待たるる その宝船 (源吾)

師走十三日は江戸時代には煤払いの日でした。赤穂義士の一人である大高源吾は煤竹売りに身をやつして吉良邸の様子を探ってその帰り道、ばったりと旧知の宝井其角と出会いました。この大高源吾は大石内蔵助の腹心としていろいろやことをやったようですが、その合間にお茶や俳諧をも嗜んだ趣味人の一面もありました。

しかし、大高源吾がお茶を学んだのは吉良家出入りの宗匠のところで、12月14日に吉良屋敷でお茶会が行われるのを突き止めたと聞くとどこまでが本当の趣味で、どこまでが討入りのための手段であったかというのは判りません。

俳諧は水間沾徳の門に入っていたというから、其角とも顔なじみであったでしょう。水間沾徳は蕉門の人と親しく芭蕉とも行き来していましたし、芭蕉の没後は其角と手を携えて江戸の俳諧を牛耳っています。俳諧の方が討入りに役立ったという話は寡聞にして聞いておりません。

この其角と源吾のやり取りは、其角の句に対し、水の流れを受けて宝船を持ち出し、身の上を明日を待つとして、明日には念願成就ですと翌日の討入りを旧知の其角にそれとなく告げたものとして有名です。

やはり其角は粋人、こんなところにも顔を出しています。


■ 乾ヤ兌 坎震離ス 艮坤巽(そらやあき みずゆりはなす やまおろし)

見慣れない漢字ですが、でもどこかで見たことのあるような気もすると思われた方もあるでしょう。この句で使っている漢字は易の八卦の文字を使っています。易とは一般には筮竹を使った占いと思われていますが、本来は古代中国の哲学を延べた書物『易経』の事です。詳しくは金谷治著『易の話』(講談社学術文庫)を読んでみてください。

その八卦の八文字を十七文字に収めて句にしているわけです。芭蕉のような真っ当な句作りをする俳人から見れば言語道断なふざけた句ですが、芭蕉の没後にはこんな句も其角は作っています。

八卦の八文字《乾坤震巽坎離艮兌》の意味とこの句での読みは次になっています。

  乾(けん)は「天」を表していまるので、そら

  兌(だ)は「沢」を表しまた「正秋」であるから、あき

  坎(かん)は「水」を表しているから、みず

  震(しん)は「雷」を表し、震えるだから揺りで、ゆり

  離(り)は「火」を表し、離れるだから、はな

  艮(ごん)は「山」を表しているから、やま

  坤(こん)は「地」を表しているから下で下す=おろすだから、おろ

  巽(そん)は「風」を表しているから、あらし(嵐 = 山風)の、し

句の中味がどうのこうのというよりも、八卦の文字を入れて句を作ったところが売りものです。其角がこの句を読み上げ、周りがやんややんやの喝采をする状景が目に浮かびます。江戸の知的遊戯の一端を示すものでしょう。

※ 兌について、小西甚一さんは《五音なら「商」に当たるので、秋としたものらしい》(『俳句の世界』)と書いていますが、『易経』説卦伝に「兌正秋也」と出ていますので、そのまま単刀直入に使うのが好いでしょうね。

※ 巽を「し」と読んでいる説明を補足しますと、嵐の字を分解して山風として、その読みを山=あら、風=し、と分けて読んで遊んでいるわけです。この説明は小西甚一著『俳句の世界』にある解説の受売りです。


はじめまして。ななふしさんのコミュをのぞかせてもらいましたら、こいう場所があったので。古徘諧、古川柳のことをすこし知りたくて、加入させて頂きました

近代俳句、現代俳句に少し関わっています。

どうぞ。宜しくお願いします。


ようこそ徘徊少女さん。

近頃は本屋に行っても「俳句」の本ばかりですが、たまには「徘徊」ならぬ「俳諧」の世界にも遊んでください。忘れ去られた古き良き時代の空気を感じて...


■ 御秘蔵に 墨をすらせて 梅見かな(ごひそうに すみをすらせて うめみかな)

この句の解釈は潁原退蔵さんの解釈では、「其角、一句」と所望されると、その座に侍った殿様秘蔵の美童に、墨を磨らせながら、じっと句案に耽るのである。

堀切実さんの解釈では殿の大切にしている御小姓に墨をすらせ、句などを案じながら、梅見をしている様子が、なんとも春らしい気分ですばらしい、というのである。

ここでは言葉を濁らせてはいますが、「秘蔵の美童」とか「大切にしている御小姓」とか言っているのは寵童を指しています。ここでハテ?と思うのは私だけでしょうか。

いくら其角がこのお殿様に親しかったとしても、他の人も交じっている席で御秘蔵と寵童を名指しで挙げ、それに墨をすらせて気分がいい、というのは、通常の日本人同士では放言もいいところ。まして、時代は江戸時代、殿様相手に一介の俳諧師の言う文句ではないでしょう。

この御秘蔵を愛妾としたところで大した違いはなく、やはりあり得ないとしか言えません。

この句には「四十の賀会し玉ふ傍に園遊侍座しければ」と前書がついていますので、四十才になったお祝の席での句と判ります。

江戸時代の人達は現在の私達にくらべ年寄でした。元服が十五才、二十歳前に結婚し、四十才ともなれば子供に家督を譲って隠居する年です。この年になれば「翁」と号することもできました。

この四十才のお殿様のお祝の席、といっても其角も参加しているのですから内輪のものでしょう。そこにお殿様の小さいお孫さんが出てきてもおかしくないでしょう。三つか四つだったら目にするものなんでも触ってみたいし、真似もしてみたい。墨があればそれを手にして、硯に持って行ったでしょう。それを見たお殿様が、慌てて止めたのでお孫さんが泣いたか、それともお孫さんの手に添えて一緒に墨をすったのか、すかさず其角が「秘蔵っ子のお孫さんに墨をすらせての梅見ですね」と洒落たのでしょう。

其角が墨をすらせ梅見をしていると解釈して、其角を幇間的人物だとかあげつらっている人もいるようですが、余りにも俳句的・私小説的な解釈かと感じます。この句の主体はあくまでお殿様です。墨をすらせているのも、梅見をしているのもお殿様となります。

この「四十の賀会」はこのお殿様が設け、其角達はお客として招かれたものです。従って、其角が詠む句は主人に対しての挨拶(感謝、言祝ぎ)を含む客発句ですから、主人であるお殿様に対してのものと考えるのが自然です。


かりさん、たしかに衆道と関係させるのは飛躍がある。墨をすらせたのは、お孫さんかもしれないし、お女中かも?この殿様は墨絵でも書くのでしょうか?

一筆いただきたいという意味でしょうか?

いずれにしても、江戸の春の優雅さが感じられます。