https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20190401-364896.php 【【 草加 】<草臥れて宿借るころや藤の花> 街道の面影が残る松並木】 より
百代橋の上から望む草加松原の遊歩道。木漏れ日がさざ波のような模様を映し出す道を老若男女が思い思いに行き交う=埼玉県草加市
千住宿で見送りの人々に別れを告げた松尾芭蕉は、みちのくを目指し日光街道を北へ歩き出した。1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)。「おくのほそ道」の旅は、まだ初日である。
五街道の一つ日光街道は、江戸と日光を結ぶ。今は千住から埼玉県まで東武スカイツリーライン(旧東武伊勢崎線)のルートが、同街道と並行する。なのでこの先電車で旅路をたどる。
北千住駅から15分、草加駅で降りる。草加(埼玉県草加市)は千住宿の次、日光街道の二つ目の宿場だ。
駅東口を出て宿場町の面影が濃い通りを北へ歩く。通りが尽きる県道との合流点の「おせん公園」では、芭蕉の同行者、河合曽良(そら)の像が北を指さしていた。
定説が揺らいだ
「おくのほそ道」には「(深川を出発した)其(その)日、漸(ようよう)早加と云(いう)宿にたどり着(つき)にけり」とある。芭蕉は早加、つまり草加に泊まったとされてきた。ただ、今は風向きが違う。
1943(昭和18)年、曽良のメモ書きが「奥の細道随行日記」として出版され「草加宿泊」の定説が揺らいだ。「日記」には「廿七日夜 カスカベニ泊ル」、つまり粕壁宿(同県春日部市)に泊まったと記されていたからだ。
現在、初日の宿泊地は粕壁宿というのが定説だ。なにしろ千住―草加間は約9キロと近い。一方、千住―粕壁間は約26キロ。昔は江戸―粕壁間約36キロが一般的な一日の旅程だったという。
では芭蕉は、なぜ草加と書いたのか。理由は「足取りの重さを強調する演出」(佐藤勝明・和洋女子大教授)といわれる。千住―草加間の芭蕉の文も「旅で苦しんでも、未知の土地を見て、生きて帰れたなら...。そんな当てにならない期待をして、ようやく草加にたどり着いた」と悲壮感が漂う。「おくのほそ道」は記録ではなく文学なのだ。
国の名勝に指定
草加にとっては残念な展開だが、しかし現在の草加には、無念さのかけらもないようだ。
おせん公園の北、県道と綾瀬川の間を松並木「草加松原」が続いていた。延長約1.5キロ。江戸時代「千本松原」と呼ばれ、戦後の枯死の危機を市民らの保護活動で乗り切ったという。昨年「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝に指定された。
並木沿いの遊歩道を北へ進む。掃き清められた白砂の感触が心地よい。南端の札場河岸公園には、芭蕉の像が曽良の像を振り向くように立っていた。その先には、「おくのほそ道」の一節にちなみ「矢立橋」「百代橋」と名付けられた太鼓橋。橋の上に立つと、真っすぐな道を走ったり歩いたりする人々の姿が豆粒のようだ。
孫娘と散歩中の佐藤正則さん(63)、孝子さん(62)夫妻は、福島から来たと言うと「長女の夫が只見町出身」だと笑い「35年前引っ越してきた時、松は枯れ放題だったが」と目を細めた。
なんとも旅人に優しい街だ。芭蕉も実は気に入って草加に泊まったと書いたのではないか。
この地で芭蕉が詠んだ句は残されていない。ただ、この日の千住以北の芭蕉の記述から、この句を連想した。
〈草臥(くたび)れて宿借(か)るころや藤(ふぢ)の花〉(「笈おいの小文」より)
芭蕉の紀行文「笈(おい)の小文」に記された1688(元禄元)年の作。疲れて今夜の宿を借りる頃、たそがれの光の中で咲く藤の花が目に入ったの意味。藤の花に旅の物憂さと、ホッと安らぐ思いを見いだしたのだという。芭蕉はこの草加でも、ふと心にとまるものを目にした、というのは考えすぎだろうか。(参考・尾形仂編「芭蕉ハンドブック」)
草加
【 道標 】記録ではなく文学作品
「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の名は国民的文学と言えるくらい広く知られています。しかし誤解もあります。この作品が松尾芭蕉の旅の「記録」だと思っている人は、意外に多いのではないでしょうか。
これから読み始めようという人に、まず伝えたいのが「これは記録ではなく文学作品」だということです。
対照的なのが「曽良日記」です。これは「ほそ道」の旅の記録的な資料。原本は書き殴ってあり、かなり読みにくいものです。
両書を読み比べると、相違するところが非常に多くあります。ただ、読み比べた上で「ほそ道」を読み直すと、芭蕉は書きたいことを絞っていることが分かってきます。テーマ意識を持って、それぞれの場面を書いているのです。
では、場面、場面の文章がばらばらかと言うと、うまいことつながっていたり、前に書いたことが伏線になり、あとのところで生きてきたりします。つまり「ほそ道」は構成意識を持って書かれた作品だということです。
もう一つ、注目すべき点は、推敲(すいこう)が重ねられたことです。
二十数年前に見つかった「中尾本」という資料があります。意見の分かれるところですが、芭蕉が書いた「ほそ道」の現存する第1稿と考えられます。面白いのは、文章の随所に四角い貼り紙が貼られていたり、墨で文字を消したりして、修正が多くなされている点です。
研究が進むうち、芭蕉が推敲に推敲を重ねていたことが分かり「芭蕉はこういうことを強調したかったのか」という、文章を直した意図も分かってきました。
「ほそ道」は、芭蕉が完成度を高めようと、相当な熱意を込め書いた文学作品なのです。(和洋女子大教授・佐藤勝明さん)
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