深川・千住

http://cleanup.jp/life/edo/115.shtml  【芭蕉の、あの句が生まれた深川の地。】より

芸能人が俳句を競うTV番組が高視聴率を続けている。ちょっとした俳句ブームだ。そこで、江戸時代の芭蕉の世界を覗いてみたい。

「古池や 蛙とびこむ 水の音」

このあまりにも知られた句が詠まれたのは深川の芭蕉庵。貞享3年(1686)、芭蕉をはじめ、門人たちが集まった句合(くあわせ)の席だった。句合とは、主題を決めて句の優劣を競う一種の句会である。その時の主題は「蛙」、こんなエピソードがある。

芭蕉は最初に「古池や…」の句を詠んだ。句を鑑賞したり、意見も出し合う会である。傍らにいた其角(きかく/蕉門十哲の一人)は、上五(かみご/初めの五文字)の「古池や」を「山吹や」としたほうがよろしいのでは…、と師匠の芭蕉に提案した。

この意見はもっともで、俳諧においても古くからの和歌の伝統が生きていて、山吹といえば蛙、蛙といえば山吹、というのは暗黙の了解で常識だった。其角の進言通り「山吹や 蛙とびこむ 水の音」とすれば、確かに優等生の句ということになったのかもしれない。しかし、芭蕉は和歌の伝統にとらわれずに「古池や…」と決めたのである。そればかりか、「蛙」にしても、和歌では“鳴くもの”として捉えるはずなのに、芭蕉の「蛙」は“飛ぶ”のである。

「古池や…」は、伝統的な和歌や連歌(れんが)にとらわれずに、芭蕉が新しい俳諧の世界に飛び込んだ瞬間でもあった。「蕉風」の確立は、深川に居住したこの時期とみていいだろう。以前、この句は本当に名句なのだろうかと思ったが、よくよく考えてみると革新的で、静寂のなかにもの侘びた世界が見えてくるようだ。いや、考えてはいけない、感じるべきなのかもしれないが…。

芭蕉庵史跡展望庭園「芭蕉翁之像」(江東区常盤1-1-3)

右に見える橋は隅田川に架かる清洲橋(補強・補修中)、左右に流れる川は小名木川。

当時「三つ又」と呼ばれる月見の名所だった。

蕉風俳諧が成るまでには、それなりの歴史がある。寛永21年(1644)、伊賀国上野(三重県伊賀市)生まれの芭蕉。若くして藤堂藩の武家に出仕、そのときの主君の影響を受けて俳諧の世界に足を踏み入れることになる。主君と共に北村季吟(きたむらきぎん/貞門派)から指導を受け、後に俳諧の道を志して江戸に下った。俳壇の中心地であった日本橋に居を構え、江戸での活動が始まる。季吟からは相当見込まれていたらしく、俳諧師の秘伝書『埋木(うもれぎ)』を伝授されている。西山宗因(檀林派)との交流も始まり、次第に頭角を現していった。

知名度も上がり、門人も増えたが生活は困窮、門人の紹介で4年間ほど神田上水関係の仕事に携わったこともある。神田上水の改修工事の監督とも、水番所の番人ともいわれているが詳細は分からない。そして延宝6年(1678)、35歳で立机披露(りっきひろう)。これは俳諧宗匠(先生)としての独立を意味するものだ。

芭蕉が幸運だったのは、周りに多くの人たちがいたからだろう。仕事は紹介してくれるし、住む所も門弟が自分の屋敷を提供してくれる。深川へ引っ越して落ち着いた芭蕉庵もそうだ。人望を集めた芭蕉はとにかく支援者が多いことに驚く。この時代、俳諧を嗜む人は有力商人や武士、文化人など比較的豊かな層であったことも影響していると思う。しかし芭蕉は、江戸の中心から離れた発展途上の深川の地で、侘しい生活の中で俳諧の道に集中したのだった。

俳諧の師に恵まれ、弟子にも恵まれ、もちろん才能にも恵まれた。俳諧師として研鑽を積んだのも確かである。若い頃は、松永貞徳の門下である北村季吟から「貞門派」を学び、江戸に下った頃は西山宗因の「檀林派」を学び、そして深川の地に来て芭蕉自身が到達する「蕉風」俳諧の世界を歩み始めるのである。

俳号も、「宗房(そうぼう)」「桃青(とうせい)」、そして「芭蕉」と変遷を遂げる。

「芭蕉」「芭蕉庵」の俳号・庵号の由来は、バナナの木に似た大きな葉をつけるあの「バショウ」である。門人からバショウの株をもらって庵に植えたところ、それが生い茂り、皆が芭蕉庵と呼ぶようになったという。そこで俳号も芭蕉を使った。

「古池や…」はこの芭蕉庵で詠まれた。『おくのほそ道』に旅立つ3年前のことである。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

参考資料 『芭蕉と深川』江東区芭蕉記念館

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

採荼庵跡 (江東区深川1-9付近、海辺橋南詰)

『おくのほそ道』へ出発した採荼庵

採荼庵は、『おくのほそ道』に出発する際、芭蕉庵を人に譲り、準備のために短期間過ごした場所だ。

採荼庵の提供者は杉山杉風(すぎやまさんぷう/蕉門十哲の一人)、芭蕉の門人であり、経済的にバックアップした人物だ。芭蕉庵の提供者も杉風である。

芭蕉は採荼庵の他に3カ所庵を結んでいる。通常は第一次、第二次、第三次芭蕉庵と呼んでいる。第二次芭蕉庵に移ったのは、天和2年(1683)の八百屋お七の火事で庵が類焼したため。天和の大火は、駒込の大円寺からの出火が深川まで及んだほど大きな火事だった。第三次は、『おくのほそ道』から帰ってきて入った庵である。

3カ所の芭蕉庵の場所は現在ピンポイントで判明してはいないものの、それぞれは非常に近い。江戸末期の『江戸名所図会』には「松平遠州候の庭中にありて古池の形今なほ存せりといふ」と説明がある。天保年間にはまだ大名屋敷の中に残っていたようだ。その後、幕末から明治にかけて消滅してしまった。

芭蕉稲荷神社(江東区常盤1-3)

大正6年の津波後、芭蕉愛好の蛙石が出土した場所近くに芭蕉稲荷を祀った。東京府は史跡「芭蕉翁古池の跡」として指定。「芭蕉庵跡」「古池や…」の碑が建つ。蛙石は芭蕉記念館(江東区常盤1-6-3)に展示されている。

なお、写真の採荼庵の建物の中には入れない。張りぼての家屋で、裏に回ってみたら雑草が生い茂り雑然としていた。銅像の芭蕉がかわいそうにも思えた。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

参考資料 『芭蕉年譜』江東区芭蕉記念館


http://cleanup.jp/life/edo/116.shtml 【『おくのほそ道』、矢立初めは千住】より

月日は百代の過客にして……古典文学の傑作『おくのほそ道』の冒頭は、吟じたくなるほどの名文だ。この俳文紀行は、松尾芭蕉が旅を終えてから5年をかけて推敲に推敲を重ねて完成させた珠玉の作品である。元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は深川を舟で出て隅田川を上り千住に上陸。漂泊の旅はこの千住の地から始まった。

千住は五街道の一つ、日光街道の初宿として多くの旅人が行き交う宿場町。隅田川に架かる千住大橋は、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)を結ぶ江戸の出入り口である。東北方面の大名は、参勤交代の際みなこの宿場を通り、行列はこの橋を渡った。

千住大橋は、徳川家康が江戸入府後の文禄3年(1594)、隅田川に初めて架けた橋である。当時は「大橋」と呼ばれ、現在の場所より少し上流だったという。それ以降、幕府は江戸防衛上隅田川に架橋することには消極的だった。それでも橋の必要性から、下流に両国橋(1659年架橋)や新大橋(1694年架橋)などができたため、紛らわしさを避けて「千住大橋」と称されるようになった。

現在の千住大橋

昭和2年(1927)架橋

(2020年1月撮影)

おくのほそ道 旅程図芭蕉が辿った道

『おくのほそ道』の旅程を見てみよう。千住を出立してから、600里(約2,400キロメートル)を約6カ月かけて終着地の大垣まで。ここには「大垣市奥の細道むすびの地記念館」があり、『おくのほそ道』を楽しめる充実した展示物や資料、シアターなども揃えている。「江東区芭蕉記念館」と併せて訪れたい場所だ。

芭蕉に関する句碑や塚はとにかく多い。いったいどの位の数があるのだろうか。やっぱり、こういうことを調べる人はいるもので、その数全国に約2,500基という。都内には100基はあるだろう。芭蕉の句が、それほど広く知れ渡り親しまれてきた証しである。

特徴的なのは、芭蕉は生前から有名だったこと、全国に門人が散らばっていたことだ。だからこそ行く先々で歓迎され、句を詠み、句会を開き、宿や飲食の提供も受けながら漂泊の旅を完遂できたのだろう。江戸の後期(特に宝暦~天明期)にもなると、俳諧の復古運動もあって旅の跡にはあちこちに句碑が建ち、またそこを旅人が訪れた。芭蕉は、観光資源をバラ撒きながら歩いたかのようである。今なら、さしずめ地方創生の先駆者といったところか。

話を出立地である千住に戻そう。この地域には、芭蕉の句碑や銅像などがいくつもある。最も知られたのは素盞雄神社(すさのおじんじゃ)境内の「松尾芭蕉の碑」、芭蕉ファンはこの碑を見逃してはいけない。文政3年(1820)建立の碑は劣化が激しく、今見られるのは忠実に復元(平成7年)されたものだが見応えは十分である。

松尾芭蕉の碑

(荒川区南千住6-60-1)

素盞雄神社境内

碑面には「千じゅという所より船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがり 幻のちまたに 離別のなみだをそそぐ」に続いて、有名な矢立初めの句「行く春や鳥啼魚の目は涙」が、芭蕉座像の絵とともに刻されている。

芭蕉は、かねてから歌人「西行」への尊崇の念を強く抱いていて、旅の目的は西行の歌枕(和歌に読み込まれた地名)を訪ねることにあった。『おくのほそ道』の序章には「…予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず…」とあり、どうしてもこの旅に出たかったのだ。芭蕉が『おくのほそ道』に旅立ったその年は、ちょうど西行の五百回忌の年にあたっていた。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

参考文献『芭蕉おくのほそ道』岩波書店

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

芭蕉銅像

(南千住駅西口/荒川区)芭蕉石像

(千住橋戸町50/足立区)

芭蕉の「千住といふところ」はどこ?

芭蕉の句を鑑賞し、句碑を見ながら名勝を訪ね『おくのほそ道』を歩いてみたいという人は多い。その場合、どこをスタート地点とするかである。

芭蕉は弟子の河合曾良(かわいそら)と共に深川から船で出発したから深川でもいいわけだが、問題はそこではなく、「千住といふところにて船をあがれば…」と書かれている矢立初めの地となった上陸地点はどこかだ。つまり、隅田川の北側の左岸(足立区)か、それとも南側の右岸(荒川区)か、である。

『おくのほそ道』を読んでも「千住」とあるだけで、その答えは見つからない。随行した曾良の『曾良旅日記』にも出てこない。この問題はかつて“南北問題”として話題になったことがある。千住宿の本陣や脇本陣は北にあったため、北だと思い込んでいる人もいるだろうが、芭蕉の時代にはもう南の町家も千住宿に加えられていたからこれは当たらない。関係書籍を調べてみたが、北もあれば南もあり、ぼやかしているものもある。芭蕉の研究者の間でも結局結論は出ていないのだ。

そんな背景があって、隅田川を挟んで芭蕉像や句碑、史跡が競うかのように存在する。どちらでもいいと思うが、スタートが東海道のように日本橋と決まってはいない以上仕方ない。なお“南北問題”で足立区と荒川区が対立しているわけではないことを付記しておきたい。

「矢立初め」の矢立とは、筆と墨壺をコンパクトに容器に収めた携帯用筆記具で、銅像(写真左)のように腰にさして旅に出た。石像(写真右)のほうは句帖と一緒に左手に持っている。いずれにせよ『おくのほそ道』は、千住から始まったのである。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

参考文献 『奥の細道・旅立ち展』荒川区教育委員会

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