芭蕉ゆかりの地 深川③ ④

http://hotyuweb.starfree.jp/basyouan/saitoan.html  【芭蕉ゆかりの地 深川③】より

○採荼庵跡 江東区深川1-11

松尾芭蕉は、奥の細道に旅立つ前、それまで住んでいた芭蕉庵を人にゆずり、門人だった杉山杉風の採茶庵に居を移し、ここから舟で奥の細道に旅立ちます。

<説明板>

「採茶庵跡 ~奥の細道はここから~  深川一-八付近

採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、『常盤屋句合』『角田川紀行』などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。

採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川一-八)を挟んだ一角でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより一四○メートルほど南西に位置します。

芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。 江東区教育委員会 」

<石柱説明>

「芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ 深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建て みずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり元禄二年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した 昭和三十三年十月一日  江東区第七号」      

<芭蕉翁像> 今にも立ち上がりそうな芭蕉翁像です。<ハリボテ> 裏から見ると、ハリボテです。

<芭蕉俳句の散歩道> 仙台堀川沿に芭蕉俳句の散歩道が続きます。   

○小名木川五本松跡/五百羅漢道標 江東区猿江2-16 小名木川橋北詰

小名木川橋の欄干に五本松と小名木川を描いたレリーフがあります。芭蕉もここで句を残しています。「川上とこの川下や月の友」この句碑は、江東区芭蕉記念館と芭蕉庵史跡展望公園にあります。

「 小名木川五本松と芭蕉の句

松尾芭蕉は延宝8年(1680)冬より小名木川と隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1680)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふところに船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。「五本松旧跡」(猿江二丁目16番 小木川沿い)とは、江戸時代、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の松の大木のことで、徳川三代将軍家光公がその小名木川の川面に張り出した立派な老松を激賞したことから、「小名木川五本松」として、また、月見の名所として一躍江戸市民の人気を博しました。この芭蕉句碑は、その地にあった住友セメントシステム開発株式会社が創立20周年を祝して平成20年12月4日に社屋の敷地に建立したもので、今回同社屋の移転に伴いご寄贈いただき、ここに再建立いたしました。 平成24年3月吉日 」

(石柱説明)

「江戸時代この付近から東にかけて小名木川の河畔に老松があり小名木川の五本松として有名となり 地名ともなったほどであってその一本の松が九鬼家の屋敷から道をこえ水面を覆っている風景が江戸名所図会に描かれ錦絵などにも取材されたが明治時代にいたって枯れてしまった」

<江戸名所図会>

「深川の末、五本松といふところに船をさして 川上とこの川下や月の友 芭蕉」 満月が描かれています。  

<絵本江戸土産>絵本江戸土産は安藤広重等が描いています。

「小名木川 五本松 此松ハかの千年の老松花橘ともいふへきものか 実に稀代の名木なり」  

<五百羅漢道標 文化二年在銘>

「 五百羅漢道標

五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[ ](通) 八町ほど先へ参り[ ](申)」、右側面には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。

造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保一六年(一七三一)、寛政九年(一七九七)、文化二年(一八〇五)の計三回再建されたことがわかります。現在の道標は文化二年に再建されたものです。

五百羅漢寺とは、明治二〇年(一八八七)まで現在の大島四-五付近にあった、天恩山五百阿羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された五三六体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。

この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路の恵まれた江東区ならではの文化財です。 平成十九年三月 江東区教育委員会」

○臨川寺 江東区清澄3-4-6 HP:http://www.rinsen-ji.jp/

延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は二歳年上の仏頂禅師の人柄に感服し、足繁く参禅するようになりました。 芭蕉庵と呼ばれた草庵が、臨川庵とほんの五百メートルほどしか離れていなかったことも、二人の交流を深める助けとなったのでしょう。

「玄武仏碑」「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残され芭蕉ゆかりの寺として知られています。(以上、臨川寺ホームページ及び現地説明板よりまとめました)

<説明板>

 「 玄武仏碑

臨川寺は、承応二年(一六五三)鹿島根本寺(茨城県)第二○世の冷山和尚が小名木川に近い現在地に結んだ臨川庵に始まり、仏頂河南和尚(根本寺第二十一世)が幕府に願い出て、正徳三年(一七一三)に「瑞甕山臨川寺」という山号寺号が許され、京都妙心寺の末寺となりました。

延宝八年(一六八0)に深川に移り住んだ松尾芭蕉は、仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられています。芭蕉の号「桃青」も仏頂によるものといわれています。以来、芭蕉ゆかりの寺として玄武碑をはじめ、梅花仏碑・墨直しの碑・芭蕉由緒の碑などが残されています。(以下略) 平成二十六年六月 江東区教育委員会 」

(※江東区教育委員会説明中「桃青」の俳号の件は、発句也の時に桃青と号していたので、正確ではないかな)


http://hotyuweb.starfree.jp/basyouan/other.html  【芭蕉ゆかりの地 深川④ 】より 

○深川神明宮 江東区森下1-3-17

およそ400年前の現在の深川一帯は、葦の生い茂る三角州で住む人もまだいませんでした。

深川八郎右衛門が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手しました。

屋敷のうちに小さな祠を建て、伊勢神宮の大神さまのご分霊をお祀りしました。

慶長元年(1596)、家康公が当地を巡視されたおりに、深川八郎右衛門を呼びよせ、

地名を尋ねました。「まだ住む人も少なく地名もない」と応えると、

家康公は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じました。(神社HPより要約引用)

 門前に「日本画家 伊東深水誕生の地」の説明板があります。    

○平賀源内電機実験の地 江東区清澄1-2-1

深川は、曲亭馬琴が生まれ、松尾芭蕉が住んだほか、平賀源内や伊能忠敬なども住んでいました。

 <石柱説明>

「源内は享保十三年高松藩小史の家に生れ和洋の学を勉強し物産館の開設 毛織物の試作 源内焼の製陶

石綿布の創作利用 水準器寒暖計の創作等かずかずの発明工夫をなしかつ神霊矢口渡の戯作者でもある

平賀源内はわが国最初の電気学者にして安永五年エレキテルを完成しこの付近深川清住町

現在の清澄一丁目私宅において電気実験を行ない安永八年五十一歳にて没した

 昭和五十一年一月十六日 江東区 第三十一号 」  

(略)    

○霊厳寺 江東区白河1-3-32

門前向かって左手に「史蹟楽翁松平忠信墓」石碑があります。  

<関東大震災慰霊>

 関東大震災の慰霊の供養塔群。 

<国指定史跡「松平定信墓」>

 松平定信の墓は、本堂向かって左の墓域内にあります。墓域の門柱には「松平楽翁公霊域」「昭和四年五月修築」とあります。門には鍵がかかっていて遠くから見るだけです。

定信の墓は角柱塔で「故白河城主楽翁公之墓」と刻まれています。   

奥に譜代の大名の墓も並んでいます。一番奥には松平定信夫人の立派な墓があります。  

<江戸六地蔵>

(説明板)

「 東京都指定有形文化財(彫刻) 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一つ)

 所在地 江東区白河1-3-22 指定  大正10年3月

 江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一?ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。

 六地蔵のうち、霊巖寺の地蔵は第五番目で、享保二年(1717)に造立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、四本の指が密着した形になっています。像高は、二七三cmあり、かつては鍍金が施されており、所々に金箔が残っています。

 江戸時代中期の鋳造像としては大作あり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。平成二三年三月 建設  東京都教育委員会」

    

  

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