https://meishozu.com/edo2/TCGC50A-7-18-26.html 【芭蕉庵】より
万年橋北詰、紀伊殿(文化十一年刊行の分間江戸大絵図では松平遠州と記されている。)の庭中(文久二年(1862)尾張屋版 )
日本史上最高の俳諧師の一人である松尾芭蕉は、寛永二十一年(1644)~元禄七年(1694)の人であるが、延宝八年(1680)から、元禄七年(1694)に51歳で没するまで、深川芭蕉庵を根拠地として全国の旅に出た。この「芭蕉庵」と名のつく挿絵は、その約100年後の文化文政の頃に深川芭蕉庵の芭蕉を偲んで長谷川雪旦が描いた想像画である。
挿絵の注記には「古池や蛙飛びこむ水の音 桃青(芭蕉)」とある。
◎『江戸名所図会』「芭蕉庵の旧址」
●『江戸名所図会』: 『江戸名所図会』本文の「芭蕉庵の旧址」には「万年橋の北詰、松平遠州侯の庭中にありて、古池の形いまなほ存せりといふ。延宝(1673~81)の末、桃青翁(松尾芭蕉、1644~94)、伊賀国よりはじめて大江戸に来り、杉風(さんぷう・杉山杉風、1647~17321)が家に入り、後剃髪して素宣(そせん)と改む。また杉風子より芭蕉庵の号(な)をゆずり請うけ、それより後、この地に庵(いおり)を結び泊船堂と号す(杉風子、俗称を鯉屋藤左衛門といふ。江戸小田原町の魚牙(なや)子たりし頃のいけすやしきなり。後、この業(わざ)をもせざりしかば生洲(いけす)に魚もなく、おのづから水面に水草覆ひしにより、古池のごとくになりしゆゑに、古池の口ずさみありしといへり)。・・・いづれの年にや、栖(すみか)をこの境にうつすとき、芭蕉一もとを植ゆ。風土芭蕉の心にやかなひけん、数株茎をそなへ、その葉茂りかさなりて庭をせばめ、萱(かや)が軒端もかくるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。・・一とせみちのくの行脚(あんぎや)おもひ立ちて、芭蕉庵すでに破れんとすれば、かれは籬(まがき)の隣に地をかへて、あたり近き人々に、霜の覆ひ、風のかこひなど頼み置きて、はかなき筆のすさみにも書きのこし、「松はひとりになりぬべきにや」と遠き旅寝のむねにたたまり、人々のわかれ、芭蕉のなごり、ひとかたならぬ侘しさも、つひに三年の春秋を過ぐして、ふたたびばせをに涙をそそぐ。今年五月の半ば、花橘のにほひもさすがに遠からざれば、人々の契りも昔にかはらず、なほこのあたりえたちさらで、旧き庵もややちかう、三間(みま)の茅屋(ぼうおく)つきづきしう、杉の柱いと清げに削りなし、竹の枝折戸(しおりど)やすらかに、蘆垣(あしがき)あつうしわたして、南に向かひ池に臨んで水楼となす。地は富士に対して柴門(さいもん)景をすすめてななめなり。浙江(せつこう)の潮、(うしお)三股(みつまた)の淀にたたへて、月をみるたよりよろしければ、初月の夕より雲をいとひ雨をくるしむ。名月のよそほひにとてまづ芭蕉をうつす。<・・・内は『芭蕉を移す詞』からの引用>・・・
◇古池や蛙とびこむ水のおと ◇花の雲鐘は上野か浅草か ◇芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞く夜かな
◇明月や角(かど)へさしくる汐がしら ◇明月や池をめぐりて夜もすがら ◇初雪やさひはひ庵にまかりあり
いづれもこの地にありし頃の吟詠なり。
翁は、伊賀国上野の産、俗姓は松尾氏宗房といふ。通称は忠右衛門、あるいは甚七郎とも号(なづ)くるとぞ。実に中興の俳仙にして一家の祖たり。業を拾穂軒季吟叟(しゆうすいけんきぎんそう・北村季吟、1624~1705)にうけて風月の才に長ず。西行(1118~90)・宗祇(1421~1502、連歌師)の跡を追慕するの志ありて、身を風雲にまかせ生涯遠遊を旨とし、吉野・竜田の花・紅葉にうかれ、更科・越路の月・雪にさまよひ、つひに元禄七年(1694)十月十二日難波の偶居にして身まかりぬるよし、其角(榎本其角、1661~1707)があらはせる『芭蕉翁終焉の記』にみえたり。」とある。
江東区芭蕉記念館。道路の突き当りが万年橋 庭園の芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠と「古池や・・」の芭蕉句碑。祠内には石造芭蕉翁像が座している。
●芭蕉の経歴: 松尾芭蕉は寛永十二年(1644)藤堂藩である伊賀上野で生まれた。藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には文芸を重んじる藩風があり、芭蕉もこの地で俳諧の手ほどきを受け修業を積み、伊賀俳壇で若手の代表格として地位を築いた。寛文十二年(29歳)の時、俳諧師を夢見て江戸へ出、さらに俳人として修業を積む。落着き先としては日本橋本舟町の卜尺方や小田原町の杉風方などの説がある。ト尺は京都の北村季吟に学んだ同門の俳人であり、杉風は日本橋で鯉屋という魚問屋を営む芭蕉の門弟である。江戸に出た後、延宝三年(1675)頃より「桃青」(とうせい)の号を使い始める。延宝五年(16771)に宗匠となり、職業的な俳諧師となったものの、俳句の指導だけでは生活が苦しいので、当時、旧主筋の藤堂家が行っていた小石川の神田上水改修工事の事務を担当し、4年近く、工事現場近くの水番屋に住んだといわれている。(現・文京区関口芭蕉庵)
芭蕉は江戸小石川の神田上水関口工事従事後の延宝八年(1680/37歳)、それまでの居住した日本橋から江戸深川隅田川畔、萬年橋の北詰の草庵(第一次芭蕉庵)に移った。当時の江戸の俳壇では、言葉遊びや滑稽を競う句が持てはやされていたが、芭蕉は、その目指す俳諧の世界とは異を感じ、市井雑踏の地を離れ、閑寂の地を求めて深川の草庵に移ったとも言われている。
門人李下(りか)が庭に芭蕉の株を植え、この木が大いに茂ったことから、この庵は「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、彼自身も俳号として「芭蕉(はせを)」を好んで用いるようになる。元禄七年(1694)十月十二日、51歳で没するまで、この地を根拠地とし、『野ざらし紀行』(貞亨元年・1684)や『奥の細道』(元禄二年・1689)などの旅にでたり、貞亨三年(1686)には「古池や蛙飛び込む水の音」や「名月や池をめぐりてよもすがら」などの句を発表している。「花の雲鐘は上野か 浅草か」も 貞享四年(1687)に芭蕉庵で詠われたとされている。
また元禄六年(1693)には芭蕉庵近くの隅田川に新大橋が架けられたが、工事中の橋に初雪の降った情景を「初雪やかけかかりたる橋の上」と、橋が完成したときには「ありがたやいただひて踏はしの霜」の句を吟じている。
「お七火事」とも称される天和三年(1683)の大火により、芭蕉庵も焼失するが、門弟達芭蕉を慕う人々の力添えにより、焼失前の芭蕉庵とほぼ同じところに、再度芭蕉庵(第二次芭蕉庵)が建てられている。さらには元禄二年(1689/46歳)三月初旬、芭蕉は草庵を「人に譲り」、杉山の別墅(べっしょ・別邸)採荼庵に移り、同月二十七日、「おくのほそ道」の旅に出発、元禄四年(1691)十月末、ようやく江戸に帰着するが、翌年五月には、やはり、万年橋北詰近くの旧庵近くに門弟たちの斡旋で新築された庵(第三次芭蕉庵)に移り住んだ。
●芭蕉庵の位置: 芭蕉庵は、弟子の杉山杉風(さんぷう)の土地で、生簀があり、その番小屋に芭蕉を住まわせたものといわれている。貞亨元年(1684)八月から翌年四月にかけて、芭蕉はその出身地である伊賀上野へ旅し、『野ざらし紀行』を著すが、その途中尾張国鳴門に立ち寄り、俳人下里知足のもとで一泊する。『知足斎日々記』の貞享二年四月九日の条に「江戸深川本番所(もとばんしょ)森田惣左衛門御屋敷松尾桃青芭蕉翁一宿、如意寺ニて俳諧歌仙有。・・・」と記されている。河川交通路上の江戸への出入口として、正保(1644~48)の頃には小名木川の隅田川合流部近くにある万年橋北岸に川船改の番所が設置されていたが、寛文元年(1661)には中川口に移されている。万年橋北岸の川船改の番所辺りはその後も本番所と呼ばれていた。当時の万年橋は現在地より30m程度隅田川寄りであったから、芭蕉庵の位置は、現・芭蕉稲荷社近辺であったことが予想される。芭蕉没後芭蕉庵一帯は、武家屋敷となり、文政十一年(1828)刊行の須原屋版の「分間江戸大絵図」によると万年橋の北詰に「松平遠江」と記入されており、摂州尼崎藩松平遠江守の下屋敷であったことがわかる。文久二年(1862)の尾張屋版の切絵図によるとこの屋敷には「紀伊殿」と記され、「芭蕉庵ノ古跡、庭中ニ有」とある。
『江戸名所図会』「芭蕉庵の旧址」には「万年橋の北詰、松平遠州侯の庭中にありて、古池の形いまなほ存せりといふ。」記されてはいるが、この地は明治初年には長州藩の屋敷となり、間もなく民有地となっている。こうした土地所有者の変更や道路や区画の変更によって芭蕉庵跡は消滅し、現在でもその正確な位置はわかっていない。
現在、江東区常盤1-3に芭蕉稲荷神社が祀られている。ここは、大正六年(1917)の大津波の際に、芭蕉が愛好したと言われる石造りの蛙が出土した場所で、この地を「芭蕉庵の跡」として史跡指定し、芭蕉稲荷神社として祀った所である。現在も境内には史跡芭蕉庵跡と言う石碑や石造りの蛙、芭蕉の歌碑が多く建っている。江東区はこのゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和五十六年(1981)に芭蕉記念館、平成七年(1995)に隅田川と小名木川に隣接する地に同分館を開館している。掘り出された石の蛙をどうやって芭蕉が好んで置いていたかは明らかでないが、記念館に保管されている。≪HSTT草案≫
芭蕉稲荷大明神社 芭蕉稲荷社境内の史跡・芭蕉庵跡碑 ※このページ[7巻18冊26芭蕉庵]の先頭に戻る。
◎近くの芭蕉関連
●芭蕉庵史跡展望庭園: 隅田川と小名木川の合流地点の岸辺に作られた庭園で、平成七年(1995)に開館した芭蕉記念館分館(会議室)屋上に開設された。庭内には芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフ、芭蕉関連の解説板がある。芭蕉像は庭園の中程に座し、隅田川の下流、南西の清洲橋を真横から眺めている。清洲橋は昭和 三年(1928)に架けられた橋であるから、江戸時代にはないが、墨田川から箱崎川が分岐するこの辺りは「川の三叉路」であることから「三派(みつまた)」と呼ばれた地であり、隅田川の中洲も多かった。芭蕉もこの辺りを眺めたものと思われる。
史跡展望公園の芭蕉翁像。奥に万年橋のアーチ型橋脚が見える 芭蕉翁が眺めている風景。正面は清洲橋でかっては三派(み つまた)といわれた。左は小名木川。
●小名木川: 大島九丁目から常盤一丁目まで江東区の中央を東西に横切り、旧中川と隅田川を結ぶ運河。途中横十間川、大横川と交差する。江戸時代の規模は長さおよそ一里一〇町、川幅は中川口で一四間、隅田川口で二〇間。天正一八年(1590)徳川家康が江戸へ入府後、行徳(現千葉県市川市)の塩を運ぶ目的で開削したという。また小名木川と船堀(ふなぼり)川を合せて行徳川ともよぶ(御府内備考・風土記稿)。中川口より船堀川・江戸川を通じ利根川水系につながり、銚子港から東北の米、水産物等、舟運水路の大動脈であった。河川交通路上の江戸への出入口として、正保(1644~48)の頃には隅田川口の万年橋北岸に川船改の番所が設置された。明暦三年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大に伴う本所・深川地域の開発により寛文元年(1661)に中川口に移され、以後明治二年(1869)に廃止されるまで小名木川を通り江戸へ出入りする人や物資の検査と取締を行った(「風土記稿」など)。
芭蕉が万年橋北詰の芭蕉庵に移ったのは延宝八年(1680)であったから、万年橋北岸の川船改の番所は中川口に移った後の事であった。小名木川の命名については諸説があり、鰻がよくとれたところから鰻沢が小名木川になったとする説、小名木四郎兵衛という人物が開削したという説、古くは「をなき山谷」と称し、それが転訛したとする説などがある。江戸図には「うなぎさわ」「うなぎさや」と記載されたものもある。明治から大正にかけて、通運丸・銚子丸・東京汽船・葛飾通船などの蒸気船が就航した。また物資流通の面でも鉄道網が整備されるまでは東京と関東・東北を結ぶ流通路として活躍し、その水運を活かした近代工業が沿岸に発展した。<この項『日本歴史地名大系』による>
●万年橋: 小名木川のもっとも隅田川寄りに架る橋で、江戸時代は現在の橋の位置より30m程西側・隅田川寄りにあった。現・正木稲荷社東の通路の先辺りである。万年橋の創架年代は不詳であるが、御入用橋であった。万年橋の通りは北へ行けば竪川(たてかわ)一之橋へ通ずる通りで、元禄十五年(1702)の赤穂事件の際、本所の吉良上野介邸から高輪泉岳寺へと浪士が引き上げた道であった。
広重・『絵本江戸土産』の内「新大橋万年橋ならびい正木の社」・・注記には「新大橋は長さ百間、両国橋の下にあり。その傍なる万年橋の柾の稲荷は霊験あり。この辺り四方に気色を備えへて、見所ももまた多し。」とある。 万年橋南詰めの高所から北の方を眺めた図である。手前の橋が小名木川に架る万年橋、幟の下が柾木稲荷で、隅田川には新大橋が架っている。橋の向こうの小山は上野の山であろう。
芭蕉が万年橋北詰の芭蕉庵に移ったのは延宝八年(1680)で、元禄七年(1694・51歳)に、旅の途中の大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死するまで、この芭蕉庵を拠点に活動したが、赤穂浪士引上げの8年前に没していたため、その隊列をみることはなかった。
小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河であり、架けられた橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていたが、萬年橋は小名木川の第一橋梁として、下町の庶民に親しまれ、葛飾北斎は富嶽三十六景の中で、歌川広重は名所江戸百景や絵本江戸土産の中で取り上げている。
北斎『冨嶽三十六景』の内「深川万年橋下」。小名木川の万年橋東から西方を見た万年橋および対岸の大名屋敷である。西方かなたには富士山が望まれ、隅田川左の方の緑は三派の中洲に生える葦であろうか。
江戸期を通じて何回か架け替えられているが、現在の万年橋は、昭和5年(1930)に架け替えられたもので、北岸は江東区常盤一丁目、南岸は江東区清澄一丁目と二丁目である。橋のすぐ西側で小名木川は隅田川と合流、東側には新小名木川水門が設置されている。1径間下路鋼鉄アーチ橋で、橋長56.2m、幅員17.2mの橋である。
●正木稲荷神社: 芭蕉記念館分館玄関への路地入口、江東区常盤1-1-2にあり、祭神は宇迦魂命、応神天皇である。創建年代は不詳であるが、嘉永三年(1850)の切絵図、嘉永三年(1850)から刊行された絵本江戸土産には記載されている。当地には柾木の大木があり、隅田川から小名木川へ入る目標ともなっていたことから、柾木稲荷神社と称されていたといわれる。柾木はその果が腫れ物によくきいたともいわれている。その祈願には全快迄「ソバ」を断ち、全快すれば「そば」を献じて奉斎する信仰があった。≪HSTT草案≫
北から見た現在の万年橋 正木稲荷社※このページ[7巻18冊26芭蕉庵]の先頭に戻る。
採゚荼庵の旧跡。安政六年(1859)分間江戸大絵図(部分)
◎採荼庵:
奥の細道の書き出し部に「住める方は人に譲り、杉風が別墅に移る。・・・」とあるが、芭蕉は「奥の細道」への旅立ちにあたって、元禄二年(1689)三月初旬、隅田川と小名木川の合流地点の岸辺にあった芭蕉庵を「人に譲り」、杉風の別荘にひっこした。場所は本所平野町とあるから、現・清澄庭園の南、仙台堀川に架かる「海辺橋」の南詰辺り(江東区深川1-8辺り)である。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」で始まる「おくのほそ道」の旅立の日には、友人や門人が別れを惜しんで採荼庵を訪れた。元禄二年(1689)三月二十七日、仙台堀に浮かぶ船に芭蕉とともに多数が乗り込んで隅田川をさかのぼり、千住大橋で別れをつげて、いよいよ『おくのほそ道』の旅に出発した。芭蕉庵を手放したことについては、昔、長期間の旅に出るときは家の方角を調べ、差し障りがある場合は一旦別の所に住まいを移してから旅立つことがあったから、芭蕉もこれに習ったのかも知れない。「仙台堀」は、河口の「上之橋」の北詰に仙台藩の蔵屋敷が置かれていたことに因む名称である。
『江戸名所図会』本文の「採荼庵の旧蹟」には「本所平野町にあり。俳諧師杉風子(1647~1732)の庵室なり。杉風、本国は参州(三河)にして杉山氏なり。鯉屋と唱へ、大江戸の小田原町(日本橋)に住んで魚售たり。のち隠栖して一元と号す(衰翁・衰杖等の号あり)。つねに俳諧を好み、檀林風を慕ひ、のち芭蕉翁(1644~94)を師として、この莚に遊ぶことおよそ六十年、翁つねに興ぜられて云く、「去来(1651~1704)は西三十三箇国、杉風は東三十三箇国の俳諧奉行なり」と(かばかり、この道の達人なりしなり。杉風、一に芭蕉庵の号ありしが、後桃青翁にゆづれり。)
『杉風句集』(梅人編、1785)に、
予、閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ
◇白露もこぼれぬ萩のうねりかな はせを
このあはれにひかれて
◇萩うゑてひとり見ならふやま路かな 杉風
などがある。」とある。
現在東京メトロ半蔵門線または都営地下鉄大江戸線の清澄白川駅から清澄庭園に沿って清澄通りを徒歩十分ほど南行すると仙台堀に架る海辺橋に出る。橋を渡ってすぐの、海辺橋西側南詰めに採荼庵跡の碑がある。
この辺りは江東区深川1丁目10で、江戸時代は万年町と呼ばれていたところである。採荼庵は平野町にあったと『江戸名所図会』本文の「採荼庵の旧蹟」に記されているから、清澄通りをさらに150m程南下した辺りだったのかもしれない。
海辺橋西側南詰めの採荼庵跡の碑の脇には、今にも旅立ちをするという格好で芭蕉翁が庵に似せた建物の濡れ縁に腰をおろしている。≪HSTT草案≫
採荼庵跡の碑 旅立ちの芭蕉翁 ※このページ[7巻18冊26芭蕉庵]の先頭に戻る。
挿絵を見よう。
挿絵の注記には「古池や蛙飛びこむ水の音 桃青(芭蕉)」とある。芭蕉はこの芭蕉庵でこの句を詠んでいるが、この挿絵は「古池や・・・」の句を詠む芭蕉の姿を想像して、長谷川雪旦が描いたものである。雪旦が描いたのは、芭蕉の没後ほぼ100年後のことである。粗末な藁ぶきの屋根の草庵の文机に芭蕉が座って、俳句の構想を練っている。傍には蚊遣りが置かれている。庭の景色や、自然の音を肌で感じるためか、窓や引き戸は大きく開かれている。窓の向こうには、繁茂したという芭蕉の葉が見える。濡れ縁の前には踏み石が置かれ、下駄が一足置かれている。踏み石の傍には石蕗(つわぶき)が植えられている。庵の向こうには小さな池がこしらえられている。池畔の岩の上には蛙がいる。どこにでもあるような粗末な庵の図であるが、芭蕉が愛したとなるとまた風流めいて見えるものである。≪HSTT草案≫
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