https://www.asahi.com/and_travel/20201104/293374/ 【芭蕉が暮らした深川から千住へ 旅行作家・下川裕治がたどる「奥の細道」旅1】 より
今回から下川裕治さんが、松尾芭蕉の「奥の細道」の行程を旅します。まずは芭蕉が暮らした東京・深川からスタート。300余年の時を超え、芭蕉の句とともに現在の「奥の細道」をたどります。
本連載「クリックディープ旅」(ほぼ毎週水曜更新)は、30年以上バックパッカースタイルで旅をする旅行作家の下川裕治さんと、相棒の写真家・阿部稔哉さんと中田浩資さん(交代制)による15枚の写真「旅のフォト物語」と動画でつづる旅エッセーです。
(写真:阿部稔哉)
奥の細道を歩く・深川から千住へ
今回から「奥の細道」をたどる旅がはじまる。「奥の細道」は、1689年、松尾芭蕉が約150日をかけ、東京(江戸)から東北、北陸などをまわった紀行文。事実と異なる部分もあり、文学作品と見る向きもいる。発刊は芭蕉の死後の1702年。
僕自身も10年近く、句会に参加している。俳句をつくり続け、実感するのは、その難しさ。なんとか上達の糸口をつかみたい。「奥の細道」の旅のきっかけだった。
芭蕉は約2400キロの道のりを歩いている。しかしすべて徒歩というのは……。とひるみ、バス、電車なども乗りつつ、一部は徒歩でたどってみることにした。第1回は芭蕉が住んでいた東京の深川から千住まで。本格的な旅がはじまる序章を。
旅を前に、芭蕉は暮らしていた芭蕉庵を引き払った。弟子の杉山杉風(さんぷう)の別荘、採荼庵(さいとあん)に身を寄せ、そこから出発。採荼庵跡の動画をバックに「奥の細道」の最初に登場する句、「草の戸も住替はる代ぞ雛(ひな)の家」を。「引き払った草庵(そうあん)に新しく住む人は、雛人形を飾り、華やかな家になるだろう」と解釈している。新しく住む人へのあいさつ句だ。
芭蕉は深川から千住まで船で隅田川をさかのぼった。そして千住で見送りにきた人たちと別れ、旅がはじまる。隅田川を走る船からの風景を。「行春(ゆくはる)や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)」は「惜春のなかの別れ。鳥も泣き、魚も涙するようだ」といった意味にとらえている。
今回の旅のデータ
採荼庵跡の最寄りの船着き場は、JR両国駅に近い両国リバーセンター発着場。今年8月に開業した。ここから浅草二天門発着場までほぼ毎日、東京水辺ラインの船が運航している。運賃は400円(乗船時はオープン記念割引で360円だった)。浅草二天門発着場から千住発着場までの便は極端に少なく、事前の予約も必要になる。運賃は700円。東京水辺ラインの運航はシーズンや曜日などによってかなり変わる。事前に確認してほしい。
深川から千住へ「旅のフォト物語」
採荼庵跡
採荼庵跡で芭蕉像とツーショット。実際の採荼庵はここより少し南側にあったようだ。採荼庵跡は舞台のセットのように前面しかつくられていない。裏にまわると……。短編動画1を見てください。予算が少なかったのかもしれないが、安普請でも一応、家にしてほしかった。
仙台堀川
採荼庵跡の脇に仙台堀川。おそらく芭蕉はここから船に乗ったのではないかといわれている。仙台堀川はいま護岸工事中。その工事の影響で、護岸につくられた「芭蕉俳句の散歩道」も行き止まりになっている。なんとなく鼻白んでしまう、「奥の細道」の出発地点です。
芭蕉庵史跡展望庭園
採荼庵跡から歩いて隅田川に面した芭蕉庵史跡展望庭園へ。眺めのいい場所に芭蕉の座像。この座像は午後5時になると、隅田川に対して左向きに少し回転する仕組みになっている。しかしこの庭園は午後4時半に閉園。回転するところを間近に見ることはできません。あしからず。
芭蕉座像
芭蕉庵史跡展望庭園の芭蕉座像を眺める。これから先、「奥の細道」をたどる旅では、何回となく、この顔を見ることになる気がする。芭蕉は門人、曾良(そら)とともに旅を続けた。ふたりは僧衣を身に着けていた。関所や番所を通るとき、この姿がいちばん怪しまれることがなかったからだという。
芭蕉稲荷神社
芭蕉庵史跡展望庭園のすぐ近くに芭蕉稲荷神社。住宅に囲まれた小さな神社だ。入り口から5歩ほどで社殿という規模。1917(大正6)年、地元の人たちが、このあたりに芭蕉が住んでいたことにちなんで建てた神社だという。碑の台座には小さなカエルの石像があった。ここから少しカエル話を。
句碑
芭蕉稲荷神社のなかには、「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」の句碑が。芭蕉の代表句のひとつで、芭蕉庵に暮らしたときにつくられた。この句の斬新さへの評価が高い。和歌や連歌の世界から離れた芭蕉俳諧、つまり現代の俳句の原点句とも。で、カエル。もっと大きなカエルの石像があるという。それは次の写真で。
大きなカエルの石像は、江東区芭蕉記念館に展示されていた。1917年の高潮の後で出土したという。芭蕉遺愛の……ともいわれるが。深川に隠遁(いんとん)した芭蕉は、悶々(もんもん)とした日々をすごしていた。新しい俳諧をつくる生みの苦しみ? 「古池~」の句はそのなかでつくられた。「奥の細道」も、新しい俳句の世界をつくりあげたい思いの旅だった。
芭蕉そば
江東区芭蕉記念館周辺は芭蕉ワールド。芭蕉稲荷神社、芭蕉庵史跡展望庭園……で芭蕉そば。立ち食いそばだが、駅にも近くない。しかしかなり混んでいた。厚焼き卵やニンジンの天ぷらが載り、550円。どこが芭蕉といわれると困るが。タクシー運転手の間では有名な店らしい。
JR両国駅
猛暑のなか、採荼庵跡からJR両国駅まで歩いて、この日の芭蕉ゆかりの地散策は終わりにした。芭蕉は船で千住に向かった。できるだけ船で……。8月22日には両国リバーセンター発着場がオープンし、27日には千住までの船が運航することがわかったからだ。僕らの旅の続きは船旅でスタートする。
両国リバーセンター発着場
以前、両国には隅田川を航行する船の発着場があった。しかし長く閉鎖。リニューアル工事が進んでいた。ようやく8月22日、船の発着場、両国リバーセンター発着場がオープンした。ここから東京水辺ラインの船に乗ることに。今後、ホテルやカフェなどが入った複合施設になるという。
船
両国リバーセンター発着場から千住発着場までは、途中の浅草二天門発着場で乗り換えになる。出航は午後1時5分。15分で浅草二天門に着いてしまう短い船旅。やってきた船の乗客は僕らを含めて5人。景色を眺めたくて階上のデッキへ。芭蕉の時代はどんな眺めだったのだろうと、川沿いに並ぶビルを見あげる。
橋
隅田川を航行する船は、次々に橋の下を通過していく。蔵前橋、厩(うまや)橋、駒形橋……。そのときの水位にもよるのかもしれないが、橋げたぎりぎりで通り抜けていく。デッキに立っているとちょっとスリリング。浅草で昼食でもと思い、浅草二天門の手前、墨田区役所前発着場で船をおりた。
寿司令和
浅草では知り合いの寿司(すし)店、寿司令和へ。ミャンマーやバングラデシュからやってきた少数民族のラカイン人が寿司を握る店だ。コロナ禍のなかでもなんとか頑張っている。日替わりランチは650円。店長のラシュイさんと世間話。アジア人らしい応対にほっとひと息。千住発着場までの船に乗るために浅草二天門発着場へ。
船内
浅草二天門から千住に向かう船に乗る。船内に隅田川花火の案内が流れた。江戸時代、飢饉(ききん)とコレラのなか、慰霊と疫病が鎮まることを願ったことがルーツという説も紹介された。これはつくられた話のようだが、コロナ禍のなかの旅、しばし聞き入ってしまった。ビルも消え、空が広くなってきた頃、千住発着場が見えてきた。
京成関谷駅
芭蕉が乗った船は隅田川の上流に向かって左岸に着いたのか、右岸に着いたのか……。いまでも論争が続く。僕らが着いたのは右岸。そこから歩いて京成関屋駅へ。電車で千住大橋に出た。この辺りに奥羽街道の最初の宿場、千住があった。芭蕉の時代、道に沿って宿や商家が並んでいたという。次回はその街道歩きからはじまる。
※取材期間:8月5日、8月27日
※価格等はすべて取材時のものです。
※「奥の細道」に登場する俳句の表記は、山本健吉著『奥の細道』(講談社)を参考にしています。
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