http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1002/010/020/030/05.html 【草加アラカルト1 芭蕉と草加宿】 より
真の芸術を探求する孤高の旅路で 芭蕉の目に映ったもの
元禄2年(1689年)3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。後に日本を代表する紀行文学『奥の細道』として結実するこの旅は、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2400キロメートル)、150日間の壮大なものでした。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす…」
(月日は永遠の旅人であり、行く年、来る年もまた旅人である。舟の上で生涯を過ごす船頭、また馬の口を取って街道で年老いていく馬方は、毎日が旅であり、旅を住処として生きている)
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず…」と続きます。真の美を求め、身の回りの一切のものを捨てて、草枕の旅に出た芭蕉。悲壮感すら漂う決意のほどがうかがえます。
深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。
「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」
こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8キロメートル)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。『奥の細道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになるのです。
奥の細道芭蕉講演会の様子
(写真)奥の細道の旅立ちから300年、市制30周年にあたる昭和63年から開催されている、奥の細道芭蕉講演会
日光街道有数の宿場として発展した草加宿
芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。慶長11年(1606年)、宿篠葉村の大川図書が中心となり、茅野を開き沼を埋め立て、それまで大きく東に迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。その後、直線となった千住・越ヶ谷間に宿駅を設けることが幕府によって命じられ、寛永7年(1630年)に付近の村々によって草加宿が設置されました。開宿当時は戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5から6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。
天保14年(1843年)の調査によると草加宿は戸数723戸、人口3619人と南北12町(1.3キロメートル)にわたって家屋が軒を接し、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋は67軒まで増加しました。城下町を除くと、日光街道では千住、越ヶ谷、幸手に次ぐ規模で、周辺の交通の要衝として栄えました。
百代橋から望む草加松原
また綾瀬川では江戸中期ごろから舟運が始まり、各地に河岸(荷物の積み下ろし場)が設けられて発展しました。17世紀に入ると、宿場町と河岸の対立も生じたといわれます。舟運はその後明治、大正に至るまで発展を続けましたが、鉄道の開通など陸上交通が急速に発達したことで衰退し、昭和30年代には姿を消しました。
芭蕉が歩いた草加宿、そして舟が行き交った綾瀬川の面影は、今も草加の街並みに息づいています。
https://ameblo.jp/sijin3/entry-11922445820.html 【おくの細道 2~「旅立」から「草加」まで、つまり、深川から千住を経て、草加に到る】 より
先月の27日、私は自宅のある大鳥居から深川へ、更に大鳥居まで戻るという経路を走って見たのであるが、それは俳諧師芭蕉の足跡を考えてのことだった。まずは、奥の細道の起点となる深川に行かなければならない、と思ったからである。もしその時の行程を細道に例えるならば、「序章」とでもいうべきであろうか。
9月8日午前7時半、家人と一緒に部屋を出て、京急電鉄に乗る。大鳥居駅から乗ったエアポート急行は、品川駅からそのまま都営浅草線になり、大門駅で大江戸線に乗り換えた。
その後清澄白河駅で降りる時、家人が「スイカ」を落としたことに気づき、改札でその旨伝えると、捜索をかけてくれて程無く、上野御徒町で発見できたとのことだった。ほっとして、再び電車に乗り、駅長室で受け取った。駅員さん、ありがとう。
清澄白河駅の地上に出ると、午前9時半、予定より30分遅れてしまったが、これもまたいい思い出である。
駅から少し歩むと、「彩茶庵(さいとあん)跡」がある。 細道の序章に、
住る方は人に譲り、杉風が別墅(r・べっしょ)に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置。
とあるが、その別墅がここ彩茶庵なのである。小さな建物の前に腰掛ける芭蕉像があったので、そこで私も旅立ちの写真に収まった。
芭蕉は隅田川から舟に乗るのだが、私は川沿いを走ることにした。丁度時計は午前10時を指していた。
仙台堀川の芭蕉散歩道から清澄橋を渡ると、海辺橋から手を振ってくれている家人に手を振り返した。前日、25kmを走った疲れが残っているのか足取りが重く、ゆっくりと走ってゆく。
萬年橋を渡り芭蕉記念館前を通って、両国橋に出る。両国橋から右岸に渡ると台東区となり、すぐ近くには柳橋が架かっており、上流の浅草橋との間に屋形船の船溜まりを目にする。柳橋は神田川が隅田川に注ぐ最河口に渡され、橋沿いには舟宿も多く、木造りの建物が江戸の情緒を醸し出していた。
蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、桜橋、白髭橋を右手に見ながら川沿いを遡る。途中今戸橋を渡るが、今では埋め立てられた山谷堀最下流に、橋柱の残るのみである。
白髭橋を渡ると荒川区になり、土手に沿って汐入公園が整備されていて風と緑が心地よかった。ほどなく水神橋というのがあり、流れが湾曲して荒川に接近するのだが、この辺りは、新しい団地が整備されて、とてもきれいで落ち着いていた。そこから、20分程走ると、鉄筋の青い橋が出現した。芭蕉の起点のひとつである千住大橋である。細道「旅立」の章を以下に抜粋する。
千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、 幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。 行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、 後かげのみゆる迄はと見送なるべし。
丁度彩茶庵から10kmで、所要1時間半であった。ガードレールにカメラを置いて、セルフタイマーで、国道4号線、所謂日光街道での記念写真を撮る。家人にメールをすると、清澄庭園を見学しているとのことだった。
千住大橋を渡る前に 羽やぶれて橋を歩けるとんぼかな
浮かんだ一句を呟き再び走る。橋を渡ると地名に同じ千住の文字が入るが、足立区になる。また車の量も増してくるので、大きな通りなのだと実感させられた。
2kmほど進むと、千住新橋を渡らなければならなかったが、巨大な上にかなりの勾配があったので一番の難所となった。その後はすぐに埼玉に入るだろうかと思っていたが、足立区は中々に広かった。住所で記せば、梅田・梅島・竹の塚・保木間と北上する。
いよいよ草加に入る直前、東京都道・埼玉県道49号足立越谷線と分かれるが、そのまま4号線を進むと、毛長川を渡るのに下道しか進めなくなり、加えて草加に入ってからすぐ東武スカイツリーラインの下をくぐるのに迂回しなければならなかった。後で分かったことだが、旧日光街道は、分岐路である49号線へと伸びていたのだった。
迂回して4号線に戻ると、家人から松原団地駅に着いたとメールがあり、私は草加に入ったと返信した。もし、旧街道沿いを走っていれば街並みが目を楽しませてくれただろうが、バイパスに入ってしまった風景は代り映えのしない一本道で、ラーメン屋と焼肉屋の多さが目に付いただけであった。
消防署の分署がある西町という交差点で20km、家人が松原団地駅近くにいるというので、そこを経由しようと思い、更に進んで花栗中学校を過ぎてすぐの交差点を左に曲がる。用水路沿いを進むと、左手に獨協大学があった。また周りには多くの団地群があり、駅の名前に成程と合点しながら歩を進めた。
松原団地駅についてメールすると、温泉施設「湯屋処まつばら」にいるとのことなので、その前を通って札場河岸公園に向う。国の名勝に指定されている松原遊歩道があり、芭蕉像もあるからである。ここをこの日の旅の終点と決めていたので、もうひと踏ん張りして先を急ぐ。
程無く、綾瀬川に沿って松原が見えた。走るのにも気持良さそうで、一・五km続いているとのことである。途中、矢立橋という巨大な丸橋を渡り、五角形の望楼と芭蕉像に辿り着いた。丁度、4時間弱、時計は午後二時を指していた。
望楼に昇った後、芭蕉像と記念撮影。像は振り返った姿であるが、これは門人と別れた千住の方角を見ているのだという。また、すぐ脇に、
巡礼や草加あたりを帰る雁 虚子
また、札場河岸跡には、
梅を見て野を見て行きぬ草加まで 子規
の句碑が建立されている。
芭蕉は草加で発句を詠まなかったが、細道には、
其日漸草加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。
と、この地で最初の宿泊をしたと記している。だが、随行した曾良は日記に、さらに北上し春日部に泊まったと綴っている。芭蕉は健脚であったのだろう。
家人にメールをして、缶麦酒を飲んでから湯屋まで行くと電話をしたら、こっちで一緒に生麦酒を飲もう、ということなので再び走り始めた。短い距離であるが、終ったと思ってまた走るのはきつかった。全身の肌には、毛穴から出た汗が乾いて塩になっていた。
550円の入場料を払って中に入ると、家人が生麦酒セットを前にして、枝豆を肴に一杯やっていた。私も生麦酒を頼み忽ち飲み干した。麦芽の苦味と香味が喉から全身に広がって行った。
その後、私は二階の大浴場でサウナや色々な湯船に入り、おくの細道最初の汗を流したのだった。家人は、併設されたカットサロンで髪を短く切ってもらってから湯浴みをした。
それから五時ごろまで、座敷で生酒や生麦酒を傾けながら、この日の旅を振り返っていた。
これで、羽田大鳥居から草加までの走路がつながったわけであるが、まだまだ果てしない「おくの細道」に思いを馳せるばかりである。
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